第七部 真偽
1
病室はホテルのようだった。
トイレに洗面台に冷蔵庫、応接セット、おまけにシャワールームまである。
費用のことがあるので、ぼくは大部屋でかまわないと言ったが、父さんが「十日ぐらいの入院ですむんだから個室にしなさい」と言ってくれた。その言葉にぼくはありがたく甘えてしまった。
明日が手術だと思うと、どうも落ち着かない。
しかも頻繁に呼び出しがかかって、けっこうせわしなかった。こんなにやることが多いのでは、ゆっくり寝てもいられない。入院したらのんびりとベッドライフが満喫できると思っていたが、どうやらそれは手術後だけのようだ。
コウガはもう目覚めたかな。
彼はぼくの記憶をどこまで見たのだろう。
「国広さん、検査しますので一緒に来てください」
「はーい」
看護師さんの声で考えごとを中断する。
今日はずっとこんな調子だ。
検査から戻ってくると、応接セットのテーブルに花が置いてあった。小さな花かごにピンクやオレンジの花が可愛らしくアレンジされている。
妙だな。
陽菜ちゃんならたぶん手渡してくれるだろうし、ほかにこんなお花を持ってくるような友だちも知り合いもぼくにはいない。
予感がして、慌てて廊下に出る。
ちょうど角を曲がる後ろ姿が見えた。
ぼくは小走りに追いついた。地味に落ち着いた色合いの服装だが、見覚えのある後ろ姿が目の前にあった。
「寺島さん!」
彼女が立ちどまる。
てっきり逃げるかと思ったが、彼女はゆっくりとふり返った。
化粧っ気のない顔は相変わらず整っていた。
目が合うと急におどおどして、彼女は自分から目をそらした。あのころの尊大さはきれいさっぱり消え失せている。
「……本当に、ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい」
深く頭を下げてくる。
「時間、あるかな。ちょっと話がしたいんだけど」
ぼくがそう言うと、彼女はうなずいた。
ここに直接来たってことは、ぼくと会う覚悟を決めてきたに違いない。
病室に戻って彼女にイスを勧める。
「このお花、きみだよね」
「はい……」
「なんていう種類?」
「ガーベラ」
「そう。綺麗だね。ありがとう」
彼女は驚いたように目をしばたたいた。
「十万円受け取った。ねえ、どうして今なの?」
少しのあいだうつむいていたが、やがて決心したように口をひらく。
「ずっと探していたんだけど、なかなか居場所がわからなくて――」
あれからすぐ、もっと家賃の安い部屋に引っ越しをした。それからも業者を使わずに何回か引っ越しをしている。辿るのは大変かもしれない。
「――そうしたら、少し前にこの病院で見かけて。それで……あとをつけたの」
いまだにストーカーをしているのか。その綺麗な顔でベテランストーカーなんて怖すぎるぞ。
「本当にごめんなさい。残りも必ず返すから」
圧倒的な存在感は見る影もない。その存在は希薄で、こんなにも近くにいるのにずいぶんと遠くに感じる。
「わかった」
彼女を前にしても不思議と怒りがわいてこない。なぜか冷静でいられた。
気持ちの整理はとっくについていたってことか。いや、あのころのぼくはお金を盗まれたこと自体を忘れようと必死に努力をしていた。記憶のドアに鍵をかけ、板を打ちつけ封印し、一番深いところにしまいこんだ。そのかいあってか、あの封筒の十万を見るまでは彼女のこともすっかり忘れていた。
彼女は居心地が悪そうにぼくの前に座っている。
謝るってことは罪の意識はあるようだけど、最後に嫌味の一つでも言ってやりたい気分だ。案外ぼくの本性はSだったりして。
無言で立ち上がり、サイドテーブルの引き出しからボールペンとメモ用紙を出してきて、彼女に渡す。
「悪いけど、残りの四十万もちゃんと返しますって、念書を書いてくれないかな」
黙ってうなずいて、さっそく書きはじめる。
手慣れたものだ。いったいどのくらいの人が彼女に騙されたのだろう。
「……ごめんなさい」
書き上げた念書を差し出してくる。
でもぼくは受け取らなかった。
「明日、手術なんだ。頭を開いて腫瘍を取る。下手をすると、ぼくはきみのことも覚えてないかもしれない」
顔を跳ね上げた彼女と真正面から目がぶつかった。
今度はぼくが目をそらす。
「ぼくはきみにお金を貸していたことも忘れてしまうかもしれない。だからその念書はきみが持っていて」
「ごめんなさい!」
「どうして? なんできみが謝るの」
「だって……ごめんなさい」
なんかいらいらする。
「悪いことしたって、そう思ってるの。後悔してるの。事情は知らないよ。きみだって酷い目にあったのかもしれない。だけど、そういうのを他人に転嫁するっておかしくない? うちはお金持ちじゃないって言ったよね。あのお金は一家離散したときに、両親がぼくにくれた餞別だったんだ。大事なお金だったんだ。盗まれたなんて言えないよ。そういう気持ち、考えたことあるの」
泣いていた。彼女は涙をぬぐうこともしないで静かに泣いていた。
「もう、いいよ。もういいから。帰ってくれる」
ため息とともに吐きだした言葉を聞くと、彼女は黙って立ちあがった。
「……ごめんなさい」
震える声でそう言って部屋を出ていこうとした。
ぼくはそれを目で追っていたが、ふと気になって聞いた。
「ねえ、その足。どうかしたの?」
右足をちょっと引きずるように歩いている。
彼女は立ちどまり、少し迷ってから答えた。
「……骨を、折ってしまったの」
「なんで」
「それは……」
ぼくは彼女の横顔をじっと見つめた。目のまわりから頬にかけて、消えかかった痣のようなものがある。さっきまで気がつかなかった。ぼくは彼女をちゃんと見ようとはしていなかったからだ。
「ねえ、どうしたの、その顔。……ちょっと待って。やっぱり帰らなくていいよ。あれからどうしていたのか話してくれる? ぼくには聞く権利があるよね」
「……そうですね」
彼女は戻ってきてイスに座り直した。
ハンカチで丁寧に顔をぬぐってから、話しはじめる。
あのときぼくが見た記憶は正しく、そこから想像していたことも概ねあたっていた。
ちなみにぼくの家に来たあの男は金融会社の人間だったらしい。どう見ても堅気じゃなかった。頭をひっぱたかれても起きなくてよかったと、心から思った。
「……結局、全部なくしました」
心労で倒れた母親も、家も土地も家財一式、すべてなくしたそうだ。
そしてお金を返そうとしたけれど、ぼくは見つからなかった。
「それで、それからどうしたの」
「一人で普通に、身の丈にあった暮らしをしていました。幸いなことに就職もすぐにできたので、給料は安かったけど、雇ってもらえただけでありがたいと思って働いていました。……それで、その職場で出会った人と結婚をして、三年になります」
「幸せになったんだね」
「いいえ」
彼女は唇を噛んだ。
「……自分だけ幸せになろうだなんて……罰が当たったんです。離婚しました」
「どうして」
「……暴力が酷くなって、耐えられなくなって……逃げました。それで、このざまです。……私はこの病院に入院していたんです。退院してからも通院をしていたんですけど、ある日、あなたを見かけて、それで……」
「そういうことか。……心にいろんなわだかまりを抱えていたら、幸せは遠ざかっていくのかもしれないね。きみがぼくのお金のことを忘れずにいたってことは、反省も後悔もしたってことだと思うけど――でも、そのせいで罰が当たって離婚したっていうことにはならないんじゃない?」
「そう、ですね」
「きみがぼくにしたことは犯罪だ」
「……覚悟はしています」
「今さら告発しようだなんて思わないよ。あと四十万、きっちり返してくれればそれでいい。そうしたら、きみとの縁は切れるから」
「わかりました。警察に言わないでくれてありがとうございます。四十万。必ず返しますので、もう少し時間をください」
彼女は真摯に頭を下げた。
2
ノックが聞こえた。
「どうぞ」
勢いよくドアがあいて見知らぬ男が入ってくる。
白衣も制服も着ていない。どうも病院の関係者ではなさそうだ。単純に病室を間違えただけかと思ったが、出ていこうともしない。妙なオーラを放っている。
「なにか用ですか」
そう言ったぼくには目もくれず、男はじっと彼女を見ていた。
「……離婚を持ちだしたときからおかしいと思ってたんだ。おまえは、こんなところでなにをしているんだ」
彼女は目を見ひらいたまま固まっている。
なんなんだ、この状況?
これは、ひょっとしなくても元夫だよね。彼女をつけてきたのか。おいおい夫婦そろってストーカー? 似た者夫婦にも程があるって。
「男だろ。浮気してたんだろう」
この人が言っている〈男〉っていうのは、絶対にぼくのことだよね。いやだなあ、なんか変に誤解されてるみたいだ。
「あのー」
「おまえかよ! 人の妻に手を出したやつは!」
「は? 違いますよ。つきまとわれているのはぼくのほうで」
「俺が離婚なんてされるはずがないんだ!」
「ちょっと落ち着いて、冷静に……」
「俺から逃げられると思うなよ!」
いや、全然聞いてない。
目がいっちゃってるよこの人。どうしよう。
「やめてよ! 何様のつもりよ!」
われに返ったのか、いきなり彼女が大声を出す。
ちょっとやめて。
そんなに刺激したらまずいって。
「ストーカーなんて最低! 私は浮気なんてしてないし、あなたのことなんか大嫌いなのよ!」
「そんなわけないだろう。こいつにそう言わされてるだけだろう」
「違う! あなたは私をなんだと思ってるのよ! 殴ったり蹴ったり」
「おまえが悪いことするからだろう」
「私がなにをしたのよ! もう離婚も成立したんだから、つきまとわないで!」
「なんで避けるんだよ! 俺のこと、もう一度」
「いやよ!」
「もう一度話せばわかるのに!」
この男、全然理解していない。
なんかヤバそうな雰囲気がただよいはじめた。
「帰って!」
「なんでだよ……俺がなにをしたんだよ」
男は悔しそうな顔をして、ジャケットのポケットに手を突っこむとナイフを出した。
彼女がひゅっと息を吸いこむ。
「えっ! ちょっと!」
なんでこんなことになるんだ!
男が彼女にじりじり近づいていく。反射的に体が動いてぼくは二人のあいだに割りこむようにして体を押しこんだ。その勢いのまま彼女を庇うようにして一緒に床に倒れこむ。
「!」
うめき声がもれる。思った以上に体を床に打ちつけた。でも痛いなんて言ってる場合じゃない。倒れた彼女を見る――どうやら無事なようだ。そのまま首を大きくまわして男のほうを見た。その手にはなぜかナイフがない。
あれ? なんかへん……。
そう思って自分の体を見ると、脇腹にナイフが突き立っていた。
「うそ?」
気づいた彼女が絶叫する。男がひるんであとずさった。彼女はそのすきにものすごい勢いでナースコールに飛びついた。
「どうされました?」
スピーカーから声がする。
「助けて! 人殺し!」
彼女が叫ぶ。
「おまえが悪いんだ! おまえのせいだ!」叫びながら男は慌てて逃げていく。
彼女が男を追って廊下に飛び出した。
「助けて! だれか! 助けて! 早く!」
半狂乱になって叫んでる声が聞こえた。
すぐにたくさんの乱れた足音がまわりに集まってきた。ぼくも興奮しているのか、ナイフの痛みはまったく感じない。
大勢に囲まれ素早くストレッチャーに乗せられて、ぼくは運ばれる。
明日、手術なのに……。
なんでその前に手術室に入らなきゃならないんだ。手術の予行演習なんて聞いたことがないよ。
「大丈夫ですよ! 傷は浅いですから、頑張って!」
その言葉はドクターにお返ししたい。ドクターには頑張って綺麗に縫い合わせてもらいたい。
なるべく傷跡が残らないように。
3
「大変なの!」
環さんが叫ぶ。
「刺されたのよ! むっちゃんが!」
持っていたスプーンが床の上に転がり落ちて、派手な音を響かせる。
「は? ……」
刺された?
どういう意味だろう。
なぜか脳の動きが緩慢になり、理解が追いつかない。
病院に入院したはずの人間がどうして刺されたりするんだ。
「……むっちゃん」
つぶやいたとたん、ギアが入って頭が高速回転をはじめる。
「むっちゃんは! 無事なの!」
勢いこんで聞く。
「ええ、無事だった。大丈夫、落ち着いて。傷は浅かったの。大丈夫よ」
自分にも言い聞かせるように、環さんは言葉を区切りながら喋った。
「よかった……」
力が抜けてぐったりとベッドに倒れこむ。
「……まったく。人騒がせにもほどがある」
「ほんとよね」
「いや、むっちゃんもだけど、環さんがだよ」
「えっ、私が?」
「だって『刺された!』なんていきなり言うから息が止まったよ。てっきりもうダメかと……」
「ごめんごめん。私の言い方が悪かったわね。だから、あっちの病院も大混乱でね。傷の処置が終わったあとも、警察とかが来ていて、なかなかむっちゃんに会えなかったのよ。それで昨日は帰りが遅くなっちゃってここに寄れなかったから、今日こうして朝一で報告に来たっていうわけです」
喋りながらベッドの横にイスを持ってきて座る。
「なんでそんなことになったんだろう。むっちゃんのことだから、恨まれるようなことはしてないと思うけど」
「それがね、むっちゃんは人を庇ったのよ。女の人が男にナイフで襲われそうになって、それでむっちゃんがその人を庇って刺されたって」
「……らしいな」
「えっ?」
人の根っこの部分というのは年月が経ってもやっぱり変わらないのかもしれない。
「子どものころからちっとも変わってないってこと。無双という名前に恥じない心を持っているんだよ、彼は」
「じゃあむっちゃんは親の期待に応えてるってことね」
「おそらく。十分にね」
「でもそれは、本人にとってはどうなのかしら」
環さんは眉を寄せる。
「どうなのかしらって?」
「うん。親の期待に応えるいい子っていうのはね、どこかで本当の自分を殺しているものなのよ」
期待なんてされたことのない身にはよくわからない。
「ふーん、そういうもんなの?」
「そういうもんなのよ」
「じゃ今度聞いてみるよ、むっちゃんに」
「やめなさいよ、本人に聞くなんて。そんなずうずうしい」
ずうずうしいか。たしかにそうかもしれない。
「そうだね、やめとくよ。で、その女の人っていうのは?」
「よくわからないんだけど、むっちゃんの彼女とかではないみたい」
「むっちゃんに彼女はいないよ」
部屋を見ればわかる。彼女がいる気配はまったくなかった。
「あら、そうなの。もったいない」
「もったいないって思うなら、もらっちゃえば」
「そんな言いかた、むっちゃんに失礼よ。それに、弟の大事な友だちに手を出すほど不自由してませんからね」
「はいはい、さようですか。ごめんなさいねー」
「あ、でもそういえば、私とあなたの関係を気にしてたみたいなのよね。従弟でも結婚できるんじゃないかって」
完全にバレてるな、俺の嘘。
「それってさ、もしかして、私に気があるってことかな?」
それは誤解だよ環さん。でも――。
「確かめてみればいいじゃん。でもね、むっちゃんは超奥手みたいだから慎重に事をすすめてよね。くれぐれも俺たちの友情にヒビを入れないように」
「なによそれ。でも、じゃあ彼女は本当にただの友だちなのかな? そういう関係とも違うような気がするのよね」
「関係なんてどうでもいいからさ。もっと詳しい状況を教えてよ」
「うん。それがね、病室に彼女と二人でいたときに、いきなり男が乱入してきたんだって。その男は、彼女と離婚が成立したばかりの元夫で、むっちゃんを見て元妻が浮気してたと勘違いして、逆上してナイフを出したのよ。でも彼女の離婚原因は元夫の暴力だった。骨折して入院までした壮絶な暴力が原因だったの。彼女はそこまでずっと耐えちゃってたのよね。最初は自分のせいだと思ってたけど、抵抗しないでいたら暴力がどんどんエスカレートしていって、もうどうしようもないところまできちゃった。最終的に彼女はなりふり構わず夫から逃げだした。彼女は元夫が死ぬほど嫌いだって。ゴキブリのほうがまだ可愛げがあるって。まあ、そういう気持ちはあたりまえなんだけどね。でもそういう女心を男のほうはまったく理解できてないのよ。もう一度話せばちゃんと分かり合えるって思いこんでるらしくて。まったく迷惑な話よねえ。そんな男だから離婚されたわけじゃない。なのにどうしてわからないのかしら。不思議でしょうがないわよ」
環さんは一気にまくし立てた。
「……ねえ、やけに詳しくない」
「うん。だって本人に直接聞いたから」
「むっちゃんに?」
「まさか! むっちゃんは怪我の治療やら警察対応で大忙し」
「じゃあ、だれに聞いたの?」
「むっちゃんが庇った彼女。名前とか聞くのを忘れちゃったけど」
それは、ずうずうしくはないのか。
「綺麗だったけど、どこか影がある子なのよね。すきをみて、ちょこっとだけむっちゃんに会って伝言だけ渡して、そのあと気になったから彼女に声をかけたの。そうしたらいろいろと話してくれたのよ。だれかに話したい気分だったんじゃないのかしらね。彼女はむっちゃんのお見舞いに来たっていうより、なにか昔のことを謝罪しに来たって言ってた。むっちゃんのことをずっと探していたみたい」
だとしたら、彼女だろう。
通帳の五十万。置手紙。封筒の十万。
俺の推測が正しければ、むっちゃんの記憶で見た彼女に違いない。
「彼女のことはともかく――むっちゃんのことが心配だよ。脳腫瘍の手術はどうなるんだろう」
「それなら予定どおり今日手術をするって言っていたわ。お腹の傷も大丈夫そうだからって」
「そうか……無事に成功すればいいけど」
「そうね。祈って待ちましょう」
4
ゆっくりと目をひらいてゆく。
ぼんやりしていると、視界に父さんの顔が入ってきた。
「よかったな、無双。手術は成功したぞ」
成功したのか。
そうか。うん。よかった。
酸素マスクがついていたので声は出せなかった。
でも、こうして頭のなかで考えることができる。
自分のことも覚えている。
ぼくは国広無双。父さんのことも覚えている。父さんは国広丈夫。母さんは国広美奈子。そして死んだじいちゃんは国広剛。これだけ覚えてればまずは合格だろう。
そこで意識が途切れた。
次に目が覚めたら病室のなかにいて、窓の外が明るかった。ICUではなく、普通の病室だった。もう酸素マスクもしていない。
時間の感覚がまったくなかった。
手術が終わってから、何時間、いや何日過ぎたのだろうか。
しばらくのあいだ、じっと天井を見ていた。
大丈夫。ぼくにはぼくの意識がちゃんとある。
ぼくとしてこの世界に存在している――。
安心したのかそれからまた眠ってしまったらしい。
「お、目が覚めたか」
父さんの声がした。
ぼくは目をひらいていた。
ゆっくりとまばたきをくり返した。
前よりもずいぶんと意識がしっかりしているみたいだ。
「よかった。痛みはないか」
「……ない、みた、――い」
声が喉に引っかかってしまった。
「そうか。その、……自分のこととか、俺のことはわかるか」
「……うん。わかるよ。ちゃんと、覚えてる」
父さんが安堵の息をついた。
「本当によかった」
心配かけてごめんね――と、心のなかで父さんに謝る。口に出すのはなんだか照れくさかった。
「……今日は、いつ? 手術からどのくらいたったの」
「二日だよ」
「……そう」
「昨日の夕方に手術が終わってからICUに入って、さっき病室に戻ったばかりだよ」
「やっぱり、……時間の感覚がなんか変だな」
ようやく言葉がスムーズに出るようになってきた。
「これだけ会話できれば大丈夫だな。顔色もいいし、だいぶしっかりしてきた。明日かあさってには歩行訓練をはじめるらしいぞ」
「えー、マジで。……ゆっくり寝てもいられないなあ」
「だっておまえ、十日で退院するんだから、それぐらいしないと」
「はあ。……なんか入院って疲れるね。ちっとも楽じゃないよ。病人なのにのんびりできない」
「ははは。それだけ喋れれば安心だな。疲れないか」
「大丈夫。疲れてないよ」
「そうか。でもゆっくり休め」
それからしばらくするとドクターが回診に来た。
「国広さんは運がいいですね」
開口一番そう言った。
「手術は大成功と言っていいでしょう。腫瘍ですが、脳の浅い部分にあって、しかも血管も巻きこんでないし周囲に癒着もしていませんでした。それに比較的やわらかい腫瘍でしたから剥がしやすかった。ラッキーですよ、本当に。まあ、まだなんとも言えませんが、この分なら後遺症が出たとしても、おそらく軽いものになると思います」
後遺症は出ません、とは言ってくれないのか。
一抹の不安を抱えながら、それでも手術を大成功と言ってもらえたことにひとまず安心する。
「さっそく明日から歩行訓練をはじめましょう」
「はい。よろしくお願いします」
「ではお大事に」
「ありがとうございました」
「……よかった。本当に」
父さんの声が微かに震えている。
ぼくは胸がいっぱいになった。
5
ようやく退院ができた。
むっちゃんの手術からもう五日目だ。環さんからむっちゃんの様子を聞いていたからあまり心配はしていないが、それでも実際に会うまでは不安がぬぐえない。
久しぶりの外の空気はむせかえるように暑かった。太陽光が痛いほど目に突き刺さってくる。きんと冷えたかき氷が無性に食べたくなる。もちろんシロップはいちごで。
病院の正面玄関を抜けて、入院病棟へ向かう。
「あ! ちょっと待って!」
後ろから呼び止める声にふり向くと、制服を着た女性が立っていた。
「コウガくん」
「……野川」
まさかこんなところで彼女に会うとは思ってもみなかった。
重なるときは重なるもんだ。
「何年ぶりだろう。……元気だった?」
「うん」
「どうしたの、お見舞い?」
「そう。これから――むっちゃんに会いに行くんだ」
その言葉に彼女は目をみはる。
そうなんだ。俺は彼女ともちゃんと向き合わなければならない。
「……あのさ、ずっと連絡しないでごめん」
「うん。いいよ。ちゃんとわかってるから」
以前とまったく変わらない笑みを浮かべる彼女に救われた気がした。
「ありがとうな」
「うん。……ねえ、そういえば無双くんが最近アイくんと会ってるって言ってたけど、アイくんはアメリカから戻って来たんだよね」
「いや。アイは今、アメリカにいるよ」
野川の顔が曇る。
「そうなんだ……」
「ごめん。その話はまた今度する。野川の番号、前と変わってない?」
「うん。同じだよ」
「俺も変わってないから。じゃあ、また連絡する」
「あ、ねえ、ちょっと……顔がコワいよ」
言われてはっとなる。実はこれからむっちゃんに会うと思うとかなり緊張していた。
両手で頬をたたく。
「……なんか相変わらずだね。変わってなくて嬉しいよ」
野川が小さく笑った。
「行ってらっしゃい。でも無双くんは病人なんだから、あんまり疲れさせないでね」
「了解。じゃ、またな」
「うん。またね」
病室の前で深呼吸をした。ノックをしてなかに入る。
むっちゃんはベッドに座っていた。
頭の白い包帯が痛々しい。俺を見るとにっこりした。けれど、それだけだ。なにも言ってはくれなかった。
言葉が出ないのか。
「……俺のこと、わかるかな。……覚えてる、よね?」
うなずくが、やはり口をひらいてはくれない。
想定外の反応にちょっとうろたえた。
もしかして、俺と口を聞きたくないとか。
「……あの、あのさ、ごめん」
無言。
俺の所業に怒っているのだろうか。どうすればいい?
「……えーと、いろいろとごめんなさい。怒ってる、かな?」
反応なし。
仕方がない。とりあえず全部謝っとこう。
「……ですよね。ごめんなさい。アイのふりしてむっちゃんに会いにいったのには事情があって、それはのちほど説明します。ごめんなさい。あと、たぶん指輪のことかな。環さんのことも。それも嘘ついてごめんなさい。それから、えーと、再会してから今までむっちゃんをずっと騙していてすみませんでした。ごめんなさい」
俺は頭を下げたまま、謝罪をし続けた。
「――でも、とにかく手術が無事に終わってよかった。こうしてまた話ができてよかったです。あのー、それと、俺はきみのことをこれからもむっちゃんと呼んでもいいんでしょうか?」
むっちゃんがふきだした。
「まったく、なに言ってるんだか。コウガ、退院おめでとう! コウガが無事でよかったよ」
「え、あ、ありがとう。むっちゃんにはご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんて思ってないから。心配はしたけどね。コウガが死んじゃったらどうしようって頭が真っ白になった」
「いやー、嬉しいこと言ってくれるじゃない。怒ってたんじゃないの」
「ううん。コウガがうろたえてるのが面白かったから」
「酷いなあ」
今のところちゃんと会話は成立している。言葉もすらすら出ているようだ。後遺症は感じられない。とにかくほっとした。
「ぼくは騙されてたんだから、それくらいは許されるでしょ。で、環さんから受け取ったあの伝言はなに?」
「なにって」
「手術前に受け取ったから、気になって手術に集中できなかったよ。『やっぱりむっちゃんはヒーローだった』ってなに、嫌味?」
「違うよ。それについてはアイのことも含めてちゃんと話したいけど……大丈夫? 疲れてない」
「平気。後遺症も出てないし、リハビリも順調だから」
「よかった」
むっちゃんはベッドから降りて、応接セットに座った。
「全部、話してくれる」
「うん、わかった」
むっちゃんの向かいに座り、俺は覚悟を決めた。
6
覚悟が必要だった。
話すことで、俺の人間性が知れてしまう。はたしてむっちゃんは俺のことをどう思うだろうか。
いくら子どものころの出来事とはいえ、自分がしでかしたことだ。自分の犯した罪をあらためて口にするのは怖かった。けれど今、俺の心は穏やかだ。想像していたのとはだいぶ違う。むっちゃんを目の前にして罪の告白をしようとしているのに、ただの思い出話をするだけのような軽い気持ちで向き合っている。いったいどうしたことだろう。
「……順を追って話したいから、さかのぼるね、あのときに」
「うん。わかった」
「……幼稚園でアイの救急車騒ぎがあってから、俺はずっと家に閉じこもっていた。なにか悪いことをしたのはわかっていたよ。だけど、なんでそんなことになったのか、その理由はいまだにわからない。母親とその件について話した記憶もないんだ。おそらく怒られたか、なんでそんなことをしたのかを聞かれたとは思う。でもその辺の記憶が曖昧なんだ。思い出したのは、そのあと一度だけアイの家に行って、玄関先で母親と二人で頭を下げたことだけなんだ」
アイの母親が酷く恐縮しているように見えた。
その後は通常の生活に戻った。ただし二度と幼稚園に行くことはなかったが。
母親は昼間働いていたので、いつも一人で部屋にいた。毎日寝て起きて一人遊びをして、何日か過ぎたころには、記憶が夢のように霞んでいった。あれが現実だったのか幻だったのか、判断がつかなくなった。どうして幼稚園に行ってはだめなのか、そんなことも全部わからなくなっていった。
それからわりとすぐに引っ越しをした。行き先は母親の姉、環さんのお母さんの家の近くだった。昼間は環さんの家に預けられた。三つ上の環さんは面倒見が良くて、よく遊んでくれた。
そして小学校に入学して新しい生活になじむと、不思議なことに過去のことはきれいさっぱり忘れてしまったのだ。
「俺はね、むっちゃん。アイにあんな酷いことをしたのに、そのことを忘れてしまったんだ」
中学に入ったあたりから母親の体調が悪くなり、病名がわかったときにはもう手遅れで、あっけなく逝ってしまった。
「そのまま俺は環さんの家に引き取られた。よくしてもらったよ」
ちょっとやんちゃだった俺だけど、環さんにはどうしても勝てなかった。いまだに頭をがっつり押さえられている。
「それで、高校にも行かせてもらった」
そして進路を考えるようになったある日、はたと気づいた。
あれ? なんで幼稚園のときの記憶がないんだ。
自分のなかにある幼いころの一番古い記憶。
それは環さんに遊んでもらっている記憶。
そこが崖の先端だとするならば、それ以前の記憶はすべて、崩れた崖下、暗い奈落に沈んでいる。
「不思議に思って、環さんのお母さんに聞いてみたんだ。そしたら教えてくれたよ、俺がアイの口に靴下を詰めたって。愕然とした。まったく覚えていなかったから」
事件があったときの記憶はどうしても思い出せなかった。でも思い出そうとするうちに、なんとなく断片的なシーンがよみがえってきた。母親と一緒に頭を下げたこと、ずっと家に一人でいたこと、そして、先生やむっちゃんの目。大勢の視線――。
「……俺は人を殺すところだった。自分が怖くなったよ。いくら子どもとはいえ、だれかを殺そうとしただなんて……。とんでもないことだと自分を責めた。震えが止まらなかった。もしかしたら俺の本質は殺人鬼じゃないのかって、我を忘れたら人を殺そうとするんじゃないのかって、自分自身が本当に恐ろしくなった」
アイに謝ろう。
ちゃんと謝罪をしなければいけない。
そう思い立ってアイを探した。
居場所は転々としていたが、それは親の仕事の都合だったので追うのは難しくはなかった。そしてたどり着いた先はアメリカ。いきなり電話をしてもなにを言えばいいのかわからないので、手紙を出した。
「返事はすぐに来た。『懐かしいね。忘れないでくれてありがとう』って。何事もなかったように、ごく普通の内容だった」
それから何度か手紙のやりとりをして、あるとき『会いたいから来てよ』とアイから返事をもらった。
大学には行くつもりだった。だから高校に入ってからずっとバイトをしてお金を貯めていた。そのお金で飛行機のチケットは買える。
それで俺はアメリカに行くことにした。
「アイに会って謝った。でも、やっぱりあのときのことはどうしても思い出せなかったんだ」
ひたすら頭を下げる俺をアイは大きな目で不思議そうに見ていた。
「ねえ、コウガは少しも覚えてないの? あのときのこと」
「ごめん。本当になにも覚えてないんだ」
手紙にも書いたことだったが、あのときの記憶がないことをもう一度説明した。
「そうか。あのね……謝るのはぼくのほうなんだよ。ごめんね、コウガ」
「なんで? どういうこと」
「ぼくがコウガの靴下を脱がせて自分で口に入れたんだ。コウガはそれをやめさせようとしただけなんだよ」
「嘘でしょ」
「嘘じゃないよ。ぼくにはそういう悪いクセがあった。だからコウガのせいじゃない。ねえ、ぼくの言っていることが信じられない?」
信じる信じないの話じゃない。真実はどうだったかってことだ。
俺がそう言うと、アイは口元をゆがめた。
「ぼくはコウガもむっちゃんも大好きだった。二人にはいつもぼくのことを見ていて欲しかった。ぼくのことを一番に思ってほしかった。だから、二人の気を引きたくてあんなことをしたんだよ」
アイは寂しそうに微笑んだ。
「……俺は、なにも言えなかった。そのときのアイは、あれはもう十年くらい前だったけど……アイは酷くやせていて、痛々しかったから……」
アイと話をするうちに、おぼろげながら幼稚園の記憶も思い出してきた。でもどうしても肝心な部分の記憶が戻らない。
「ぼくと遊んだことも覚えてないなんて、悲しすぎるよ」
アイはアルバムを持ちだしてきて俺に見せた。そして体調を心配する俺をよそに、空白の時間を無理やり埋めるみたいに、アイはずっと喋り続けた。
「ぼくにはコウガとむっちゃんしか友だちがいなかったんだから。おまけに今はこんなだし……」
そうだ、と不意にアイがいたずらを思いついたような顔つきをする。
「そうだよ。ねえコウガ、むっちゃんに会いに行けばいいんだ」
頬に朱がさして、生気が戻ったような晴れ晴れとした表情になる。
「幼稚園ではぼくのせいでコウガはむっちゃんと仲良くなれなかった。だから大人になったむっちゃんに、ぼくの代わりに会ってきてよ」
「俺が?」
「うん。コウガが」
「二人は全然違うタイプだけど、けっこう気が合うと思うんだ。二人のことを大好きなぼくが言うんだから間違いないよ」
むっちゃんに会いに行く――そんなこと、考えたこともなかった。
「もしかして……怖い? むっちゃんに会うの」
「……まあ」
正直言って怖かった。なにしろ初対面のようなものだから。
「だったらさ、ぼくのふりして会ってきなよ。大丈夫、むっちゃんって意外に抜けてるからけっこうバレないと思うよ」
そんなにうまくいくとは思えないが。
「それにね、ちょっと気になることもあるんだ。……あの事件のあと、むっちゃんは急によそよそしくなったんだよ。きっとぼくが自分で靴下を詰めたことに気づいたんじゃないのかな? それでぼくのことを嫌いになったんだと思う。ねえコウガ、ぼくに負い目があるのなら、むっちゃんに会って聞いてきてくれないかな。どうして急に態度を変えたのか。その答えがわかれば、コウガも過去に囚われずにすむんじゃないのかな」
「――アイにそう言われて、俺はアイのふりをしてむっちゃんに会いにいった。ただし、かなり時間がたっちゃったけどね」
むっちゃんに会うことをためらっていた。
もし、被害者のアイではなく加害者のコウガだとバレてしまったら――。
今さらなんの用だと冷たくあしらわれたら――。
俺は怖かったんだ。むっちゃんの反応が。
「どうりで、ハンカチを捨てたってことを知らないわけだよね。アイじゃなくて、コウガだったんだから」
でも、むっちゃんは俺だとわかっても、態度を変えることはなかった。
「そうそう、焦ったよ。そんなことアイは一言も言ってなかったから。慌ててアイに電話して確認した。そしたら『言われて思い出したよ。そういえばそんなこともやってたねー、懐かしいなあ』って笑ってた。ほかの小物もアイが捨ててたらしいよ」
むっちゃんは少し笑って、それから聞いてきた。
「それで、コウガの見たい記憶はあったの」
「残念ながら」
むっちゃんの記憶を見ても真実はわからなかった。
「ぼくは見てないんだ。コウガが確かめたかったのがあの瞬間だとしたら、ぼくの記憶は役に立たない。ごめんね、ぼくは見ていないんだよ」
「そうか――」
「父さんが言ってたけど、だれも見てないんだ。あの出来事の真相はコウガとアイにしかわからない。だから、アイが自分でやったって言うんなら、それが真実じゃないのかな。アイのことを信じたほうがいいんじゃないのかな」
そう簡単にアイのせいにもできない。アイは嘘つきだ。思いやりのある優しい嘘つきだ。そして、むっちゃんも。
「……そうだね。むっちゃんが俺を突き飛ばして、アイの口のなかの物を取りのぞいて彼を助けた。だから俺は人殺しにならずにすんだ。それは事実だった。だから、やっぱりむっちゃんは俺のヒーローだった。そういうことなんだよ」
「なあんだ。伝言はそういう意味だったのか」
「そうだよ」
「伝言見て、コウガはなんの記憶を見たのかなーって、ものすごく気になってたんだけど」
むっちゃんが俺の側にいてくれたのは、そう大した時間じゃなかったはずだ。でもその短時間に、俺はむっちゃんの記憶のドアをほとんどあけることができた。脳の神秘がなせる技か、意識レベルでの処理能力というものが異様に速いのか。理由はまったくわからないが、とにかく俺は不思議な体験をした。
「ごめん。ほかにもいっぱい見ちゃった」
「いや、それはいいよ。鍵を渡したのはぼくだから」
あっさりと言う。なんでもないことのように。
そんなにさらっと流してもいいのか。
「……よかった。怒ってないんだね」
「うん。それで、アイは大丈夫なの。コウガが会ったときはやせていたの? 今は日本にいるの?」
「一時期、帰国してたんだ。アイの両親は今は日本にいるし、病状も落ち着いていたから。でもまたアメリカに行った。日本では認可されていない薬を試したかったんだろう。可能性があるのならなんでもやってみたいって言ってたから」
「治ってはいないんだね」
「うん。でも頑張ってるよ。俺はアイに言われたんだ。『それでもぼくに負い目があるのなら、その分だれかの助けになってあげてよ』って。だから俺は、たとえば薬の認可とかするところで働いてみたいな、なんて思ったりしたわけだ」
「それで公務員だったのか」
「そういうこと。まあ、漠然と思っているだけで、日々に追われてなにもしていませんがね」
「考えてるだけでもすごいよ。ぼくはなにも考えずに生きてきた」
「いいんじゃない。それでもちゃんとだれかを救うことができてるんだから。立派だよ。でも、刺されたって聞いたときは生きた心地がしなかったけどね」
「あははー。もう笑うしかないね。体が勝手に動いちゃったんだよ。運動神経なんてないくせにね」
「庇った彼女って、五十万の彼女でしょう」
「そう。お見舞いに花を持ってきてくれたよ。もう、とっととお金を返してもらって縁を切りたかったのに」
むっちゃんは脇腹をさする。
「傷は浅かったし、痕もまったく残らない。そう言っても彼女はきっと自分自身を許さないんだろうな。いやだなあ。彼女といるとロクなことにはならないからね。近づいてほしくはないんだけど」
「酷い言われようだな」
「だってもうこりごりだよ」
花かごを見る。
子どもが最初にクレヨンで描く花といったら、大体がこんな感じだろう。どこにでもありそうなごく普通の花、どこか懐かしいようなぬくもりを感じる花。でもその色味と種類によっては自己を主張して、ものすごいパワーを発揮する。
「ガーベラか。見てるとなんか元気が出てくるね。……ねえ、花言葉知ってる?」
「知らない」
「感謝とか希望とか……」
それに、一輪だけ入ってる赤いガーベラの花言葉は愛情だけど……それは言わないでおこうかな。
「よく知ってるね」
「俺はね、むっちゃんに言ってないことがまだまだたくさんあるんだ。ごめんね」
「謝ることなんてないよ。そんなのあたりまえじゃない」
自覚なしか。
むっちゃんは自分が優しいことに気づいていない。それがどんなにまわりに影響を与えるのかがわかっていない。
ヒーローにはヒーローとしての自覚がちゃんとあるもんだ。でもむっちゃんのほうが断然かっこいいと、俺は思う。
「あのさー、でも、なにも知らなかったら、俺は彼女を誘っていたかもしれない」
「うそ! あ、でもそうかもね。ぼくだって最初は綺麗な人だなって思ったし」
「へえ。むっちゃんの趣味も案外普通なんだね。よかったよ」
「それってどういう意味?」
ノックが聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します」
ジーンズにTシャツというラフな格好の大柄な男性が入ってきた。
どこかで見たことがある顔だ。
「……そうか。むっちゃんの職場で見た人だ」
「はい?」
「真田くんっていうんだよ」
むっちゃんが慌てる。
「ああ、そうなんだ。どうも、俺は相沢コウガです」
「えーと、ぼくは真田丹紅ですが」
挨拶はかわしたが、真田くんは眉間にしわを寄せて俺を見ていた。
そりゃそうだろう。初対面にもかかわらず、むっちゃんの職場で見ただなんて不審なことを口走ったのだから。
「……なんか喉がかわいたから、飲み物買ってくるよ」
「あ、冷蔵庫に入ってるのお好きにどうぞ」
「サンキュー。でもトイレにも行きたいからちょっと外すね。ごゆっくり」
これ以上変なことを言わないようにと、俺は早々に逃げ出した。
7
「今のはだれですか」
ローリーがさっそく聞いてくる。
「ああ、告知されてショックを受けてるときに来てくれた友だちだよ」
「ふーん。あの人ですか。国広さんのことむっちゃんって呼んでましたね」
「幼稚園のときはそう呼ばれていたんだ」
「なんだ、幼なじみか。ちゃん付けで呼び合う人がいるんですね」
「彼だけだよ」
いや、アイもそうか。
「でも彼とは最近再会したんだ。二十年以上ぶりにね」
本当に再会できてよかった。コウガが会いに来てくれてよかった。アイがコウガをけしかけてくれてよかった。そうしなければ、ぼくたちは一生交わらない線の上を歩き続けていたに違いない。
「えーと、そういえば、すみません。順番が逆になってしまいました」
ローリーは持っていた紙袋に手を入れる。
「有志からのお見舞いです」
お見舞金と、花束が添えてある。
「ありがとうございます。みんなにも気を使わせちゃったね」
「いいんですよ、そんなこと気にしないでください。それよりも手術が無事に終わってよかったです。安心しました。なんか元気そうだし、こうやってちゃんと会話もできるし」
「うん。おかげさまでね。先生が手術は大成功って言ってくれたし」
「そうなんですか。本当によかったです。しかも手術の前には名誉の負傷をしたとか。聞いてますよ。病室で大立ち回りをして、相手を投げ飛ばしたって」
「もー、だれですか。そんなでたらめを言うやつは」
苦笑いをするしかない。
「でもナイフを持った相手に果敢に立ち向かっていくっていうのは、普通はできないですよね」
「いや、向かってないし」
「そうなんですか。おかしいなあ」
「ぼくは逃げただけだよ。ナイフなんて持ってる危ないやつに向かっていくバカがどこにいるんだ」
「でもたとえ逃げたとしても、女の人を庇って国広さんが刺されたことは事実でしょう」
「まあ、それはそうだけど……」
「ごめんなさい。謝ります」
ローリーが頭を下げてくる。
「え、なんで?」
「最初に会ったとき、貧相だなんて失礼なこと言っちゃったから。国広さんはやっぱり無双でした。本当にすみません」
「やめてよ。貧相のままでいいって。ぼくは自分のことだけで精一杯で、だれも助けられないんだから」
「またまた。……でもまあ、いいです。そういう謙遜も国広さんらしいですから」
「謙遜じゃないって」
疲れる。
なんかいいほうに誤解されてるようだけど、もう解く気にもなれない。
「みんな感心してましたよ。課長なんか、我が社の誇りだとかなんだとか、バカみたいなことを口走ってました。落合さんは相変わらずだし、ぼくは寂しく一人でランチしています。早く復帰してくださいね」
「うん。様子見ながら、なるべく早く復帰する方向で考えてる」
「でも無理はしないでくださいよ。体が一番大切です」
「そうだね。ありがとう」
「……じゃあ、ぼくはそろそろ」
ローリーが立ちあがる。
ノックが聞こえた。
「こんにちは。むっちゃん元気?」
明るい声がして、環さんが入ってきた。
「ああ、環さん。また来てくれたんですね。忙しいのにすみません」
「平気よ。あら、お客様ね。ごめんなさい」
ローリーは直立不動で銅像のように固まっていた。でかいのでサマになっている。
「コウガも来てますよ。今、飲み物買いにいってます」
「あらそう。じゃあ私もちょっと行ってくる。またあとでね。どうぞごゆっくり」
環さんはすぐに出ていった。
「だれですか! 今の人」
ドアが閉まると同時に勢いこんで聞いてくる。
「えーっと、コウガのお姉さん的な……」
「国広さんが助けた人ですか」
「ううん。違うよ」
「……ずるいです」
「はい?」
ローリーは恨めしそうにぼくをにらんでくる。
そんな顔をされる覚えはまったくないはずだが。
「今、気づきました。助けた人って女の人ですよね? どういう関係なんですか」
「関係と言われても……」
そうだった。この人も彼女と張り合うくらい面倒くさい人だった。
「お見舞いに来るくらいだから、最低でも友だちですよね。しかも命がけで庇ってるし」
「命がけなんてそんな……。それに、彼女とは友だちではないよ」
「じゃあなんなんですか」
「えーっと……」
誤解を与えないようにしたかったが、なにを言ってもあらぬ方向に誤解されそうな気がする。
「……大学時代に知り合って、そのとき彼女は借金取りに追われていたので、仕方なくぼくがなけなしのお金を貸してあげました。それを彼女が今ごろになって返しにきたんです。そういう関係なのですが……」
白状したほうが気が楽だ。
「お金を貸したんですか? 学生のころだって国広さんは大変だったんじゃないですか」
「まあそうだけど……仕方なく、というか強引に……」
睡眠薬強盗だなんて、とてもじゃないが言えない。
ローリーはため息をつく。
「人がいいんですね。本当に尊敬しますよ。ぼくとは大違いだ。よかったです、国広さんと同志になれて」
またそこに話を持っていくのか。
「それから、さっきの素敵な女性」
ローリーの目がきらりと輝く。
「ぼくはものすごくタイプなんですけど……」
「えっ、そうなの。彼女は城山環さんっていうんだけど。じゃあ、あらためて紹介しようか」
少し考える素振りをしてから、ローリーはにっこりする。
「いや、やめときます」
「あ、そう……」
意外だなと思った。彼ならもっとぐいぐいくると思っていたのに。
「じゃあぼくはそろそろ失礼します」
「うん。今日は来てくれてありがとう」
「あたりまえですよ、お見舞いくらい。ぼくたち同志なんですから。じゃあお大事に」
そう言ってローリーは帰っていった。
入れ違いにノックがして、コウガが入ってくる。
「彼、帰ったんだね。廊下で見かけたよ」
「うん。……あのさ、コウガはさ、ぼくの見たものをほとんど見てるんだよね」
「そうだけど……」
コウガの瞳が揺れる。
「ごめんね、コウガ」
「なにを謝ってるの?」
心細そうな表情。
コウガをそんな顔にさせてしまうのは、ぼく。
ずっと考えてた。
あの記憶のストーリーは思いこみと偏見でぼくが勝手に作りあげたものだ。
本当はだれも見ていなかったあの状況。
アイが言ったことが真実なら、アイを助けたのは間違いなくコウガだ。コウガの行動は正義だ。それをぼくが横取りした。ぼくがコウガを突き飛ばしたりしなければ、ヒーローはコウガだった。余計なことをしたのは、このぼくだ。
コウガの人生を狂わせた――。
まったく、ぼくは彼になにをしたんだ!
考えれば考えるほどぞっとする。冷や汗が出てくる。
あのときのぼくは強者だった。ぼくはうぬぼれていた。
しかも恐ろしいことに、ぼくも先生もアイも父さんを含めた親たちも、誰一人としてコウガの言い分を聞いていない。コウガ自身も忘れてしまっている。あるいは、コウガは母親に真実を話していたかもしれない。でもそれは、だれにも知らされていない。信じてもらえないショックで記憶がなくなったとも考えられる。
コウガは誤解されたまま幼稚園を追放されたんじゃないのか。
――これはあくまでもひとつの可能性。不用意に口にするべきではない。これ以上コウガを惑わせたくない。傷つけたくない。
……いや、これは言い訳か。ぼくは、自分が傷つきたくないだけかもしれない……。
「……やっぱり、見られたくない記憶とか、あるよね」
ぼくの顔色をうかがいながら、申し訳なさそうに言う。
「いや、そんなのはべつにいいんだよ」
「なんか悪いことしちゃったな……」
コウガは全然悪くない。
「見られたくない記憶なんてべつにないよ。……ごめん、ごめんね。ぼくの記憶はなんの役にも立たなかった。それにね、ぼくは自分の記憶がなくなることを前提に考えていたし、コウガにはぼくが忘れてしまうことを全部覚えていて欲しかった。だからそれはいいんだ」
「それはいいの?」
「うん。記憶なんてそんなもん、いくら見られたっていいんだよ。ただ……二人で同じ記憶を共有するって、大人になってからこんなサプライズがあるなんて思いもしなかったから、ちょっと戸惑って」
「サプライズ……」
「そう。これからのコウガとの関係とかを真剣に考えちゃったんだ」
ありえないことが起きてしまった。
こんな想像もつかないことになるなんて。
でも、こんな状態になったからこそ、ぼくは深く考えることができた。
「そしたら、ね。ぼくは身勝手で勇気がない人間だっていうのが身にしみた。もうね、ダメダメだなっていうのがよくわかったよ」
「? ……なに、いきなりどうしたの」
コウガは思いきり眉間にしわを寄せる。
「ありがとう、コウガ」
「あの……なんの、ありがとう?」
怯えたように聞いてくる。
「いろいろ」
「いろいろって?」
「もろもろ」
「もろもろって?」
「とにかく、コウガがいなかったらぼくはなんにも気づけなかったから」
「……意味がわかんないんだけど」
「いいよ、わかんなくて」
いきなりハイな気分になる。胸のあたりを羽でくすぐられているようだ。こそばゆい。笑いがこみ上げてくる。可笑しくてこらえきれない。くすくすと声がもれてしまう。
どうしたのかな。ぼくはおかしくなったのか?
「どうした? 大丈夫か?」
「うん。子どものころはお互いに避けていた相手と同じ記憶を持っちゃうなんてね。ある意味マヌケな事態になっちゃったなーって思ってさ。それが面白くて、笑えて……」
コウガが口をあけてぼくを見ていた。
無防備で面白い顔。
こんな顔が見られるなんてね、最高だ!
「……ねえ、そんなに笑うと傷に障るよ」
心配そうな声がする。
「……そうだね」
ぼくは涙をティッシュで拭きながら言う。
「ねえコウガ、アイに会いたいよ。ぼくが回復して落ち着いたら一緒に行ってくれるかな、アメリカに」
「いいよ、もちろん。案内するよ」
「陽菜ちゃんも行けるかな、行けたらいいな」
「ヒナちゃん?」
「そう、野川陽菜ちゃん」
「あー……そういえばさ、むっちゃんは野川のことが好きだったの? 記憶で見たけど、幼稚園でむっちゃんは野川のことばっかり見てた」
一気に顔が熱くなる。
「やだなあ、そういうのも見られてるわけだ。でもぼくだけじゃないよ。アイだってそうだったし、男子はみんな好きだったでしょう。みんな陽菜ちゃんと結婚するって言ってたじゃない」
「うーん。どうだろう」
「あれ? コウガは違ってたの」
「うん、そのときは違う子が好きだった。アイと話してて、不思議とそういうのは思い出したんだよねー」
「へえー」
「あれじゃない、むっちゃんが『陽菜ちゃんが好き』って言い出したから、野川人気が上がっただけじゃないの」
「それはないって」
ノック音がして環さんが入ってくる。
「あら、なんか楽しそう。なに話してたの」
「ああ、えーと、むっちゃんが元気になったらアメリカに行こうって」
「えーいいわね。私も行きたーい、憧れのニューヨーク」
「環さんの目当てはパチーノ様だろう」
「あたり!」
「パチーノ様?」
「環さんの店の名前。ALって、アル・パチーノから取ったんだよ」
「へえそうなんですね。よかったら環さんも一緒に行きませんか」
「うーん、残念。行きたいけど、お店があるからちょっと無理ね。お土産だけ期待してるわ」
「アル・パチーノって今いくつ? もうずいぶんなお年じゃないの」
「わかってないわね。年じゃないのよ。私は映画で彼がやった役がすごい好きなの。彼自身っていうより、作品とか、演じてる彼が好きなのよ。特にタンゴを踊るシーン。ああいう男の色気を出せる御方なんてそうそういないんだから」
「もしかして、それってアカデミー賞主演男優賞をとったやつですか」
「そう! むっちゃんすごい。わかるのね」
「ぼくもそれ観ました。あれはよかったですよね」
「ほら! わかる人にはわかるのよ」
「あのさ、男の色気もいいけどさ、彼氏の一人もいないんじゃあね。たとえ若い頃のアル・パチーノに会ったとしても、女の色気を感じられなくて見向きもされないんじゃないの」
「ずいぶんじゃない、まったくこの子は!」
この二人は本当の姉弟みたいだ。コウガが環さんの家に引き取られたのは、奇跡レベルでラッキーなことだったんだなとつくづく思う。
「あのさ、アメリカはちょっと置いといて、先にぼくの退院祝いをやりたいなーって思ってて。お世話になった人たちに感謝したいし」
「おっ、いいね」
「それなら、ぜひうちの店で!」
「商魂たくましいなあー」
「じゃあお願いしてもいいですか、環さん」
「喜んで。むっちゃんのためだもん」
「ははーん。むっちゃん、気をつけなよ。環さんに狙われてるぞ」
「狙われている? えーでも、ぼくは貧乏でお金は全然持っていませんけど」
環さんがコウガを突っつく。
「ねえ、これって……天然?」
「みたいだね」
「やだ、キュンってなっちゃった。守ってあげたいかも……」
「ええっ?」
驚きの声をあげたコウガと、環さんが顔を見合わせる。
「……むっちゃん、俺が言うのもなんだけど、もうちょっといろんな免疫をつけたほうがいいと思うよ」
「えっと、さっきから二人の会話がよくわからないんですけど……ぼく、なんか変なこと言いましたかね」
二人は腕組みをしてぼくを見つめてくる。
ぼくはその視線に耐えられない。
「あ……あのね、実はさ、退院祝いやろうって言ってくれたの、陽菜ちゃんなんだよ」
「野川が。まあ、あいつの考えそうなことだよな」
「ヒナちゃんって、ノガワってだれよ?」
「この病院の可愛い受付嬢」
「あれ? この病院にいるって知ってたの」
「いや知らなかった。さっき会ったんだ。声かけてくれたんだよ。ねえ環さん――顔に出てるよ、いろいろと」
にやついているコウガを環さんが無言で叩く。
「痛いって。じゃあ、野川には俺から言っとくよ。あいつに話さなくちゃならないこともあるから」
コウガは陽菜ちゃんをあいつ呼ばわりしてるのか。大学の同級生だから仕方ないのかもしれないけど。
自分の学生時代を思い返してみて、ぼくはかなり落ちこんだ。
「……そう。じゃあよろしく。コウガにまかせるよ」
「引き受けた」
ふと、思った。
コウガ、アイ、陽菜ちゃん、環さん。
どうしてだろう? 今、こんなにもぼくの近くにこの人たちはいる。ほんの少し前までぼくは一人だったはずなのに……。
「そうだ! ついでに、さっきの真田くんも呼んであげれば」
「ローリーを?」
「ローリー?」
しまった。つい口がすべった。
「……ええと、彼には言わないでよね。名前がタンクだから、あだ名がずっとローリーだったんだって」
二人が笑い出す。
「ピッタリだ。デカいもんな」
「彼、環さんのことタイプだって言ってましたよ」
「やった! ひょっとしてモテ期が来た?」
「一生に一度のモテ期かもしれないから、せいぜい頑張ってください」
「もちろんよ。どんなチャンスだって決して逃さないんだから」
楽しげな二人の声が、ぼくの心も軽くしてくれる。
「……早く退院したいな。仕事にも復帰したい」
自然と口をついて出た、ぼくの本心。
「はい! 前向きなお言葉いただきました!」
コウガがおどける。
にぎやかな病室。白い部屋がほんのりと暖かな色に包まれている。そのなかに、ぼくもいる。
押しよせる思考の波のなかからひとつの考えが浮かび上がってくる。
幼なじみとの再会も手術の成功も、ぼくが今日まで死ぬこともなく、こうして生きてここにいることも――これはすべて奇跡なのかな。だとしたら――。
だとしたら。
今いるこの世界をぼくは手放したくはない。
了
平穏な日々を一日でも早く取り戻せますように。