第六部 記憶
1
バス停で父さんと待ち合わせをした。
こんなふうに二人でどこかに出かけるのは何年ぶりだろう。
「体調はどうだ?」
「うん。変わりないよ」
「そうか」
どうもぼくより、父さんのほうが緊張しているみたいだ。
病院の自動ドアを抜けたあたりで、すっかり忘れていたことを急に思い出す。
『診察の帰りに寄ってくれないかな、連絡先とか交換したいから』
陽菜ちゃんはそう言ってくれたのに、ぼくはそれどころではなかった。
そわそわしながら受付を見るが、彼女の姿はなかった。
「はあ……」
思わずため息をもらすと、父さんが「そんなに心配するな」と声をかけてくれた。
診察の順番を待つあいだ、何気なく父さんに話しかける。
「そういえばさ、陽菜ちゃんって覚えてる」
「陽菜ちゃん?」
「野川陽菜ちゃん。幼稚園で一緒だった」
「……ああ。あのお人形さんみたいに可愛い子」
「そうその子。ここの病院で受付やってるんだ。今はいなかったけどね。この前来たときに声かけられて、びっくりした」
「そうか。美人さんになっただろうな」
「そうだね。けっこう面影が残ってたよ」
「懐かしいな。俺もまだ若かったし」
父さんは幼稚園の行事には欠かさず来てくれたし、ぼくの送り迎えもしてくれた。事によると母さんよりも父さんのほうが幼稚園に来た回数は多いのかもしれない。
「最近ね、アイともたまに会うんだよ」
「アイアイアイ……思い出した。赤居愛一郎だ」
「そう」
「あの子はなあ。ちょっと困った子だった。成長して、今はどうなってる?」
「どうって、普通だけど。普通のイケメン」
「なら、よかったな。どうなるかと思って心配したよ」
「えっ、アイだよ? あの弱虫で泣き虫の」
「そうだよ。あの救急車騒ぎのアイだろう」
「うん」
父さんとの認識はズレていない。
「困った子ってどういうこと? あれ以外にもなにかあったの」
「……そうか。子どもには話してないもんな。あれな、あの救急車。ああいうの、前にいた幼稚園でも同じようなことがあったそうだよ」
「前にも?」
アイは途中から入園してきた。親の都合だったはずだ。
「そう聞いたよ」
「だれから」
「アイママ。気が弱くて友だちがなかなかできなくて、でもかまって欲しいらしくてね。他人の気を引くために危ないことをやったりするって。アイは前にも自分で自分の口にタオルやハンカチを詰めたことがあるって、アイママが困ってた」
それを聞いてはっとなる。なにかがひらめいた気がしたが、それは捕まえる前にすぐに逃げてしまった。
「……知らなかった」
「おまえは子どもだったからな。俺は教えなかったよ」
「でもあのときは、コウガが自分の靴下をアイの口に突っこんだんでしょ」
「おまえは見てたのか?」
「見てない……」
「そうだよな……だれも見ていないんだ。どういう経緯があったのかはわからないが、コウガがそんな乱暴なことをしたのなら、おそらく、アイがコウガを怒らせるようなことをしたんじゃないのかな」
「コウガが怒ってあんなことをしたっていうの」
「そうじゃないのかなってだけだよ。コウガはそんなことするような子じゃないだろ? まあ、本当のところはあの二人にしかわからないけどね」
「コウガの取り巻きは? 近くにいた子たちが見てたんじゃないの」
「ああ。まわりにいた子たちは、コウガが急にアイに馬乗りになったんで、なにやってんだ! って集まってきたって聞いたけど」
そうだ。あのときぼくが実際に見たのはコウガの背中だけだった。
あの映像記憶に勝手にストーリーをつけていたのは紛れもなくこのぼくだ。
背筋がもぞもぞとして落ち着かない。
『その記憶は実際に起こったことだと、事実だと、確信をもって言えるかってことなんだけど。ほら、子どもだったから事実をいいようにねじ曲げて覚えているってことはないのかな』
アイはぼくにそう聞いてきた。なにか思いあたるようなことがあったのだろうか。
「あ、あのさ。ぼくは幼稚園のときは活発な子だったよね?」
疑りだしたらきりがない。ぼくの記憶のどこまでが本当でどこまでがねつ造か。自分で判断をするのは不可能なような気がしてきた。
「うん、そうだったな。あの救急車騒ぎのときもいち早く駆けつけてアイを助けたって、先生が褒めてた」
「じゃあ、みんなに好かれていたかな」
「おまえは幼稚園ではヒーローだったよ。忘れちゃったのか? 人気者だったんだ。無双って名前をつけたかいがあったって、俺は嬉しかった」
ヒーロー。
その部分は間違っていなかった。
ぼくは胸をなでおろす。
「でもあの騒ぎがあって、俺はアイよりもコウガのほうが心配だった」
「コウガが」
「そうだ。コウガママはシングルマザーだったんだよ。アイママはご主人が単身赴任で近くにいなかった。お互い一人で子どもを育てていたから、二人は仲良くしてたんだ」
アイの言ってたことは本当だった。
「あのときも、みんな心のなかじゃアイのほうが悪いんじゃないかって思ってたけど、実際にあんなことをしでかしてしまったのはコウガだ。命にかかわることだから、おふざけでしたじゃすまない。だからコウガは責任を取って幼稚園をやめたんだ」
その辺の記憶はぼくと一致している。
「そしてコウガは小学校に上がる前に引っ越してしまった。どこに行ったかはだれも知らない。アイママにも知らせなかったそうだ。アイママは、アイの悪いクセをわかっていたから、コウガママを責めなかった。でもコウガママはきっと自分を責めたんだろうな。今ごろ、彼はどこでどうしているんだろう。トラウマになってなきゃいいが」
それならヒントはもらってある。
「コウガが今どうしているか、聞けばわかると思うよ」
「えっ、どういうことだ」
「さっきの陽菜ちゃんだよ。このあいだ彼女『そういえば、コウガくんが……』ってなにか言いかけてた。だから知ってると思う。今度会ったら聞いておくよ」
「そうか。じゃあわかったら俺にも教えてくれ」
「うんわかった。それからさ、ちょっと聞きたいんだけど」
ついでだ。聞いてしまおう。
「なんだ」
「母さんのことなんだけど……」
「母さんがどうかしたか」
「うん。幼稚園のママ友はだれだったのかなーって思って」
「ママ友はいなかったよ」
「そうなんだ」
アイから聞いたとおりだ。
「母さんは……こんなこと言っちゃ母さんに悪いが、あれは子どもに愛情を注げるし子育てもできたけど、そのほかのことはあまりできなかった」
「そのほかのことって?」
「うん。いろいろとあるけどな。まあ、つまり、円滑な人間関係とか、コミュニケーション能力っていう部分とかな」
なんだ。
そういうことだったのか。
長年の胸のつかえがすっと取れた気がした。
「そうか。それでか。ぼくもそういうのが苦手なんだよ。母さんと同じだ」
「馬鹿を言うな」
言葉に怒気をはらんでいる。
何気なく放ったぼくの言葉は父さんの気持ちを逆なでしたようだ。
「おまえは普通の子だったぞ。なんの問題もなかった。ずっと見てきた俺が言うんだから間違いはない」
「でも……」
「もしもおまえがそう感じたのなら、俺の知らないどこかで、たとえば学校とかな、そういう外の世界で、なにか原因があってそうなったんだ」
外の世界といわれても、それよりも前にそういうものをすでに持っていることだってあるだろう。世間の親子だって、顔とか性格とか、なんか似通ったところがあるじゃないか。ぼくはただ単に、そういうことを言いたかっただけだ。
でも、そういうぼくの気持ちとすれ違ったまま、父さんは続けた。
「そういうのも全部親のせいにするなよ。いいか。子どもは自我が芽生えた時点で一人の人間になるんだ。たしかに生活環境は影響するかもしれない。でもそういうのは誰一人同じということはないんだ。だから、そこから自分を形成していくことができるのは、あくまでも自分自身なんだ」
父さんは認めたくはないんだ。
自分たちのせいだと思いたくはないんだ。今のぼくを形成したのはあくまでもぼく自身だと。それは親のせいではない――自己責任だと。
ぼくは親になっていないからまだ親の気持ちがわからない。
父さんの言う理屈はわかる気もするが、遺伝子の存在をまるで無視している言い分には納得できない。
だからぼくは返事をしなかった。
2
電子音がして、ぼくの番号がモニターに写し出された。
二人並んでドクターの前に座る。
ぼくと父さんを前にして、ドクターはあらためて詳しい病状を説明してくれた。
手術をして腫瘍を完全に摘出することができれば、完治を目指せるということだった。
「ですから私は外科的手術をお勧めします」
父さんは大きくうなずいてから、口をひらいた。
「わかりました。それでいくつか確認をしたいのですが、まず腫瘍は良性ってことですよね」
「それは、今までの症例ではほとんどの場合が良性でした、ということです。百パーセントではありません。今の段階ではわからない。なので手術で取って病理に出します。そこではじめて良性か悪性かの判断が出ます」
「そうですか。取ったからといって安心はできないわけですね。それから、手術は早いほうがいいのですか」
「そうですね。息子さんの腫瘍がどういうものかわかりませんからね。急に進行して大きくなることもありえます。そうするとリスクも高くなるし、手術が困難になる場合がありますから」
「その手術のリスクというのは」
「まずは出血ですね。術中、術後もその可能性があります。それから脳の腫れ。あとは感染。脳が直接空気に触れますからね、いくら手術室が無菌といっても感染のリスクは避けられません。それと合併症です。合併症として障害が残る可能性もあります」
話を聞いているうちに父さんの顔色が悪くなっていく。おそらくぼくの顔色も。
「……お話を聞いていると、思ったより難しい手術のような気がしますけど」
「リスクのない手術なんてありませんよ。それに手術時間も長い」
「どのくらいかかるんですか」
「最低でも六~七時間。長ければ十時間くらいになりますかね」
「そんなに……」
「あけてみなければどういう状態になっているかわかりませんし、腫瘍は全部取り切りたいですから。なにしろ脳ですからね。術後の障害もどういうふうに出るのかは個人差がありますので、正直なところわかりません」
「その、手術後の障害というのはどんな」
「そうですね。考えられるものはいくつかあります。麻痺などの神経障害。認知活動に支障が出る意識障害とか」
「麻痺はわかりますけど、認知活動って、意識障害ってどういうものなんですか」
「そうですねえ、意識障害と呼ばれるなかに記憶障害と呼ばれるものがあります。認知できない、言葉が出ない、感情がコントロールできない。たとえば記憶に関することで言うと――」
ドクターはメモ用紙にボールペンで書きながら説明を続ける。
記憶には〈エピソード記憶〉〈意味記憶〉〈手続き記憶〉の三つがある。
「エピソード記憶というのは、経験や出来事に関する記憶ですね。ここに支障をきたすと同じことを何度もくり返し喋るようになります。あとは、なにを食べたか忘れたり、食べたことすら忘れてしまう場合もある」
「それは認知症じゃないですか!」
父さんが驚きの声をあげる。
「まあそうですね。症状は同じようなものでしょう。ただ、認知症ではなく、高次脳機能障害になりますが」
「怖くなってきました」
父さんだけじゃない。ぼくもすっかり怯えていた。
「術後に検査もして、きちんとリハビリも行います。最良の方法を考えてケアを進めていきますので」
思っていた以上に深刻な話を聞かされて、ぼくは打ちのめされていた。
どうやら死ぬことはなさそうだけど、術後にぼくがぼく自身でいられるのかは今の段階では不明らしい。
気になったので聞いてみる。
「……あの、記憶障害って、過去の、小さいころの記憶だけじゃなくて、手術後の、たとえば昨日なにをしたかっていうのも、思い出せなくなるってことですか? それからこれからなにをするのかってことも……たとえば、仕事の手順とか日常的な作業手順とか」
「そうですね。日常生活に支障をきたすこともあります」
急にめまいがした。これは症状が出ているわけではなく、ショックのあまりくらくらしただけだ。
「大丈夫か……」
血の気のない顔がぼくを見る。父さんのほうが倒れるんじゃないかと心配になった。
そのあとぼくたちはさらに手術に関する詳しい説明を受けた。
障害が残るかもしれないほどの難しい手術の割に、退院までだいたい十日間と聞いて、その短さにまた驚いた。
「入院って、たったの十日ですか!」
「ええ。手術日の二、三日前に入院してもらいます。順調にいけば手術の一週間後に抜糸をして、それから退院になりますね。まあ、長くても二週間はかからないでしょう」
「そんなもんでいいんですか。あんなに手術時間が長いのに」
「大丈夫ですよ。あとは通院でかまいません」
二人で顔を見合わせる。
ぼくはてっきり何ヶ月か入院するものとばかり思っていた。様子から察するに父さんもそう思っていたに違いない。十日の入院なんて、そんな大した病気ではないような入院日数で終わるなんて、とても信じられなかった。
不安だらけのなかで、そのことだけでもなんとなくほっとした。
手術日を決めて、いくつかの書類を渡され部屋を出る。
父さんはどうかわからないが、ぼくはまだ血が下がったままだ。足元が頼りなく、ふらふらしていた。
ゆっくりと廊下を歩きながら父さんと会話をする。
「入院が短いのは救いだけど、手術は大変そうだよね」
「聞いてて怖くなったよ。まあ手術を受けるおまえのほうが怖いんだろうがな」
「頭を開くんだもん。そりゃあ怖いに決まってるよ。でも、問題はそのあとで……」
「……そうだな。どうなるかはだれにもわからないらしいから、今から気に病んでもしょうがない。もうなるようにしかならない。ごめんな。こんなとき、俺は気の利いたことも言えない……これじゃ慰めにもならないな」
「それはしょうがないよ。ぼくも父さんもこんなのははじめての経験だから」
「そうだな。それから入院費用とかは心配するなよ。俺はそんなことくらいしかできないんだから」
「うん。ありがとう」
素直に礼を言う。
ふと入口に目をやると、受付のカウンターに陽菜ちゃんがいるのが見えた。
「あっ、陽菜ちゃんだ」
「どこだ」
足を止めて、父さんは身を乗りだすようにして見た。
「ほら、あの一番端っこにいる彼女」
「あー、あれか」
ぼくはカウンターに足早に近寄りながら声をかけた。
「陽菜ちゃん!」
気づいて彼女はカウンターから出てきてくれる。
「このあいだはごめん。実は手術することになっちゃって、それで頭が真っ白になって帰りに寄るのを忘れちゃったんだ」
幼なじみの彼女の前ではすんなりと言い訳ができた。
「気にしないで。それより、手術って」
「脳腫瘍なんだ」
彼女は少し目を見ひらいたが、すぐに思い直したように言った。
「あ、でも、ここの脳外科の先生はけっこう評判がいいんだよ。遠くからわざわざ来てる患者さんもいるくらい。だからきっと大丈夫。私もバックアップするから困ったことがあったら言ってね」
心強い。雲間から忽然と現れた太陽に照らされたように、冷たかった体がほんのりと暖かくなる。
「ありがとう」
ぼくはふり返って父さんを手招きした。
「父さんだよ」
「陽菜ちゃん、お久しぶり。覚えてるかな、おじさんのこと」
「えっ、ムソーパパ?」
「懐かしいなー。そういえば俺、ムソーパパって呼ばれてたっけ」
「うん。だってパパのお迎えって何人もいなかったし。それに無双くんは人気者だったから、ムソーパパも有名人でしたよ。うちの母なんてうらやましがってました。父はお迎えなんて絶対にしない人でしたから」
「陽菜ちゃんも男子人気ナンバーワンだったじゃないか。そのまんま成長してこんなにキレイになっちゃって――で、今は? 結婚したの」
「父さん、セクハラ!」
陽菜ちゃんが笑う。
「まだ独身です。今は仕事だけで十分なんで」
「寂しいなあ、仕事だけだなんて」
「ちゃんと趣味は持ってますよ。楽しく生活しています」
「まあ、健康で普通に暮らしていけるなら、それだけで幸せな時代なのかもなあ」
目を細めてしみじみと言う。孫の成長を見守るおじいさんみたいだ。
「あっそうだ。聞こうと思ってたんだ。このあいだ、コウガのことなにか言おうとしてなかった?」
「ああ、うん。大学でね、一緒だったの、彼と。同じ大学に通ってたんだよ」
父さんと顔を見合わす。
「コウガって、行方不明だったよね。偶然に会ったってこと?」
「そうだね」
「今、コウガはどこにいるの。なにやってるの」
「医薬品業界に行ったよ。たぶんずっと同じ会社にいるんじゃないのかな。ここ何年かは連絡取ってないんだけど」
「へえ、ちょっと意外だったけど。でもよかったよ、ちゃんと立派に成長してくれて」
父さんがほっとしたようにうなずいた。
「父さんが心配してたんだよ、コウガのこと。ぼくはアイと会うようになってから思い出したんだけど」
「アイくんね」
思いがけず陽菜ちゃんの顔が曇る。
「……彼は、大丈夫なのかな」
「なにが」
「病気だって聞いたけど」
「アイが? どこも悪そうには見えなかったけど……」
「アメリカから帰ってきたんだよね?」
「そうみたいだね」
逆にぼくが励まされてるくらいだから、病気だとしてもそんなに重くはないだろう。
「……なら、大丈夫なんだね、きっと」
なにかを吹っ切るように微笑む。
「今度会ったら聞いてみるよ」
「うん。ねえ、覚えてるかな。幼稚園のとき、みんな無双くんが大好きだったの。みんな無双くんみたいになりたいって思ってたんだよ」
「はは……」
ぼくは力なく笑う。
「アイくんを助けたことがあるでしょう。あれが忘れられなくて……。私とコウガくんは無双くんに憧れて、それで人を助ける仕事がしたいって思ったんだよ。大学で会ったときに、二人でそんな話をしたんだ。だから、だからさ、病気なんて吹っ飛ばして元気になろう! 退院したらみんなでお祝いをしようよ!」
一生懸命励ましてくれる気持ちが伝わってくる。鼓動が早くなる。不安や緊張のせいではない。他人が自分のためになにかを言ってくれるのはこんなにも嬉しいことなんだと、ぼくはかみしめた。
胸が熱くなる。涙が出そうだ。
「ありがとう。早く良くなるように頑張るから」
「うん。じゃあまたね。お大事に。ムソーパパもまた。失礼します」
彼女は手をふって、受付カウンターに戻った。
「いい子に育った」
父さんの笑顔は久しぶりだ。
「そうだね。昔のまんまだ」
アイにしても陽菜ちゃんにしても、どうして人の心にすっと入る言葉が言えるのだろう。他人とかかわるのを避けて、コミュニケーション能力を磨いてこなかったぼくには到底真似できない。
それにしても引っかかることが一つ。
アイの病気とはいったいどういうことだろう。
一緒にいてもちっとも気づかなかった。ぼくに隠しているということか? だとしたら、陽菜ちゃんに聞いたから、と本人に聞くのはまずいかもしれない。ぼくは病院で陽菜ちゃんに会ったことを話していない。ただ言い忘れていただけだったが、今さら話して変に勘ぐられるのはいやだった。
3
入院をあさってに控えた日の夜、アイから電話がかかってきた。
なんだかんだ忙しくて、最近は会っていない。手術日と、入院は十日程度ということだけを簡単に伝えてあるだけだ。
余計なことは知らせないように気をつけた。これ以上ぼくのことで煩わせるのはやっぱり心苦しい。
電話に出る。
『はーい、ごぶさたです』
数秒の妙な空白。返事がない。なにか変だ。
『もしもし?』
『……あの、ごめんなさい』
聞き覚えのない女性の声がする。
さっと緊張した。
『えっと……』
『……環です』
小さくて沈んだ声が聞こえた。
なんだ環さんか、と肩の力が抜ける。
『むっちゃんですか?』
『はい、そうです。お久しぶりです環さん。あれ? でも、なんでアイの携帯?』
『事故で……怪我をしたの』
ジコ? ケガ?
『大丈夫ですか!』
『私は平気。でも……』
『すいません! どこの病院ですか!』
取る物もとりあえず駆けつけた。
廊下で座っている環さんを見つけ、走り寄る。
「環さん!」
「むっちゃん! 来てくれてありがとう。なんか私、混乱しちゃって……。あの子の携帯からつい連絡をしちゃったの。ごめんなさい」
頬にガーゼを貼った環さんが痛々しかった。
「謝らないでください。環さんも怪我してるじゃないですか。大丈夫なんですか」
黙ってうなずく。
「で、あいつは」
「……今、集中治療室にいるの」
「なにがあったんですか」
環さんは疲れた顔で、それでもぼくと話すときは気丈にふるまっていた。
「……変な車にあおられて、それが強引に前に割りこんできて、急ブレーキかけられてぶつかりそうになって……思わずハンドルをね、切っちゃったの。バカだよね、私。それで道をそれて、電柱に激突したの。自損事故よ。通行人とかいなくてだれも巻きこまなかったのが不幸中の幸い。でも、運転してた私は無事だったけど……」
ああ最近よく聞く話だ。
警察によると、ドライブレコーダーで録画していたので、あおったやつはすぐに捕まるだろうということだった。
「来てくれてありがとう。だいぶ落ち着いた。一人でいると不安だったから連絡しちゃったんだ。私のわがままで呼び出したりしてごめんなさい」
環さんは涙を拭いて無理やり笑顔を作る。
「ちっともかまいませんよ」
オルゴールのメロディーが流れはじめた。
もう面会時間が終わる時刻だった。
「一人じゃ大変でしょうから、このままぼくも付き添いましょうか」
「いいえ、大丈夫。むっちゃんも手術を控えてるんでしょう。少しだけ聞いています」
「そうですか」
環さんにはぼくのことを話しているのか。
だったらぼくも彼のプライベートに少しだけ踏みこんでもいいよね。
「あの、こんなときになんですが、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
「ええ」
「環さんとあいつとの関係を知りたいんですけど」
「関係? 従弟だけど」
そうか。従弟か。納得だ。
「えーと、従弟でも結婚はできますよね」
環さんはきょとんとした。そしてわずかに笑みを浮かべる。
「やめてよ。お互いに恋愛感情なんてないから。だって家族だもん。姉と弟の関係よ」
「家族? 姉弟以外のなにものでもないと」
「そうよ。……そっか、むっちゃんには話してないんだね。あの子の母親は、あの子が中学のときに病気で亡くなったの。母親の姉が私の母だから、あの子はうちに引き取られた。それからずっと、あの子は私の大切な弟なのよ」
「そうだったんですか」
やっぱり指輪の紛失は嘘だった。なにか変だと思った。あれはわざとだったんだ。わざと指輪をなくしたフリをしてぼくに探させた。ぼくの能力を試すために。
「ねえ、むっちゃん。お願いだから、今のあの子をちゃんと見てあげて……」
そんなこと。
「あたりまえですよ! 大事な友人です。ぼくが、どれだけ助けてもらったか」
「ありがとう」
環さんを一人残していくのは心苦しい。だけどぼくがいるせいで気を使わせて、かえって負担をかけてしまうかもしれない。
「……じゃあ今日はこれで帰ります。明日また来ますね」
「うん」
「環さんもお大事に。なにかあったら連絡ください。すぐに来ますから」
「来てくれてありがとう」
環さんの寂しそうな笑顔に見送られる。
それから家に帰り、ぼくはこれまでのことを思い出しながら考えた。
一晩中、自分自身の納得がいくまで、考え抜いた。
どうするべきか、ではなく、〈自分がどうしたいのか〉を。
次の日、環さんはやつれていたが表情は明るかった。
「むっちゃん! さっき一般病棟に移れたの。これで意識が戻ればもう大丈夫だって!」
「よかったですね」
案内されて病室に入る。
「個室しか空いていなかったのよ」
まぶしい日差しが室内を健康的な明るさにしている。不吉な影などこれっぽっちも見あたらない。
彼は点滴につながれたまま眠っていた。
近づいて顔を覗きこむ。
息も表情も穏やかだったので安心した。
ここが病院でなければ、のん気に昼寝をしているようにも見える。
医者も意識は戻ると言っているのだから、あとは自然に目覚めるのを待つだけでいいはずだ。
「うん。もう大丈夫そうだ」
「でしょう」
「じゃあ、環さんは休んでください。ぼくがここにいますから」
「えっ、でも……」
「寝てないでしょう。いったん家に帰ってゆっくりしてください。倒れちゃいますよ。先は長いんですから」
「……そう、ね。じゃあお言葉に甘えて、ちょっとだけ家に帰らせてもらおうかな」
「そうしてください。今日は一日、ぼくが付き添っていますから」
「そんな、ずっとなんて悪いわ」
「悪くないですよ。えーと、ぼくが手術するって知ってますよね」
「うん」
「実は明日から入院なんです」
「やだ! そんな大事なときに……ごめんなさい。考えが足らなかったわ」
ぼくは静かに首をふる。
「だからです。ぼくはもうここに来たくても当分来られませんから。せめて今日一日くらいは側についていてやりたいんです」
「……そういうことなら。じゃあお願いしてもいいかしら」
「もちろん」
「ありがとう。むっちゃん」
環さんが帰って病室に二人きりになると、ぼくはコップに水を入れてベッドサイドのテーブルに置いた。
イスを持ってきてベッドの横に座る。
手首のリストバンドと点滴の容器を見た。病院では患者を間違えないように名前入りのリストバンドを巻き、使用する点滴の容器にも患者の名前を記入する。
もう一度、リストバンドを見る。
相沢。
赤居ではない。
違和感はあった。ずっと。
ぼくは手にした薬を口に入れ、水で流しこんだ。
そして彼の手を握る。
昨日の夜は一睡もしていない。目を閉じるとすぐに意識がもっていかれた。
4
気づくといつもの暗い場所にいた。
ぼくは無数のドアのあいだを歩き回った。探しているのは鍵のかかっているドア。一つずつあけて確認はするが、なかには決して入らない。
あいたドアを避けてどんどん奥へと進んでいく。
やがて、古い木でできた小さな黒いドアを見つけた。ドアノブに手をかけるが、押しても引いてもひらかない。
ノックをする。
「ぼくだよ。無双だけど、ちょっとあけてくれないかな」
声をかけても返事はない。
なんとなくこのドアの向こうで彼が息をひそめて待っているような気がした。あくまでも勘だけど。
「話があるんだ」
しつこくノックをくり返す。
ぼくがやりたいことはただ一つ。イチかバチか試してみたい。たぶんこれが最後になると思うから。
「覚えてるかな。ぼくは無双だけど」
微かな気配が外に伝わってきた。
いる。
そう確信した。でも彼はぼくに会うのをためらっているのかもしれない。
「ぼくは謝りたいんだ。ぼくはきみのことを誤解してたんだよ。ごめんね。だから大人になってこうしてまた出会えて、話して、一緒に時間を過ごして、なんでもっと昔から仲良くしなかったんだろうって後悔した」
ドアの向こうでかちりと音がする。
鍵のあいた音。
でもぼくはドアノブに手を触れなかった。あくまでも彼の意思であけてもらいたい。
「きみに渡したいものがあるんだ。ちょっとだけ出てきてくれないかな」
しばらく待っていると、きしむ音がしてドアが薄くひらいた。
どうやら外の様子をうかがっているようだ。
「ぼくはなかには入れないんだ。きみが外に出てきてくれないかな」
彼の、鍵をかけてある記憶を勝手に見てしまうのは気がひける。だからなかには入らない。
ドアのすきまが徐々に大きくなっていく。
「顔を見せてほしいな」
小さな男の子が顔をのぞかせる。
大きな目で、不思議そうにぼくを見上げてくる。
よかった。これが彼の自我かなんなのかはよくわからないけれど、とにかく話は通じるみたいだ。
ドアが大きく開け放たれる。
男の子が立っていた。
ぼくは小さな彼を体ごと持ち上げて、ドアの外に出した。
「やあ、コウガ。会いたかったよ」
彼はずっとぼくから目をそらさなかった。
「きみに渡したいものがあるんだ」
「……なに?」
驚いた。会話ができるのか。
「魔法の鍵」
「それって、なに?」
小さなコウガは懐かしい声でぼくにそう聞いてくる。
「どんなドアでもあけることができる鍵だよ」
「ふーん」
興味なさそうな表情になる。
「とりあえず、一緒に来て」
ぼくはコウガの手を引いて歩き出す。
ぼく本人の意識と一緒なら、二人でぼくの記憶がしまってある場所にたどり着けるのではないか。
そんなこと、試したことなんてないから失敗するかもしれない。だけどやってみる価値はある。
小さいコウガは大人しくぼくに手を引かれて歩いた。
ぼくの記憶ぼくの記憶ぼくの記憶――。
呪文のように心のなかで唱えながら、ぼくは暗闇のなかをコウガと歩いた。どこをどう歩いたのかはまったくわからない。時間の感覚もなくしていた。
気づいたら、暗闇に小さなコウガが一人でぽつんと立っていた。
コウガは無数のドアに囲まれている。
ぼくはそんな彼を上のほうから俯瞰していた。
ぼくの体はどこにも見当たらない。でもこの空間にはぼくの自我が充満している。
もしかして成功したかな。
「コウガ、聞こえる?」
「うん」
コウガがあたりを見まわしている。
コウガの目の前に一本の古ぼけた鍵を落とす。
この空間ではぼくがイメージしたものはなんでも具現化できるみたいだ。
「その鍵をコウガにあげる」
「どうして?」
「ぼくはもうここへは来られないと思うから」
本当はもっと自分の言葉で話したかった。現実の世界で喋りたいことも聞きたいこともたくさんあった。でももう、それができるかどうかはわからない。
ぼくはたぶん死なないけれど、代わりになにかを失うだろう。
「明日の手術が終わったとき、ぼくはぼくのままでいられるかどうかわからないんだ。今まで見てきたことも体験したことも、コウガのことすら覚えてないかもしれない」
コウガはぼくの能力を試した。
なんのために?
普通に考えれば、自分の記憶を見てもらうために、だ。
『その記憶は実際に起こったことだと、事実だと、確信をもって言えるか』
事実、というのはあの出来事のことか?
彼は自分の記憶に確信が持てないのだ。それならぼくの能力で彼の記憶を見れば、コウガの真実を知ることができる。
でもこれはぼくの憶測にすぎない。彼がなんの記憶にこだわっているのかは不明だ。
もっとちゃんと話を聞いていればよかった。後悔しても、遅い。ぼくはもう彼の記憶を見ることはないだろう。
じゃあ、どうすればいい? ぼくはどうしたいんだ?
ぼくは――。
「ぼくの記憶をコウガにあげる。大したもんじゃないけど、コウガへの餞別」
コウガには迷惑な話かもしれない。
でも、もし彼が、幼稚園のころの知りたいと思っている記憶があるのなら。そしてその記憶をぼくが持っているのだとしたら――コウガが自分で確かめればいい。
ぼくの記憶を見たところでコウガの役に立つとは限らない。
だけど今のぼくにはこんなことしかできない。残念ながらぼくにはもう時間がないんだ。
「コウガがどうしてアイのふりしてぼくのところへ来たのかはわからないけど、でもぼくはコウガと会えて嬉しかったよ。また、会えるといいな。コウガのことを忘れたくはないなあ……」
ぼくが口をつぐむと、コウガは足元の鍵を拾い上げた。
「むっちゃん。ありがとう」
コウガの声が頭のなかに響いた。
ぼくの記憶はここで終わる。
俺のなかの〈ぼくの記憶〉はここで終わる。
ゆっくりと目をひらいたら、環さんの泣き顔が飛びこんできた。
「よかった! 気がついた! ごめんね、ごめんなさい! 私のせいでこんなことに!」
そうか。
俺はずっと眠っていた。
事故のことも思い出した。
「……大丈夫だよ。頑丈にできてるから」
「こーちゃん、本当にごめんなさい……」そう言って、泣き崩れる。
脳裏に母さんの姿が浮かんだ。
胸が重苦しくなる。泣きたいのはこっちだ。
どうして俺はいつも大事な人を泣かせてしまうんだろう。なんでうまく立ち回れないんだ。本当にこんな自分がいやになる。殴りつけてやりたい。
「……環さんのせいじゃないでしょ。それに俺も無事だったんだから、もう泣かないで。自分を責めたりしないでよ」
それでも涙はなかなか止まらないようだった。
点滴をしていない右手を、彼が握っていてくれた手を見る。
むっちゃんならきっと、大切な人を泣かせたりはしないんだろうな。
そう思ったら自分がますます惨めになった。
俺はむっちゃんがうらやましくて仕方がない。俺にできないことを彼は軽々とやってのけるから。
「……ねえ環さん、むっちゃんは」
「昨日入院したと思う。むっちゃんね、一昨日はずっと付き添ってくれてたんだよ」
「……うん。知ってる」
むっちゃんが鍵をくれたから、俺はいい気になって記憶を見てきた。時間の許すかぎりドアを開けてなかを覗いた。
自分がこんなに浅ましい人間だとは思わなかった。それでも他人の秘密を見るチャンスなんてもうこれきりだと思うと、好奇心を止められなかった。
逆に俺の記憶をむっちゃんに見られたらと思うと、ぞっとする。俺はすべての記憶を手放しで他人に差し出すことなんてできない。知られたくない過去ばかりだ。特にむっちゃんには……。
むっちゃんだってそうだろう。
冷静に考えればわかることだ。人に知られたくないことの一つや二つは絶対にあるはずだ。でも知られるリスクより、俺の知りたい情報を提供するほうを選んだ。どうして? リスクを上回る理由。なにか得をする理由。――俺は、そんなことばかり考えてしまうからダメなのか。
むっちゃんはそんなことを考えもしないのだろう。掛け値なしに純粋な気持ちで、ただの好意で「記憶を見てもいい」と言ってくれたに違いない。その勇気はすごい。彼は本当にあのころからなにも変わってはいないんだ。
彼といると自分が許された気がしていた。こんなどうしようもない俺を、彼はほんの少しも否定しなかった。なんでもないことのように受け入れてくれた。
俺は心の底から嬉しかった。
「……環さん。お願いがあるんだけど」
「なに? 生還したお祝いに、もうなんでも叶えてあげるわよ」
鼻をかみながら、真っ赤になった目で見つめられる。
つられて、つい涙ぐみそうになる。
自分のことをこんなにも心配してくれる家族がいる。それがいつも心を暖かくしてくれる。だから俺はここまで来ることができた。
「……あのさ、俺の代わりにむっちゃんのお見舞いに行ってくれないかな」
「いいけど、どうして」
「昨日入院したってことは、明日が手術なんだ。むっちゃんははっきり言わなかったけど、もしかすると術後に障害が残るかもしれない。最悪の場合、俺や環さんのこともわからなくなるかもしれない」
思いもよらなかったらしく、環さんは絶句した。
「だから、俺の代わりにちょっと様子を見てきてほしいんだ。あと、伝言も頼みたい」
「……なによそれ。手術って、そんな大変なことになってたなんて……なんであんないい子が、どうしてそんな大変な病気に……」
「病気なんて、なりたくてなる人は一人もいないよ」
「……そうだね。ごめんなさい。むっちゃんの様子を見てくるね」
「うん。よろしくお願いします」
ベッドサイドにあったメモ帳を一枚引きちぎる。
伝言を書いて折りたたみ、環さんに渡した。
「じゃあ、行ってくる。帰りにまた寄るから」
それから俺は環さんが戻ってくるのを待っていた。
ベッドの上でうつらうつらしながら、ずっと待っていた。
夕方になっても環さんは病室に現れなかった。
面会時間が終わり、消灯時間になっても環さんは戻ってこなかった。
どうしたんだろう。
なにかあったのかな。
気が気ではなかった。
でも連絡しようにも携帯も近くになかった。どこに置いてあるのかもわからない。点滴につながれているから身動きもとれない。
もどかしかった。
本当は一晩中でも起きて待っていたかったのに、薬のせいであっさりと眠ってしまった。夢も見ない。
気がついたらもう朝だった。
とにかく環さんが来るのをひたすら待つしかなかった。今の状況ではどうすることもできないのだ。
朝食に出た味のない重湯をすすっていると、環さんが飛びこんできた。
「ちょっとー、面会時間も無視ですかー」
さんざん待たされたお返しに悪態をついてやろうとしたら、荒い息の下で環さんが顔をゆがめて叫んだ。
「むっちゃんが!」