それぞれの将来
夏休み中、藤崎先生が部室を訪れた。
「一応顧問だからね、一回くらいは様子を見ておかないとと思ってだね。」
優しい口調で言った。
「曲の進みはどうかね?」
「ありがとうございます! 順調……って言いたいところなんですけど……。」
アスカは口ごもった。確実に前へ進んではいるものの、細かな修正が多く、進みはのろかった。
「まぁまだ時間はある。私は余計な口出しはしないから、ゆっくりやればいいさ。」
のんびりとした口調でいった。藤崎先生が醸し出す雰囲気は父性を感じさせて、心地よかった。ふむ、と顎に手を当て、先生はリュウがソフトをいじっているのを見やる。
「坂井くん、君は確か去年バンドを組んでいたのだったね? シンセサイザーも使えたのか。」
「そうですが……。」
バンドのことはあまりいい思い出ではないため、返事の歯切れが悪くなる。
「私も学生時代ギターをやっていてね。仲間と一緒にバンドを組んでいたのさ。作曲もしていたのだよ。」
さすが音楽の先生だ。作曲経験まであるとは。
「当然、楽曲作りに関しては仲間内でもめることもあってだね……何度も解散の危機に見舞われたよ。」
藤崎先生は遠い目をして言った。
「どうやって、乗り越えたんですか?」
MST団の状況に、近いものがある。解散の危機とまではいかないけれど。
「絶対に、相手の意見を軽んじないことだね。距離が近いと腹が立つこともあるだろう。仲の良さゆえにね。なかなか我の強いメンバーもいるかもしれない。」
先生は心なしか周りを見回しながら言った。
「でもね、一旦は信頼し合って、一緒にやっていこうとしたメンバーなんだから、そう簡単に離しちゃだめだ。若いんだからそりゃあ喧嘩もするし、分かりあえないこともあるだろう。」
リュウは喧嘩別れしたバンド仲間を思い出した。未だに距離がある。元の仲にはもう戻れないだろう。
「だけど、むやみに人を否定しちゃいけないよ。バンド活動以外にも言えることだがね。」
藤崎先生は念を押した。そしてふとリュウのパソコンのディスクトップ画面に目をやると、食い入るように見つめた。
「このメロディは……誰が考えたのかね?」
「あ、あたしです!」
アスカが頬を紅潮させて言った。
「そうか、君が……。」
藤崎先生は目を細めた。
「君嶋くん、君は音大に行く資格があると思うんだがね。」
「……っはい!」
そう応えたアスカの目は涙ぐんでいた。色々抱えて生きているのだ、アスカだって。藤崎先生は一人一人に励ましの言葉をかけ、最後にゲンの絵を見て、
「君はなかなか筋がいいね。」
と言って帰っていった。
夏休みも半ばを過ぎたときのことだ。リュウは滴る汗に顔をしかめながら、予備校への道を自転車で駆けていた。リュウは例の暴力沙汰のせいで、学校でも予備校でも遠巻きにされるようになっていた。何人かの親しい友人からは、MST団の付き合いをやめるように言われていた。しかしリュウはそれに耳を貸さなかったし、孤立ぎみの状況を気にもしなかった。そんなことより、楽曲を磨き上げ、最良の物にすることの方が大事だった。胸に宿る熱い感情を情熱と呼ぶのだと、そのときは知らなかった。
あぜ道を通っていたとき、ふと土手に目をやると、一人の女子生徒がたたずんでいるのが見えた。リュウが通う学校の制服だ。
自転車を止め、目をこらすと、特徴的なボブカットが分かった。アスカだ。声をかけようと思ったが、距離が離れていたのでやめておいた。
しばらく見ていると、腹に手をあて、口を大きくあけてなにやら叫んでいる。何をしているんだあいつ、と一瞬思ったが、学校の放送部の活動を思い出した。
アスカは歌手になりたいらしい。発声練習なのかもしれない。
板倉や両親から反対されているようだが、受験勉強の天王山である夏休みまで発声を続けるとは、本気なのかもしれない。本気はいずれ、周りの思いを変えるかもしれない。リュウも夢に向かうために、重い自転車のペダルをこぎ始めた。
夏休みも後半戦に突入したとき、一度MST団は喫茶店に集合した。ゲンの絵の出来を見るためだ。MST団は夏休み中、受験勉強に集中するという意味で毎週の集まりを中断していた。今日は久々に集まったのだ。
「ああゲンっ! 優勝おめでとうー!」
アスカが底抜けに明るく言った。ゲンは夏休み中に行われた大会で優勝し、大学への推薦をさらに堅いものへとしていた。その合間にいくつもの絵を描き上げたというのだからすごいものだ。
アスカの言葉にゲンは軽く礼を言ったあと、絵を取り出す。大き目の画用紙にはあらゆる角度や表情の音祢ミクが描かれていた。どの音祢ミクも魅力的で目を惹いた。簡単だが着色もされている。髪を彩るターコイズブルーが印象的だ。
リュウとトモヤ、サヤは口々に褒め称えたが、なぜかアスカの表情は硬かった。絵を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。何かに気付いたゲンが、どうしたのかと聞いた。
「あのさ、ゲン……これさ、本気で描いたの?」
アスカは険しい表情で言った。リュウは何を言っているのかよく分からなかった。
「本気で、か……柔道と並行しながらだからな。百パーセントではないかもしれない。」
ゲンは真剣に答えた。むっとした様子もない。大人で誠実な人柄がうかがえる。
「次は、本気で描いてよね。MST団に入ったからには。」
アスカはつっけどんに言った。リュウはたしなめようとしたがゲンに制された。リュウやトモヤのことはあれだけ褒めちぎるのに、なぜゲンには厳しいことを言ったのだろう。同じくらい素晴らしい才能を持っていると思うのに。よく理解できなかった。
メロンソーダやらオレンジジュースやらを飲みながら、リュウたちMST団は軽い近況報告をし合う。
「あー……みんな受験勉強だよね……ああ。」
心底気が抜けたようにアスカがぼやく。
「お前は早く志望校を決めろ。」
リュウが呆れたように言った。アスカはうなだれる。
「こっちも色々事情があるんだよ……。」
「で、そーいうリュウはどうなんだ? 受験勉強の調子は?」
話題を変えるようにトモヤが聞いた。
「あー……大分安定して模試の判定は出るようになったよ。油断は禁物だけど、とりあえずは安心、かな。」
前まではバラつきがあった模試の判定も、MST団の活動以外は切り替えて受験勉強しているおかげか、良好な判定がでるようになった。国立の理系学部も夢ではないかもしれない。
「トモヤはどうだ?」
「僕は……まだグラついてるかな。いい時もあれば、悪い時は悪い。でも志望校、変える気はないよ。」
トモヤの志望大学は私大の雄だ。なかなか良い判定を出すのは難しいだろう。
「規模も大きくて、個性的な人たちが集まっている大学だからさ……僕も居心地がいいと思うんだ。」
行きたい理由がトモヤにはある。素晴らしい動機だと思う。
「サヤはどうだ?」
優等生である彼女は心配するまでもないはずだ。
「今の成績を保てれば、大丈夫だと思います、だから……。」
「だから?」
サヤは控えめに答えた。
「ピアノの練習、再開しようかなって……。」
「弾いてくれるの! サヤ!?」
アスカが歓喜の声を上げた。今まで楽曲についてのアドバイスはしても、自分で弾くことは一切なかったサヤだ。しかも腕前は保証されている。喜ぶのも無理はない。
「やったー! 嬉しい!! やっぱり打ち込みと生音じゃ、音の繊細さが違うもんねぇ!」
サヤの事情を慮ってピアノを弾くことを強制しなかったアスカだ。感動もひとしおだった。
「とりあえず今の時点での伴奏弾いてきてよサヤ! で、録音して聴かせて!」
まだまだ修正は必要だが、ピアノ伴奏の楽譜は完成していた。難易度としては難しめだが、サヤなら大丈夫だろう。
「しかし……なんでいきなり弾こうって思ったんだ?」
ゲンが落ち着いたトーンで聞いた。リュウやアスカがそれとなく勧めても、今までずっと拒否し続けていたのだ。どういう心境の変化だろう。
「過去の自分と、未来の自分は違うって、思ったから。」
きっぱりとした口調でサヤは答えた。
「私、中学でピアノやめてから今まで伴奏以外で触れること無かったんです。それは過去の自分に見切りをつけてなかったから。」
すっと顔を上向きにした。
「でもMST団に入って、アスカちゃんやリュウくんたちと出会って……。もっと気楽に音楽って楽しんでいいのかもなって、思ったんです。」
「サヤがそう思ってくれたんなら、あたしも誘ったかいがあるよ。」
アスカが、なぜか目に切ない光を宿しながらそう言った。アスカに感じる違和感は、ここのところますます大きくなっていた。しかしリュウにはどうしたらいいのかよく分からなかった。
「僕もね、最近小説書くの、始めたんだ。」
明るい調子でトモヤが言った。出会った当初と比べ、トモヤは随分変わった。前向きに、自分の意見をはっきり口にするようになった。
「どういうやつだ?」
「僕たちが今作ってる曲を……ノベル化したやつ。主人公は音祢ミクがモデルで、ラヴストーリーだよ。」
音祢ミクが歌った曲をノベル化した作品は一時期ブームだった。より世界観や作品背景を知れるという理由からだ。
「トモヤ……! もうミリオン見越してんの!?」
「ま、もしいかないにしてもこの小説、ライトノベルの新人賞に出すつもりだからね。」
挑発するようにトモヤは言った。最初はしぶしぶといった風に協力していたリュウたちだったが、みんなやる気になっている。言い出しっぺのアスカの持つ、不思議な力のせいだろう。自分はそれに応えられるような曲作りが出来るのだろうか。リュウはふと考えた。