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第二部 再会

   1


 空は澄んでいるが、空気は湿り気を帯びている。どこかにくちなしでもあるのか、微かな甘ったるい匂いが鼻腔をかすめる。ほとんど風のないなか、線香の細い煙がゆらゆらと立ち上っていく。

 読経と一連の儀式が終わると、集まった人たちは墓石の前に並んで集合写真を撮った。

「晴れてよかったわ」

「でももう日が射すと、初夏の陽気ね」

 ほうぼうから談笑が聞こえてくる。

 先ほどぼくは冠婚葬祭のときしか顔を合わすことがない父親方の親戚に挨拶をしてまわった。

「まあ大きくなっちゃって。私も年をとるはずだわ」

 すでに数分間のお約束のやりとりを全員とすませていた。それから時間はあまりたっていなかったが、今度は辞去の挨拶をしてまわる。

 次に会うのは六年後の二十三回忌だ。六年後に自分がどうなっているかなんて、なんにも想像できない。

「これで失礼しますので、どうぞお体に気をつけてお過ごしください。本日は遠いところをありがとうございました」

 あらかたまわったところで父親に声をかける。ぼくの役目はもう終わりだ。これ以上ここに留まっても、もうなにもすることがない。

「そろそろ行くよ」

「そうか」

「じゃあね。元気で」

「ああ。おまえもな」

 そうして寺をあとにした。

 帰り道、実家の前を通ってみる。

 ぼくが二十歳まで住んでいた家。今は父親が住んでいる、新しい家族と。

 新しい奥さんは今日法事に来ていなかった。もしかしたら留守番をしているのかもしれない。

 住人が入れかわっても、じいちゃんやぼくがいたころと変わらず、家は何事もなかったように静かに佇んでいた。

 思い立って、幼稚園に足を向ける。

 懐かしい道はなぜかとても狭く感じられた。おまけにどうしたことか急に景色が色あせていき、視界がぼやける。

「まずい……」

 頭がくらくらして立ちどまった。そのままブロック塀に寄りかかる。

 酷いめまいだ。この暑さのせいなのか。いいや違う。きっとストレスのせいだ。

 目をつぶり、片手をおでこにあててじっとしていた。幸いなことにすぐにおさまったので、ゆっくりと目をあける。大丈夫、景色も元通りだ。

 ほっとして歩き出す。

 子どものころは園までの道のりをずいぶん遠く感じたものだったが、今日はあっけなくついてしまった。単純にぼくがそれだけ成長して歩幅が広がったということなのだろう。

 幼稚園の門扉は固く閉ざされていた。

 園庭はたしか土のはずだったが、今はアスファルトになっている。すべり台も建物も塗り直されたのか、覚えている色とは違っていた。

 懐かしい気持ちはあったが、心を揺さぶられるようなことはなかった。

「あのう、すみません」

 後ろからの声にふり向くと、背の高いスーツ姿の男性が少し離れた場所に立ってこちらを見ていた。

「あの失礼ですが、もしかして……国広さん?」

 だれだろう。記憶にない。

「はい。国広ですが」

 自分から声をかけたのに、彼は驚いたような表情をした。言葉を失ったように立ちつくしている。

 やはり見覚えはない。

「あの……」

 ぼくの声にはっとなり、慌てて近寄ってくる。

「俺……いや、ぼく……のこと、覚えていますか。えっと、その……むっちゃん?」

 なにかを探るようにこちらの顔を見る。

 その視線で神経のどこかにあるスイッチがカチリと入る。そして自分の意思とは関係なく体がこわばっていく。意味もなく眼鏡のフレームに手をやり、押し上げた。ぼくは緊張するとなぜか無性に眼鏡に触りたくなる。

 ぼくのことを「むっちゃん」と呼ぶのは一人しかいない。でもその一人が目の前の彼とは思えなかった。面影のようなものが全くないのだ。まさか整形? それとも二十年以上の歳月は人をこうも変えてしまうのか。

「……アイ?」

 声を絞りだしてそう聞いた。

 彼が顔をゆがめて泣きそうになる。

「ほんとに……アイなの?」

 ふくふくと白くて大福のようにやわらかかった小さなアイは、今ではぼくよりずっと背が高く、筋肉質でスリムなイケメンに成長していた。

「なにがあったの? 別人だよね」

 思わずそう聞いてしまうほど、あのころのアイとかけ離れていた。

「そっちこそ別人じゃん。どうしたの? ヒーローだったのに。なにそのメガネ、カッコわる。全然面影ないよね。逆整形でもしたの」

 泣き笑いの表情でアイが答えた。

 口調だってまったく違う。でも二人とも相手に対して同じような印象を持ったことがおかしかった。

「ヒーローなんて幼稚園でとっくに卒業だよ。今はなんのとりえもないただの人。ねえ、ところでさ、なんでこんなところにいるの」

「ちょっと懐かしくて寄ってみたんだ。そうしたらおまえ……いや、むっちゃんを見つけて」

「すごい偶然じゃない。よくわかったね、ぼくだって」

「後ろ姿を見たとたん、一瞬で時間が巻き戻った。どうしてかわからないけど、むっちゃんだってすぐにわかった」

 アイは腕時計を見る。

「あのさ、時間ある? もしよければ、ちょっと話したいな。聞きたいこともあるし」

「いいよ」

 連れ立って歩き出す。

 ぼくたちは駅前の喫茶店に落ち着いた。

 向かいあって座ったものの、どう話しかけようかと悩んだ。あのころのアイの雰囲気が全くない彼に「懐かしい」という言葉はかけられなかった。しかも緊張で起こった体のこわばりはまだ解けない。きっと彼と別れるまで続くのだろう。残念ながら時間はなにも解決してはくれなかったのだ。

「あのさ、おまえ、いや……むっちゃんって呼んでもいいかな」

 眉間に力をこめて聞いてくる。

「かまわないよ」

「よかった」

 アイの肩が下がる。

 神経質なところは変わっていないようだ。それとも、彼も緊張しているのだろうか。

「それで、むっちゃんはなんで幼稚園にいたの」

「今日は照川寺で法事があったんだよ。実家に来たついでになんとなく幼稚園に足が向いたから」

「実家ってことは、今はあそこに住んでないんだね」

「うん。ぼくが二十歳のときに一家離散したんだ」

「一家離散? なにそれ」



   2


 じいちゃんはぼくが十一歳のときに亡くなった。

 じいちゃんがいなくなって寂しかったし、主をなくした家は怖いくらいに静まり返ったままだった。それでも時をやり過ごせば悲しみは薄まっていき、元のような雰囲気の空間に戻るものだと思っていたが、そうはならなかった。

 年月が過ぎ去り、じいちゃんが思い出に変わっていくのと引きかえに、家のなかの空気がなんとなくぎくしゃくしはじめたことを、ぼくは肌で感じるようになった。

 そして思い知る。

 じいちゃんはぼくたち家族の扇の要だったのだと。

 高校の入学式があった日のことだ。お祝いの夕食がすむと、父親が真面目くさった顔で居住まいを正した。

「入学おめでとう。それで、ちょっと先の話にはなるんだが、将来のことだ。おまえのこれからのことを話そうと思う」

 そう前置きをして切り出した。

「急にあらたまってどうしたの」

 大した話ではないとあなどっていたが、それはぼくの想像も及ばないものだった。

「落ち着いて聞いてくれ。いいな、無双。おまえが二十歳になるまでは親である我々が面倒を見る。当然、学費や生活費はこちらで持つ。でも悪いが、二十歳になったらそこで援助は打ち切らせてもらいたい。この家からも出ていって欲しい。家族三人、別々に暮らしていこう。それぞれの人生を悔いなく生きていくんだ」

 一家離散宣言。

 動揺しなかったといえば嘘になる。

 でも親が離婚するのも大学生が一人暮らしをするのも世間ではよくあることだ。自分の身に降りかかってくるとは思ってなかったので驚くには驚いたが、お金を稼いでいない人間がどうこう言える立場ではないと思った。しかももうすでに二人のあいだでは話がついているような雰囲気だ。だからぼくはむやみに怒ったりもせず、感情的な態度は一切とらなかった。

 冷静――ではなかったと思う。不意打ちをくらって混乱はしていたが、どう取り乱したらいいのかがわからなかったのだ。

「ねえ、どうして急にそういうことになったの」

 理由を知る権利くらいはあるだろう。

 両親は高校の同級生だ。つき合いは長く、お互いをよく知ってから結婚した……と聞いている。夫婦仲が悪いということはなかったし、ケンカをするところも見たことがない。二人ともぼくとは普通の親子関係を築いていた。

 なのになぜ。

「じいちゃんがいなくなったからだよ」

「じいちゃん?」

「ああ。父さんも母さんもなんか急に気が抜けちゃってな。それでじいちゃんが死んでからのこの四年、それぞれに自分だけの幸せを探し求めちゃったんだ」

「自分だけの?」

「そうだ。おまえは親に面倒をかけるような子じゃないからな。父さんたちは安心して自分だけのことを考えられたんだ」

 両親はガミガミ言うタイプではなかった。考えてみれば、じいちゃんが死んでからも特別になにかを言われたようなこともないし、大した会話をした覚えもない。

 つまりは二人ともぼくに関心がなかったということか。

「今まではじいちゃんの目があったからバカなことはできなかった。でももうなにをしてもかまわない、だれにも怒られないって思ったら、なんでもやれる気になっちゃって」

「怒られないって……そんな、子どもじゃないんだし」

「じいちゃんにとっては父さんも母さんもずっと子どものままだった。子ども扱いだった」

 なんだそれ?

 なんだかよくわからないが、じいちゃん一人を悪者にしているみたいで気分が悪い。

「それで、バカなことをしたくなってバカなことをしちゃったの?」

「まあ、そういうことだな」

 そんなものなのか。

 血のつながっている親とはいえ、この二人の考えていることはよくわからない。同様に、二人にもぼくの考えていることがわからないのかもしれない。

 でもぼくは知っている。幼いころのぼくを父さんも母さんもじいちゃんもそれはそれは愛情をもって育ててくれた。いつもぼくを見守ってくれた。手をかけてくれた。その疑いようのない愛情を、ぼくはちゃんと知っている。

 だから、もうそれだけで十分だと思った。

 これからは精神的に大人にならなければならない。自立をしなければならない。のん気に親に頼っている場合じゃない。

 ぼくの子ども時代は今ここで終わりを告げた。

「幸せを探し求めていたなんて全然知らなかったよ。家の空気がなんか違うような気はしてたけどね。それで、見つかったの? 幸せ」

「ああ。父さんはけっこう話の合う人と知り合えた」

「話の合う()()()、だよね」

 皮肉っぽく言ってやる。

「そうだよ」

 悪びれることもなく、父さんは穏やかに答える。

 母さんは平気なんだろうか。

 顔を盗み見るがこちらも平然としている。

 結婚してから積み上げてきたこの十五年という歳月をふいにしてまで、この二人は自分だけの幸せとやらを探し求めたいというのか。

 まったくわからない。理解不能だ。

「ねえ、母さんは父さんが不倫してても許せるの?」

「そうねえ……まあ、いい気はしないわよ。父さんのことを嫌いになったわけじゃないから」

「俺だってそうだよ。べつに母さんのことを嫌いになったわけじゃないんだ。だけどこの先のことを考えると、このまま二人で暮らして年を取っていくことが本来望んでいたことじゃないように思えてきて」

「そうなのよね。父さんといてもなんだかときめかないっていうか、もともと兄妹みたいな感じだったから」

「幸か不幸かお互いの両親はもういないしね。無双だってもうすぐ親離れするだろう。だからあとは自分たちの老後の心配だけすればいいんだ。だったらいっそ今のうちに人生のパートナーを選びなおそうかってことになったんだ」

 結婚して夫婦になるというのはどういうことなんだろう。

 もちろんいろんな夫婦がいるだろうけど、でもこの二人はお互いに自分のパートナーはこの人じゃないと思っている。長い時間をかけて、ようやく間違いに気づいたということなのか。

「一緒になる相手を間違えたってこと?」

「そうじゃないのよ」

「うん。そういうことじゃないんだな。なにも間違いを正そうとしているわけじゃないんだ。母さんと結婚して無双が生まれて、そのこと自体に間違いはなかった。これは私たち二人の気持ちの問題であって……申し訳ないけど、無双には理解ができないことなんだと思う。だから無理にわかろうとしなくてもいい。ただこれからの五年間、おまえが二十歳になるまでの生活は、私たち家族がこの家で過ごす最後の日々になるってことだ。そこだけはわかってほしい」

「ごめんね。きっと私は母親失格だし、無双には辛いかもしれないね。でも親にだって自分の人生があるのよ。あなたにはこれから長い未来があるけれど、私たちには短い明日の積み重ねしかないの。年を取って体が動かなくなってから『あのときああしていれば』って後悔だけはしたくない。まだ今なら、この年ならなんでもできるって思えるから――だからお願いします。一家離散を受け入れてください」

 二人は頭を下げてくる。

 ぼくにはどうしようもないじゃないか。

「……わかったよ」

 物わかりのいい子の返事に、二人はほっとしたように顔を見合わせた。

 でも、言葉で言うほどわかっているわけじゃないんだ。

「ねえ、母さんにも話の合う男の人がいるの?」

「うーんそうねえ……父さんより話の合う人はけっこういるかな。でも一緒になろうとは思わないわ。もちろん、そのうちに気持ちが変わるかもしれないけど」

「世間ではそういうのをダブル不倫っていうんだよ」

 ぼくはなるべく冷たく聞こえるように低い声を出した。

「今の状況は、まあ、そういうことになるのかな。でも五年後、おまえが二十歳になるまでは三人で今のままの生活を続けようと思うんだ。それは相手にも理解してもらっている」

「そんなのはもう家族じゃないよ。ただの同居人だ」

「そうだな。でもあと五年だ。同居人でもいいじゃないか」

 たった一人、この家のなかで取り残された気がして、寂しさがこみあげてきた。……だめだ。今はそんな感情に溺れている場合じゃない。気をしっかり持たなければ。

 それにしても父さんは親の面子を保つためなのか、ぼくが成人するまではなんとしてでも扶養する義務と責任を果たしたいというのを前面に押し出して話をしている。でもそれが自分たちの罪悪感を少しでも減らすためだとしたら――ずるい。

 身勝手で押しつけがましいのも気に障る。

「相手の人は? 家庭があるとか」

「それはない」

「ないわ」

 同時に否定する。

「幸せを探しているのに、人様の家庭を壊すなんてことをするはずがないじゃないか」

 矛盾してるよ。自分たちの家庭は壊したくせに――と心のなかで悪態をつく。

「最低限の良識はあるってことだね」

「……そうだな」

 十五歳といえば思春期真っ只中だ。そんな子どもの前で悪びれもせず不倫だのなんだのという話をするほうもどうかしているが、それを聞いて「そういうもんか」と開き直っていたぼくも、どこかおかしいのかもしれない。

 それにパートナーを変えて幸せになれるというのもなんだか変な話だ。

 一緒になる相手を間違えてはいないと言ってはいるが、ではもしも子どもが生まれていなかったとしたらどうなっていただろうか。この夫婦はじいちゃんが生きているあいだに別れていたんじゃないのか。でも子どもがいたからそうはならなかった。ひょっとして、子どもなんて産まなければとか、いらなかったとか、そういうことを一瞬でも思ったりしたことはなかっただろうか――。

 頭をふってすぐにネガティブ思考を中止する。

 おそらくそんなことはない。だってぼくは親の愛情と呼んでいい光景をたしかに見ているのだから。

「ぼくが二十歳になったら父さんと母さんはどうするの?」

「父さんはこの家に残るよ。母さんは出ていくそうだ」

 二人とも正社員で働いている。それぞれに生活はしていけるだろう。

「わかった。ぼくも身の振り方を考えておくよ。でも貯金があまりないから二十歳まではこの家にいることにする」

「そうか」

 一家離散したあとに父親がなにをするのか母親がなにをするのか、そんなことはどうでもいい。みんな好きにすればいい。たった一度の人生なんだから好きに生きればいい。

 このときからぼくは〈幸せ〉がなんなのかわからなくなった。そしてそれについて考えるのをやめた。

 それから二十歳になるまで、ぼくたち家族は今まで通りにあの家で生活をし続けた。


「父親は新しい奥さんとあの家に住んでいるよ。母親は出ていった。連絡は取ってないから、なにをしているのかはわからない。ぼくは今、一人で暮らしてる」

「そんなことがあったんだ。大変だったね。でもむっちゃんのことだから、ちゃんと乗りきったんだね」

 上目遣いの覗きこむような視線に思わず目を伏せた。

「流れに身をまかせていただけだよ。子どもがどうこうできる問題じゃないし。それに、こんなこと他人には話せない。そういうプライベートな話ができる友だちがいなかったからね」

 アイに話すことに抵抗はなかった。本当はだれかに聞いてもらいたかったのかもしれない。すらすらと言葉が出てきたことに自分でも少々驚いた。

「近くに俺がいたら、話くらいは聞いてあげられたのにな」

「そうだね。いてくれればよかったのに。で、アイはどうしてたの? たしか親の仕事の都合で遠くに行くって言ってたよね」

「うん。日本や海外を転々として、結局アメリカに落ち着いた。それから大学卒業までずっとアメリカにいたんだ」

「グローバルな展開だね。だからなのかな。昔みたいに全然引っこみ思案じゃないし、喋りかたとかまったく面影がないのは」

「そうかもしれない。環境で人は変わるみたいだね。それで……むっちゃんはどうしてスペックが落ちてるっぽいの? それは親のこととは別の話だよね」

 あきらかにトゲがある言い方だ。

「ぼく? ぼくはなりゆきで現在に至っています」

「かけっこではいつも一番。運動神経は抜群で運動会はいつもむっちゃんの独壇場。優しくて面白くて、なにより人望があった」

「ちょっと褒めすぎじゃないの」

 そんなことない、とアイは首をふる。

「間違いなくみんなのヒーローだったよ」

 事実、幼稚園まではそうだった。

 ところが小学校に上がったとたん、百八十度変わってしまった。

「それって勘違い。ただの内弁慶。たしかに幼稚園っていう狭い世界ではヒーローだったかもしれないけど、小学校ではそんなことだれも知らない。運動神経や頭のいい子、おまけに人望のある正義の味方なんて山ほどいたよ。ぼくはどうしたらいいのかわからなくなった。自分の立ち位置を見失っちゃったんだ。おまけにアイテムの効果が切れたみたいで、無敵時間が終了して運動神経も消滅した。しかも、黒板の字が見えなくなってメガネになるし、人よりも重力がかかる体質なのか身長も伸び悩んだ。気づいたら引っこみ思案で影の薄いひょろひょろのチビになってた。そのあと中学じゃニキビが酷くて他人と話すのがいやになった。派手にいじめられはしなかったけど、無視とかはされてたかな。人とのかかわりを避けていたから孤独だったよ。自業自得だね。高校も大学もとりたててなにもない暗い青春だった。ぼくの人生は卒園とともに終わったんだ」

 アイが薄ら笑いを浮かべる。

 はじめて見る表情だ。ぼくがまったく知らないアイが目の前にいる。

「たった六歳で人生のピークを終えたって? むっちゃんらしくないね。あんなにポジティブでイケイケだったのに」

「ぼくたちって今はまるきり逆だよね。大器晩成バンザイ! うらやましいよ。アイがこんなにイケメンになるなんてね。で、アイは今なにしてるの」

 つい口が滑ってそう聞いてしまった。ぼくが一番聞かれたくないことを。

「俺は……まあ、営業だね。でも最近は宮仕えもいいかなって思ってて……」

「宮仕えって……」

 思い出したくもないローリーの顔が浮かんだ。

「まさか、一度の試験で一生安泰とか、バカやらないきゃクビにならないからサボり放題とか」

「なんだそれ。そんなわけないだろ」

「ですよねえ」

 そういうことを考えている不届き者はローリーだけだと信じたい。

「じゃあ、どうして?」

 アイは少しのあいだコーヒーカップをもてあそんでいた。

「……秘密」

 つぶやいて、カップを口に運ぶ。

 こちらの仕事のことも聞かれるものと思い身構えたが、アイはなにも聞いてこない。それからしばらく話をしたが、お互いにあの事件に触れることはなかった。

 正直なところぼくはほっとしていた。



   3


「おはようございます、国広さん」

 出社するとすでにローリーが席にいた。

「おはよう。今日は早いね。工藤さんもおはようございます」

「おはよう」

 工藤さんはちらりとローリーを見る。どうも気になるらしい。

 机の下にリュックを置き、引き出しからホコリ取り用のクロスを出して机の上を拭きはじめる。

「まめなんですね」

「いや、そんなことはないけど。けっこうホコリが積もるんだよね」

「ぼくもやろうかな」

 ローリーの熱い視線を感じる。

「……よかったら使う? まだあるからあげるよ」

 引き出しから新しいクロスを取りだしてローリーに渡した。

「いいんですか。やったー」

 嬉しそうな声。ぼくは自然に口角が上がるのを感じた。

「気持ちいいもんですね、朝から掃除って」

「そうだね」

 今日はやけになれなれしいな、と思って気がついた。

 そういえばローリーはぼくを仲間だと思っているんだ。

 彼の仲間の定義が友人以上か、以下を指すのかは不明だ。でも仲良しであることには違いない。今まであえて友人を作ってこなかったので、必要以上のコミュニケーションが苦痛になりそうだ。

 はたして彼はどの程度まで他人に踏みこんでくるのだろうかと考え、そのわずらわしさに暗い気持ちになる。

 それは空模様に反映されたようで、お昼前からさわさわと細い雨が地面を濡らし、不快指数が上がっていった。

「国広くん、これ、本部に発送しておいて」

「はい。わかりました」

 ローリーの係の落合さんから書類を受け取った。

 落合さんというのはそれぞれの係長と同年代、四十代前半で顔の表情筋が退化している独身男性だ。

「ほかの係の仕事もやってるんですか。契約なのに」

 ローリーが意外そうに言う。

「係に関係なくなんでもやるよ。単純作業とか、通常処理なら契約で十分でしょう。それに、係が違っても仕事はけっこう被ってるからね」

 書類をパラパラとめくる。たしかこれは一週間ほど前に落合さんから頼まれて処理をしたものだ。レアケースで落合さんに確認しながら処理をした。落合さんにオーケーをもらい決裁も通っているが、最終的な金額が通常よりかなり大きな数字になっている。そこが不安だった。

 一瞬悩んだが、ぼくはそっと工藤さんの席に行った。

 小声で話しかける。

「お忙しいところすみません。少しだけいいですか。これ、工藤さんの案件じゃないんですけど、ちょっとだけ見てもらいたいんです」

 書類を渡す。

 本当ならこんなことは落合さんに失礼だからやらない。だけど、万が一ということもある。会社の信頼を損なうよりはいいはずだ。

「落合さんに聞きながらぼくが処理したんですけど」

「レアだね。ああ……」

 工藤さんはため息をつく。

「ダメだよ。たまにしかないからこういうふうに間違うんだけど……。なんで国広くんにやらせるかなー」

「やっぱり間違っていますか。金額ですか」

「うん。いつもより全然多いでしょう。こんな金額はじかないって。しかも決裁通ってるし。ザルだよね。まいったなあ」

 ぼくの印鑑は押していない。担当は落合さんだ。係長、課長、部長まですべての印がずらりと並んでいる。

「申し訳ありません」

「謝ることないよ。国広くんのせいじゃないから。でもねー、どうしよう……私がでしゃばると、ちょっと……」

 言いたいことはよくわかる。

「わかりました。ぼくがもう一度確認してきます」

 ほっとしたように、工藤さんは両手を合わせた。

「ごめんね。面倒かけて」

「いいえ。ありがとうございました」

 そのまま落合さんの席に行く。

「お忙しいところすみません。先ほど預かった書類なんですが、やっぱりちょっと金額が大きくて不安なので、もう一度確認してもらってもいいですか……」

「どれ」

 ひったくるようにして書類を取る。

 落合さんの目が一瞬大きくなったのをぼくは見逃さなかった。

「たしかこれー、国広くんがやったんだよねー」

 この人の一番いやなところは、声がバカでかいということだ。

「落合さんに教わりながら処理をしました」

「こういうふうに処理をしろって、俺言ったかなー」

 ああ、部屋が静まり返ってしまった。

 いやだなと思いながらも、ゆるゆると受け答えをする。

「言われたとおりにやりましたけど」

「本当に? 俺、そんなこと言ってないと思うんだよねー」

「一応、落合さんに言われたことはメモしてありますが、お見せしましょうか」

「そこまでしなくても……いやー、まあ、信用して契約にやらせた俺も悪いんだからしょうがないけどさー。次からは気をつけてよねー。今回は俺が訂正しておくから、もういいよ。契約はしょせん契約だなー」

「はあ。すみません」

 席に戻ったぼくにローリーが囁いた。

「なんなんですか、あれ」

「見てのとおりだよ」

「できない人っすね」

「でも、どこの職場にも似たようなタイプはいるんじゃないの」

「まあそうですね。あの人はなにかあったら絶対人のせいにするんですね。よくわかりました。下請けがーとか、アルバイトがやったのでーってやつ。一緒に仕事するのいやだな。一生懸命仕事しても、ああいうのに手柄を取られたんじゃ、やってられないよなあ」

「手柄ってわけじゃないけど、気分はよくないよね」

「でしょう! だからここはやっぱりぼくたちのいる場所じゃないんですよ」

「かもね」

 つい同意してしまったら、ローリーが親指を立てた。

「本当に気が合うなあ! 仲間に選んでよかった。気持ちを一つにして目標達成しましょうね」

 ローリーの肩がうきうきしているのがわかった。



   4


 繁忙期以外、ぼくは定時であがれることが多い。

 十五分オーバーすると超過料金が発生するからだ。

「お疲れさまでした」と横を見ると、ローリーがうらやましそうな顔をしている。さすがの彼も定時で帰るようなことはしない。固定給で賞与もあるのだからそれは仕方のないことだ。

「お先に失礼しまーす」

 ぼくは罪悪感を抱くこともなく帰途につく。

 外は水分を含んで重力を持った空気が充満していた。半袖から出ている腕にべたべたとまとわりついてくる。ちょっと前まで強いなと感じていたスーパーの冷房が、今日は心地よく感じられた。

 ぼくは駅前のスーパーに寄って食材を買うのが日課だった。

 これからは傷みやすい食材は買いだめをしないようにしなければ。

 自炊をはじめたころは、生ものとかを買いこんでよく失敗をした。安価だからとまとめ買いをしても、予定通りに食べきれなくて結局は捨ててしまうことになる。

 なんてもったいない! 

 食べるのに困っている人がいるのに罰当たりなことだと猛省した。だから今はせいぜい二日で食べきれる分量を買うようにしている。

 家に着くとすぐにお米をといでご飯を炊く。それから服を脱いで洗濯機に突っこんで洗濯をはじめる。そのままお風呂に入り、出てきてから夕飯の支度をする。大体が肉を焼いたり野菜を炒めたりと、いまだにレパートリーの増える気配はない。面倒なときはお惣菜を並べるだけにしている。そして洗濯を干してから、夕飯を食べる。

 これが平日のルーチンだ。

 テレビを見ながら豚肉とニラ、ピーマン、もやしの炒めものを食べていると、携帯が鳴った。

 アイからのメッセージ。

『明日の土曜日、よかったら夜ご飯でも一緒にどうかと思って』

 目の前にいるわけでもないのにいきなり緊張した。鼓動が強くなる。

『いいよ』と返す。

『おすすめの店とかある?』

 外食なんてほとんどしていない。

 節約もそうだが、そもそも一緒に行く相手がいないのだ。ぼくは一人で店に入る勇気なんてない。

『特にないです』

『場所はどこがいい?』

『全部まかせる』

『じゃあ無難に、有楽町あたりに十八時でどう?』

 アイにとっては無難でも、有楽町銀座界隈なんて敷居が高そうで出かけたことなんて一度もない。

『いいけど……なに着ていけばいい?』

『は? デートじゃないんだけど……』

 ぼくは赤面した。

 急いで返信をする。

『日本一地価の高い場所に汚いカッコじゃ失礼かなーって』

『いつの時代? 今はおのぼりさんやら外国人やらが多いから気にしなくても大丈夫。ジーンズとかチノにシャツでOK』

『そんなんでいいの?』

『高い店には行かないよ』

 それを聞いてほっとする。

『わかった』

『じゃあ改札で』

『OK』

 やりとりが終わっても動悸はおさまらなかった。

 このあいだ会ったとき、アイは「聞きたいことがある」と言っていた。なにを聞きたいのだろう。本当はぼくのほうも聞きたいことがあるのだが、それを聞いたらアイとの関係が破たんしそうで怖かった。二十年以上一度も会っていなかったとしても、それでも出会えばこうして話ができる。そんな切れそうで切れない縁をすっぱり断ち切ってしまいそうだった。

 でもいつかは決着をつけなければならない。そうしなければぼくはずっと昔のことに囚われたままだ。



   5


 土日の朝は起きないことに決めている。心ゆくまで惰眠をむさぼるのだ。

 特に今日はうっすらと頭痛がしていた。こんなときはお昼過ぎまでひたすら布団にくるまることにしている。幸いなことに今日の約束は夕方だ。それまでには頭痛もおさまるだろう。

 目を閉じるとすぐに眠りに落ちた。

 気がついたらもう一時をまわっている。そろそろ用意をしようと体を起こしたら、部屋がぐらりと大きく揺れた。

「またか……」

 子どものころに入った遊園地のビックリハウスみたいだ。上下の感覚がマヒして酔いそうになる。

 おでこに手をあててしばらく目を閉じていたら、徐々に感覚が戻ってきた。

 季節の変わり目や雨の日など不調になることが多かった。最近では気象病という病名があるらしい。医者にはかかっていないが、ぼくの場合はどうやらこれに該当しそうだ。


「あれ、なんか顔色が……」

 待ち合わせ場所に現れたアイが、顔を覗きこんでくる。

「真っ白だけど、大丈夫?」

 慌てて顔をそむける。

「うん。朝からちょっと頭痛がしてて。でもいつものことだから平気だよ」

 慣れない。あれだけ酷かったニキビのあとはすっかり消えている。もう気に病む必要はなかったが、他人にじっくりと顔を見られるのは嫌いだ。人の視線は心を落ち着かなくさせる。

「ちゃんと食べてる?」

「一応」

「不摂生には気をつけないと、突然死するよ」

「突然死って年寄りじゃないんだし」

「若い人だってあるよ。過労とかストレスで虚血性心不全とかね」

「心臓かあ。苦しむのはいやだな」

「そうだね。だから気をつけなくちゃ」

 そんな話をしながら裏通りを歩いていたら、いつのまにか店に到着した。

「ここだけど、いいかな?」

「良さげな店だね」

 暖簾には居酒屋と書いてある。店内は明るく清潔な感じだ。おじさんたちがたむろする一杯飲み屋とは違う。席は八割方埋まっていた。女性が多く、年齢の高そうな人たちは見当たらない。

「ビールでいい?」

「うん」

 店員がメニューを渡してくれる。居酒屋というより、ファミレスみたいなラインナップだ。

「俺は、おでんと四種類のチーズが乗ったピザ、それと生春巻き」

 アイがさっさとオーダーをする。

「えっと、どうしよう。……じゃあぼくは、枝豆と焼きそばと、あとは焼き鳥セット」

「性格が出るね」とアイが笑う。

「そうかな」

「むっちゃんは真面目だね。居酒屋に入ったら、ちゃんと居酒屋っぽいものを注文しなくちゃって深層心理が働いているんだ」

「じゃあアイは、なにも考えずに好きなものを好きなだけっていう楽観的思考の持ち主」

「かもね。とりあえず乾杯しよう」

 ジョッキを合わせる。

 のどごしが最高だった。一気に半分くらいいってしまう。

「いい飲みっぷりだね」

「アイもね」

 ジョッキに残っているのは同じくらいの量だ。

 飲んで食べて当たり障りのない話をして、楽しい時間が過ぎていく。

 でも今日、ぼくは覚悟を決めてここへきた。

 アイがぼくに聞きたいこと、ぼくがアイに聞きたいこと、それらをあきらかにしたい。

 テーブルの上に並んだ料理はあらかた片付いている。

 そのタイミングで思いきって切り出した。

「あのさ、ぼくに聞きたいことがあるって言ってたよね。それってなに」

 すっと笑顔が消える。

 アイは少しのあいだ逡巡していた。

「……ちょっと、場所を変えてもいいかな」

「うん」

 割り勘で会計をすませて外に出たとたん、地面が揺れた。これは震度四くらいだろうか。

 急いでしゃがみこむ。

「どうした?」

 驚いたような声が聞こえた。

「ちょっとめまい……」

「酔ったの」

「違う。ただのめまい」

「貧血? とりあえず座れるとこ探すか」

 心配そうな声を打ち消すように慌てて言う。

「このままで平気! 大丈夫、平気だから。二、三分でおさまると思うから、このままで……」

「……わかった」

 アイは傍らに立っていたが、どうしたことかそのときに限って何分たっても地震のような揺れはおさまらなかった。

「ねえむっちゃん。家まで送っていくから、今日は帰ろう」

 そう言われて、ぼくは素直にうなずくしかなかった。

 拾ってきたタクシーでアパートまで送ってもらい、まだふらついてるぼくをアイが部屋まで連れてきてくれた。

「ありがとう」

「いいって。でも本当に大丈夫?」

「うん、ごめん。迷惑かけちゃったね。どうぞ、上がって」

「いいの?」

「いいもなにもタクシー返しちゃったし、料金も清算してないし。それに駅までけっこう歩くから、よければ泊まってってよ。えーと……いやじゃなければ、だけど」

「いやじゃないよ! じゃあお言葉に甘えて、おじゃましまーす」

 嬉しそうな声にぼくは胸をなでおろす。

「へえ、2DKだ」

「そう。ここは駅からも遠いし、マンションじゃなくて古いアパートだからこの広さが確保できたんだ。都内の物件は高くて無理だった。できれば二部屋欲しかったから、ここはちょうどよかったよ」

「いい物件だね。古い建物ってちゃんとした住処すみかって感じがして落ち着くよね。で、寝室はどっち?」

「あ、寝ないから。やっとおさまってきたから、もう大丈夫だと思う」

「無理すんなよ」

「してないし。それにまだ十時にもなってないじゃん。寝るのは早いよ」

「そっか。でもねえ、医者にはいっぺん行っといたほうがいいよ」

「やっぱ行かなきゃだめ? でも面倒なんだよなあ」

「わかるけど、これ以上悪くならないって保証はないんだから」

「うーん。じゃあ、善処します」

「よしよし。ところでさあ、冷蔵庫見てもいい?」

「どうぞご自由に」

 冷蔵庫の扉をあけて思いきり首をかしげる。

 中身はカラッカラだ。飲み物と魚肉ソーセージと卵ともやしくらいしかない。

「あのさ、食生活のバランスが悪いんじゃないの。ねえ……むっちゃんってさあ、彼女いないの?」

「えっ、なんでそこで彼女の話になるの? そ、そういうアイこそどうなのよ」

 実際のところ背は高いし顔もいいのだ。モテるに決まっている。

「まあ、俺のことはどーでもいいんだけど」と、アイははぐらかす。

「ずるいよ。なんでぼくだけ言わなくちゃならないんだ!」

「うーんとね、だからさ、彼女がいるなら食事作ってもらえばいいのにって思ったから」

「なんだ、そういうことか。残念ながらいないですよ。でも彼女だからって食事を作ってくれるとは限らないんじゃない」

「そうだね、そういうこともある。でも彼女はいたことあるんでしょう?」

 どうしてそう思えるんだろう。だんだんと虚しくなってきた。

「いたことなんてないよ! って、そんな話はべつにいいじゃない。もーなんで急に踏みこんでくるかなあ」

「ごめんごめん。でもさ、むっちゃんが変わったのは彼女とかのせいでもあるのかなーって、ちょっと勘ぐってみたりしたから」

「彼女とかのせい? どうして」

「……緊張してるよね、いつも。俺、同じような人知ってて。その人は彼女にひどいフラれかたをしてそうなっちゃったんだけど」

 どくん、と心臓が跳ねる。

 緊張を気づかれていた。アイの視線がますます怖くなる。心のなかまで全部見透かされてるかもしれない。

 落ち着け、と自分に言い聞かせて何度か深呼吸をする。

 冷蔵庫から缶ビールを出して、アイに渡した。

「そういうのじゃないんだ。まあよくある話だよ。ぼくはね……壊れたんだ」


 新卒でどうにか滑りこんだIT業界の会社はブラックだった。ニュースや情報として残業百時間越えなんて話は聞いたことはあったが、まさかそれどころではない残業時間が自分の日常になるとは思わなかった。

 ぼくはバカだ。

 それでもなんとか仕事をこなそうと努力をしていた。とっとと辞めて次を探せばよかったのだろうが、せっかく入った会社だし、慣れればなんとかなるんじゃないかと、ありもしない根性でしがみついていた。

「なんだろうね。自分でもよくわからない。せっかく新卒で入れたから辞めたくなかったんだろうな。それに辞めたあとのことも不安だった。無職って響きがキツイなって。人並みに世間体なんていうものを気にしていたのかもしれない」

「気持ちはわかるけど、体を壊してまで気にするものなんてたぶんこの世にはないと思うよ」

 さらっと言ってのけるのは、心が強い証拠だ。

「……そうだね。だけど……そのときはもう冷静に考えられる頭じゃなかった」

 すでに善悪の判断すらできない状態だった。

 そしてある日、プレゼンの場で異変が起こった。

「急に声が出なくなったんだ」

 口はあくのに声が出ない。「ふざけてんのか!」って上司にさんざん罵倒された。だけど、どうしようもなかった。

「風邪薬を飲んでも治らなかった。もちろん、医者に行く時間なんてなかったよ。そして次の日のプレゼンで、ぼくは倒れた」

 だれかがいきなりぼくの頭にポリ袋をかぶせ、両腕の肘を結束バンドでキリキリ締め上げた。腕がちぎれる! ――そんな感覚。体が硬直して視界がかすむ。息ができない。

「死ぬと思った。口はあいてるのに呼吸ができない。もうね、陸上動物失格だよね」

 救急車で運ばれたが、時間が経ち、落ち着くとけろっと治った。検査しても特に異常は見つからなかった。

「過呼吸だね。原因はストレス。仕事を休みなさいって言われたけど、そんなことをしたら職場にはもう二度と戻れないって思った」

 休むことに罪悪感を持ち、仕事をしなければという強迫観念はどうしてもぬぐえなかった。

「洗脳だよ。会社的には奴隷が作れて成功だよね。こっちはたまったもんじゃないけど」

 あくる日、出社しようとして電車に乗ったとたん、大量の汗が噴きだしてまた息が吸えなくなった。

「なんとかギリギリ意識を保って、どうにか次の駅で降りて、駅のベンチで休んだ。そしたらさあ、もう体が動かなくなっちゃって……」

 バイブにしていた携帯は、心臓と連動しているようにずっと震えたままだった。

 ぼくはかろうじて動いた指で携帯の電源を切った。ブラックアウトした画面には、魂が抜け落ちた顔がぼんやり映っていた。

 限界だった。

「そのままお昼過ぎまでずっと座っていたよ。でも、そこで体が動かなくなったからよかった。もし動いていたら、飛びこんでいたかも……」

「……生きててくれてよかった」

 それまで黙って聞いていたアイがぽつりとこぼした。

「……そうかな」

「そうだよ」

「……ときどきリタイアしたくなるんだ。湖に紙の船を浮かべて、その上に立っているような感じなんだよ。神経をすり減らしてバランスを取っているけど、いつ暗い水底に沈むかわからない。怯えながら生活してるんだ。本当に、こんな情けない自分が大嫌いだ。まともに社会に参加してないって自覚もあるから……引け目を感じるんだよ。こんな人間でも生きていていいのかなって」

「いいに決まってる!」

 力強い言葉だ。あのころのアイからは想像もできない。アイはいい方向に変わっている。それがとてつもなくうらやましい。でもそんなことを言ったら怒られそうだ。

「……本当に、幼稚園のときとは逆になったね。励ましてくれてありがとう」

「励ましてるわけじゃない。正直な気持ちを言っているだけだから」

 他人に自分をさらけ出したのはいつ以来だろう。

 肩にのしかかる重みが小さじ一杯分くらいは軽くなったように感じる。

「ねえ、アイ」

 ぼくは意を決してアイと正面から向き合う。

「聞きたいことってなに?」

 アイが頬をこわばらせた。

「……そうだな。その話をしようとしていたんだ」

 勢いよくビールをあおり、音を立ててテーブルに缶を置く。

「あのさ、子どものころの記憶って、ちゃんと現実に、リアルにあったことだと思う?」

 そう聞いてきた。

「どういう意味」

「つまり、その記憶は実際に起こったことだと、事実だと、確信をもって言えるかってことなんだけど。ほら、子どもだったから事実をいいようにねじ曲げて覚えているってことはないのかな、って」

「それは……あるかもしれないけどね。断片的に覚えている映像記憶に意味をつけようとして話を作ってしまうってことは、あるかもしれない」

「そうだよね。……で、じゃあ、そういうこともあるかもしれないことを前提として聞きたいんだけど――あの事件があったあと、むっちゃんは急に俺によそよそしくなった。俺を避けていた。そしてそれは卒園までずっと続いた」

 ぼくは息をのむ。

「どうして? なぜ避けていたのか理由が知りたい」

 ぼくが確認したいことと、アイの聞きたいことは同じだ。

 知ってしまったあのときの衝撃がよみがえる。ぼくが見たことははたして事実だったのか。

「……答える前に聞きたいんだけど、あのころ、きみはぼくのことをどう思っていたの」

「どうって?」

「本心が知りたいんだ。アイは、本当はぼくのことを嫌っていたんじゃないの」

「そんなことあるわけ――」

 急に言葉を切る。

 心もとない表情が浮かぶ。

「――ねえ、なんで、そんなふうに思ったの?」

「それは……」

 この期に及んでまだ迷っていた。でも、どうにか踏ん切りをつける。

「見ちゃったからだよ。きみがぼくの持ち物を、そのときはハンカチだったけど、それをゴミ箱に捨てるところを」

 アイの目が大きく見開かれ、そのまま固まった。

「ぼくの持ち物がゴミ箱に捨てられていたことがあってね。いつもじゃない。たまにだったけど、だれがやったのかはわからなかった。最初はコウガを疑っていたんだけど――でもぼくはきみがやったところを見たんだ」

 ショックだった。ぼくはアイのことをなにも知らなかった。ぼくの言いなりになって懐いてきたので、いい気になってペットのように側に置いただけだ。

 ぼくは酷いやつだ。優しいアイに嫌われるほどに。

 自分は世界中の人に好かれていると思っていた。例外なくみんなに好かれていると、なんの根拠もなくそう思いこんでいた。だけどそれは思い違いだった。人との関係はそんな単純なものではなかった。ほんの子どもですら、嫌いな人と仲のいい素振りをしたりするものなのだと知らしめられた。

 そして他人が急に怖くなった。

 楽しそうに一緒に遊んでいても、心のなかではどう感じているだろう。ぼくのことを嫌いだけどしょうがなく遊んでいるだけかもしれない。

 疑うときりがなかった。楽しく遊んでいても、ふとした拍子にゴミ箱を前にしているアイを思い浮かべてしまう。

 そんな妄想をずっと引きずりながら、ぼくは引っこみ思案に育っていった。

「避けたつもりはなかったけど、たぶん動揺してたんだと思う」

 ぼくの落ち度だ。

 アイの演技は完璧だった。嫌いな子にも好きだと思わせるような演技。ぼくにはそれができなかった。そんな腹芸などやったことがない。だから気持ちの消化もできず、うまく隠しきれずに態度に現れていたのだろう。自分ではまったく気づいていなかったが。

 ぼくはメガネを押し上げる。

 なにがショックだったのか、アイはまだ固まったままだ。

「――きみが、ぼくのことを嫌いだったから」

「いや! ちょっと待って!」

 アイがうろたえる。

「知らない――じゃなくて、覚えてないんだ」

「覚えてない……」

 今度はぼくが驚く番だった。

「ごめん! 今日は帰る。ちょっといろいろと頭のなかを整理してくるから!」

 いきなり立ちあがると、アイはそそくさと玄関に向かった。

「ほんとごめんね! また連絡するから!」

 勢いよくドアが閉まった。止める間もない。

 ぼくはアイが出ていった玄関をぼんやりと見つめていた。

 ぼくをただの神経質な子どもに変えてしまった出来事も、アイにとっては記憶にも残らない、取るに足らないことだった。

 がっかりした。

 特別ななにかを期待していたわけじゃない。ただ今あるアイとの関係を心配していただけだったが、なんだか宙ぶらりんになってしまった。

 せっかく白黒つけようと決心したことがなにも果たせず、心のもやもやは晴れないままだった。


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