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第三部 能力

   1


 最近、なぜか昼休みはローリーと過ごしている。さすがに人の心にずかずかと土足で踏みこむことはしないが、いろいろ聞かれてうっとうしい。仲間だからぼくのことを知っておきたいのだそうだ。反論するのも逃げるのも面倒なので、食事をしつつ、適当に受け答えをしている。

「土日ってなにをしてるんですか」

「洗濯して掃除して、あとはだいたいグダグダしてる」

「デートとかは、っていうか、彼女はいませんよね? あっ、ぼくはいませんけど」

「ぼくもいませんね」

「やっぱり」

「やっぱりってなんですか、失礼な」

「年上がいいんじゃないですか。養ってくれそうな人」

「どっかのマダムとか」

「それは国広さんには無理です。ところで、趣味はなんですか」

「読書かな」

「どういう系ですか」

「広く浅くなんでも」

「こだわりがないんですね。いい意味で凡人です。座右の銘とか好きな言葉はなんですか? ちなみにぼくは〈紅は園生に植えても隠れなし〉ですね」

「はあー、なんかわかるかも」

「でしょう。どういうわけかぼくって変に悪目立ちするんですよね。でも昔からこういう言葉があるくらいだから、これはもういろいろ叩かれてもしょうがないなってあきらめて、楽になれたんですよ。ぼくを救ってくれた言葉です。国広さんは?」

「ぼくは〈無〉かな。名前にも入っているし」

「〈無〉ですか。その心は?」

「〈無〉って物事のはじまりだよね。なにもないところからはじまるっていうのがいいなって思う。平等っぽいし。それから無駄なものや余計なものを一切取っ払って、必要最小限のもので生活するっていうぼくの現状を表している」

「ミニマリスト」

「んー、ちょっと違うと思う。ミニマリストって物に縛られない生き方を目指しているんでしょう。でもぼくは欲しいものがたくさんあるよ。買わないのはただ我慢してるだけ。食べていくことだけで精一杯だからね。どんな生き方をしようだなんて目指しようがないし。それにね、ぼくの好きな言葉は〈バルス〉だよ」

「滅びの呪文ですね」

「そう。なんかもう、すべて滅んでしまえ! って思うときがある」

「……国広さんって、社畜経験者だったりしませんか」

 だらだらとくり返している会話の最中にいきなり鋭い突っこみがくる。

「……なんで」

「なんとなくですけど、そんな感じがしました。国広さんってごく普通の一般人で真面目だし、仕事もまともにこなしてる。なのにどうして契約なんてやってんのかなーって考えてたら、たぶん、そういうことじゃないのかなーって」

 まさかローリーに見抜かれるとは思ってもいなかった。

「そうか……」

 正社員になるのは怖かった。

 また同じような状態になったらどうしよう。そういう不安が常につきまとう。それでも生きるために働かないわけにはいかない。社会復帰をしなければならない。でも恐ろしい。ストレスでまた息ができなくなるかもしれないという恐怖との葛藤が続いた。

 ぼくは過呼吸の件で医者にかかることをためらい、自分の状態を調べるためにネットで検索をくり返していた。そして自分の心と折り合いをつけるために選んだのが、正社員以外で働くという方法だった。たぶん同じような境遇の人たちは、大体がこういう結論になるのではないか。

 いつでも逃げ出せる準備をしていよう。

 バイト感覚で会社に行く。まずはそこからはじめた。

 派遣は避けた。辞めることを想定すると、直接雇いのほうが負担が少ないように思えたからだ。

 だましだまし働きはじめる。たしかに給料的にはきついが、精神的にはだいぶ楽だった。責任も重くない。なにかあれば辞めてしまえばいい。

 どうせバイトみたいな待遇なんだから。

 そうやって少しずつ、働く恐怖に体を慣らしていった。

「実は前の会社でぼくもやばかった。残業時間も半端ないし、ノルマもきつかった。だから思考停止状態になる前に、言いたいことだけ言って辞めちゃいましたけどね。ところで、勉強は進んでいますか」

 それについては答えず、ぼくは質問を返した。

「ねえ、真田くんはどうして県庁なの」

「地元に帰りたいもんで」

「東京は合わなかった?」

「そんなことはないんですけどね。地元に帰って市役所とかでもいいんですけど、実家からは県庁のほうが近いんです。家には祖父祖母がいて、家族みんなで介護してるんですよ。ぼくも手伝いたいし」

「偉いね」

「今どきそんなのは普通でしょう。うちはお金持ちってわけでもありませんからね。高い施設に入れるのは無理なんです。まあ本人たちもいやがってるし。そりゃあ病状が悪くなれば入院はさせますけど、なるべく長く家で暮らせるようにしたいんです。だから、人手はあったほうがいいんですよ」

 ローリーはローリーなりに懸命に自分の道を探しているのだろう。だからといって仲間とは思えないが、わずかながら彼の印象がぼくのなかで変わっていくのを感じた。


「あーあ、まだ三時かあ」

 ローリーが大きく伸びをしている。

 週明けは時間の進みが遅いと感じるのはぼくだけではないらしい。

「ちょっと、国広くん」

 落合さんの声にふり返る。

「はい。なんでしょう」

「あのさ、この間渡した黄色いファイルあるでしょう。ほら、何件か書類が入ってたやつ」

「……ああ。はい」

 たしかにファイルを預かった。でももう一週間くらい前の話だ。

「あれ、どうした」

「はい? 返しましたけど」

 処理を終わらせて、次の日にはちゃんと落合さんに返している。

「本当に? 俺、もらった?」

 またか。

「いくつか処理するものがまとめて入ってましたよね。言われたとおりに処理をして、ファイルごと全部返しましたけど」

「もらってないんだけどー」

 疑り深そうな目でぼくを見る。

 仕方がないので、ぼくは思い出しながら経緯を説明する。

「えーと、たしか一件だけ処理をして、ファイルごと返したら落合さんが『やっぱり、ほかのも全部やっといて』っておっしゃったので、それらを処理してから、すべてまとめて落合さんにファイルごと返しましたよ」

「えー、でも、俺の机にないんだよねー」

 そんなことは知らない。

「ないんだよー。あれないと困るんだよねー」

 だから知らないって。

「実は俺に返すの忘れてる、なんてことない?」

 ああ面倒だ。

「わかりました。じゃあぼくの机を調べてください。書類が散乱しているので、ほかの書類に紛れているかもしれませんから――どうぞ」

 立ちあがり、落合さんに席を譲った。

「じゃあ、探させてもらうよ」

 ぼくはその場で立ったまま、黙って落合さんのガサ入れを見ていた。

「絶対にあるはずなんだよなー」

 落合さんはしばらくのあいだ、ごそごそと机の上の書類を調べていた。ついでに引き出しも全部あけて、細かくチェックをしていく。

「ないなー。どこやったんだ」

 この人はあくまでもぼくのせいにしたいらしい。

 工藤さんがぼくの横にすーっと来て、落合さんに声をかけた。

「あのー、落合さん」

「なに? 今、忙しいんだけど」

「真田くんの席になる予定の、あの書類が山積みになっている席、見ましたか」

 彼は手を止めて工藤さんをふり返る。

「は? 見てないけど」

「一番上になんか黄色いファイルが乗っていますけど、あれじゃないんですか」

「えー、そうなの」

 落合さんが確認しにいく。

「どれどれ。あーあったよー。これこれ」

 書類をパラパラめくる。

「げっ、処理してないじゃん。あーでも頼もうと思ってたことは処理してあるからいいや」

 そのまま何事もなかったかのように落合さんは席に戻った。

 ぼくは工藤さんと顔を見合わせる。

「ファイル持ったままふらふらしてて、ついあの山積みの書類の上に置いちゃったんだよ、きっと。前にもあったんだ。ちょっとだらしなさすぎるよね」

「工藤さん、ありがとうございました。助かりました」

「いいって。でもあの人ちょっといい加減にしてほしい」

 めずらしく工藤さんはプリプリしていた。

「あの山積みの書類だって、落合さんが積んだようなものなんだから。言われてるのに処理してくれないから、真田くんがいつまでたっても席が移動できないじゃないねえ」

「そうですねえ。困りますよね」

「なんですかあれは! 完全に国広さんを疑ってた」

 ローリーがぼくの横に並んで話に入ってきた。興奮してるのか声が大きい。

「人に頼んだ仕事もほっぽりっぱなしって。常識がないですよ、あれは」

 ぼくは慌てて人差し指を口にあてる。

 ローリーが怒るのも無理はないが、これ以上波風を立てたくない。あの人はああいう人なんだと、ぼくのなかではとっくにあきらめがついている。

「せっかく工藤さんのおかげでおさまったんだから」

「でも」

「あ、いいところに、真田くん」

 反論しようとしたローリーに声がかかる。

 ローリーの係の三浦さんが廊下から部屋に入ってきた。

「悪いけど、ちょっと手伝ってくれるかな。重たいダンボールを運ぶんだけど、手が足りなくて」

 身長百五十センチほどの小柄な三浦さんには大変そうな仕事だ。

「いいですよ。じゃあ今いるのは、ぼくと落合さんですね」

 三浦さんは慌てて首をふる。

「ううん。落合さんはダメ、だと思う」

「どうしてですか?」

「ちょっと、いろいろあって……」

 首をかしげてから、ローリーは落合さんの席に届くように大きな声を出した。

「落合さーん、荷物運ぶんですけど、手伝ってもらえませんかー」

 ぼくたち三人は顔を見合わせた。

 落合さんが面倒くさそうに席を立ってこっちにくる。

「なになになになに。忙しいんだけど。荷物ってさー、みんな知ってるよねー、俺の主義」

 みんな黙っていた。

「真田くんは来たばかりだから知らないと思うけどー」

「なにがですか」

「じゃあ言っておくけどさー。俺はね、女性差別はしないんだ」

「はあ……」

「だからー、差別はしないんだよ」

「……おっしゃりたい意味がわかりませんが」

「だからねー、俺は女性差別主義者ではないってことなの。男だから女だからって仕事で差別しないの。重たかろうが軽かろうが、そんなのは知らないよ。女性だってやればいいじゃないか」

「は?」

 ローリーは口をあけたが、すぐに言葉を継いだ。

「そんなマインドセットでよくやってこれましたね。ここはぬるま湯ですか。そうですか。あなた終わってますね」

 早口でまくし立てたあと、顔に笑みを貼りつかせながらゆっくりと言う。

「で、落合さんの得意な料理はなんですか?」

「え? なに言ってるの」

「料理ですよ。当然、家事労働は奥さんと分担してるんですよね」

 落合さんは目をむいた。

 ぼくたち三人はそろって下を向く。それは絶対に触れてはいけないことだ。

「奥さんって、俺、結婚してないんだけど」

「ああそうなんですか。でもどうりで。ぼくはね、女性には優しくしなさいって祖母に教わりました。女性はか弱いものですよ。それをフォローするのも男の役目じゃないのかなって思ってます。あっ、でもぼくも独身なんであんまり偉そうなことは言えませんけどね。落合さんは独身主義じゃないですよね? でも料理の名前が出てこないみたいだから得意じゃないんですね。だったらゴミ捨てとか洗濯とか風呂やトイレ掃除をするんですね。見てみたいなあ、床に這いつくばって雑巾かけるところ。楽しい家庭だろうなあ。ねえ落合さん、お互いに早く結婚できるといいですね」

 ローリーは満面の笑みを浮かべて言い切った。

 落合さんは顔を真っ赤にしている。

「お手間取らせました。ここはぼくたちでやりますので、どうぞ戻ってお仕事の続きを頑張ってください」

 そう言うとローリーはもう落合さんに見向きもしなかった。

 落合さんは頬をぷるぷると震わせてローリーの背中を睨んでいたが、やがてあきらめたのか、ずんずんと席に戻っていった。

 止めていた息をやっと吐きだす。

「手伝ってもらってもいいですか」

 ローリーがぼくに聞いてきた。

「もちろん」

「じゃあ私、先に行ってます。一階で待ってますのでよろしくお願いします」

 三浦さんはその場に居たたまれないように、そそくさと部屋を出ていった。

「ま、たまにはいい薬よね」

 工藤さんがぽつりと言って席に戻る。

「……じゃあ、ぼくたちも行こうか」

 廊下に出たとたん、ローリーが声を殺してえた。

「腐った人間は食われてしまえ!」

 ぼくは思わずふきだした。

「笑うところじゃないですよ! 間違ってるって! あんなのがぼくたちより給料が高くて、しかも年収にしたら国広さんの二・五倍くらいもらってるんですよ!」

 同意はするが、個人攻撃をしたところでどうにかなるものでもない。虚しいだけだ。

「でもさ、同じじゃないの」

「なにがですか!」

「きみの理想」

「は? どういう意味ですか」

「バカなことしなければクビにならないし、のんびりと最低限の仕事さえしていればサボり放題。それって、全部あの人にあてはまらないかなあ」

「それは……」

「主義主張や人間性がどうとかじゃなくてね。きみやぼくみたいに普通に生きていきたいって、そういうことはたぶん、みんな同じように考えてるんじゃないのかな。真田くんはぼくとの共通点って言ったけど、まあそれはハズレではないけど、アタリでもないかな」

 ローリーは足を止めた。

「共通点でないってことは、国広さんはぼくと仲間にならないってことですか」

 なぜか傷ついたような哀しげな目をしている。

「なる、ならないってことじゃないよ。ぼくたちは同じ職場で働く者()()でしょう。何かの目標を設定しなくても、仕事で同じ方向を向いているんだしさ、あえて仲間だと強調する必要はないんじゃないのかなって言っているだけ」

 ローリーは腕を組んで考えこんだ。

「国広さんの言うとおりだと思います。でも……でも一つだけ確認させてください。国広さんの言う〈どうし〉の〈し〉は、〈こころざし〉のほうですよね」

 真剣な眼差しを向けられて、ぼくは「否」とは言えなかった。

「志を同じくする同志ですよね」

 重ねて聞いてくる。

 仕方なく、ぼくはうなずいた。

「ですよね。ああよかった」

 あからさまにほっとしている。

「あえて仲間だと宣言しておかないと、仲良くなれないような気がするんです。ぼくは昔から友だち作りがへたなんですよ」

 ぼくもそうだよ、と口まで出かかったが言葉にはならなかった。勇気がない。

「あ……ちょっと、ごめん……」

 まただ。

「どうしました」

「ちょっとめまいが……」

 ぼくは廊下の壁に寄りかかってそのままズルズルとしゃがみこんだ。

「大丈夫ですか?」

「うん……」

「ストレス、貧血、寝不足、自律神経?」

「わかんない……」

「とにかく部屋に戻って座ってたほうがいいですね。戻りましょう。……立てますか。それとももう少しそのままでいますか」

「ううん、立てそう」

 壁に手をついてそろりと立ちあがる。今回はそんなに酷くはなかった。

 ゆっくりと歩き出す。

 ローリーは慣れた動作でぼくの片腕をつかむと、ペースを合わせて歩いてくれる。

「検診は受けてますか?」

「入ったときに診断書を提出したけど、職場の検診はまだ。たしか今月の終わりくらいじゃないかな」

「検診待たずに、一度医者に行ったほうがいいです」

 アイにもそう言われていたことを思い出した。

「医者かあ。面倒くさいんだよねー」

「行ってください。体を壊したことがあるんでしょう。一度壊れたら、そう簡単に回復なんてしないんですよ」

「そうなの?」

「そうなんです。ぼくの親友がそうでしたから」

 はじめて見る沈痛な表情だった。

「……うん、わかった」

 口をついて言葉が出ていた。

「明日、有給取って医者に行くよ」

「それがいいです」

「ありがとう。心配してくれて」

「あたりまえですよ。同志ですから」

 ローリーは、にやっとして親指を立てた。



   2


 めまいの症状は何科に行けばいいのかよくわからなかったので、ネットで調べて家から一番近いところにあった耳鼻科に行くことにした。

 なかに入って驚いた。平日の午前中がこれほど混んでいるなんて思いもしなかった。待合室はすでにいっぱいで、座れるところもない。

 受付で初診であることを告げると、受付の女性が「今日はどうされましたか」と聞いてくる。

「ちょっと最近めまいが酷くって」

「では、とりあえずお熱測ってもらって、あとはこちらにご記入してください」

 問診票と体温計を渡された。

 体温計を脇に挟み、立ったまま問診票の記入をはじめる。

 熱は六度三分。平熱だ。問診票を出しながら「どのくらい待ちますか」と聞いたら、「一時間くらいですね」と返ってくる。

 失敗した。本でも持ってくればよかったと後悔する。

 ぼくは目が悪いので携帯の小さな画面を見ていると非常に疲れる。文庫本も疲れるには疲れるが、その疲れ具合の度合いがけた違いなのだ。

 待合室を見まわすと本のラックが目についた。週刊誌を適当に一冊抜いて、ぼくは壁に寄りかかり、ぱらぱらとめくった。

 診察室に呼ばれたのはそれから一時間半後だった。

 先生は六十代といったところか。恰幅がよくて頭と顔がつやつやしている。

「お待たせしました。国広さん。へえー、無双さんていうんですか。ひょっとして麻雀強いとか?」

「いえ、弱いですね。残念ながら」

 こんな場所でもいつもの名前のお約束パターンをするのかと、苦笑いをする。

「そうですか。なかなかうまいこといきませんねえ。さて――ああ、めまいね。かなり酷いのかな。いつごろからはじまりましたか」

「前からちょこちょこはあったんですけど、最近酷くなってきたので……」

「めまいのほかにはなにか症状とかありますか。たとえば頭痛とか急に目が変に見えなくなったとか」

「視力は落ちましたけど、特に変って感じはしないです。あと、頭痛はわりとありますね」

「酷い頭痛? 起きあがれないとか」

「いいえ。そんな酷いのはないです。雨が降ったりとかしたときにちょっとだけあったり」

「ああなるほど。じゃあ、めまいだけど、どのくらい前から」

「かなり前ですね」

「それじゃ最初に症状が出たのは何年くらい前になりますか」

「えーと、そうですねえ……」

 問診を五分くらい続けると、「じゃあちょっと見てみましょうか」と、診察台に寝るように言われた。

「仰向けになってね、これをつけるから」

 先生が手にしているのはVRゴーグルのようなものだった。

「見える?」

「見えません。ぼやけて気持ちが悪い」

「うん。これはそういうもんだから。じゃあ頭を動かさないでね。目だけで、右見てー、はい。じゃあ今度は左ねー」

 それが終わると、次に立ったままふらつくかどうかを確認された。

「じゃあ、次は目を閉じて一分、そのままでいてねー……はい終了」

 先生はカルテになにやら書きつける。

「今度は耳の検査をしましょうか。じゃあ向こうの部屋に行ってもらってね」

「こちらです。どうぞ」

 看護師さんに誘導されて別の部屋に入り、聴力の検査をする。

 再び診察室に戻って、先生の前に座る。

 先生はカルテから目を外し、ぼくに向き直った。

「国広さん。えーとですね、特に問題はなかったです」

「そうですか」

 ほっとする。

「三半規管が原因の良性発作性頭位りょうせいほっさせいとういめまい症ではないですし、難聴もないからメニエール病とか突発性難聴もあてはまらないんですよ」

「はい」

「ですからね、国広さんのめまいは、どうやら耳が原因ではないようですね」

「はあ」

「できれば一度、大きな病院でちゃんと検査をしたほうがいいと思うんですよ」

「えっ、病院」

 先生はぎょろりとぼくを見る。

「そう。めまいの原因をちゃんと突き止めたほうがいいと思うんだよね。二十代で若くてもね、生活習慣病とかほかに原因がある場合もあるからね」

 そんなことを言われるとは思っていなかったので、すぐに返事ができなかった。

「ははは。ただの検査だよ」

 ぼくが黙りこんでしまったからか、先生は明るく言った。

「CTとかMRIとか撮るだけだから心配いらないって。紹介状書いてあげるからさ、行ってらっしゃい。病院の希望とかある?」

 すでに、行くという方向で話が進んでいる。断ることなんてできない雰囲気だ。

「いえ、希望なんて、そんな……」

「じゃあ、市立病院でいいかな。電話で予約取ってから行ってね」

「……はい」

「じゃあお大事に」

「……ありがとうございました」

 受付で紹介状を受け取り、精算をすませてから外に出る。

 平日の昼間にスーツ以外で外を歩くのはなんだか気がひけた。今は平日休みの職種も多いしテレワークもあるから不自然ではないけれど、それでも無職でふらふらしてる不審者っぽく見えてたらどうしようと思って、つい下を向いてしまう。

 そんなこと、気にすることなんかないのに。

 アイにも言われたことだ。けれど呪いのように人の視線が気になって仕方がない。ぼくは神経質なのか。いやきっと自分に自信がないだけだ。幼稚園のころのあの根拠のない自信の半分、いや十分の一でも残っていればずいぶん楽に暮らしていけるのに。

 思わずため息が出た。

 いくら無い物ねだりをしたところで、現状が変わるなんてことはないのだ。

 顔を上げると、いつのまにか人通りが多くなっていた。時間を見るとちょうど十二時をまわったところだ。

 ぼくはぶらぶらと駅前まで歩いてスーパーに入った。

 平日の昼間のスーパーは夕方とは雰囲気が違っていた。ランチ用のお弁当コーナーなんてものが特設されている。人気があるらしく、人がたまっていた。ぼくもランチコーナーを物色し、奮発して三百九十八円のから揚げ弁当を買って帰った。

 値段の割にボリュームがあるお弁当だった。

 ぼくは熱いお茶を飲み干すと「はあー」と声に出して長く息をついた。

 なんだろう。胸の奥のほうがざわざわしている。自分の意思とは関係なく、とんとん話が進んでしまった。病院に行くなんて、検査とはいえ憂うつだ。

 ぼくは手にした紹介状と、市立病院の電話番号が印刷してある紙をもてあそんでいた。

 検査だろうとなんだろうと、やっぱり病院になんて行きたくない。

 大きな病院にはじめて行ったのは、じいちゃんのお見舞いのときだ。結局じいちゃんはそのまま亡くなったので、〈入院イコール死〉といういやなイメージがついている。

 以前、過呼吸で運ばれたときは落ち着いたらすぐに帰れたのであまり意識することはなかったが、それと今回では話が違う。原因を突き止めるというのは、病気の原因を突き止めるということで、それはつまり、ぼくは病気である、ということだ。なにかの病気であることを前提に検査を受けるのだ。なんて恐ろしいのだろう。

 踏ん切りがつかないまま午後の時間が過ぎていく。

 でもこんなことをしていてもなんにもならない。いやなことは先延ばしにしても、もっといやになるだけだ。

 やっとそう思いきり、ぼくは病院に電話をかけて予約を取った。


「おはようございます」

 部屋に入ると工藤さんとローリーがいた。ローリーは工藤さんと同じくらい早く出社するようになっていた。

「おはようございます。大丈夫ですか」

「おはよう。体調悪いんだって? 大丈夫なの」

 二人から声がかかる。

「ご迷惑をおかけしました。真田くんもありがとう」

「いいですって。それで結果は」

「それがね、耳鼻科に行ったんだけど、一度ちゃんと調べたほうがいいって市立病院に検査に行くことになったんだ」

「えっー」

 驚きの合唱。ナイスハモリ。

「なんか重大な病気なの?」

 工藤さんが心配そうに聞いてくる。

「いやいや、先生のニュアンス的には『まあ、一応検査しといたほうが安心でしょう』って感じだったから」

「なーんだ、おどかさないでよ。でも、そうだね。人間ドックに入ったつもりで行ってきたらいいんじゃないの」

「そうですね。だから悪いですけど、三週間後に予約が取れたので、また有給取らせていただきます」

「うん、気にしなくても大丈夫だよ。この時期はそんなに忙しくないし」

「ありがとうございます」

 ローリーは座ったままで机の上を拭いていた。

「問題がないといいですね」

「そうだね。原因がわかれば対処のしようもあるし」

「ストレスじゃないんですか。もしそうだとしたら、やっぱりこの職場は合ってないってことになりますね」

 ローリーはどうしてもそっちの方向に持っていきたいようだ。

「まあ、病院にいけばはっきりすることだから」

「転職の準備をしておくに越したことはないですよ」

「……そうかもね」

 べつにローリーに同意をしたわけではない。ただなんとなく予感がしたのかもしれない。よくわからないが、なにか変化が起こりそうな予感が。



   3


 焼き肉をおごるからぜひ会ってほしいと、アイから連絡が来た。

 この前のことを相当気にしているようだ。

「このあいだは取り乱しちゃってごめん!」

 テーブル越しに頭を下げてくる。

「もういいって」

 ぼくは肉の焼ける香ばしい匂いに気を取られていた。

 焼き肉食べ放題なんて久しぶりだ。しかもここは食べ放題のお店ではない。でもアイの奢りだから今日は遠慮なくいただくことにしよう。

「それよかさ、もう食べてもいいかな。焼けてるみたいなんだけど」

「どうぞ。お好きなだけ」

「じゃ、遠慮なく」

 旨い旨いと言いながら、箸が止まらない。

「……やっぱりさー、食生活に問題があるんじゃないのかな」

 ぼくの食べっぷりを見ながら、あきれたような声を出す。

「あ、そうそう。あれからちゃんと医者に行ってきました」

「あらま、いい心がけ」

「実は職場でもふらついちゃったもんで」

「それはまずいんじゃないの。で、どうだった」

「うん。耳の病気ではないって言われた」

「耳?」

「耳鼻科に行ったんだ」

「めまいって……そうか、三半規管とかは耳鼻科系だもんな」

「そう。それでね、一度大きい病院でちゃんと原因を突き止めたほうがいいってことで、市立病院に予約を取った。だから検査してくるよ、ちゃんと」

「そうか。そうだね。そういうのはちゃんとしといたほうがいいよ。うん。よかった」

 アイの表情が緩んだ。

 ぼくは単純なもので、検査に行くと決めたらもうそれだけで症状が良くなったような気がしている。

「もっと食べていいかな。本当に奢ってもらっちゃっていいの?」

「二言はありません。俺も負けずに食べますので」

 それからぼくは、当分のあいだ野菜炒めに肉は入れないぞ! と思えるくらい食べまくった。

「あー、これ以上食べたら出ちゃうー」

 ぼくは眼鏡を外して、おしぼりで汗ばんだ顔を拭いた。

「あ、メガネ取ったら、むっちゃんだ」

「なんだそりゃ」

「むっちゃんはむっちゃんなんだなーって思っただけ……えーと、じゃあ、落ち着いたらそろそろ行きますか。話の続きは別の店でしようと思うんだ。そっちも今日は俺が持つので」

「太っ腹だねえ。ほんとにいいの?」

「うん。知り合いの店だから」

「そう、じゃあ遠慮なく。焼き肉、ごちそうさまでした」

「どういたしまして。喜んでいただけてよかったです」

 店を出るとすぐに横のビルを指さす。

「ほら、あそこ」

 二軒ほど隣りのビルの壁には複数の看板が並んでいた。

「AL。エーエルって書いてアルって読むんだけど」

「ふーん。バーって書いてあるね。バーなんて洒落たとこ、入ったことないな」

「それはよかった。入ってみなよ、何事も経験だよ」

「そうだね」

 地下に続く階段を下りると重厚なドアがあった。〈一見さんお断り〉とか〈会員制〉とか小さく書いてあるんじゃないかと思ったが、どこにも見当たらなかったので安心した。

「高そうなお店だね。いくら知り合いだからって、アイがこんなお店に入り浸っているとはね」

「入り浸ってるわけじゃないけど、でもご飯とか食べにくる」

「ご飯? ここってバーだよね」

「バーだよ。とにかく入ろうよ」

 アイが扉をあけた。

 心地よいジャズの音に体が包まれる。

「こんばんは」

「いらっしゃい。あれー、一人じゃないなんてめずらしいわね。そちらはお友だち?」

「そう。これがむっちゃん」

「あら、あなたが」

 どうやら前もってぼくのことを話してあったらしい。

 薄暗い店内ではすぐに目が慣れず、ぼくは声のするほうに向かってお辞儀をした。

「なんか大学生みたいだけど」

「前にも言ったでしょう。幼なじみだよ」

「兄弟に見えるわよ」

 やっとピントが合ってきた。カウンターの向こういるのは髪の長い女性だ。目鼻立ちのはっきりとした、笑顔の美しい人だ。

「むっちゃん、こちらがこの店のオーナーの城山しろやまたまきさん。環さん、これが国広無双くんです。むっちゃんと呼んでください。ちなみに俺のことはアイと呼んでください」

 環さんがからからと笑った。

「なによ、その紹介は。じゃあ私のことは環って呼んでください。よろしくね、むっちゃん」

 カウンター越しに手を伸ばしてくる。

 ぼくはその手を取って軽く握った。

「よろしくお願いします」

「じゃあ奥の席借りるね」

「いいわよ。で、ご注文は?」

 アイはぼくをふり返る。

「体調悪くなると困るからな。ノンアルコールにしとく?」

 ぼくは焼き肉のときもウーロン茶を飲んでいた。

「大丈夫だよ。生まれて初めてのバーだから、なにか軽いアルコールでも」

「かしこまりました。では、おまかせで作らせていただきます」

 アイがなにか言う前に環さんが返事をする。

「お席にお持ちしますので、お好きな席へどうぞ」

 ちょっと肩をすくめてからアイは奥へ歩き出した。

 ぼくたちはテーブルに着く。

 ゆったりした空間にあるテーブル同士は、座ったときに顔が隠れるくらいの低い壁で仕切られていて、まるで個室のようだった。かといって妙な閉塞感はない。これなら隣のテーブルの声も気にならないだろう。ジャズの音も会話の邪魔するようなことはなかった。

「なんか落ち着く場所だね」

「でしょう。だからつい来ちゃうんだよね」

「最近はご無沙汰だったけどねー。はい、お待たせしました」

「ずいぶん早いじゃん」

 環さんが飲み物とグラスをテーブルに置いた。

「今日はサービスしちゃうから。おかわりもオーケーよ」

「って、なにこれ」

「ノンアルコール清涼飲料水。コーラともいう」

「ふざけてる?」

「いいえ。ねえきみたち、ここにお話をしに来たんでしょ。真面目な話はアルコールなんかで茶化すものじゃありません。じゃあ、ごゆっくり」

 それだけ言うと、環さんはカウンターに戻っていった。

「……しょうがないな」

「いいんじゃない。環さんの言うとおりかも。じゃあぼくのバー初入店を祝って――」

 グラスを合わせる。

「じゃあ、さっそく……このあいだの続きなんですが」

 アイは姿勢を正し、本題に入る。

「あれからずっと思い出す努力をしてた。まず、幼稚園のときにむっちゃんのことを本当はどう思っていたのか。で、思い出したことは」

 ぼくは無言のまま、眼鏡のフレームに手をやった。

「やっぱり憧れていたよ。みんなに好かれるむっちゃんみたいになりたいと思っていた。むっちゃんと一緒に遊びたかった。でもね……正直に言うよ。むっちゃんと遊ぶのは楽しかったけど、俺はコウガとも仲良くしたかったんだ」

 アイはぼくを正面から見つめる。

「コウガと?」

「そう。むっちゃんはたぶん知らないんじゃないのかな。コウガとうちは、母親同士の仲が良かったんだ。ママ友ってやつ。家の行き来もしていたんだよ」

「……知らなかった」

「だろうね」

 記憶を辿る。幼稚園のとき、だれかの家に遊びに行ったことは何回かある。しかしそれは〈家の行き来〉というのとは違う。お誕生日会に呼ばれたとか、そういう突発的事情だった。

 そういえば、母親がだれかの母親と特に親しくしていたというのも覚えていない。

「うちの母親のママ友はだれだったんだろう」

「むっちゃんには悪いけど、むっちゃんのお母さんはあんまり誘いにはのってこなかったらしいよ」

 そう言われて思いあたることがあった。

 風船のようにふわふわとして、つかみどころがない人だった。地に足がついてないような、どこを見ているのかよくわからない人だった。じいちゃんや父さんが糸を離してしまったから、あてもなく飛んでいってしまったのだろうか。

 たしかにぼくが赤ん坊のころは並外れた愛情を注いでくれた。でも物心がついたときには、もうぼくのほうが母親離れをしていたように思う。不思議なことに、あの人はぼくと他人のように接していた。けっして冷たくされたわけじゃない。ただ普通の親子のようななれ合いは、どう考えてもなかった。子どものぼくを一人前の大人のように扱っていた。理由はわからない。でもぼくはそれをおかしいとは思わずに受け入れていた。だから家を出たいと言ったときも、あの人らしいな、と頭のどこかでは納得していたのだ。

「……あの人はちょっと変わっていたかもしれないな。その血を受け継いでいるぼくが言うのもなんだけど」

「俺は、おばさんのことはあんまり印象に残ってないんだ」

「そうか」

 いくら考えてみても、外で幼稚園の友だちと遊んだ記憶はどこにもなかった。

「母親同士が仲がいいと、必然的に子どもたちも一緒に遊ぶことになる。だから俺はコウガとよく遊んでいたんだよ」

「でもさ、幼稚園ではコウガはアイのことをいじめてなかった? どんくさいって」

 アイが口元をゆがめてふっと笑う。

「むっちゃんにはそういうふうに見えていたんだね。でもあれはコウガの照れ隠しだよ。子どもだから加減がわからなかったんだ。いじめてるように見えたとしても、コウガは俺を嫌ってたわけじゃない。むしろ逆。俺もコウガと一緒にいたかった」

「……そうだったのか」

 ぼくはやっぱりアイのことをなにもわかっていなかった。

「それで、むっちゃんが俺と仲良くしているのを見て、コウガがむっちゃんにやきもちをやいたんだ」

「コウガが? ぼくにやきもち? なんで」

「コウガはね、本当はむっちゃんと仲良くしたかったから」

「それはないって」

「いいや、あるんだ。コウガは素直になれなかっただけだ。だから、自分を差し置いて無条件でむっちゃんにかまってもらうようになったアイに、俺にイライラして、あたってしまった」

「複雑だね。子どものころのあの世界も単純ではなかったってことか」

「今さらだけどね。つまり俺は、むっちゃんとコウガの板挟みになっていた。三人で仲良くすればよかったんだろうけど、そうはならなかった。むっちゃんはコウガと遊ぶ気はないようだったし、コウガも自分からむっちゃんには近づかなかった」

「コウガはぼくのことを避けてたよ」

「そう思われても仕方ないのかな。コウガはプライドが高かったから」

 アイはため息をつく。

「それで……俺もなんかむしゃくしゃしていて、そうしたら、たまたまむっちゃんが目の前にハンカチを落としていった。少しは気が晴れるかと思って、俺はそのハンカチを捨てたんだ」

「ハンカチを、落とした?」

「そう。俺が拾って、ゴミ箱に捨てた」

「え、そうだったの……」

「そうなんだ。そこで、一つ疑問が浮かんでくるんだけど――ねえ、なんでむっちゃんは俺がハンカチを捨てるところを見たなんて嘘をついたの?」

「嘘なんてついてないよ」

「嘘だよ。だって俺がハンカチをゴミ箱に捨てたのは、むっちゃんがトイレに行ったときだよ。ちゃんと部屋を出るのを見届けてから捨てたんだ。抜かりはなかった。だからむっちゃんは絶対に見るはずがないんだよ」

 ぼくは眼鏡を外して目頭をもんだ。

「……あのさ、この前ぼくの部屋で話したこと覚えてる? 子どものころの断片的な映像に意味づけをしようとして記憶を改ざんしてしまう、みたいな話」

 眼鏡をかけ直して、あらためてアイを見つめる。

「うん。それでいくと、たとえばさ――俺の行動や仕草になんか不審をもったむっちゃんが、ゴミ箱に捨てられた自分のハンカチを見て、本当は見てもいないのにアイがやったって思いこんだ、とも考えられるよね」

 もっともな意見だ。

 でも、ぼくは嘘をついたわけじゃない。思いこみでアイを犯人にしたわけではない。

「あの事件のあと、アイはしばらく幼稚園を休んだよね」

「……そうだったね」

「それでぼくはアイの家にお見舞いに行った。アイの部屋で二人で遊んでいて、眠ってしまった。アイもぼくも……」

 ぼくはアイを観察していた。

「覚えている? そのときのこと」

 返事はなかった。彼は遠い目をしている。

「ぼくがアイのしたことを見たのはそのときだ」

 不可解な表情が浮かぶ。

「ぼくはね、アイの記憶を見たんだ」

「なに言ってるの?」

「だから、ぼくはアイの持っていた記憶を見たんだよ」

 アイはぽっかりと口をあけたが、いきなり笑い出した。

「記憶を見るって? なにそれ、冗談でしょ」

 たぶんこれが普通の人の反応だ。

 ぼくはこのことをだれにも言ったことがない。

 ただ、じいちゃんは知っていた。

 ぼくはじいちゃんと一緒に昼寝をすることが多かった。そして目覚めると、今見たばかりの鮮明に覚えている変な夢の話をした。


 田んぼのあぜ道が続いている。見覚えのない田舎の景色。視線の先には小学校低学年くらいの男の子がいた。元は白だと思われる汚れたシャツに、今どきめずらしく丸刈りだ。ぼくに向かってなんか叫んでいる。足元に落ちてる石を無造作に拾うと、ぼくに投げつける。さんざん石を投げられたと思ったら、いきなり男の子が突進してきた。逃げる間もなくぼくは倒されて仰向けになる。空が見えた。どんよりとした灰色の空。丸刈りの子の顔が近い。どうやら彼はぼくに馬乗りになってるようだ。ふいに視線が横にふれる。殴られた? そして不自然に反対側に。男の子の手には芋が握られていた。男の子がぼくの体から降りる。背を向けて一目散に走り去っていく。

 恐怖と不快な気持ちで半べそをかきながら目覚めると、ぼくは隣に寝ていたじいちゃんをゆり起こした。

「変な子どもにいじめられた。どこだかわかんないけど、田んぼがあって、石投げられた。お芋も取られちゃった。そこらへんに生えてる変な草とか食べた。カエルを捕まえた。トカゲとヘビも捕まえた」

 目を見開いて、バケモノでも見るようにぼくをじっと見ていたじいちゃんの顔が忘れられない。

「……夢を、見たのか」

「うん」

「おまえには不思議な力があるかもしれん」

 ぼくが言ったことは、じいちゃんが子どものころ実際に疎開先で経験したことだった。

 また後年知ったことだが、じいちゃんがぼくの「無双」という名前に良い感情をもっていなかったのは、「忠勇無双ちゅうゆうむそう」という言葉があり、戦争を思い出してしまうのがいやだったということらしい。

 夢の話を聞いたじいちゃんはしばらく考えこんだあと、

「おまえの見た夢の話はだれにもしないほうがいいぞ」と、ぼくに忠告した。

 じいちゃんの顔があまりに真剣だったので、ぼくはすぐにうなずいた。

 その後もじいちゃんと昼寝をするたびにおかしな夢を見た。

 両親が生まれたばかりの赤ん坊をあやしている。二人ともとろけそうな表情をしていた。そのころのぼくにはその赤ん坊がだれだかわからず、しばらくのあいだ嫉妬していたこともある。

 そんな夢の話をするたびに「だれにも言ったらいけないぞ」とじいちゃんに念を押され、ぼくは忠実にその言葉を守っていた。



   4


「――ぼくだって信じられないよ」

「からかってない?」

 アイを見据えたまま首をふる。

「まさか……本当に?」

「現実世界で生きているぼくの、唯一のファンタスティックな能力」

「能力って、ちょっと待ってよ」

 自分を落ち着けるように、コーラをごくりと飲む。

「……本当に、本当なのか」

 疑うのも当然だ。でもぼくが他人の記憶を見られるのは事実だ。

 いきなりとんでもないことに気づいたようにアイの表情がこわばった。

「ひょっとして……今、俺の記憶が見えてるとか――」

 おそるおそる聞いてくる。

 ぼくが今記憶を見ているとしたら、それはアイにとって恐怖でしかないだろう。

「見えないよ」

「よかったー」

 心底ほっとしたように言って脱力する。

「じゃあさ、ちょっとやってみてくれないかな。そうすれば信じられるかもしれないから」

「ここでは無理だよ。それに――見世物じゃないし」

「呪文や魔法陣が必要とか」

「まさか」

 アイは唇をなめる。

「……実はさ、そういうのも記憶の改ざんだったりしない? 本当は見えないのに、見えたって思いこんでいたり……」

 ぼくが見たアイの記憶は〈手にしたぼくのハンカチをずっと見つめている〉〈ゴミ箱にハンカチを捨てた〉という二つの映像記憶だけだ。だからアイが言った〈落としたハンカチ〉という情報は知らなかった。ぼくはその部分の記憶を見ていない。

 アイにもぼくが見た二つの映像記憶の説明をする。

「ぼくは記憶を改ざんなんてしてないよ」

 これだけは自信をもって答えられる。

「……でも、やっぱり実際にやってもらわないと信用はできないな」

 それはそうだろう。こんな話はだれも信じてくれない。ぼくが最初に話したのが両親ではなくじいちゃんでよかった。だれにも言うなというその判断は正しかった。だからだれにも話すつもりはなかった。でも彼になら……。

「記憶を見るためには条件があるんだ」

「どんな?」

「条件は二つ。相手とぼくが両方とも寝ていること。そして、できれば手をつないでいること」

「じゃあ、手をつないで一緒に寝れば相手の記憶が見られるってことか」

 アイは少し考えこむ。

「……悪いけど、そう簡単に信じられる話じゃないね」

「そうだろうね」

「でもさ、そういうビックリ人間能力って、大人になるにつれてだんだんとなくなっていくとかあるじゃない。そういうことはないの」

「さあ、どうかな。自分ではよくわからないよ」

「大人になってから試してみたことってあるの」

「どうだったかな。ないと思うけど……」

「そうか。じゃあ今もできるかどうかはわからないね」

「うん。確実に見られるって保証はない」

「そーかー」

 いつのまにか前のめりになっていたアイが、大きく息を吐いて背もたれに寄りかかる。どうやら張りつめていた糸が切れたようだ。

「なんかなー、もう、頭がいっぱい。今日のところはもうこれ以上ちょっとごめんなさいって感じなんだけどー」

「同感」

 ぼくも肩をまわして体をほぐす。

「密度の濃い一日だな。むっちゃんがどうして嘘をついたのか、その理由がわかってよかったよ。ああ、ごめん。嘘はついてなかったんだっけ」

「うん。ぼくは、どうしてアイがハンカチを捨てたのかがわかってよかった。長年の疑問が解けた。コウガと仲良しだとは夢にも思わなかったから、アイには悪いことをした。ごめんね。今さら言っても遅いけど」

「本当に子どもだったんだな、俺たち。記憶でしかないけど、現実にちゃんと子ども時代を過ごしてきたんだなって、なんか不思議に思うよ」

「今日のことだって記憶でしか残らないよ」

「死ぬときに走馬灯のように思い出すってか。あーもうやめよう、そんな話。なんか疲れた……」

「そうだね、ぼくも疲れた。……じゃあ、今日はもう帰ろうか」

「うん。そうだね」

 ぼくたちは環さんに挨拶に行く。

「あらー、もう帰っちゃうの」

「うん。今日は退散する」

「ごちそうさまでした」

「どういたしまして。また来てね、むっちゃん」

「はい。ありがとうございます」

 店を出てあっさりとアイと別れる。彼とはいつでも会えるという安心感が、ぼくのなかにあたりまえのようにあった。

 それにしても疲れていた。早く家に帰って眠りたい。最近は体力も気力も視力もますます落ちてきた気がする。ふいに病院に検査に行くことを思い出して、憂うつになった。

 電車にのり、両手で体重をかけるようしてつり革につかまりながら、別れ際にアイが言ったことを反芻はんすうする。

「やっぱりさ、人って自分の都合のいいように記憶を改ざんしちゃうんじゃないのかな。ごめん。むっちゃんという人間は信じてるけど、〈他人の記憶が見える〉っていうのはやっぱり信じられない」



   5


 アイからメッセージが届いた。

『突然ごめん。週末、家にいってもいいかな? このあいだ泊まってもいいって言ってくれたよね! ねっ!』

 泊まるのはべつにかまわないが、なにかあったのだろうか。

『うん。いいよ』と返す。

『サンキューです。夕飯の食材は持っていきますのでよろしくお願いします』

『どうかしたの?』

『話を聞いてもらえるだけでいいんです』

 まあ、そういうときもある。でも、アイならぼく以外にも友だちがたくさんいそうな気もするが。

『ぼくでよければ』

『むっちゃんじゃなきゃダメなんだ!』

 なんだかわからないが、妙に切羽詰まった様子は伝わった。

『わかった。お待ちしています。お気をつけてお越しください』

『ありがとう!』


 ドアをあけると、両手にスーパーの大きなビニール袋を提げたアイが立っていた。

「ちわ。お言葉に甘えて、来ちゃいました」

「いいよ。食材を持ってきてくれるなら大歓迎だよ。どうぞ」

「おじゃましまーす」

 キッチンのテーブルに重そうな袋をドンと置く。

「えらくたくさん仕入れてきたね。なにをそんなに買ってきたの」

「えーと、野菜を中心に、あとは肉と魚と……」

 並べた食材でテーブルがいっぱいになった。

「スイカとペットボトルは冷蔵庫に」と、扉をあけ「相変わらずなにもないねえ」と言いながら、「アイスと冷凍の枝豆と餃子とハンバーグは冷凍室に」と手早くしまいこむ。

「いったい、なにを作るつもり」

「さあ……」

 あきれる直前、はたと気づいた。

 ぼくは、本当にアイのことを知らなさすぎる。

「アイって、一人暮らししてるの」

 手を止めて、ぼくをふり返る。

「どうして?」

「一人暮らししている人はそんな食材の買い方はしないよ」

 いくら給料が高くてもこんな無謀な食材の買い方はしない。

「……そっか。そうだよね。でもその話は夕飯のあとでするよ。とりあえず、これらでなにか作ってよ」

「ぼくが?」

「うん。だって俺、まともな料理なんて作れないもん」

「いや、ぼくだって料理は好きじゃないんだけど」

「でもちゃんと自炊してるんでしょ。だったら外食ばっかりの俺よりましだから、よろしくお願いします」

 しょうがないなあ、とぼくは食材を確認する。

「じゃあ、腐りやすいものから使っちゃおうか。魚はなに」

「鮭、甘塩」

「とりあえず焼こう。焼いとけばおにぎりの具になるから」

「お、主婦っぽい」

「肉は」

「牛と豚買ってきた」

「どっち食べたい」

「両方」

「うーん、じゃあチャーハン――って思ったけど、やっぱり玉ねぎニンジンじゃがいもがあるから、カレーにしようか」

「いいね。あ、俺、包丁なら使えるよ」

「じゃあよろしく」

 ぼくはお米をといで炊飯器にセットする。それからグリルで鮭を焼いた。

 アイは手際よく野菜と肉を切り、鍋で炒めはじめる。

「できるじゃん。ぼくより包丁使いがうまいよ」

「おだてんなよ」

 そう言うわりには嬉しそうだし、手慣れている。

「ついでにサラダもお願い。洗って盛ればいいだけだから」

「了解」

 出来上がった牛豚カレーは予想を軽々と超えるいい味がした。

「いけるね! いっそカレー屋でもはじめる?」

「それはいくらなんでもねえ。褒めるべきは市販のカレールーだよ。ルー恐るべし」

「そっか。でも三種類も混ぜるなんて、むっちゃんもやるじゃない」

「我が家の秘伝のブレンドだよ」

「人んちのカレーってさ、すごく美味しく感じるよね」

「そうだね。今度はアイが作ってよ」

「いやー、俺は無理。家庭の味って覚えてないんだよ」

「おばさん、カレーを作ってくれなかったの」

「あ……いや、ほら、アメリカとかだったから。食卓にカレーが出ることはあんまりなかったんだ」

「食生活が違っていたんだね」

「うん、そう」

 ぼくは立ちあがって冷蔵庫からビールを出した。

「飲むでしょ」

 眉を下げたアイは悲しげに首をふる。

「やめとく」

「どうして。ぼくに遠慮しないでよ」

 検査が終わるまで、ぼくは自主的にアルコールを控えている。

「そうじゃなくてさ。実は、禁酒してるんだ」

 大げさに肩を落とす。

 ぼくはビールをしまって、かわりにアイが買ってきたウーロン茶のペットボトルをテーブルに置いた。

 こんなに落ちこむということは、お酒でなにか失敗をしたんじゃないのか。

「なにかやらかしたの?」

 アイが体を縮こめる。

「それがさ、仕事のつき合いでね。まあ接待みたいなもんだけど、そこでけっこうお酒を飲んじゃってね……だけどその日は、本当は大事な用事があったんだよ。でも仕事の延長だったからお酒を断れなくて……」

 どうにも歯切れが悪い。

「話しにくいことなら、無理に話さなくてもいいよ」

「いや、聞いてほしいんだ。そのために来たんだから」

「そうなんだ。わかった。ちゃんと聞くよ」

「ありがとう。最初から説明する」

 ふーっと長く息を吐いてから、アイは話しはじめる。

「俺、一応一人暮らししてるんだよ。都内のワンルームマンション借りてる。仕事の都合でカプセル泊まったりもするけど、けっこう部屋には帰れていると思う」

「大変だね」

「そうでもない。仕事は嫌いってわけでもないし、そう悪くはないって思ってるんだ。……それでたまにね、顔つなぎとか接待みたいなことをするときがあるんだよ」

「営業努力をしてるんだ」

「まあね。それで実は、俺、大切に思ってる人がいて……」

「環さん?」

 アイが顔を跳ね上げる。意外そうにぼくを見た。

「わかった?」

「うん。環さんのことが好きなのはすぐにわかった。けど……」

 大人になったアイとはつき合いは短いが、そういうことはなんとなくわかるものだ。

「けど?」

「……ううん。なんでもない」

 恋人って雰囲気じゃなかった。

「まあ、彼女とはたまに家の行き来をしてて。生活時間がずれてるからね。だから夕飯はALに食べに行ったりしていたんだ」

「ああ、それで」

 あの店でアイに夕飯が出る理由がわかった。

「そう、それで……それでね。俺、彼女にプロポーズをしようと思ってさ。ちょうどその飲みに行った日が彼女の誕生日だったんだ。店で渡すつもりで、指輪を用意してたんだけど……結局遅くなっちゃったし俺もかなり酔ってたから、その日に渡すのはあきらめたんだ」

 なんだ。結婚まで考えるような相手だったんだ。

 どうやらぼくは思い違いをしていたようだ。

「おめでとう」

「いや、まだ早いって」

 アイの顔が曇る。

「それで、折り入ってむっちゃんに頼みがあるんだよ」

 結婚式関係の依頼かな。祝辞とかは緊張しそうでいやだし、受付くらいならやってもいいけど。

 そんなことを考えながらアイを見ると、泣きそうな顔になっている。

「……どうしたの」

「なくしたんだ」

「なにを」

「指輪」

「は?」

「だから、酔っ払って、連れまわされているうちにどっかにいっちゃったんだよ! 俺の買った指輪」

 顔を両手で覆う。

「それは、また、なんだな……」

 泣きたくもなるだろう。

「……助けてよ」

 指のすきまから目だけ出して、くぐもった声で言う。

「ぼくが? もう一度買うからお金貸してってこと」

 大げさにぶんぶん首をふる。

「じゃあなに? ぼくにはどうすることもできないと思うけど」

 アイは真顔でぼくを見る。

「できるじゃない。むっちゃんにしかできないこと」

 ぼくにしかできないこと――そんな心当たりはない。

「俺の記憶を見てよ」

「え」

 記憶を見る。それはたしかにぼくにしかできないことだ。

「本気?」

「マジです。本人が見てることなら、たとえ酔って忘れていたとしても記憶として残っているはずだよね。その物が視界に入っていれば、たとえ本人が意識して覚えてなくても、記憶はされているよね」

「まあ、たぶん……」

「じゃあお願い!」

 パンッと両手を合わせて拝んでくる。

「一生のお願い!」

「でもねえ……」

 ぼくは躊躇する。

「あのー、ところでさ、記憶ってむっちゃんにはどういうふうに見えるの」

「映像。写真とか動画のような感じ」

 ただし音は聞こえない。ぼくは今まで音声を聞いたことがない。ぼくが見られるのはあくまでも映像だけだ。

「写真のスライドショーみたいな感じ。あとは、昔のサイレントムービーのような動画のときもある」

「サイレントってことは、音声はついてないんだね」

「うん。どういうわけか」

「そうか。それと、非常に気になることが一つ」

「なんでしょう」

「見られたくない記憶も見られてしまうのかな」

「それは、たぶん見られない……どう説明しようか」

 誤解されないように、ちゃんと他人に通じるように説明するのは案外難しいことだ。

「……そうだな、えーと、ぼくが真っ暗で広い空間に一人で立っているところを想像してもらって――」

 ぐるりと一周、ぼくはドアに囲まれている。小さいのや大きいの、四角や丸や赤や緑色のいろんなドアがたくさんある。開いてるドアもあれば、閉じているのもある。

「記憶はドアのなかに入っているんだ。数あるドアのなかで、ぼくが見られるのはひらいているドアのなかだけ。ドアが閉じていても、あけられればなかの記憶を見られる。でも鍵がかかっているドアや、触れたとたん電流が流れたように弾かれるドアはダメだ。見られない。おそらくその人が無意識か意識的に閉ざしている記憶のドアだから」

「わかった。じゃあ、お願いするよ。頼むから俺の記憶を見てください」

 必死で頭を下げてくる。

 断る理由も見当たらなかった。

「そんなに言うならやってみようか。環さんのためでもあるし」

「ありがとう!」


 デザートのスイカを食べ、アイがシャワーを浴びているあいだにぼくは後片付けをすませて、布団を敷いた。

「こうやって畳の上でお布団で寝るのは久しぶりだなー」

 はしゃいでごろごろと転がっていたアイは、ぼくがシャワーを浴びてるうちにうたた寝をしていたようだ。

 ぼくの部屋で、ぼく以外の大きな生物が無警戒に横たわっている。

 それはなんともいえない奇妙な光景だった。

「ねえ……寝ちゃった?」

「ん……寝てない」

 まぶしそうに薄目をあける。

「じゃあ電気消すから。一応、手をつないで寝ようか」

 むっくりと起き上がってアイは胡坐をかいて、あくびをする。

「どうしよう。緊張して眠れないかも」

「今寝てたじゃん」

「寝てないって」

「じゃあ薬飲む? あるよ、睡眠導入剤」

「見せて」

 ぼくはピルケースから薬を出してアイに渡した。

「うん。これならいいや。飲んじゃえ」

 アイは薬を口に放りこむと、キッチンに水を飲みにいった。

「左手にしようかな。ほい」

 アイが手を出してくる。ぼくはその手を見つめた。

「本当はね、手をつながなくても大丈夫だと思うんだ。体の一部が対象者に触れていればそれで見られるはずだから」

「……ちなみに俺は寝相がよくない。あと、こんなことは一度でたくさんだ」

「なら、万全を期そうか」

 ぼくは救急箱から包帯を取りだしてきた。

「ちょっと、なんのプレイ」

「まず、手は恋人つなぎね。で、その上から包帯を巻く」

「マジ?」

 ぼくはうなずいた。

「くそー。こんな目にあうとは」

 渋々といった感じでアイが手を出してくる。ぼくは右手で指と指をからませていく。妙な感触だ。アイも頬を引きつらせている。その上から包帯をぐるぐると巻きつけた。

「ほら完璧でしょ」

「あーあ」と、言いながらアイがごろりと横になった。

 明かりを消してぼくも寝る。

「ねえむっちゃん。もし、もしもだよ……このまま二人とも目が覚めなかったらさ、発見した人はこの状況を見てどう思うだろうねえ」

「心中」

「ははは、そうならないことを祈るよ。じゃあ、おやすみー」

「おやすみ」

 アイはすぐに寝息をたてはじめた。

 これなら薬なんて必要なかったんじゃないのか。

 ぼくはしばらくぼんやりと闇を見つめていた。そうしていつのまにか眠ってしまったようだ。



   6


 気がつくと暗い場所にいた。

 どうやら無事にたどり着いたようだ。たどり着くといっても、意識してこの場所に来ようと思ったことは一度もない。だからアイには言わなかったが、今回のように来たいと思って来ることができるのかは、正直わからなかった。

 ふとなにかの気配を感じて足元を見る。

 探すまでもなかった。指輪はぼくの目の前に落ちていた。

 腰をかがめて拾おうとしたら、指輪が転がって逃げていく。止まった先でぼくが近づくとまた転がりだした。どこかに誘導しているようだ。ぼくは指輪を追って歩きだす。

 やがて、一つのドアの前に着いた。五センチほどすきまがひらいていて、指輪はそこからするりとなかに入った。

 覗きこむと、居酒屋だった。

 ぼくは大きくドアをあけてなかへ入る。

 目の前には二人の男性。三十代と四十代くらいだ。完全に出来上がってる顔で、ぼくに向かって、というか、アイに向かってなにかをまくし立てるように口が動いている。もちろんなにを言っているかはわからない。

 場面が変わる。三人で店を出ると、タクシーを拾った。四十代のほうがタクシーに乗りこむ。残りの一人と一緒に歩き出す。地下鉄の駅に降りていく。改札口でその人と別れた。電車に乗る。どこかの駅で降りて地上に出る。また場面が変わる。人気のまったくない暗い道を歩く。景色が揺れている。どうやらアイも相当酔ってるみたいだ。急に道の真ん中で立ちどまる。いきなりカバンをあけた。小箱を取りだす。それを目の前に掲げて見つめたあと、上着のポケットに入れる。また歩きはじめる。マンションに入っていく。エントランス。エレベーターに乗る。降りて、二つ目のドアの前で鍵を取りだす。ここが彼の部屋か。ドアをあけてなかに入る。冷蔵庫へ直行。冷蔵室の扉をあける。ペットボトルを取りだす。グラスに注ぐ。一気に飲み干して、またグラスに注ぐ。冷凍室をあける。グラスに氷を入れる。上着のポケットを見る。手を突っこんで小さな箱を取りだす――。

 酔っ払いというのは本当に……。

 ため息が出た。

 ぼくはドアから出る。

 最初の地点に戻った。帰ろうと思ったそのとき、突然小さなドアが目の前に現れた。意味ありげに黄色く点滅している。ぼくに見てほしいという合図を送っているのだろうか。

 しばし考える。

 これは本当に彼がぼくに見せたいものなのか。この記憶をぼくに見せるのが彼の本心なのか?

 手を伸ばしたが、やはり迷った。

 今回は指輪の行方を探すことしか頼まれていない。このなかの記憶を見てしまい、もし、その記憶がぼくに関係があることだったら――ぼくは隠し事がヘタだ。完全にアイにばれるだろう。それで、もしそれがぼくに見せたくない記憶だったとしたら――信頼関係は確実に崩れる。

 でも、こうしてわざわざ目の前にドアを出現させるということは、このなかの記憶をぼくに知ってほしいということではないのか……。

 さんざん迷った挙句、ぼくは手を引っこめた。

 そのままきつく目をつむる。

 気がつくと朝だった。

 手はしっかりとつながれたままだったが、アイの体はぼくと九十度の角度をなしていた。

 アイが目覚めるまでぼくは天井を見ながら考えにふけっていた。

「……あー、朝」

「おはよう」

「んー」

 思いきり伸びをしたアイに、ぼくの右手が引っぱられる。

「あ、取れなかったんだ。よかった。で、どうだった」

 ぼくは起き上がり、包帯をほどきながら答える。

「冷凍室のミートボールの下にあるよ」

「うそでしょ。なんでそんなところに」

「自分で入れたんじゃないか」

 ぼさぼさの頭でアイはぼくを見つめる。

「帰ったら確かめてみるよ。ちゃんとあったら、そのトンデモ能力を信じる」

 その後、家に帰りついたアイから連絡が来た。

『指輪発見! ありがとう! ビックリ人間で売り出そうか?』

『やめてよ。それよか、環さんによろしく。プロポーズ成功を祈る!』

『重ね重ねありがとう。このお礼はいずれ。じゃあまたね』


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