第四部 爆弾
1
とうとう病院に行く日が来てしまった。朝からまったく気分がのらない。せめてもの救いは天気がいいということだけだ。
最寄りの駅から市立病院行のバスに乗りこんだ。終点まで行くので、ぼくは一番後ろの席に座る。バスに乗るのは久しぶりだ。車内には同年代くらいの人、もっといえば六十代以下と思われる人は一人も見当たらない。病院行のバスだからかもしれないが、押し寄せる高齢化社会の波を肌で感じてしまった。
あたりまえだが、終点でバスを降りた人々は全員病院に入っていく。
正面の自動ドアがあくと、〈総合受付〉という文字と矢印が描いてある誘導看板が目についた。そちらに向かったのはぼくを含めて十人ほど。その他大勢の目指すところはどうやら違っているようだ。
〈総合受付〉のカウンターの前に順番に並ぶ。ぼくは最後尾。前に並んだ人たちはみんな紹介状の封筒を出して手に持っていた。ぼくもそれにならう。
ぼくの番がきた。
「おはようございます。紹介状はお持ちですか」
カウンター越しに聞かれたので、返事をしながら封筒を見せる。
「以前にこちらの病院にかかったことはございますか」
「いいえ、はじめてです」
「では、こちらのご記入をお願いします。ご記入が終わりましたら、お隣のカウンターが受付になりますので、紹介状と保険証を一緒に提出してください」
ぼくはうなずいて記入台に行き、渡された問診票に記入をして少し離れたところにあるカウンターに向かった。よく見ると先ほどのカウンターは〈総合受付〉で、こちらは〈受付・再診受付〉となっている。なんだかややこしい。流れ作業的に受付から診察までをスムーズにするためのシステムらしいが、体調が酷く悪いときの頭では理解できないかもしれない。なんでもいいからとにかく早く診てくれ! と叫びだしそうだ。
受付カウンターのなかには三人ほどの女性がいた。ぼくは最初に手の空いた左端の女性に全部まとめて手渡した。
「お願いします」
「はい。お預かりします」
彼女はぼくの保険証を確認する。
「えーっと、国広……」
そこで手を止めて、彼女は真顔でぼくを見た。しかし一瞬後には何事もなかったように、にこやかな顔に戻る。
「国広、無双さんですね。では、診察券をお作りしますので、そちらにおかけになってお待ちください」
「はい」
ぼくは受付前のソファに座り、何気なく彼女を見ていた。
ゲームと麻雀関係のどちらを連想していたのだろう。あるいは単に変な名前だと思っただけか。でもさっきの反応はちょっと違う気がする。
同じような年頃だ。肩につくぐらいの髪を一つに結わいている。薄化粧で、おそらく隠すつもりがない頬のそばかすが彼女にはとてもお似合いで、すごくキュートな印象が残った。
「国広さん。国広無双さん」
五、六分ほどでカウンターから呼ばれた。
「お待たせしました」
人懐っこい笑顔で対応してくれる。
「では保険証をお返しします。本日はもう使いませんので、どうぞ先にしまってください」
「はい」と返事をしながら、ぼくは財布を出して保険証を入れる。
「はい。ではこちらが診察券になります。氏名と生年月日に間違いはございませんか」
「大丈夫です」
「はい、ありがとうございます。再診の場合は、この診察券を機械に入れていただいて受付番号を取ることになります。また、お帰りの清算ですが、お支払いのほうも精算機に診察券を入れていただくようになりますので、紛失にはお気をつけください」
「わかりました」
彼女は持っていたクリアファイルの表にある小さなポケットに診察券を入れて、ぼくに差し出した。クリアファイルにはぼくが持参した紹介状と問診票が入っているようだ。
「ではこのファイルをお持ちいただきまして、診察室のほうに移動していただきます」
それから彼女はレシートのような紙をくれた。大きく番号が印刷されている。
「これは本日の国広さんの診察受付番号になります。診察室の前にあるモニターに番号が表示されますので、そうしましたら、診察室にお入りください」
「はい、わかりました」
「では右手の廊下をお進みください」
「ありがとうございました」
ぼくは言われたとおりに、ファイルと番号の紙を持って歩き出す。
五秒もしないうちに後ろから「あの」とぼくを呼び止める声がした。
先ほどの彼女だ。
「あの……国広さん、ですよね?」
ぼくは首をかしげた。
えーっと、さっき保険証でぼく本人の確認をしたのはきみだよね。と、内心で突っこみを入れる。
彼女はぼくの顔を注視していた。
「国広……無双くんだよね」
〈さん〉から〈くん〉に敬称が変化した。口調も変わっている。
「覚えてないかな? 幼稚園で一緒だった野川陽菜だけど……」
「うそ! 陽菜ちゃん?」
もちろん覚えている。彼女はぼくとアイの初恋の人だ。
「よかった、覚えててくれて。まさか無双くんと会えるとは思わなかったなあ。二十年ぶりくらい?」
彼女は小学校から私立に行ったので、卒園以来一度も会うことはなかった。
「ほんとに、こんなところで会えるなんて」
屈託のない彼女の笑顔が嬉しい反面、ぼくは動揺していた。
なにを話したらいいのか急にわからなくなる。
「陽菜ちゃん、全然変わってないね」
とりあえず思ったことを口にする。
「そうかな」
「うん。明るくていつもニコニコしてた陽菜ちゃんのイメージ。全然変わってないよ」
「そう? 無双くんはちょっと雰囲気が違ったかな。そりゃそうだよね。時間が経ちすぎてるもんね。大人っぽくなって落ち着いたって感じ」
「そう……」
どうしよう。これ以上ぼくは言葉を持たないぞ。
「ごめんね。びっくりして思わず声かけちゃったんだ。元気だった? って聞きたいけど、ここ、病院だしね。病気、大したことがないといいね」
「うん……」
彼女も口をつぐんでしまう。だが、急に思い出したように言葉を出した。
「そうそう……何年か前にアイくんに会ったよ。たしか、無双くんと仲がよかったよね。赤居愛一郎くん。覚えてる?」
「うん。覚えてるよ」
「アメリカに行ったんだってね」
「そうらしいね。このあいだぼくも偶然に会ったんだよ」
「そうなんだ。……そういえば、コウガくんが――」
入口付近のざわめきが伝わってきた。次のバスが到着したらしい。
「あ、ごめん。もう行かなくちゃ」
「うん」
「あの、よかったら診察の帰りに寄ってくれないかな。連絡先とか交換したいから」
「わかった」
「じゃあまたね。お大事に」
小さく手をふって、彼女は小走りに受付カウンターに戻っていった。
ぼくは陽菜ちゃんの後ろ姿を園児のころの彼女と重ねて懐かしむ。
劣化したぼくのことを傷つけるような言葉を彼女は口にしなかった。昔からそういう子だ。優しくて思いやりのある、正真正銘のいい子だった。
ぼくとアイだけじゃない。男子はみんな陽菜ちゃんと結婚すると公言していた。
彼女は結婚してるのかな。
いつもなら何気なく薬指に指輪があるかどうかを見ていただろう。でも今はずっと彼女の顔から目が離せなかった。
ガン見してたぼくを陽菜ちゃんが変に思ってたらどうしよう。
顔が火照っているのが自分でもわかった。
うつむき加減で歩きながら、ぼくは診察室に向かった。
2
モニターは何か所もあり、そこには複数ある診察室の番号と担当医師の氏名、それから現在診察中の番号が出ている。
手にした番号を見る。
ぼくの番まで九人ほど待たなければならない。本を持ってくるのを忘れたぼくは、モニター前の空いているソファに座り、テレビでもないのにモニターをずっと眺めて待っていた。
陽菜ちゃんはなにを言いかけたんだろう。
最近になるまでぼくはコウガのことなんてすっかり忘れていた。小中学校も同じではなかったし、親しくもなかったので思い出すこともなかった。でもアイに出会ってから、彼と親しかったと聞いてから、とても気になりだした。
あれから彼はどうしていたのだろうか。
あのあとコウガは幼稚園に来ることはなかった。怒られて、責められてしまったかもしれない。ぼくたちは本当に小さかったのだ。きっと幼心に深く傷ついたに違いない。ぼくはコウガの存在をまるで無視していた。ぼくが有頂天になっていた時間を、彼はどんな思いで過ごしていたのだろう。
幼稚園に来れなくなったコウガを思うと、今さらながらに胸が痛んだ。
そんなことに考えをめぐらせていたら、いつのまにか時間が経っていたようだ。
電子音がして、モニターにぼくの番号が表示された。強調するためか点滅をくり返している。
立ちあがり、診察室の番号を確かめてからノックをする。
返事は聞こえなかったが、ぼくはドアをあけた。横引きのドアは厚みがあり、声はあまり漏れないようだ。
壁際にあるオフホワイトのデスクにはディスプレイが二つ並んでいた。イスをまわしてドクターがぼくに向き直る。
「お待たせしました。どうぞ、おかけください。国広さんですね。国広、無双さん。ずいぶん強そうな名前ですね」
ドクターはぼくがなにに強そうかは言わなかった。
ちなみにこれはあくまでもぼくの勝手な判断基準だが、この白衣の人は医者というよりドクターという雰囲気を醸し出している。耳鼻科の先生はザ・医者という感じだったが、この五十代くらいの先生はドクターと呼ぶに相応しいように顔つきまでが凛々しい。
「えーと、紹介状によると、めまいが酷いということ、あとは頭痛もあるということですね」
「はい」
無駄話などせず、ドクターはすっと本題に入る。
「手とか体のどこかがしびれるということはないですか」
「特にないです」
「物が二重に見えるとか、歪んだり、見えない部分があるということは」
「視力は落ちましたけど、二重とかはないですね」
「頭が割れそうな頭痛とかは? 吐いてしまうような頭痛」
「頭痛はけっこうありますけど、そこまで酷いっていうのはないです」
「わかりました。では耳の異常はないということなので、ここではそれ以外の検査でめまいの原因を調べていきます。まずは血圧、血液検査、それからCTを撮りましょう。では、お願いします」
「はい。じゃあこちらへどうぞ。ご案内します」
いったん診察室を出て、廊下を歩く。看護師さんに連れられて、検査室で血圧を測り、血液を抜かれた。それからまた場所を移動する。
ここからは別の看護師さんに案内される。
「これからCTの検査になりますので、こちらでお待ちください」
CT室の前にはイスが並んでいた。
「名前が呼ばれたら部屋に入って、先生の指示に従ってください。検査が終わりましたら、最初にいた診察室の近くでお待ちください。モニターに受付番号が表示されますので、そうしたら診察室にお入りください」
言い終わると看護師はぼくを残して戻っていった。
なんか落ち着かない。
病院に来ること自体がはじめてなので、慣れないせいもある。
さしずめぼくは回転寿司のレーンに乗った小皿といったところか。ピックアップはされるものの、またレーンに戻されて、次のピックアップを待ちわびながらひたすらぐるぐる回っている――そんな感じ。自分のペースで物事が運んでいかないのでストレスがたまりそうだ。
「国広さん。国広無双さん」
CT室の扉がひらいて名前を呼ばれた。
「はい」
「なかにお入りください」
立ちあがって部屋に入る。
「じゃ、生年月日をお願いします」
先生がぼくの顔を見ながら質問してくる。
医療機関ではこうやって本人確認をされることをぼくは知らなかった。
もちろん必要だからやっているのだろうが、日常生活ではまずないことだ。番号で呼ばれたり本人確認をするのは、刑務所とか職質みたいだなと思ってしまった。
「ではですね、ここでスリッパに履き替えてください」
靴を脱いで、置いてあるスリッパをつっかけた。
「そうしたら上半身脱いでもらって、そこにある検査着を着てください。ネックレス、ピアス、時計、貴金属類は全部外してくださいねー、検査に影響しますから。あと眼鏡もね。そしたら隣の部屋に行ってください」
ぼくは言われたとおりにする。
「では、この台に横になってくださいね。頭はここに乗せて――はい。体をベルトで固定しますよー。力を抜いてください。大丈夫ですよ。痛くもかゆくもありませんから。頭のほうも固定しますねー。はい、じゃあそのまま動かないで」
先生は急ぎ足でどこかに行ってしまう。
まな板の上のぼく。なんかトホホの気分。不味いので料理するのはあきらめてほしい。
そんなことを思っているうちに検査は終了した。
「はい、お疲れさまでした。今外しますからもう少しそのままでいてください」
バリバリと派手な音をさせてマジックテープのベルトを外していく。
「ゆっくり起き上がってくださいねー。まずはその場で座ってください。どうですか。めまいとかふらつきはありますか」
「いいえ、大丈夫です」
「じゃあ、足をおろしてねー。スリッパ履いて立ってみてください。大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「はい。お疲れ様でした。着替えたら最初の診察室の近くでお待ちください」
「はい。ありがとうございました」
「はい、お大事にー」
ぼくは着替えをすませ、元の場所に戻る。
ソファに深く座りこんだ。
べつになにをしたわけじゃない。なにかをしているのは先生たちのほうだ。ぼくは言われるままに動いているだけだ。ハードな仕事をしたわけでもない。なのに。
どうしてこんなに疲れるんだろう。
もう当分病院には来たくないというのが本音だ。
再びぼくの番号がモニターに表示された。
診察室に入る。
「国広さん。えーと、では、CTの結果が出ましたので」
「はい」
輪切りの頭蓋骨。
パソコン横の壁一面にはレントゲン写真がずらりと並んでいた。ぼくの頭の中身がすべて写っている。
レントゲンのフィルムから目をそらさずに、ドクターはぼくに話しかけた。
「国広さん、うーん……」
ドクターはそこで言葉を切ってしまった。
予感に息苦しくなる。
まさかね。
うそでしょ。
動悸が激しくなる。
「あのね、えーと、じゃあ、こちらを見てください」
一枚のレントゲン写真をペンで指す。
「ここのところ」
「はあ……」
ぼくは医学の知識がないのでレントゲンを見てもさっぱりだ。ドクターがなにを言いたいのかがわからない。説明を待つしかないのだ。
「腫瘍があります」
「しゅよう?」
なにを言われたのか理解できなかった。
「でもそんなに大きくはない」
大きくない。
それがどういう意味を持つのかわからない。
大きくなければいいのか、悪いのか。そんなことすら判断ができない。それどころではなかった。心臓が耳元でどくんどくん脈打っている。衝撃のあまりぼくの思考能力は完全に停止していた。
「大丈夫ですか」
急に返事をしなくなったからか、ぼくの顔をドクターはじっと見ていた。
「……死ぬんですか……」
ぼくは渇ききった口のなかでかすかにつぶやいた。
足元からぞわぞわとした得体のしれないものが這い上がってくる。その感触に鳥肌が立つ。全身の血が急激に冷えていった。寒い。凍えそうだ。
「えーと、おそらくですが、これは悪性ではなく良性の髄膜腫の可能性が高い。ですのでMRIも撮りましょう」
「良性……」
「それにこれを見るかぎり、位置もまあまあ、ってところですね。手術で全部取り切れれば問題はないと考えます」
「手術……」
「はい。開頭、つまり頭を開いて腫瘍を摘出します」
「頭……開く……」
「大きくならないとも限らないので、なるべく早いほうがいいでしょう」
「……手術」
「ええ。では、手術するという方向でよろしいですか」
いいもなにもそうするしかないのなら、そうするしかないだろう。
手術なんて絶対にイヤだ! とごねたところで、じゃあどうするんだ? と聞き返されれば、ぼくはなにも答えられない。
「……お願いします」
頭を下げた。
そのあとドクターがなにか喋っていたようだが、話の内容はまったく頭に入らなかった。
それどころかどうやって家に帰りついたのかも覚えていない。
3
頭のなかいっぱいに〈どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう〉という文字の羅列が渦巻いている。
われに返ったのは携帯が鳴ったからだ。
気づいたら部屋のなかは真っ暗だった。もう七時を回っている。
『今日検査だったでしょう。どうだった?』
アイになんて返せばいいだろう。
でも、どう繕ったところでいずれはバレてしまうことだ。
『手術することになった』
たったそれだけの文章を入力するのに、えらく時間がかかった。
指が震えて思うように動かない。自分で自分のコントロールがきかない。
『今からそっちに行く』
来なくていいよ――そう返したかったが、もう文字を打つ気力もなかった。携帯が手から滑り落ちる。
ふいに涙がこみあげてきた。
ぼくは死ぬかもしれない。
ぼくのつぶやきは声にならなかったのか。ドクターには届かなかったのだろうか。ドクターは「死にませんよ」とは言ってくれなかった。
リアルな死を突きつけられ、たった一人で死と対峙する。漠然としていた〈死〉というものが、明瞭な意味を持って目の前に現れ、ぼくをじっと見つめていた。
死にたい。そんなことを今までにぼくはどれだけ思っただろう。楽になれる方法を考えたことだってたくさんある。でもそれはぼくにとって一種の空想だった。心が苦しくなって逃げるために、現実逃避をするための一つの手段だった。死にたいと思っただけで実際に死ぬことはないのだとわかっていたからこそ、そう望むことができたのだ。
その証拠に、今ぼくは本気で怯えている。この手の震えが止まらない。涙が止まらない。こんなにも〈死〉に打ちのめされている。理屈じゃない。本能で恐怖を感じている。
ぼくは勝手だ。でもそれ以上にぼくの運命はわがままで天邪鬼だ。たしかに死にたいとは思ったが、それは今ではない。ぼくは今死にたいとは思っていない。もっと辛いときがあった。なぜそのときではなく、今なんだ。今でなくちゃならない理由がなにかあるのか。ぼくの運命はどうして今を選んだんだ――。
「むっちゃん!」
吹っ飛びそうな勢いでドアがひらいて、アイが飛びこんできた。
「真っ暗じゃん! いる?」
明かりをつけてぼくの元にくる。
「大丈夫?」
汗だくで肩で息をしている。
「そっちこそ……苦しそうだよ」
笑おうとしたができなかった。
「手術って、本当に?」
「うん。……脳腫瘍だって」
「脳腫瘍?」
すっとんきょうな声があがる。
他人だってこんなに驚くんだ。言われた本人ならなおさらじゃないか。ぼくには混乱する権利がある。
「そうなんだって……どうなっちゃうんだろう、ぼく」
眼鏡を外してティッシュで顔を拭う。
「医者は? 医者はなんて言ってるの」
首をふる。
「なんか言ってたけど、よくわかんないよ。聞いたと思うけど全然覚えてないんだ」
「むっちゃん、落ち着いて。手術すれば治るんだよね?」
「わかんない、わかんないよ! なんでだよ、ぼくは死ぬかもしれないんだ!」
声に出してはっきりと「死ぬかもしれない」と発言したことでリアリティーが倍増した。夢でも冗談でもない。これは現実だ。ぼくの現実だ!
こらえきれずにぼくは取り乱した。
拳で床を殴りつける。
なんでこんな目にあわなくちゃならないんだ!
「ちょっと落ち着いて!」
「どうしたらいいんだ!」
涙があふれる。止められない。床に突っ伏してぼくは声をあげた。
悲しいとか怖いとかの感情的な涙ではなかった。どうしても泣かずにはいられない。今ここで泣いて心のなかに溜まったなにかを解放しなければきっとぼくは壊れてしまうだろう――そんな気がして。
だから泣き続けた。気のすむまで。
「……ちょっとは落ち着いたかな」
頃合いをみたように声がかかる。
「むっちゃん、辛いと思うけど、大事なことだから。……ちょっと呼吸を整えて、それからゆっくり思い出してみて。最初に、なんて言われたの」
さんざん泣いたらなんだかすっきりした。人前で泣くなんて何十年ぶりのことだろう。
「……腫瘍がある、って」
まだしゃくりあげながら答える。
「それから?」
「……大きくは、ない……良性……手術で全部取る……」
思い出しながら、たどたどしく答える。
「わかったよ」
アイがほっとしたように言う。
「むっちゃんは死なないよ」
そう断言する。
「そんなこと! なんでわかるんだよ、医者でもないのに!」
根拠のない慰めの言葉なんていらない。
ぼくはアイを睨んだ。アイはひるまない。目をそらすことはなかった。
「うん。ちょっと冷静になればむっちゃんにもわかったはずだよ。だって、良性の腫瘍で、大きくなくて、手術ができる状態ってことでしょう。それは手術すればなんとかなるってことじゃないの。それに、最悪の事態なら強制的にソッコー入院だと思うから、むっちゃんはこうやって家に帰れないはずだ」
その説明には説得力があった。
頭がそれをちゃんと理解したとたん、胸につかえていた真っ黒い塊がすっと消えた。
ぼくはティッシュの箱を抱えて、鼻をかむ。
「……アイの言うとおりだ」
「よかった。少し落ち着いたね」
「……うん」
どうにか頭も正常に動きはじめたようだ。
ぼくはなにをそんなに取り乱していたのだろう。
「その医者は信用できそう? もしちょっとでも不安があるなら、セカンドオピニオンを受ければいいよ。よければ俺が病院をピックアップしようか」
セカンドオピニオン。
そんなことまで頭が回らなかった。
「……うん。考えてみる」
アイはぼくの精神状態をちゃんと元の場所まで引き戻してくれた。
「ごめん……ぼく、ちょっと変だった」
「しょうがないって。腫瘍とか手術なんて言われたらだれだってショックを受けるって。冷静でいることのほうが難しいよ」
また、じわじわと涙が滲み出てきた。ティッシュで鼻をかむ。
「大丈夫そう?」
「……うん」
「ところで、その様子じゃ夕飯なんてまだだよね」
「……食べてない。……そういえば、朝からなんにも」
アイはカバンをごそごそすると、カップ麺を二つ出した。
「……こんなもんでよければ、お湯だけ沸かせばすぐに食べられますけど……」
「いつも持ち歩いてるの?」
「まあね。忙しいとき便利だし。これなら腐らないから」
「仕事、大変なんだね」
「うん。でも大変じゃない仕事なんてあるのかなあ」
そう言って、にっと笑った。
お腹に物が入っただけでずいぶんと落ち着いた。
「来てくれてありがとう」
「気にしないでよ」
「……でも、これからどうしよう」
落ち着いたのもつかのま、すぐに不安が押し寄せてくる。
「とりあえず、親にはすぐ連絡をしたほうがいいよ」
「親に?」
「べつにケンカ別れをしてるわけじゃないんでしょう? こういうときのための家族じゃない」
「あんまり気がのらない……」
「気持ちはわかるけど、これから入院や手術のときは何気に家族とお金が必要になるんだから。まあ、俺にもできることがあったら遠慮なくどうぞ」
「そんな。アイに迷惑はかけられないよ」
「迷惑とは思ってないから」
そう言ってくれるのはありがたいことだ。もし立場が逆だったら、ぼくはアイに同じことが言えるだろうか。
それに、アイの言うとおりお金の問題もある。入院、手術となったらいったいいくらかかるのか。まったく見当がつかない。
「……仕事……辞めるよう、なのかな」
アイが首をかしげる。
「ひょっとして非正規?」
うすうすは感づいていたかもしれない。
「……うん」
本当は知られたくなかったが、もう仕方がない。
「同じところで一年以上働いてる?」
「うん」
「じゃあ傷病手当がもらえる。たとえ少ない金額でももらえるものはもらっとかないと。被保険者期間が一年以上あれば退職しても引き続き傷病手当はもらえるけど、会社は自分からは辞めないほうがいい。それから医療保険は?」
「入ってない」
「残念だな。あとは高額療養費くらいか」
「……詳しいね」
「え? ああ、たまたま知ってたんだ」
「……そうなんだ」
それ以上は突っこんで聞かない。
「次、病院にはいつ行くの」
「予約は一週間後。たぶん、そのときに詳しい話をするんだと思うけど……」
「そうだね。そのときは親にも一緒に行ってもらったほうがいいね」
「そうか……そうだよね」
アイが時計を気にして、急にそわそわしはじめた。
「……えっと、むっちゃんも大丈夫そうだし、そろそろ帰ろうかな」
「よければ泊まってってよ」
「でも……」
「だれかにいて欲しい気分なんだ。一人になったらネガティブなことばっかり考えそうで、怖いから。あっ、でも明日も早いだろうし、引き止めちゃ悪いかな」
「悪くないよ。ただ、むっちゃんが迷惑かなって思ったから」
「思うわけないよ」
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えて泊まっていこうかな」
「よかった。ありがとう」
ぼくは床に転がっていた携帯を拾って電話をかける。呼び出し音が十を超えたところで、父さんが出た。
『無双だけど。今、大丈夫』
『おお、めずらしいな。どうした』
『ちょっと話があるんだ。明日、仕事帰りでいいから会えないかな』
『いいよ』
待ち合わせ場所を決めて電話を切った。
「驚くだろうな」
「驚かない人なんていないよ。ましてや自分の子どもだからね」
「……そうだね。ね、ラーメンだけじゃ足らないでしょ。なんか食べようか」
「なんかあるの?」
「昨日買った食材があるからなんか作るよ」
「やったー」
料理というほどでもないが、手を動かしていれば気が紛れる。駆けつけてくれたアイに、ぼくはこんなことくらいしか返せない。
どういうわけか、ちゃんと眠れてすっきりと目が覚めた。
昨日のことが全部夢ならよかったのにと思うが、現実はそんなに甘くはない。ぼくの頭のなかに仕掛けられた爆弾はいつ発動するかわからないままだ。
「アイはおにぎりいる?」
「いるいる!」
朝はご飯を炊いて納豆と、頑張ってみそ汁を作った。
ぼくはいつもどおり、お昼用のおにぎりを握っている。アイの分は大きめのハンカチに包んで渡す。
「ごめん。お惣菜は自分で買って」
「十分ですって。昼が楽しみ」
二人で家を出る。
「職場にも言わなくちゃ。気が重いなあ」
「なに言ってんだよ。脅すつもりはないけどさ、大変なのはこれからだよ」
「そうだよね……」
駅の改札でアイと別れた。
「ありがとう。また連絡するね」
「うん。俺も連絡する。じゃあ」
その後ろ姿を見送って、職場に急いだ。
4
「おはようございます」
ぼくが入っていくと、ローリーと工藤さんがそろって顔を向けてくる。
「おはよう。どうだった」
「おはようございます。大丈夫ですよね」
ぼくは笑おうとしたが、引きつってしまった。なるべく軽い感じで話そうと決めていたのに、これでは台無しだ。
「それが……ちょっと手術することになっちゃって」
工藤さんが両手で口を覆う。
ローリーはバカみたいにポカンと口をあけていた。
「手術ってどういうことですか。病名を教えてください」
気持ちいいくらい単刀直入だ。
「あー、えっと……脳腫瘍」
「え」
と言ったきり、二人は固まってしまった。
ドクターに病名を告げられたときのぼくも、おそらく二人と同じような顔をしていたのだろう。
「……やっぱり、驚くよね」
「冗談、とかじゃないですよね」
「マジです」
妙な沈黙が流れる。
「それで……休みをもらわないといけないんで」
「そうだね。係長に言えばいいんだと思う」
工藤さんが素早く返してくれる。
「まだ詳しい話を聞いてないから、どのくらい休むことになるかはわからないんですけど……」
「気にしなくていいと思うよ。体のほうが大事だから」
「ありがとうございます」
ローリーはなにも言わなかった。
朝礼が終わるとすぐに係長の元へ行った。
別室でぼくの話を聞いた係長は驚いて動揺しながらも、「悪いようにはしないから、安心して休んでください。ちゃんと治して、また復帰できるように頑張って」と励ましてくれた。
昼休みになるとローリーがいつものように話しかけてきた。
「ちょっと衝撃的でした。自分、すごく動揺しちゃって……すみません」
頭を下げてくる。
「いいって。ぼくだって言われたときは頭が真っ白になったし、驚かないほうがおかしいと思うよ」
「国広さんってすごいですね。ぼくだったら一週間くらいは立ち直れないと思う」
ぼくが今日こうして普通でいられるのは、アイのおかけだ。
「ぼくだってそうだよ。……友だちがね、来てくれたんだ。話をしてたら、少しはまともになれた」
「……いるんですね、そういう友だち。うらやましいな」
「真田くんだって、親友がいるって言ってたじゃない」
「でも、ぼくはあいつの力にはなれなかったから」
「今でもつき合いはあるんでしょ?」
「ええ。たまにですけど連絡が来て、会ったりもしてます」
「じゃあ、力になってないってことはないよ」
「そうですかね」
「そうだよ」
「なんか、そんなふうに言ってもらえてすごく嬉しいです」
笑顔になったローリーは、コンビニ袋からコーヒー缶を出してぼくにくれた。
「よかったらどうぞ、冷たいうちに。二つ買ってきたんで」
「いいの? ありがとう」
ぼくは素直に受け取った。
「……でも、これから大変ですね。お金がかかりますよね。給料ももらえなくなるし」
「うん。でもね、少ないけど傷病手当は出るらしい」
「それだって今すぐってわけじゃないでしょう。申請して審査して、それからですよね。結局、当座のお金は全部自分で払わなくちゃならない」
言われてみればそうだった。
「病気って現金がすぐに必要になるんですよ。しかも、お札が飛ぶように出ていく。難しい病気ならなおさらだ。納得のいく治療をしたければ、それはもう際限なくお金がかかりますよ」
「そうかもね。ぼくは自分が病気になるなんて考えてなかったから、保険にも入ってなかった。いや、考えたところで、保険にまわせるようなお金なんてどこにもないんだけどね」
貧乏人は病気になったら一貫の終わり。
今回のことで身にしみた。
「……ただ上を向いて口をあけてるだけじゃだめなんだな。シャンパンタワーの一番下には、いつまで待ってもなにも滴り落ちてはこないんだ。このままずっと待っていても干からびて死ぬだけかもしれない。先のことを考えると怖くなるよ。お金持ち以外は老後なんてとてもじゃないけど暮らしていけないみたいだし。……輸送機や戦闘機の爆買いをするために税金を払ったわけじゃないんだけどなあ。せめて食べるくらいのことは満足にできるようにならないかな。ベーシックインカム、うらやましいなー。なにがあっても当面の生活ができる保障があれば、生きていくことへの不安が少しはなくなるのに。ぼく個人としては毎月三万くらいの援助がほしい。そうすれば一か月はまともに食べていけるから」
「なんだ。状況に甘んじているだけじゃなくて一応は考えてるんですね。だったらなおさら公務員になって公務っていうのを見てみればいいじゃないですか。自分の目で。でも『好き勝手言う上にふりまわされて、詰め腹を切らされるのはいつの時代も下っ端。しわ寄せは全部現場。尻ぬぐいの仕事ばっかり増えてやってらんない』って、国家に行った先輩がぼやいてましたけどね」
ぼくは天井を見上げる。
べつに世の中のなにかを変えたいわけじゃない。でも現状は打破したい。不平不満はいくらでもあるが、ぼくにとっては今月どうやって生活していくかのほうが切実な問題だ。とてもじゃないが他人のことまで頭が回らない。世の中とか、なにかを変えたいと思う人には、きっとお金と時間と精神的な余裕があるのだろう。今のぼくにはそんなものはない。
5
仕事帰りに待ち合わせの喫茶店に行く。
父さんはもう来ていた。
「待たせちゃった?」
「いや、来たばかりだよ」
ぼくはコーヒーを注文する。
「めずらしいな。おまえが会って話がしたいだなんて」
「うん、ちょっと大事な話なんだ」
「なんだ? いい人でもできたか」
ぼくは顔を伏せる。
「……そんなわけないよ」
「なーんだ。ちょっとは期待してたのに」
期待を裏切ってごめんね。
心のなかで詫びながら顔を上げる。
「実は、手術することになっちゃって」
さらっと言ってみた。深刻な顔で告げるよりは幾分かマシだと思ったのだ。
「手術!」
叫んで、父さんはイスを蹴って立ちあがった。何事かと店中の目が注がれる。
「ちょっと、落ち着いてよ」
「ああ……すまん」
ゆっくりと腰をおろす。
「だって、おまえ、手術なんて怖いこと言うから」
なんだかうろたえている。不思議だ。覚えている父親とはどこか違っている。家を出てからほとんど会うこともなかったが、この人はこんな動揺するような性格だったっけ。
「このあいだ、病院に検査に行ったんだよ……」
ぼくはかいつまんで経緯を説明する。
そのあいだ、父さんはぴくりとも動かなかった。瞬きもせず、ぼくを凝視している。蝋人形に話しているみたいな奇妙な感覚にとらわれた。
「脳腫瘍なんだ」
病名を聞いた瞬間、父さんは鯉のように口をぱくぱくさせた。
よほどのショックを受けたのか、先ほどから黙りこんでいる父さんに、なんて声をかければいいのかわからなかった。
ぼくは冷めたコーヒーをゆっくりと口に含む。
「……手術をすれば、大丈夫なのか」
絞りだしたような声は小さく、かすれていた。
「……手術で……命に別状はないんだな」
「それはわからない。実はぼくも病名を聞いて頭が真っ白になっちゃって、途中からなにも覚えていないんだ。だから、次の予約日に一緒に行ってもらって説明を聞いてほしいんだけど」
背中を丸めて下を向いたまま、うんうんとうなずいている。
「……母さんは? 母さんにはどうする」
「知らせなくていいよ。変に取り乱されたら困るし。……父さんも、そんなに驚くとは思わなかった」
顔を上げてぼくを見るその目が怒っていた。
「子どもが! 子どもが病気なんだぞ! 動揺するに決まっているじゃないか!」
この人はだれだ?
たしかにぼくの父親だ。一家離散宣言をした、自分の幸せを見つけるために家庭を壊した人だ。でも。
こんな顔もするんだ。
目の前にある父さんの顔をぼくは眺めた。記憶のなかにある見知ったものではない。はじめて見る表情だった。
「……驚かせてごめん。これから迷惑かけちゃうね。それもごめん」
「謝るな。一番辛いのはおまえだってことはちゃんとわかってる」
感情をおさえこんだ父親の顔で、父さんはぼくをまっすぐに見た。
父さんと別れ、そのままどこにも寄らずに家に帰った。
郵便受けを確認して中身を全部取りだし、部屋に戻ってからチェックをする。
広告やダイレクトメールのなかに、真新しい白い封筒が混じっていた。
宛名はない。ひっくり返してみるが差出人も書いてない。でも封はしっかりと糊付けされていた。
あやしい。
あけたとたんに爆発しないとも限らない。
部屋の明かりで透かして見るが中身は見えない。触ってみても便箋が何枚か入っているくらいの感じしかしない。
仕方がないのでハサミで一辺を切り、そっと息を吹きかけて膨らませ、こわごわとなかを覗いた。一万円札が見えた。
慌てて取りだして数えてみる。
全部で十枚。十万円。
愉快犯か。それとも鼠小僧的なだれかだったりするのか。貧乏なぼくが病気になったことを知って憐れんで――とかはまずないだろう。
まさか偽札とか。
透かしを見るがちゃんと入っている。どこからどう見てもすべてまともな一万円札にしか見えない。
だれかにお金なんて貸した覚えはないし。
――いや、待てよ……。
一つだけ思いあたることが、あるにはある。
もうかなり昔の、ぼくが二十歳のころの話だけど。
ぼくは引き出しをあさった。ペンとメモ帳をどかして、その下から四つ折りにされた紙を取りだす。
『必ず返します。ごめんなさい。』
四角張った文字でそう書いてある。もしもこの十万円が彼女だとしたら……。まあそれに越したことはないが。でも。
どうして今なんだ?
ぼくは手にした十万円とメモを見比べた。