第五部 青春
1
午後の授業が終わり、キャンパスを歩いているとざわめきが伝わってきた。
どうやらぼくの向かっている先でなにかが起こっているらしい。その場所を避けるように、みんな遠巻きにして歩いていた。
遠目にはカップルがなにやらもめているように見えた。ヒートアップしたのか、そのうち言い争うような声まで聞こえてくる。
痴話ゲンカかな。迷惑だからほかでやってほしい。
巻きこまれないようにと、ぼくも距離を測りながら歩いていく。
二人から視線をそらすと、談笑しているグループが目にとまった。どこかのサークルなのか、男女が十人ほど集まっている。楽しそうだ。きっと有意義な大学生活を送っているのだろう。うらやむ気持ちはもちろんある。けれどああいう人の輪に入るのにも勇気がいるし、なにより億劫だった。
大学に入ったからといってなにかが変わることはなかったし、人格が変わったように違うノリで過ごすこともできなかった。ぼくは典型的な〈ぼっち〉だった。
リアルがだめならとSNSも試してみたが、どうもしっくりこない。隣で話を聞いてくれるわけでも肩を叩いてくれるわけでもない。しがらみがない分つき合いは気楽だが、ろくに他人と接してこなかったぼくには、文字だけで相手の意思を理解するのは難易度が高かった。上辺だけのつき合いでは、言葉を重ねることもはばかられる。なぜか精神的な負担ばかりが増えていき、やがてぼくは携帯から離れた。デジタルでつながった希薄な友人関係は瞬時に消え、虚しさだけが残った。わかっている、それは自分勝手だと。ぼくが求めていたのは理想。自分にとって都合のいい理想の人間だった。そんなものはいるわけがない。だからぼくは勝手になにかに期待して、勝手に落ちこんだだけだ。
「ちょっとそこの人!」
男性のひときわ大きな声に思考が中断された。
「ねえ! そこの彼!」
ぼくは無視した。こんなところで声をかけられるはずがない。友人なんていないのだから。
「黒縁メガネでグレーのパーカー着てるちょっと頭良さげな男子!」
あたりを見るが指摘されたような容姿の人はいない。さすがに自分のことだと気づいて、ぼくは声の主のほうを見る。
「そう。きみ!」
もめていたカップルの片割れがぼくのところまで走ってきた。
「なにか?」
かなりの長身。栗色がかった髪。目は二重で大きい。彼はぼくとは住む世界が違う、いわゆるイケメンというやつだ。
「たしか、同じ授業を受けてたよね」
「さあ……」
まったく覚えていない。友人なんて作るつもりもないし、過去の経験から彼のようなタイプとは話したいとも思わなかった。
「名前なんだっけ?」
聞かれたので一応は答える。
「……国広ですけど」
「そうだった。で、俺は村田っていうんだけど」
ぼくのことなんか絶対に知らないはずなのに、ずいぶんと調子がいい。
「国広くん。きみ、これから予定なんてないよね?」
卒業するまでの学費は出してくれるそうなので、奨学金という名の学生ローンを抱えないだけでも親には感謝しているが、一人暮らしをはじめたぼくは生活費を捻出しなければならず、当然のようにバイトをしている。
「えーっと、今日はこれからバイ……」
「オッケー! わかった!」
いきなりぼくの肩に手をまわして、耳元で囁く。
「いいバイトがあるんだ」
「いえ、けっこうです」
きっぱりと断る。
サッと目の前に一万円札が出現し、ひらひらと踊っていた。一瞬、ぼくは万札に目が釘付けになった。
彼はそれを見逃さない。
「じゃ決まり! 二、三時間でかまわないんだ」
「えっ、いやですよ」
「お金、欲しいんでしょ」
万札が泳いでいる。
「それは……」
「大丈夫。危ない仕事じゃないよ。それは絶対に保証するからさ」
それだけ言うといやがるぼくを強引に、言い争っていた彼女の前に引っぱっていった。
彼女は怪訝そうにぼくたちを見比べている。
「これ、国広くん。俺の代わりね」
「はあ?」
ぼくと彼女の驚きが重なる。
「ちょっと清春!」
「彼女は寺島梨々花さん」
ぼくの肩を後ろから掴んで、ぐっと彼女のほうへと押しだす。
「じゃあそういうことで」
いきなり彼はものすごい勢いで走って逃げた。
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
つかのま走り去る彼の背中を悔しそうに見ていた彼女が、目を細めてぼくを見る。
「なによあれ! もう、どういうことよこれ! ねえちょっと、あなた」
ぼくは彼に押しつけられた一万円札を手にして突っ立っていた。
「……はい」
「あなた本当に清春の友だちなの」
「いえ……」
彼女は「ふん」と鼻を鳴らし、ぼくの手から一万円札をふんだくった。
「あっ……」
「まあいいわ。じゃあ、つき合ってもらうから。ほら! 行くわよ」
彼女はすたすたと歩き出してしまう。
「え、いや、ちょっと」
「なに?」
不機嫌そうな声と表情。ぼくはこんなのの扱いには慣れていない。
「事情がのみこめないんですけど」
「映画よ、映画。清春と約束してたの!」
「はあ……」
「でも清春は逃げた。だから代わりにあなたが一緒に行くのよ」
「はい?」
「彼からお金もらったし、あなたが出す必要はないから」
「でも、ぼくは」
「断れないんだからね!」
強引に押し切られて、ぼくはしぶしぶ彼女のあとについていった。
映画は好きだ。
けれど、映画というのは好みがある。興味がない映画を見続けるにはかなりの努力が必要だ。なにを見るのか知らないが、絶対に趣味が合うとは思えない。
彼女に連れられてきた映画館のポスターの前で、ぼくは絶句してしまった。
「……これを、見るんですか」
「そうよ」
アニメなら大好きだ。B級もホラーも面白いのがたくさんある。SFもアドベンチャーも子ども向け3Dだっていい作品はある。でもこれは、どうだろう。こういうのはきらきらした青春を謳歌しているか、お気に入りの俳優が出ているから見に行く、という人が多数じゃないだろうか。ぼくは今まで完全にスルーしていた。
流行りの男性アイドルを主演に、人気若手俳優ばかりがずらりと出ているファンサービス満載のラブコメだった。せつないラブストーリーは好きだ。でもこれはラブコメだ。どう接していいのかわからない。
ぼう然としているうちに、彼女はチケットを買ってきて、ぼくに手渡してくる。
「ほら、入るわよ」
背中を押されるがまま館内に入り、席に着く。
平日なのに意外にも客席は埋まっている。カップルや男性の姿もちらほらとは見えるが、恐ろしいことに九十パーセント以上が女性だった。
禁断の花園に踏みこんだような気がして、ぼくは身ぶるいをした。
隣の彼女はもうぼくのことなんか目にも入らないようで、買ってきたパンフレットを夢中になって読んでいる。
映画がはじまると、彼女は瞳を輝かせて食い入るようにスクリーンを見つめていた。
だれのことを見ているんだろう?
アイドルや女優でもせいぜいが好きレベルで、ぼくはのめりこむことがない。どうしてもって思い入れることができない。
それは自分のまわりの人や物に対してもそうなのだ。ぼくには絶対に譲れないこだわりというものがない。だから――家庭を壊してでもどうしても幸せを追い求めたいという両親の気持ちがわからない。自分はそういう経験をしたことがなかったから。
でもそれは、人としては寂しいことなんじゃないか。
彼女の横顔を見ながら、夢中になれるものがあるのはある意味幸せなことかもしれないなと、そう思った。
肝心の映画といえば、予想通りストーリーはあるようなないような感じで会話が進んでいく。はじめのうちは戸惑っていたが、やっぱりこんなものなのかと、なんだか気が抜けてしまうと意外に面白くなってきた。ラブコメだけあって随所に笑わせるシーンが満載で、ぼくもほかの観客と一緒になって笑うことができた。
隣を見る。
彼女は笑っていなかった。
先ほどまでとは打って変わった様子でぼんやりとしている。その目にスクリーンを映してはいるが、とても映画に集中しているとは思えない。このぼくでさえ客席になじんでいるのに、笑い声が響く館内でたった一人、彼女だけが場違いだった。
せっかく見にきたのに楽しもうとしないなんてずいぶん変わってる人だな、とぼくは思った。
エンドロールが終わるまで待って、ぼくたちは席を立った。
だれかと行った映画で、感想を言い合わずに別れることは今までなかった。でも彼女はきっとこれ以上ぼくと一緒にいることを望まないだろう。
「じゃあ、ぼくはこれで」
そう言うと彼女が「は?」と返してくる。
「どういうことよ」
顔があきらかに怒っている。
「えーと……」
戸惑った。ぼくはなにか悪いことをしたのか?
「これでって、どういうこと?」
彼女はぼくと映画の感想を言い合いたいのだろうか。いやいや、そんなことはないだろう。
「次は食事」
「いえ、ぼくはいいです」
「いいですってなに? 約束したわよね。あなたは清春の代わりって言ったじゃない」
そんな約束はした覚えがない、という言い分は通りそうもなかった。
仕方なく彼女のあとについていく。
「フレンチかイタリアンって言いたいけど、その恰好じゃこっちが恥ずかしいから」
ため息をついて、彼女はファミレスを選んだ。
テーブルを挟んであらためて彼女を見る。
目元を強調する化粧。赤みの強い口紅。チークも濃いめに入っている。でも化粧などしなくても彼女なら十分に美人だろう。整った目鼻立ちがじっとぼくを見ている。ぼくは見惚れた。素直に綺麗だと思った。
「あのさ、国広くんだっけ?」
「……はい」
「あなた、一人暮らし?」
「まあ、一応」
親との約束どおり、ぼくは先だって二十歳で実家を出た。
「実家はお金持ち?」
「いいえ。この身なりを見ていただければわかるかと……」
「ふーん」
それきり彼女はぼくに興味をなくしたみたいだった。
「……映画、好きな俳優が出ていたんですか?」
無言でいるのもつらくなり、話をふってみた。
「つまんない映画だった。ちっとも楽しくなかった」
そういう割には最初のうちはやけに真剣に見ていなかったか。
「ストーリーはとんでもなかったけど、ぼくは思ってたより楽しめた」
彼女は頬杖をつく。
「つまんなかった。清春のせいだから」
なんだそういうことか。
つまり、ぼくとではなにも楽しめないということを言いたいわけだ。彼女が途中でぼんやりしてたのも、村田くんのことでも考えていたのかもしれない。
それきり、向かい合ったまま黙って食事を進めた。
彼女は携帯なども取りださずに、黙々と料理を口に運んでいた。ぼくも見習って、彼女に話しかけることもせず食事に集中した。
食べ終わると彼女は「まあまあね」と言って、すでに食べ終えていたぼくを見た。
「行きましょうか」と、席を立つ。
お会計をすませると、彼女は「じゃあ」と言ってあっさり帰っていった。
2
「昨日はどうだった」
隣の席に村田くんがくる。
「どうもこうも。あ、でも映画と食事ありがとうございました」
お礼を言うと村田くんは笑った。
「きみ、面白いね」
こうしてみると、彼と彼女はとてもお似合いのように思えるが。
「あ、あー彼女ね」
ぼくの視線になにか察したのか、聞いてもいないのに喋りはじめる。
「梨々花とはほかの大学の合コンで知り合ってさ、見かけがよかったからちょっと誘ってみただけなんだよね。今度食事でもーって。それから二、三回ご飯して、やっぱ俺とは合わないなって思ったから、それ以降は約束なんてしてないよ。嘘じゃないから」
「はっきり言ったほうがいいんじゃないですか」
「言ってるよ。それで昨日のあの状態。カンベンしてほしい。どう思う?」
「どうって言われても……」
「まっ、とにかく助かったよ。ありがとう」
ぼくの肩を叩いて去っていく。
後ろ姿もかっこいい。同じ人種とは思えない。顔の大きさ、パーツの配置具合も全然違う。最大の違いは足の長さだ。彼がバレエダンサーの白タイツを履いたら、ちゃんと王子様に見えるに違いない。
その日の帰り道。
校門を出たところで後ろからいきなり腕をつかまれた。
ふり向くと顔をこわばらせた村田くんがいた。その後ろには息を切らした彼女が見える。
「悪い! これ!」
ぼくに一万円を握らせて彼は全速力で走っていく。
まったくもって不釣り合いな二人がその場に取り残された。
「なんでまたあなたなのよ!」
こっちのセリフだ。
ため息をついて、一万円を彼女に差し出した。
「どうぞ。ぼくは帰りますから」
「だめ!」
「一人で好きなところに行ってください」
「いやよ! 一人なんて!」
「ぼくといてもつまらないでしょう」
「だめ! 帰ってはだめ! つき合いなさい!」
なぜか引き止められる。
ぼくは首をふって拒否をする。
「清春が帰っちゃったんだからしょうがないじゃない。約束を守らないなんてゴキブリ以下よ!」
「ぼくは約束した覚えは」
「だから、あなたが代わりなんでしょ! そのお金、あなたが受け取ったんだから、ちゃんと責任取りなさいよ!」
こんなにも一万円札を恨めしく思ったのは生まれてはじめてだった。
「じゃあ、映画ですか」
「映画はいや」
「……ぼくは気の利いた場所なんて知らないですから」
「わかった。じゃ、ボウリングにしよう」
有無を言わせず引っぱっていかれたボウリング場で、でもワンゲームを終えるころにはどういうわけか彼女の機嫌は直っていた。
「そういえばさ、いいバイトがあるんだけど、特別に紹介してあげようか」
「いりません!」
即、断る。
「失礼ね。話だけでも聞いたら?」
「必要ないです」
大人しくて優柔不断そうに見えるのか、ぼくにはこの手の勧誘がけっこう多くて本当に困っている。
「ネットで商品を買ってもらって、それを売るだけ。絶対儲かるって。簡単で割のいいバイトだよ」
「だったら寺島さんがやればいいじゃないですか」
ぼくがそう言うと彼女は黙った。
簡単で割のいいバイト。そのノウハウを取得するのに三十万――つい最近も同じような話をどこかでだれかに聞かされたばっかりだ。
「そろそろ帰ります」
「待って! ごめんなさい。気分悪くしたなら謝るから。帰らないでよ」
なんなんだろう、彼女は。どうもよくわからない。それとも女性というのはみんなこんな感じなんだろうか。
幼少時にモテ期が終わり老後のような青春を送っているぼくには到底理解できなかった。
それにしても疲れる。こんなに疲れるなら、とんでもないミラクルで彼女ができたとしても、さぞかし大変な思いをすることになるだろう。
深くため息をつく。
それからもうワンゲームして、またファミレスに寄り、会話も弾まないまま食事をして彼女と別れた。
遊んだうえにご飯代が浮くのは嬉しいが、その分精神的疲労と肩凝りが激しい。
もういやだ。もし次になにかあったとしても、きっぱりと断ろう。
ぼくはそう心に誓った。
それから何事もなく一週間が過ぎた。
「国広くん」
読んでいた本から顔を上げると村田くんが立っていた。
胸のあたりに一万円札を握りしめている。
「もういやですよ」
それを聞いて泣きそうになる。
「そんなこと言わないで」
「毎回奢ってもらうわけにはいかないし」
「お金なんていいんだよ。親からいくらでももらえるから」
なーんだ。イケメンの上にブルジョアかよ。
ちょっと幻滅してしまった。
「そろそろちゃんと話しをしたほうがいいと思いますよ。いつまでもこんなこと続けてても」
「じゃあ一緒に来てくれる?」
「は? なんでぼくが」
お坊ちゃまは甘えん坊ですか、と突っこみたい。
「お願いだよ」
「いやですって」
「彼女、校門の前で張ってるんだ」
「これは村田くんの問題だから」
「冷たいなあ」
彼はイケメンだけど、彼女だってなかなかのもんだ。
デートくらいしてあげればいいのに――と、他人事ゆえに軽く思ってしまう。
ため息をつきながら彼に聞く。
「……この先、村田くんが寺島さんのことを好きになる、なんてことは」
「ありえない。世界中にたった二人だけ取り残されたとしても、ない」
その気持ちはきっと彼女にも伝わっているはずだ。こんなにいやがられているのにどうして彼に執着するんだろう。ぼくにはわからないが、そんなに彼のことが好きなんだろうか。あるいは……。
「……なにか、事情でもあるのかな」
「事情?」
「村田くんにつきまとう理由ですよ。村田くんのことを好きっていう以外に、なにか思いあたることはありませんか?」
「さあねえ……その、好きっていうのもどうかな? 特に俺のことを好きってわけでもなさそうだし」
女性とお友だちになる機会が極端に少ないぼくには、男女の機微なんてわかるはずもない。
「そういうのってわかるもんですか」
「そりゃあわかるって。あれは恋してる目じゃないよ。だって、恋する瞳ってハート型になっちゃうんだから」
ぼくの冷ややかな視線に気づいた村田くんは慌てる。
「ほんとだって。ハートは大げさかもしれないけど、ぽわーんって潤んだような目になるんだよ。恋ってそういうもんだろ。いつもとは違う感じに見えるんだから絶対わかるって。彼女の目は恋なんかしてない。あれは獲物を狙う肉食動物の目だ」
言っていることはちょっとアレだが、恋愛経験が豊富そうな彼が言うのだからそこらへんは間違ってはいないだろう。
「……そうですか」
そういえば、彼女は約束という言葉をよく使う。約束に妙なこだわりがあるのかもしれない。
「アドバイス的なことは言えませんけど……」
恋愛経験のないぼくなんかに助言されるのは不本意だろうけど、一応言っておこう。
「……やっぱり、ちゃんと話をしてみたほうがいいと思いますよ」
「話すっていってもさあ、ずっと平行線なんだよ」
「たとえばですけど、最後に一回だけ彼女の行きたいところに連れていって、それで二人の関係を終わりにする。今後はもう二度と会わない。彼女にそう約束をさせるんです」
「関係もなにも、俺たちつき合ってないし。まいったなー」
ぐったりして肩を落とす。
「でも彼女のほうはどう思ってるかわからないでしょう」
「まあそうだけど、でもそんな話を聞くとは思えないんだけど……」
「たぶん約束さえ取り付ければ、なんとかなるかも」
なんたって、約束を守らないのはゴキ以下だそうだから。
「たぶん、彼女は約束をしたことは守る人です。もう会わないって約束をしたなら、きっともうここへは来ないと思います……たぶん」
「たぶんたぶんって言われても」
「逃げてるだけじゃ、そのうち村田くんの評判が落ちますよ。知らない人が見たら全面的に村田くんが悪いように見える。だってずっと彼女から逃げ回っているんだから」
その言葉はけっこう効いたようだ。
「……そうか。それは困るよな。きみの言うとおりだ。そうだよね。うん、わかった。ちょっと行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
彼は勇ましい足取りで教室を出ていった。
「……王子様はお姫様にお断りにいきましたとさ」
その後、ぼくが校門を通ったときには二人の姿はなかった。
めでたしめでたしになりますように、とぼくは彼の成功を祈った。
3
「国広くーん」
翌日、笑顔の村田くんが手をふって近づいてきた。どうやらうまくいったらしい。
「ちゃんと話してきたよ。もうこれできみに迷惑をかけることもない」
「よかったですね」
「きみのおかげだよ。だけどさ、彼女みたいのははじめてだ。驚いたよ。ねえ、俺たち二人で最後にどこに行ったと思う?」
にやりと、いやらしい笑いを顔に貼りつかせて彼が聞いてくる。
「……そんなの、知りませんよ」
「エッチなことを想像したならきみは健全な男の子。といっても、この展開はさすがの俺も予想なんてできなかったけどね。俺たち二人が直行したのは――」
十分に気をもたせてから言う。
「ATM」
「えっ、どういうこと?」
「きみが言ったように彼女に約束をさせたんだ。それで、最後にどこに行きたいか聞いたら、彼女は一枚の紙を取りだして『ATM』と言った。ほら、これ」
彼がぼくに見せてくれた紙には、四角張った文字で短い文章が書かれていた。
「念書って……」
「たぶん、彼女が俺につきまとった目的は最初からこっち。もっとディープな関係になっていたら、こんなもんじゃすまなかっただろうな。ヤバイって。こわーいお兄さんが後ろから出てきたりするかもしれない。だから十万くらいの手切れ金で事なきを得てよかったよ。きみが後押ししてくれたおかげだな。ほんと感謝する。ありがとう」
「手切れ金……」
「そう。きみも気をつけなよ。彼女だってこんなことするのははじめてじゃないだろうね。あらかじめ念書なんて用意してるんだもんな。きみはいいやつだけど、女性に慣れてなさそうだから、用心したほうがいい。もしなにかあったら、今度は俺が力になるから。じゃあね」
寺島梨々花。二回しか会っていないし変わっている人だとは思ったが、そこまでのことをするような人には見えなかった。
ぼくは見る目がないんだろうか。
その日のバイトを終えて帰宅すると、借りているワンルームの建物脇に彼女が立っているのが見えた。
ぼくは足を止める。
「なんで……」
どうして彼女がここにいるのだろう。もう二度と会わないと思ったのに。
ぼくに気づいて走り寄ってくる。
「遅かったね。待ちくたびれた」
「どうしてここにいるの?」
「ちょっと前にきみのあとつけて、ここを突き止めた。いっとくけど私、ストーカーじゃないからね」
ストーカーじゃないって? 仮面で顔隠して赤いピンヒールでロウソクと鞭を手に、私は女王様じゃない、って主張してるようなもんだろう。
「なにか、用ですか」
用心深く聞く。
「用がなきゃ来ちゃいけないの」
「あたりまえでしょ。あなたとは友だちでもなんでもないんですから」
「ずいぶん冷たいじゃない」
当然だ。念書まで作って村田くんからお金をふんだくった女だ。警戒しないわけがないだろう。なにをされるかわかったもんじゃない。かかわりあいになんかなりたくはない。
「帰ってください。ぼくはもうきみたちとは関係ないんだから」
「清春との関係は切れた。でも」
でも、なんだ。その先は聞きたくない。
「あなたとの縁は切れてない」
凛とした目で見つめられ、ぼくはたじろいだ。
「一緒に食事がしたいの。材料買ってきた」
彼女はスーパーの袋を見せる。
「お断りします」
「そんなこと言わないでよ」
「ぼくには断る権利がある」
「わかった。じゃあ、こうしよう。あなたと会うのもこれで最後にする。だから、一緒に食事をしてほしいの」
「約束、しますか」
「約束する」
「……じゃあ外食にしましょう。部屋は掃除してないので」
一瞬、彼女の目が泳いだ。
「でも、ほら、食材買ってきちゃったし」
ぼくの部屋で一緒に食事をすることになにか意味でもあるのだろうか。
そこはかとなく不吉な予感がただよってくる。
「そこらへんに置いておけばいいです。あとで回収しますから。駅の近くのレストランに行きましょう」
「いやよ。私は料理を作りたい気分なの」
睨み合いが続く。
ぼくがこれ以上引かないと悟ったのか、彼女は小さくため息をついた。
「わかったわ。じゃあさっきの約束の内容を訂正させて。いい? あなたと会うのはこれで最後。だから最後に私の手料理を一緒に食べてほしい」
なにがなんでも部屋に上がりたいらしい。未熟なぼくには彼女の思考を読み解くことはできなかった。
「……わかりました。本当にこれで最後ですからね」
「うん。約束は守る」
彼女は軽い足取りでぼくのあとについてくる。
ワンルームは狭くてキッチン周りも充実していない。だからぼくはお湯を沸かすくらいしか使っていなかった。
「自炊はしてないみたいね」
「面倒だから、ほとんど」
「やっぱりそうなんだ。そう思って、調味料とかいろいろ買ってきてよかった。じゃあ、キッチン借りるね」
「どうぞ。あるものなんでも適当に使ってください」
「うん。わかった」
楽しそうに料理をしている彼女を見てて思う。
この人は料理を作ることが好きなんだ。
そこだけは嘘がないような気がする。
彼女のそんな部分だけを知っていたら、ぼくは本気で彼女に恋をしたかもしれない。けれど、彼女の別の一面は大いに問題ありだ。
人はだれでも別人格や独特のクセを持っている。相手の不快な一面に遭遇したとき、それをどこまで許容できるのか、あるいは拒絶するのかを選択をすることになる。それは今後、その人とのつき合い方に大きな影響を及ぼしていく。
もしかしたら彼女は九十九パーセント善人かもしれない。けれど残りの一パーセントが念書を書いてくるような人だったら、ぼくは拒絶してしまうだろう。やっぱり受け入れられない。彼女を好きになることはできない。
もっとも彼女のほうはぼくなんてまったく眼中にないだろうけど。
テーブルに並んだ料理は、普通の家庭で出てくるなんの変哲もない和食だった。
みそ汁、筑前煮、なすの焼き物、箸休めにきゅうりの浅漬け。炊飯器もないと見越してパックのご飯も買ってきたらしい。しかしどうにも最後の晩餐という雰囲気ではなかった。
「ちょっと地味だったかな」
「こういう家庭料理って久々ですから、嬉しいですよ」
家を出てからはじめてだ。というより、ぼくと父さんは和食が好きなのに、なぜか母さんは和食をあまり作らず、ハンバーグやカレーばかりが食卓に出ていたのだ。
「いただきます」
筑前煮に箸を伸ばす。ちょっと味が薄いような気もするが、上品で美味しかった。
「やっぱり味が薄いかな? 食事制限がある家族がいたから、そのせいでどうしても全体的に味が薄くなっちゃうんだよね」
「薄くても美味しいです。いつも家で作ってるんですか?」
「作ってたのは昔の話……。あ、そうだ、ビール飲もうか。買ってきたから」
「いや、アルコールは」
「いいから! 一杯だけつき合いなさい」
たとえ彼女より身長が低くても、どんなに年下に見えようとも、ぼくは一人の若い男性だ。女性と、ましてや彼女と二人きりで飲んで、理性が吹っ飛んで万が一間違いでも起こしたら、そこでぼくの人生は詰む。
「最後だから乾杯しよ!」
彼女がコップに注いだビールでグラスを合わせる。
「ほら、一気に飲んじゃおうよ」
強引に勧められる。
「あー美味しい! もう一杯いこう」
「いや、これ以上は……」
「つきあい悪いわね。そんなんだからダメなのよ。あなた、清春とは友だちじゃないんでしょう。友だち、ちゃんといるの?」
「いないですね」
彼女はふっと笑いながらぼくを見る。
「ねえ、なんで私のことを追い返さなかったの? 追い返そうと思えばできたでしょう。きみは……いい人なんだね」
「は? いい人なわけないでしょう」
「じゃあ訂正する。いい人じゃなくて、バカがつくほどお人好しだね。甘いのよ。きみは人生をナメてる。……ねえ、忠告してあげる。そういうのって絶対に損をするよ。騙されて損ばかりする人生を送ることになるんだよ」
それからも会話をしながらぼくたちは食事を続けた――はずだった。
その後のことは、何一つ覚えていない。
4
気づいたら、ぼくは暗い場所にいた。
しばらくのあいだぼんやりと立っていたが、やがてハッと自我に目覚めた。
無数のドアに囲まれている。どこか懐かしい光景。ここは子どものころによく来ていた場所だ。でも大人になってから来たことは一度もない。
どうやらぼくは、だれかの記憶をしまってある場所に来てしまったらしい。
いったい、だれの記憶だろう。
眠ってしまう前の状況を思い出そうとしたが、どうしてもうまくいかなかった。仕方がないので、とりあえず目の前のドアをあけてなかに入ってみる。
だれかがテーブルに突っ伏している。
手が伸びて肩を揺さぶるが、起きる気配はない。視線が部屋のなかをさまよう。クローゼット。小さな飾り棚。デスク上のパソコン。見覚えのある物ばかりだ。それもそのはず、これはぼくの部屋。そしてそこに突っ伏している人物は――ぼく。
ん。ちょっと待てよ。
ぼくの部屋でぼくが寝ている。そして、ぼく以外のだれかの記憶を、今このぼくが見ている。記憶は、その持ち主本人と触れ合っていないと見ることができない……。つまり、ぼくとだれかはぼくの部屋で体が触れ合った状態で寝ている――ということになる。で、だから、これはいったいどういうことになるんだ?
ぼくの自我はいったんそこで考えることを放棄した。
ぼくから離れた視線がぐるりと部屋を見まわした。立ちあがる。飾り棚を見る。パソコンを見る。飾り棚の引き出しに手を伸ばす。一段ずつあけてなかを確かめる。次にクローゼットに近づく。扉をあける。積んである衣装ケースの引き出しをあける。一つ目――手をなかに入れてなにかを探っているようだ。続いて二つ目、三つ目。なかからなにかを取りだした。出てきたのは通帳。ひらいて残高を見る。五十万円きっかり。もう一度手を入れる。なにもない。四つ目の引き出しをあける。手を入れる。出した手になにかを握っている。印鑑。視線がぶれる。部屋から玄関へ。玄関のドアが外からあけられた。見知らぬ男が立っている。こっちに向かってなにか言っている。三十代くらいか。年季の入った怖い顔だ。ずかずかと部屋に上がりこんでくる。突っ伏しているぼくを上から見おろしている。男がぼくを足蹴にした。ぼくは床にひっくり返る。男がぼくの顔を覗きこんでいる。ぼくは平和そうな顔でのん気に寝こけている。ぼくのバカ! 男がぼくの頭をひっぱたいて起こそうとしている。止めに入る手。ぼくの通帳と印鑑を男の目の前に出す。男が目を細めた。それを引ったくる。男がなにか言う。手が男の背を玄関のほうに押しだした。男が後ろをふり返りながら出ていく。急いで玄関のドアを閉め、鍵をかける。部屋のなかに戻り、しばらくぼくを見おろしている。クローゼットをあけて毛布を出す。ぼくにかける。ぼくに近づくと、手を伸ばしてぼくの眼鏡を外す。ぼくの顔のアップ! 超ドアップ! 超超ドアップ! 暗転――。毛布にもぐりこむ。ぼくと向き合うように一緒に横になる。またもやぼくの顔がクローズアップ! 超超超ドアップ!!
ぼくはドアから転げ出た。
思い出した! 自分がどういう状況に置かれているのか、だいたいのところは理解した。おそらく飲み物に薬でも混ぜたのだろう。
ぼくは強制的に眠らされている!
目の前に違うドアが出現し、扉が大きくひらいた。動揺していたぼくはためらわずになかに飛びこんだ。
色がない世界。
モノクロの記憶だ。こういうのは持ち主の精神状態が作用するのだろうか。白黒で再現される記憶に、暖かいものは一つもなかった。
年配の女性が顔を両手で覆って泣いている。彼女の母親だろうか。目の前には一枚の紙。借用書だ。金額と、その下に書いてある名前が読めた。寺島三智夫。
その設定を見ただけで、ベタなストーリーが見えてくる。
男が紙を手に凄んでいる静止画。一枚ではない。パラパラ漫画のようにめくられるたびに違う男の顔が現れる。これはもうどこぞの手配写真としか思えない。それが終わるとまた母親らしき女性の泣いている姿。その後はそれのくり返しだった。
見ているだけで疲れ果て、足取りも重くぼくはドアから出た。
元の場所に戻る。
薬が切れはじめたのか、やっと自我が薄れてきた。もうすぐ目覚めるサインだ。
ここから出られることにほっとする。
たくさんのドアに囲まれながら、少しだけ冷静さをとり戻したぼくは考える余裕ができた。
事情はどうであれ、彼女のしたことは犯罪だ。
ぼくが目を覚ましたとき、彼女はぼくになにを言うのだろう。どういう言い訳をするのだろうか。そしてぼくは彼女になにを言うのだろう。
理由はどうあれ罪は罪。悪いことは悪い。
そんな正論を唱えたところで彼女にはきっと届かない。
彼女にとってぼくは空気中に漂っているチリも同然。そんなゴミみたいなものがなにを言っても無駄だろうけど、でもきっとぼくは言わずにはいられない。
急に意識が遠のいて目の前が真っ暗になった。
目覚めたとき、ぼくは一人だった。
毛布をはいで上半身を起こし、眼鏡をかける。
テーブルの上はきちんと片付けられていた。
四つ折りにされた紙が一枚置かれている。
『必ず返します。ごめんなさい。』
腹の底から怒りがこみあげてきた。抑えられない。ぼくは自分自身をきつく抱きしめるようにしてキッチンにいき、伏せてあったコップを手に取り、思いきり床に叩きつけた。
「ふざけるな!」
あの五十万円は餞別だった。
家を出るとき、両親からぼく名義で預金された百万円をもらった。ぼくのために両親が貯めてくれたお金だ。念のためぼくは五十万ずつに分けて、違う銀行に預けておいた。もちろん置き場所も変えている。そんな大事なお金を盗んでおいて必ず返すと言われたところでだれが信用するんだ。自分勝手にもほどがある。
ぼくの怒りはおさまらなかった。
警察に行く前にどうしても彼女に一言言ってやりたかった。
ぼくは村田くんに彼女の連絡先を聞いた。
「なんかあったの?」
心配そうな彼に「べつになにも」と言葉を濁した。彼にもだれにも言うつもりはない。
「いつでも相談にのるよ。頼ってくれてかまわないからね」
深く聞かずに村田くんはそう言ってくれた。ぼくはうなずいたが、はなから彼を頼るつもりなどなかった。
ぼくは彼女の大学に行き、彼女の家に行った。どれもこれもすべてがデタラメだった。
現実に彼女がいたという痕跡はどこにもなかった。
ぼくは途方に暮れた。人を一人探し出すことがこんなに難しいとは思わなかった。思いつく手がかりがなにもなくなってしまい、疲れ果て、彼女を探す気力もなくなった。警察に被害届を出すタイミングも逃している。銀行に連絡することすら頭になかった。痛すぎる授業料だと割り切れればよかったが、そう簡単には割り切れない。成績が落ち、バイトにも身が入らない。自分の気の小ささに辟易した。
このままではダメになる。お金を取られた上に精神的ダメージで身を持ち崩すなんて、そんなバカなことだけにはなりたくなかった。
結局ぼくが出したのは、彼女が持っていた微かな善意〈約束は守る〉というのを、けっして信じたわけではないが、それでも待ってみるしかないという消極的な結論だった。