第一部 日日
1
ほやほやの赤ん坊は無条件で親からたくさんのものをプレゼントされる。当然だ。自分のくにゃくにゃな肉体以外、なにひとつ持ちあわせていないのだから。
とにかく、息をすること寝ること飲むこと排泄すること、それからたまに自分のまわりの世界をぼんやりと見つめて泣くことしかできないのだ。無防備にそこらへんに転がしておいていいわけがない。大抵の親は赤ん坊を守り育てる方向に無意識に向かうだろう。本能というやつだ。まあ親が人間ではない場合はあてはまらないかもしれないが。
でもまず間違いなく「よくぞ無事に生まれてくれた!」という気持ちで、最上級の愛情を注いで世話をする。ちょっと偏見が入っているかもしれないが、うちの親がそういう感じに見えたので、親というのはそういうものだとぼくは思っている。
オムツをつけて衣服でくるんで、ミルクを飲ませる。折れそうな首を支え、おっかなびっくり体をそっと洗う。そして家族や親族友人知人から祝福されると、もう家のなかの空気までほんわかとした桃色に染まってしまうのだ。
そんな幸せいっぱいお祭り気分が続くなか、いよいよ最大のプレゼント贈呈式がはじまる。
か弱い赤ん坊の健康と幸せを願い、さらに「うちの子は唯一無二の存在で他人の子とは一味違うんですよ」ということを世間に知らしめるために。未来に夢を、希望を持たせるために。ついでにちょっと親の期待を背負わせちゃったりもする。それでうちみたいにじいちゃんがいる家だと、力強い筆さばきで黒々と半紙や色紙にババーンと書いて壁に貼ったりするのだ。
人生最大のプレゼント。
それは「名前」だ。
ほかの人間と区別するもの。一生ついてまわるもの。自分ではどうにもできないもの。
気づいたときにはすでにそう呼ばれている。まわりにいる人たちも、誰一人ぼくがその名前で呼ばれているのを不思議に思わない。
ぼくはぼくだけど、ぼくには「無双」という名前がついていた。
両親がつけたぼくの名前。
大人物になって欲しいと、大きな期待をこめたんだと、だから名前に恥じない立派な人間になれと、父さんから聞かされた。健気なぼくはその期待に応えようと思った。
ぼくの考えた立派な人間というのは、悪いものをやっつけるアレである。悪の組織をつぶしたり困っている人を助けたりする、いわゆるヒーローというやつだ。ぼくの小さな世界ではヒーローは絶大な影響力があった。
ちなみにじいちゃんは「無双」という名前には反対したらしい。
「健康で優しい子に育てばそれだけでいいんじゃないのか。親の期待なんてこの子には関係ないだろう。おまえだって俺の期待には応えてないじゃないか。この子にはこの子の人生があるんだから、そんな大層な名前はつけないほうがいい」
ぼくの父親の名前は「丈夫」、父親の妹の名前は「優子」。じいちゃんの思いが見事に滲み出ている。
ぼくはじいちゃんがどうして「無双」に反対したのか、そのときはわかっていなかった。だから「ムソウ」の音の響きがなんとなくかっこいいような気がして、自分の名前が好きだってことはじいちゃんに内緒にしておいた。
「強そうな名前だね。天下取りそう」
幼稚園のお母さんたちには評判がよかった。
「名前負けしてないもんね。すごいよね」
それはお世辞ではなく、幼稚園でぼくがヒーローになったからだ。
ぼくは夢を叶えてしまった。
親の期待に応えてしまった。
わずか六歳で人生の最高潮に達してしまった。でも、そんなのは当然のように長くは続かない。だから残りの日々、この先の寿命が尽きるまでのどうしようもなく長い人生を、ヒーロー以外のどういう立ち位置でやり過ごしていけばいいのか、それがわからなくなってしまった。
2
目覚ましの音で現実に引き戻される。
カーテンのすきまから入る強い日差しが、テーブルの上の安いコップをバカラグラスのようにきらめかせていた。
手を伸ばして目覚ましを止める。できることなら一生布団のなかで暮らしたい。
もう一度枕に深く顔をうずめ、喉の奥で「んー」とうなりながら、仕方なく起きあがる。頭はぼうっとしていたが、無理やり布団をたたんでクローゼットに押しこんだ。
「えーっと……」起き抜けの声はいつもかすれている。
「オッケームソー。まずは朝の支度をして――」
一人暮らしをはじめてから確実にひとりごとが増えた。
可愛い幽霊女子の同居人がいるとか、気のいい妖怪やらバケモノが友だちとか、そんなファンタジーのような現実世界なら楽しいのにと思う。でもぼくのいる世界ではそんなことはありえない。
だからぼくのはあくまでもひとりごと。
手早く着がえをすませて顔を洗う。キッチンで夕べの残りごはんでおにぎりを二つ作る。これは昼ごはん用。中身は、これも残り物の焼き鮭だ。朝ごはんは牛乳とゆで卵。今日は野菜なし。
卵を口に放りこみ、牛乳で流しこんでから黒いリュックを手に部屋を出た。
駅までは歩いて三十分、早歩きで二十分。自転車があれば――と思うこともあるが、万が一職場が変わったり引っ越したりする場合に備えて自転車は買わないことにした。できるかぎり散財はしない。持ち物は増やさない。それがぼくの方針だ。
ちなみに自炊は仕方なく、だ。必要に迫られているからやっている。料理なんて好きじゃないし、興味もない。でもやらなければ生活に支障が出る。人はその気になれば死なない程度にはなんだってできるようになるらしかった。その、自分にしたらかなり驚きの発見をだれかに伝えたかったが、あいにくとそんな話のできる友人はいない。
電車を一度乗りかえる。都内の通勤ラッシュは相変わらずだ。リュックを抱きしめ、わずかなすきまに体をすべりこませるようにして乗りこんだ。
改札を出て、取り澄ましたように乱立するビル群を歩くこと十分。そのあいだに社員証を首からかけて、それを入り口のゲートにかざしてビルに入る。職場は十五階建てビルの三階部分だ。
「おはようございます」
自分のデスクの下にリュックを置きながら、同じ係の工藤さんに挨拶をする。
「おはよう。いつも早いね」
親しみをこめた口調で会話をしてくれる彼女は、若い見た目と違い三十は超えているはずだ。結婚していて子どももいる。夫婦共働きで、仕事を辞める選択肢はなかったらしい。時短勤務もせずに、産休と育休六ヶ月を取ったあと、通常勤務に戻ったそうだ。もちろんそれは夫や親の理解があってのことだろう。そして極力残業をしないために、今は朝早くから出勤している。
一年二カ月前にここに採用になってから、ぼくはずっと彼女に仕事を教わっていた。
「今日から隣の係に新人さんが入るんだって」
「中途採用ですか。六月からなんですね」
「うん。募集かけてたけど、なかなか決まらなかったみたい。なんか年齢層の高い人たちの応募が多かったんだって」
「最近はどこもそうみたいですね」
「老後資金を貯めたいっていう気持ちはわかるけど……なんか世知辛い世の中よね」
年金の不安があるからか、六十代以上の就活も多いと聞く。
「それでちょっとね、机の配置の関係で、新人さんにはしばらくのあいだ国広くんの隣に座ってもらうって、向こうの係長が言ってたよ」
「わかりました」
たしかに隣の席は空いている。
つまりは一人、人員が少ない状態で業務をまわしているのだ。
それはどこも同じようなもので、隣の係の若手も年度がわりの四月から急に来なくなり、先月ついに辞めてしまった。その人の席は現在書類が山積みになっている。しかも崩れそうになっているので、極力近づかないようにしていた。
あの山を崩した人が、あれらをすべて片付けなければならないという暗黙の罰ゲームがあったら怖いと思うから。
「いい人だといいね」
工藤さんの屈託ない笑顔に、ぼくは曖昧に笑い返した。
それは人がいいに越したことはない。けれど〈いい人〉というのは実にやっかいだ。〈いい人〉が〈仕事ができる人〉ってわけでもない。〈いい人〉だけど〈仕事はめっちゃ雑〉とか、〈いい人〉だけど〈面倒くさい人〉とかパターンがいくつかある。おそらく工藤さん希望の〈いい人〉は、今回は自分と係が違うので「仕事でかかわらなければいい人なのにねえ」って言われるタイプの〈いい人〉だろう。
はたしてそう都合のいい〈いい人〉がピンポイントで来てくれるかどうか。
でもなんとなく楽しみだ。中途半端な六月などという時期に正社員で採用される人がどんな人なのか興味があった。それに工藤さんと同じように、どうせ係が違うのでかかわりあうこともないと高をくくっていた。
始業時間が過ぎてしばらくたったころ、課長が一人の男性を伴ってきた。
「えー、みなさん。ちょっと仕事の手を止めてください。こちらは今日からここで働いてもらうことになった真田くんです。じゃあきみ、みんなに挨拶を」
真田くんは「はい」と元気よく返事をすると、胸を張って一歩進み出た。
「おはようございます。本日よりみなさんと一緒に働くことになりました真田です。以前いた会社は上場企業でした。事務をこなしながら戦略を練ってオポチュニティをつかむべく努力をしていました。ビジネスリテラシーやポテンシャルは同期よりもかなり高かったと自負しています。もちろん成果はだれよりも上げました。でも非常に激務だったために、やむをえず転職することにしました。この職場では即戦力でみなさんのお役に立てると思いますので、あてにしてください。どうぞよろしくお願いします」
課長の口はへの字に結ばれている。とりあえずの拍手が起こった。真田くんは笑顔でみんなを見まわしている。
「まあこのように大変優秀なうえに本人のやる気も十分あるので、みなさんよろしくお願いしますよ。真田くんもぜひ我が社の戦力になってください」
「はい、もちろんです。頑張ります!」
真田くんは自信満々にそう答えた。
「えーと席はね、ちょっと急だったから、まだきみの席を用意してなくてね。同じ部屋だし、きみの係の職員とは背中合わせになっちゃうけど、少しのあいだだから」
「はい。まあしょうがないですね」
隣にきた真田くんに、ぼくは立ちあがって首にかけている自分の写真入りの社員証を見せた。名刺は持っていない。
「国広無双です。係は違いますがよろしくお願いします」
「真田丹紅です。よろしくお願いします」
真田くんは上から下までぼくを眺めまわした。
「無双っていうんですか。でも名前ほど強そうじゃないですね。うーん、そうだなあ、無双っていうより貧相って言われませんか?」
相変わらずそういうイメージか――心のなかでため息をつく。
たしかにぼくは百五十七センチのやせ形、地味な顔立ちで、黒縁のびん底メガネ男だ。あだ名は「ソーヒ」だった。
小学三年生のときのことだ。同じクラスの男子はどういうわけかみな体格が良かった。
あるとき体操着に着替えていると、学年一太っていた野村くんが「すげー!」と言ってぼくに近づいてきた。「骨だ。ガリガリだ!」とぼくの浮き出たあばら骨を指さした。ほかの子たちもそれに乗っかり「本当だ。ガリガリだ!」とはやしたてる。「今日からガリって呼ぼうぜ」とみんなが盛り上がり、あだ名が「ガリ」に決まりかけたとき、クラス委員長の佐々木くんが待ったをかけた。ぼくはてっきり助け舟を出してくれたのかと期待した。しかし「ガリはよくないよ。国広くんをガリって呼んでもいいんなら、野村くんはデブって呼ばれるよ」と言い出した。さらに「野村くんはふくよかで、国広くんは貧相っていうんだよ」と続いた発言に、ぼくはがっかりした。それからみんなはぼくを「貧相」と呼び、あだ名は「ソーヒン」に決定。そしてそのうち「ン」を省略して「ソーヒ」になった。(ちなみに野村くんはひねりもなにもなく「デブチン」と呼ばれるようになった)
つまりぼくは子どものころからなにも変わってないということだ。
子どもって無邪気で残酷だ。見た目でつけられたあだ名。そのときはじめて無双なんて名前をつけた親を、ぼくは恨んだ。
しかし、初対面でそんなことを言われるとは思いもしなかった。
ぼくは彼の生真面目そうな顔を見返した。こちらをバカにしているというわけでもないらしい。
「……今までは麻雀強い? とか、親が麻雀好きなんだね、が一番多くて、格闘技やってるの? ゲーム好き? なんていうのばっかりだったけど」
「どうして麻雀なんですか」
そこを突っこまれるとは思わなくて、とっさに話をはぐらかした。
「そういえば真田さんのタンクっていうのも変わってますよね。どういう字を書くんですか」
「丹頂鶴の丹に紅色の紅。なんか火の鳥のイメージらしいですよ」
「へえ火の鳥かあ、壮大だね」
「そうですかね。ぼくはあんまり好きじゃない」
「どうして」
「だってつけられるあだ名が決まってローリーですよ。子どもって発想力がないですよね」
ぼくは笑った。
子どもの発想力はやっぱりあなどれない。百九十センチに届こうかという大きな真田くんはローリー以外の何物でもない。
「それで、国広さんのあだ名は」
「あだ名?」
そんなことを教える義理もない。
「そんなものはなかったなあ」
と、とぼける。
「いつも苗字で呼ばれていたよ」
「そうなんですか。へえー」
なぜだか腑に落ちないような顔をしている。
「真田くん」
隣の係長から声がかかる。
「今から仕事の説明をするから会議室のほうに移動してくれないか。今日はこのあと一日中会議室だと思うから、私物も全部持っていってくれ」
「はーい」と返事を返し、「じゃあまた」と頭を下げて、彼は係長のあとについていった。
「行ってらっしゃい。頑張って」
そう送り出して席に着き、自分の仕事に取りかかる。
同じ係の人たちはローリーの初見について、特になにも口にすることはなかった。
3
「ねえ、むっちゃん」
子ども特有のかん高い声。
「むっちゃん、今度はさ、すべり台やろうよ」
腕が引っぱられる。
「わかったからそんなに引っぱるなよ、アイ」
いきなり反対側の腕をとられる。ふり向くと顔のよくわからない園児が傍らにいた。
「ダメだよ。次はぼくたちと遊ぶんだから。ね、そうだよね、約束したよね」
そういえばそんな約束をしたような気もする。
「アイくんばっかり無双くんを独り占めするなんてずるいよ」
アイがしゅんとなる。
いつのまにかぼくたちは複数の顔の見えない園児に囲まれている。
「アイもみんなと一緒に遊ぼうよ」
そう声をかけるが、アイはイヤイヤをするだけだった。
「じゃあ、こいつらと遊んだあと、またおまえと遊んでやるから。またあとで、だ」
「……うん」
色白でぷくぷくしていたアイ。
ちょっと反応が鈍くて、みんなの輪になかなか入れなかった。いつも一人で部屋のすみっこに大人しく座って、うらやましそうにみんなのことを見ている。
アイは親の仕事の都合で途中から入園してきたので、なおさら仲間に入りづらかったのだろう。
最初に声をかけたのはぼくだ。
「ぼくはムソウ。名前なんていうの?」
「ぼ、ぼく、は、ア……ア……アイ……」
いきなり話しかけられて緊張したのだろうか。慌てたせいでかみまくり、見ているこっちが情けなくなった。
「わかった。アイだな」
口を閉じさせようとして、アイの話をさえぎる。驚いたようだったが、アイは黙ってうなずいた。
「遊ぼうよ」
「い……いいの?」
「なにが」
「い、一緒に遊んでもいいの?」
嬉しそうな表情が浮かぶが、一瞬でかき消え「でも……」と口ごもる。
おかしな子だと思った。
「ぼくと遊ぶのはいや?」
「そんなことないけど……でも、遊んでばかりじゃダメだって」
「なんで? だって幼稚園は遊ぶところだぜ。遊ぶ以外になにをしろっていうんだよ」
「……べ、勉強」
おどおどと答える。
「バッカだなあ。勉強は学校でやるんだよ。ここは幼稚園だからやらなくてもいいんだ。幼稚園では遊ぶのがぼくたちの仕事なんだ」と、ぼくは園児の理論をふりかざす。
「じゃあ、あ、遊んでるだけでいいの?」
「あったりまえだろ!」
そうしてぼくはアイのぽちゃぽちゃしているやわらかい手を引っぱって、わがもの顔で幼稚園中を連れまわした。
『無双くんは活発です。いつもはきはきと受け答えをしてくれます。ほかの子たちはみんな無双くんと一緒に遊びたがります。無双くんは面倒見がよく、だれにでも親切で優しいです。』
幼稚園でのぼくの評価は最高だ。ほかの子の親にまで評判がよかった。だから調子にのっていた。支配者になったような気分でいた。でも、当然のようにそれを面白く思わない子もいたのだろう。ときどきだけど、持ち物がなくなることがあった。手提げ袋や道具箱の中身、ハンカチとかタオルとかのちょっとした小物。そしてそれはゴミ箱に入っていたりする。
ぼくはそのことをだれにも言わなかった。知られたくはなかった。ゴミ箱から黙って拾い出し、何事もなかったようなふりをした。
自分が嫌われているかもしれないという事実を認めたくはなかったから。
アイはぼくが引きこんで、少しずつほかの子たちとも一緒に遊ぶようになった。
けれどアイの目はいつでもぼくを探していた。それを知っていて、わざと隠れたりした。ぼくは意地が悪い。不安そうな顔でアイがぼくを探すのが心地よかった。頼られているという優越感に浸りたかったのだ。
そしてある日、ぼくがトイレに行っているときにそれは起きた。
コウガというちょっと生意気で目立つ子がいる。彼は自分の派閥を持っていた。
ぼくは幼稚園でみんなの中心にいたけれど、コウガはぼくたちとは遊ばずに、何人かの取り巻きを集めて自分たちだけで遊んでいた。
コウガとぼくはお互いに「こいつとは合わない」と思っていた……たぶん。
べつにケンカをしていたわけじゃない。子どもだってちゃんとした一人の人間だから、合う合わないなんてことはしょっちゅうある。
大人だったら人生経験のノウハウを生かして表面的なつき合いというものができるだろう。でもぼくたちは幼かった。そして、子どもには幼さゆえの特権がある。後先を考えず本音で物事を判断する。子どもにはそれが許されている。だからぼくは本能の赴くままに遊び相手の人選を行った。
コウガは弱い者いじめが好きそうだったから、ぼくはコウガと遊びたくはなかった。
どんくさいと、アイのことをバカにしていた。だからアイもコウガを避けていた。ぼくといればコウガは寄ってこない。だからアイはぼくといるようになった。
ところがそのときは、ぼくがトイレに行って二人は離れ離れになった。
コウガはそのスキを狙った。とはいうものの、園児が計画性を持っているとは考えにくいので、コウガはアイが一人でいるのをたまたま見つけただけだろう。
そしてぼくがいないのをいいことに、コウガはアイをからかいはじめた。
コウガたちに取り囲まれて、アイは怖くなって泣きだしてしまう。
運が悪かった。そのとき先生はほかの子に気を取られていたのか、コウガたちのほうを見ていなかった。不幸な偶然が重なる。一瞬の空白。そんなことは普段ならありえない。でもそのときは先生の目がコウガたちからそれていた。
それは瞬間の出来事だった。
コウガは素早く自分の靴下を脱いでそれをアイの口に突っこんだ。
なんでそんなことを? 子どもは思いもよらない突拍子もないことをするときがある。理屈じゃない。幼すぎて理性も発達していない。だから大人が近くで見ていなければならない。でもそのときは違った。コウガはアイの泣き声を先生に聞かれたくなかった。自分がアイを泣かしたと思われたくなかった。理由は単純。だから馬乗りになって靴下をぐいぐいとアイの口に押しこんだ。
まわりの子たちはコウガがなにをしているのかを理解してはいなかった。だからコウガを止めようともアイを助けようともしなかった。
アイは暴れた。
当然だ。窒息しそうになっていたんだ。でもコウガはアイを離さなかった。そしてそのときトイレから戻ってきたぼくは、コウガがなにかをしていることに気がついた。ぼくにはコウガの背中が見えた。なにをしているのかはわからなかったが、でも悪いことだと直感した。だからそのまま走っていってコウガの背中を思いきり突き飛ばした。
コウガが床に頭を打ちつけた鈍い音が響いた。
「なにやってるの!」
異変に気づいた先生が駆け寄ってくる。ぼくはアイの口に詰まっている物を急いで取りのぞいた。アイはぐったりとしたままだ。
「救急車! だれか救急車呼んで!」
青い顔をした先生がぼくを押しのけてアイの体を確認する。
コウガが床に転がったまま泣きだした。それにつられてまわりの子たちも一斉に泣きだす。アイが薄く目をあけた。怯えた目が一瞬だけぼくを見て、また閉じてしまう。
大騒ぎになった。
幸いなことにアイはなんともなかったが、それから一か月ほど家で静養していた。心底怖かっただろう。一歩間違えれば死んでいたかもしれないのだ。
コウガはそれ以来幼稚園にくることはなかった。彼のしたことを考えると、ぼくがコウガを突き飛ばしたことなんて問題にもならなかった。反対に感謝されたくらいだ。
アイを助けたぼくは本物のヒーローになった。
騒ぎがおさまりしばらくすると、ようやく幼稚園に平和が戻った。もうぼくの持ち物がなくなることもなかった。それは冬になりはじめの、卒園まであと四ヶ月という時期だった。
4
彼方から電子音が聞こえてくる。
意識が無理やり現実に引き戻された。見慣れた部屋のなかで薄く目をひらく。
また、一日がはじまった。
昨日とは違う一日だが、とりたててなにもない、ありふれた一日だ。でもそれでいいと、それがいいと思った。平凡に暮らしていけることがどれだけ幸せなことか、大人になったぼくはちゃんと知っている。
「おはようございます」
「おはよう。早いね。……新人くんはあんまり早く来ないよね」
工藤さんがぼくの隣の席を見ていた。
ローリーが来てから一週間がたっていた。
「なんか、見ていて思うんだけどさ。彼って、思考回路がちょっと独特じゃない?」
「そうですね。ちょっと斜め上ですかね」
「うん。普通にやってくれればいいのに、なんか通じないんだよね。国広くんはちゃんとやってくれたから、みんなもそのつもりで彼に接しているんだろうけどね。なんで言葉が通じないんだろう。外国人でもあるまいし」
「そこはぼくも不思議ですね。隣で聞いてても、ちょっともどかしいというか」
ローリーは「はい」という返事ができない。
初日にはあんなに元気に「はい」と言っていたにもかかわらず、その後の仕事では「はい」がなかなか出てこない。
たとえば「この書類を番号順に並び替えてほしい。分類項目の番号順、そしてナンバリングが打ってある番号順にしてほしい」という要求があったとする。
分類項目がもし五十音だとすると、「あ」の「1」番が最初にくる。そのあとはナンバリングが何番まであるかわからないが、とにかく「あ」の項目で番号順に並べればいい。次は「い」の「1」番からだ。そして最後が「ん」になるという順番だ。
すると彼はそこで「うーん」と考えこむのだ。それほど難しいミッションとは思えないし、わからなければ質問すればいい。ところが彼は「とりあえずやってみます」と言う。
しばらく時間を置いて、仕事を頼んだ人が彼の様子を見にくる。
「どんな具合?」
すると彼は笑みを浮かべてこう答える。
「できました」
「そう。ちょっと見せて」
「はい」
書類の束を見ていた人の首が、だんだんとかしいでいく。
「これ、どういう順番?」
「日付順です」
そのやりとりを聞いていたローリー以外の人の頭の上には一斉にクエスチョンマークが浮く。
「えーと……ちゃんと説明聞いていたよね」
「聞いてましたけど」
「分類項目、ナンバリング順って言ったと思うけど」
「ですね」
「じゃあなんで日付順なの?」
「最終的に処理するのは日付順なんですから、このほうがいいと思って」
ローリーにはローリーの言い分があるのだろう。
「真田くん。あのさ、言われたことからしっかりやろうよ」
「でも、ぼくなりに仕事のやり方を考えたら日付順のほうがやりやすいかなと思ったんです。いろいろなやり方を試してみたいんですよ」
「そうじゃない。そういうことを言っているんじゃないんだ。最初は言われたことをしっかりとやってほしいんだ。勝手にやられちゃ困るんだよ。真田くん一人で仕事をしているわけじゃないんだから」
「でもですね、仕事の流れを考えると、やっぱりやり方は変えたほうがいいと思うんですよ」
「ぼくたちは真田くんより長くここで働いているんだ。仕事のやり方は全員が同じようにしている。共通の認識ができているんだよ。いきなり変えるわけにはいかないんだ」
「わかりました。じゃあそのうち、ぼくのほうから課長あたりに仕事のやり方の変更を提案させていただきます」
と、こんな具合になる。
きっとローリーは優秀な人なんだろう。
「前の会社でもあんな感じだったのかな。ちょっとこれから大変かも……」
その工藤さんの不安はすぐに的中してしまった。
「おはようございます」
ローリーがやってきた。
「課長ってもう来てますかね」
ぼくは伸びあがって課長席を見る。
「課長は――まだみたいだね。なんか用があるの」
「ええ、まあ」
そう言ってローリーはぼくから不自然に目をそらした。おや、とは思ったが、特に気にとめることもなかった。
朝礼が終わり、仕事をはじめようと席に着くと、ローリーがすたすたと課長席に向かっていくのが見えた。
「課長、お時間ありますか? ちょっとお話があるんですけど」
ローリーのその言葉で、いきなり部屋がしんと静まり返った。離れているぼくの席にまでやりとりがちゃんと聞こえてくる。
「いいよ。なに」
「えっ、ここでですか」
躊躇するローリーに課長は話を促した。
「べつにかまわないよ。それで、なに」
「仕事のことなんですけど」
隣の係長が慌てて飛んでいく。
「真田くん! 仕事の話なら先にぼくにするのが筋じゃないのか。きみの直属上司なんだから」
「まあ、そうなんですけど。でも課長のほうがヒューリスティックに判断できるかなって思って」
「なにを言ってるんだ!」
課長は「まあまあ」と係長をなだめてローリーに向き直る。
「で、なんだ」
「一週間ずっと見てきたんですけど、仕事の量がぼくのほうが多いんです。どういうことでしょうか。ちょっと納得できないです」
「えーと、仕事の量が多いの? 係長、どうなの」
「普通ですよ。残業させてるわけでもないし、最初からそんなに仕事をやらせるわけがないじゃないですか。第一、頼んでもそのとおりにやらないからこっちの仕事が増えちゃって、こっちのほうが大変なんだ」
係長のグチともとれる言葉を聞いて課長は低く笑う。
「業務量は適正だと判断できるが」
「違います。そうじゃないんです」
ローリーがきっぱりと否定する。
「なにが違うんだね」
「ぼくが言いたいのは国広さんのことです」
「えっ、ぼく?」
思わず声が出る。
いきなり名前が出てきて驚いた。ローリーになにかしたか? と自問してみるがなにも出てこない。
心臓がどきどきしはじめた。
「国広くんがどうかしたのか」
「ですから、ぼくのほうが国広さんより仕事の量が多いんですよ」
おそらく部屋にいる全員、当然ローリー以外の人間があっけにとられたに違いない。
「だってずるいじゃないですか。不公平ですよ。どうして同じ業務量じゃないんですか。ぼくは一週間ずっと見ていたんだ。国広さんはぼくより楽で簡単な仕事ばっかりだ。国広さんと同じ仕事にしてくださいよ!」
課長がこれみよがしにため息をつく。
「きみね、仕事をなんだと思ってるの」
「ぼくは自分の労働の対価として給料をもらっています。仕事なんてどれでも同じですよ。だったら楽をして給料もらいたいっていうのが本音でしょう。同一労働同一賃金にするべきです。だからぼくの仕事の量を減らすか国広さんの給料を減らすかしてもらわないと納得いきません!」
いくらなんでもぶっちゃけすぎだ。
「……きみはこの一週間、ずっと国広くんの仕事を見ていたのかね」
「はい」
「ずいぶん余裕だな。自分の仕事を覚えようとはしなかったのか」
「もう覚えました。初日にオリエンテーションをしたのでだいたいわかりますよ。そろそろ課長に新しい仕事の提案をしようと思って、起案を書く準備をしているところです」
「……優秀ですな」
「それほどでもないですよ」
平然とそう返したローリーは最強だと思った。
課長は軽く咳払いをする。
「いいかね。まず、きみの業務量は、この先増えることはあっても減ることはない」
「どうして!」
「待て。人の話は最後まで聞きなさい。特に年長者の言葉は最後まで聞けと教わらなかったのか」
「教わってません」
「そうか。だったら覚えておきなさい。人の話は最後までちゃんと聞くこと。そして、国広くんだが――彼の給料は当然きみよりも安い。国広くんは契約だ。正社員のきみとは立場が違う」
つかのまの沈黙が広がった。
「……なんだ。そうだったんですね」
ローリーが納得したようにうなずいた。
「わかりました。今のままで大丈夫です。失礼しました」
ぺこりと頭を下げて、ローリーが課長席を離れた。こちらに戻ってくる。
課長と係長が顔を見合わせていた。
ローリーは何事もなかったように席に着くと、黙って仕事をはじめた。
5
昼休みになるとローリーはいったん席を外したが、コンビニの袋を手に戻ってきた。
ぼくはすでにお弁当を広げていた。
袋から雑誌とサンドイッチを出しながら、ローリーがふいに横を向いて話しかけてくる。
「年も近そうだしスーツも着こなし感が出てるから、てっきりぼくと同じ正社員だと思ってましたよ。契約って月にいくらもらえるんですか」
「月に、じゃないよ。固定給じゃなくて時給だから」
おにぎりをほおばりながら答える。
「時給っていくらですか」
「東京都の最低賃金っていくらか知ってる?」
「はあ、まあ一応」
「最初はそれだった。けど、四月に昇給があってやっと十円上がったよ。それカケル労働時間数、プラス交通費。交通費は一か月の定期代。あ、でも有給取ったらその日数分、日割りで定期代から引かれるけど。で、社会保険料と交通費を引いた実質の手取りはだいたい月に十五万くらい。出勤日数や残業とかの関係でプラマイ一万といったところかな。派遣のほうが時給は高いと思うよ。でもぼくは直接雇用だから、まあこんなもんだよ」
それを聞いたローリーは目を丸くした。
「最低賃金交通費別途支給って、近所のパートのおばちゃんと同じじゃないですか」
「そうだね。だからぼくにはメーデーなんて関係ないし、昇給や賞与もないから、唯一待ち遠しいのは最低賃金が上がる十月かな。ま、上がっても一円十円単位だけどね」
「なんでそんな条件で働いているんですか? そんな給料じゃ暮らしていけないですよ」
「暮らしてるけど」
ありえない――そうつぶやいて珍獣でも見るような眼差しで見つめてくる。
ぼくはゆっくりと目をそらした。
「……もしかして、叶えたい夢の途中とか」
「夢なんてカケラもないです」
「なにかの試験を目指しているとか? 目標は弁護士とか税理士とか」
「目標は、死ぬまでちゃんと生き続けること。平凡に生きていくことです」
ぼくが生まれたときの両親のたまらなく嬉しそうな顔を思い出すと、ちゃんと生きていかなくちゃ、という気持ちになる。
「海外語学留学とか、お店を出すとかの準備期間とか」
「いやいや、お金を貯めるつもりならもっと時給の高いところに行きますって」
「ですよね。でもそんな夢も希望もない生活をしていて、それで本当に生きているって言えるんですか」
ローリーにはぼくのような人間がいることが想像もできないようだ。
「どうでしょうね。これでも本人はかろうじて生きているつもりですが。たまに夜ご飯がもやし一袋とかになるときもありますけど。うーん、まあ、たしかに健全な社会生活を送れているかは疑問ですね。でもそういうのって人それぞれじゃないんですか。真田くんみたいに強い人ばっかりじゃないんですよ」
「強い? ぼくが」
「そう思いますよ」
彼には怖いものがないんじゃないのか。
けっしてローリーになりたくはないが、うらやましい気もする。その個性だって。多数のなかに埋もれてしまうなんの特徴もないぼくからしたら、その独特の存在感に圧倒されてしまう。
ポットの麦茶を一気に飲み干す。
ちなみに飲み物も持参している。節約生活の鉄則だ。何気なく外で買う飲み物代がけっこうバカにならないのだ。
「それに、たぶんぼくだけじゃないです。やむを得ない事情があって、時給とか時短でしか働けない人たちもいると思うし」
「それはそうかもしれませんけど、それにしたって生活が……」
「最低賃金って人間の生活ができる最低の賃金ってことでしょう。月に十五万もあればこの国では生活できるって、上にいる人たちがそう決めたんだから、従うしかないでしょう。ぼくには日常生活が修行としか思えないけど……いや違うな。賃金が上がらないまま消費税も上がったことだし、もうこれは苦行ですね。一部を除いて、国民はすべからく清貧でいるべきだと」
「ぼくにはわかりませんね」
「ぼくにもわかりませんよ」
強い人ばかりじゃない。働く意欲があっても採用されなければ職にありつけない。ずっと短期の契約をくり返してきてもスキルが上がったという評価にはつながらない。むしろ〈続かない人〉〈使えない人〉だから短期で職場を転々としていると思われるかもしれない。長く働きたいという希望があったとしても、無期雇用を警戒して五年目に入る前に不利な条件を出されたり、契約自体を切られたりすることもある。非正規イコール、いや、〈正規社員職員以外の労働者=雇用の調節弁〉という式が成り立ってしまった以上、それはもう永遠になかったことにはならないのだ。E=mc²と同じように。
けっして高望みをしているわけじゃない。選り好みをしているわけでもない。それでもなかなか次の職が見つからなければ、仕方なく食いつなぐためだけに目の前の職にありつこうとする。それがたとえ最低賃金サ残ありで交通費が出ないブラックなところだとしても。
世の中はそんなに優しくない。一度つまずいてしまうと立ち上がるのは容易ではない。手持ちのお金も住むところも無くす恐怖。飢える恐怖。心の余裕もなくなり自分だけがこんな辛い思いをしているのだと思いこむ。自分以外の人間がみんな幸せそうに見えてくる。貧困スパイラルは一度はまったら抜け出すことが難しい。しかもこれらはすべてが自己責任で片付けられてしまうのだ。でもそれは強い人間の理屈だと、ぼくは思う。
「真田くんにはわからないよ」
何事も、相手をちゃんと理解しようとしてくれる人にしか理解はできないものだ。
「そうかもしれません。でも、一つだけわかりましたよ」
ローリーは人差し指を立てて胸を張る。
なぜそんなに自信ありげな表情ができるんだろうと、不思議に思う。
「国広さんとぼくには共通点があります」
「共通点?」
はたしてそんなものがどこかにあるのだろうか。
「まずはぼくの話を聞いてください」
ローリーはイスを滑らせて、ぼくの横にぴったりとはりついた。
部屋にいたほとんどの人はランチに出ている。近くに人はいなかった。それでもローリーは声をひそめて話しはじめた。
「ぼくはここに長くいるつもりはありません。ここはキャリアパスにならないですからね。ただの寄り道ですよ。ぼくには目標があるんです。これは内緒なんですけど、実は勉強する時間が欲しくて転職したんですよ。ここは残業があまりないと言っていましたからね。ぼくはとにかく普通に人生を送っていきたいんです。そのためにはお金が必要だ。しかも一生コンスタントに収入がなければ安定した生活は送れない。だから簡単につぶれるような会社で働くつもりはない。そこで考えた。そして見つけたんです。ぼくの条件に合う職場を。ねえ、どこだと思いますか」
楽しげに目が笑っていた。
「さあ……」
「県庁ですよ。ぼくは地元の県庁に入ることにしました。このあいだ、現役の知り合いに話を聞いてきました。その人は忙しいし大変だって言ってましたけど、死ぬほど残業したぼくから言わせると〈ぬるい職場〉って感じでしたね。ほら、高官だってトンデモ発言したり国会も居眠りはするし答弁書は棒読みだし、いい見本を見せてくれてるじゃないですか。一番上があんなんですよ、きっとどこもあんなもんですよ――って、べつにナメてるわけじゃなくて、二割くらいは冗談ですけどね。それにたった一度だけ試験に受かれば一生安泰です。犯罪さえおかさなければクビにならないし、最低限の仕事さえやっていればサボり放題じゃないんですかね。しかも定時に終わらなければ残業代だってちゃんともらえるんです。たとえどんな事態になろうとも、ボーナスもきっちり支給されるし。どうです? これって国広さんと同じ考えじゃないですか」
「どこらへんが?」
なにが共通点だというのだろう。
「わかりませんか」
わかるわけがない。ぼくはローリーを理解したいなどと思ってはいないのだから。
「普通に人生を送っていきたい、そのためにはお金が必要だってところですよ。ちゃんと生き続けていくんですよね?」
にこやかな顔で問われても、うなずけない。
それは共通点というよりも大半の人が思っていることだろう。共通点にしては巨大すぎる。もはや点ではない。
「ぼくの場合は県庁ですけどね、国広さんの場合はどこかの公務員とかでいいんじゃないですか」
「いいんじゃないですかって、どういう意味」
「ぼくたちには安定した雇用が必要なんです。契約とか臨時とかではなくて、ちゃんとした就職先が必要なんですよ。これでも人を見る目はあるんです。ぼくはしっかりと国広さんの仕事ぶりを観察していました。だからわかります。国広さんはちゃんと仕事ができるのに、賃金の面で不当な扱いを受けているじゃないですか」
話がどう転がっていくのか予想できない。
「だから、二人で目指しましょうよ」
二人で?
おっかなびっくり聞いてみる。
「なにを」
「試験ですよ。ぼくは県庁目指して。国広さんは国家でも地方でも公務員目指して」
「どうしてそうなるの」
「知らないんですか。じゃあ教えてあげます。大きな試練を乗り越えるのにはライバルとか仲間が必要なんですよ」
ぼくはローリーが買ってきた雑誌に注目した。それは昔ぼくも買っていた漫画雑誌だ。主人公たちには死ぬほどの不幸が降りかかり、友情や努力でそれを乗り越えていくというのが話の定番になっている。
「国広さんとは話が合うと思っていました。この職場にきてよかったです。いい人と巡り合えた」
ローリーは胸のあたりで拳を作り、ぐっと力をこめた。
「ぼくたち二人で仲良く目標を目指して頑張りましょう!」
言いたいことだけ言うとローリーはイスごと席に戻っていった。
あまりのことに、なにも言い返すことができなかった。
気だるい午後がぼんやりと過ぎていく。
帰宅してからもローリーの言葉が頭のなかでぐるぐると回っていた。彼になにを言われたのか、その意味をちゃんと考えたくはない。
結局のところ、ぼくはショックを受けたのだ。
ぼくはローリーと話が合うとは思えなかったし、ましてや仲良くしたいなどという願望は微塵も持っていない。しかもローリーはぼくとライバルになるのではなく、仲間になるほうを選んだ。なぜなんだ? 疑問ばかりが浮かんでくる。買ったばかりの高価な白シャツに絶対に落ちそうもない汚れを見つけてしまったように、その理不尽さに胸のなかがささくれ立つ。
携帯の音でわれに返った。
父親からのメールだ。
『来週の日曜日。十時。照川寺。来られるか?』
じいちゃんの法事の連絡だった。
『了解。行くよ。』とぼくは短く返した。