ここから、すべては始まる
「……坂井龍って君だよね?」
高校三年生になったばかりの桜が舞うある日、昼休みの喧騒途絶えぬ教室で、龍は一人の少女と出逢う。少女はボブカットに大きなアーモンド形の瞳、そして鈴を転がしたような声を持っていた。
――ここから、全ては始まる。
「君に、楽曲制作を頼みたい。」
「ハァ?」
少女はハキハキとよく通る声で言った。龍は、目の前の女子が一瞬何を言っているのか呑み込めなかった。それはあまりにも唐突だったからだ。一応、この女子の名前は知っている。三年五組、君嶋明日香。龍とは三年間同じクラスになったこともなければしゃべったこともない。少女は驚愕の表情を浮かべるリュウを気にせず続ける。
「音声合成ソフトを使った曲作り。やったことあるでしょ?」
「……!」
なぜこの女子がそれを知っているのか、龍にはよく分からなかった。……遠い日の、香ばしい思い出。龍は自作の曲をインターネット上の投稿サイトにアップロードしたことがあった。無名の中学生にしては再生数がそこそこいったのだが――あとから我に返って自分の曲を再生してみると、あまりにも痛々しい歌詞とメロディーに聴くに堪えなくなり、速攻で画面を閉じた記憶がある。何件かコメントや評価をされていたため、削除はしなかったが、龍としては永遠に触れないで欲しい思い出だ。
「なんでそれを知ってんだよ!」
「裏ルートってやつ。」
ふふん、と明日香は瞳をいたずらに光らせた。
「バラされたくなかったら、私について放課後空き教室に来ること!」
「うう……。」
そのことを知っているのは一部の親しい友人だけのはずだ。なぜ君嶋明日香がそれを知っているのか、全くもって情報の出どころが分からない。
……しかし、かくして龍は、君嶋明日香の思いつきに付き合うこととなったのだ。
終業のベルが鳴り、放課後になった。龍は予備校が始まるまでだと約束し、明日香に理科棟の一教室に案内された。特に広くも、音楽的な設備が整っているわけでもない場所だ。
「……おい、ちゃんと許可取ってんだろーな!?」
明日香はそれには応えず、黙って教室のドアを開けた。誰もいないと思っていたのに、なんと先客がいる。前方の席に腰かけているのは三年六組、菅友哉。鼻まで届きそうな長い前髪に猫背。むっすりと押し黙って文庫本を読んでいる。病的に白い肌と小柄な体型は貧弱な印象を受け、みるからにオタク、といった感じだ。龍はこの男子生徒も知っている。いつも一人で本ばかり読んでいて、かなり浮いた奴だという話だ。こちらも三年間同じクラスになったことはない。
「……三年六組菅友哉……。何すればいいか分かんないけどよろしく……。」
龍と明日香に向けてぼそぼそとそれだけつぶやくと、友哉はまたむっすり押し黙った。龍は歩み寄り、友哉の耳元でささやいた。
「お前も脅されたのか?」
友哉は軽くうなづいた。
「社会科準備室に創作ノートを置き忘れたんだ……。あれが広まれば僕は死ぬ。」
龍は君嶋明日香という少女をつくづく食えない奴だと思った。
「さ! 君たちにやってほしいのはね!」
死刑を宣告されたような雰囲気の龍たちとは対照的に、明日香の声と表情は明るい。意気揚々と備え付けのホワイトボードになにやら書き始める。
『音祢ミク・消失前プロジェクト』
龍と友哉は困惑した。何が何だか分からない。おい、なんだそれ、と龍が言葉を発する前に明日香が説明を始めた。
「二人とも、音祢ミクが製造廃止になるっていうこと、知ってる?」
それなら龍もネットニュースで見たことがあった。来年の春、ヤメハが開発した音声合成ソフト・音祢ミクが一昨年の十音ルミ、KAIKO、MERINO、昨年の面蔡リル・レルに続き、ついに製造が廃止されるのだ。隣の友哉もうなづいた。
「……もうミクさん、死んじゃうんだよ? 最期に一花、咲かせてあげたいじゃない?」
「曲を作ることで、か?」
龍が口を挟む。
「そう、それ!」
明日香の瞳が輝く。身を乗り出して、龍と友哉に顔を近づけた。
「幸いここには二人も才能豊かな仲間がいる……! これに私を合わせて……あともうちょいメンバー欲しいけど……全力で作曲に取り組めば、ミリオン達成も夢じゃない!!」
ミリオン、というのは動画投稿サイトで再生回数が百万回を超すことだ。単純計算で日本人の百人に一人が見ていることになる。容易に達成できる数字じゃない。龍はあきれ返った。いきなり初対面の人間を集めて、夢物語を語っている。こちらの都合なんか考えずに。現実を見据えてのこととは思えない。おまけに。
「お前さ……俺ら、高三だろ……。」
大学受験まで一年もない。龍たちが通う高校は進学校で、ほとんどの生徒が大学を受験する。それに龍の第一志望は国立の理系だ。これから多大なる時間を受験勉強に充てなければならない。
「曲作ってるような時間、あんのかよ?」
明日香は、急に元気を無くした。
「それは分かってる……。時間に関しては、都合のつくときだけ集まってやればいいし、勉強の息抜き程度に思ってくれればいい。」
「……そんなんで、すごい曲が作れるとでも?」
龍はイライラした感情が込み上げてくるのを感じた。――曲を作るのに、一体どれだけの時間と労力がかかると思っているんだ。俺はあの曲を作るのに、かれこれ半年近く費やした。この女は創作をなめている。――一度も何かを生み出したことがない人間にそれを分かれというのは無理な話だったが、このときの龍にはそこまで考えが及ばなかった。
「話になんねえ。帰る。」
龍は教室のドアに向かって歩いた。明日香のほうをちらりとも見なかった。もうこれ以上関わり合いになりたくなかった。しかしその瞬間、強い力で腕を引っ張られる。
「……待ってよ!」
龍はすがりつくような目を明日香から向けられた。何か言う前に、明日香が口を開く。
「君の曲を聴いたとき……私すっごく感動したんだ。ミリオンいくほどじゃないけど、これを作った人は音祢ミクとギターを愛しているんだなって伝わってきた。それに君、バンドもやってたでしょ……!? 文化祭のときに見たもの。」
バンド、という言葉に、龍は古傷がえぐられたような気持になった。こちらも、ある事情で触れられたくない思い出だ。
「君、絶対音楽好きでしょ……! だから、もう一回……!」
龍は明日香の手を払い、ドアを開けようとする。文化祭のあの記憶が突如脳裏によみがえった。――もうあんな思い、したくない……!
「私は! 君の音楽にっ! 惚れたっ!!!」
明日香が叫んだ。その声が空き教室中にこだまする。龍は、思わずドアを開きかけた手を止めた。
惚れたというのか、この少女は。自分が作った、曲に。
「……君の曲は、音祢ミクの最期を飾るのに、ふさわしい。」
「そこまで言うのかよ……。」
龍は根負けしたように呟いた。もちろん口から出まかせかもしれない。だけど自分の作品をここまで良く言われて、悪い気はしなかった。
「あの、条件をつけるってのはどう?」
「え?」
唐突に明日香が提案した。
「一週間後までに、私が曲を一曲作るの。その出来をみて、君は私に協力するかどうか決める、ってのは?」
必死の表情の明日香に、確かにそれは一理あるのかもしれない、と龍は考え直した。龍も創作する人間の一人だ。もしミリオン達成するほどの曲を作る才能が自分の中に眠っていて、この女がそれを手助けしてくれる技術をもっているというなら、協力するのもやぶさかではない。例え、受験勉強が若干おろそかになっても、だ。
「分かったよ……一週間後、な。」
龍は圧倒されたように呟き、空き教室をあとにした。
予備校へと向かう道の途中龍は、なぜかワクワクとした気持ちを感じた。まるで、曲をアップロードし終わって世間の反応を待つときのような。たくさんの期待と、少しの不安。来週が少しだけ待ち遠しかった。味気ない予備校への道が、いつもの授業が、心なしか輝いて見えた。
あっという間に一週間が経ち、龍、明日香、友哉の三人は再び空き教室に集まった。明日香はどこから持ってきたのか、使い古されたキーボードを机の上に置いた。
「……どこのだ、それ。」
「あは、音楽室からパクってきちゃった。」
なぜか得意げに明日香は言った。龍はバレたらまずい、と思いつつ、わざわざ指摘するのも馬鹿らしかったので黙っておいた。
さてと、と明日香はつぶやき、コードをコンセントに繋いでキーボードの電源を入れる。楽譜を用意している様子はない。
「ショウ・タイムだねっ!」
明るく宣言すると、明日香はキーボードに指を滑らせた。
……わずか三十秒ほどのことだったと思う。
龍と友哉は、呆けた頭で曲の最後の和音を聴いていた。
まるで、オーケストラのコンサートを聴いた後のようだった。
複雑でありながら軽やかな音の連なりは、一瞬で二人の心をとりこにした。
アップテンポで思わず踊り出したくなるようなメロディは、その日一日中、龍の頭の中で響いていた。
明日香の演奏は、多少タッチが粗く、ところどころ音が鳴り損ねているところはあったものの、そんなことは気にならないくらいに曲の素晴らしさで魅せていた。
(すげぇ……)
龍は心の中で呟いた。声に出さなかったのは、もしかしたら、同じ創作する人間としての嫉妬だったかもしれない。
「すごいじゃないか、君嶋さん!」
声を上げたのは友哉だった。予想外のことに興奮し、前髪の間からのぞいた瞳が輝いている。
「一週間でこのクオリティはなかなかできないんじゃないか!?」
そうだ、できない。龍は思う。龍は初めての曲を作るのに約半年かかったのだ。
「まぁ、伊達に四歳からピアノやってないからね。」
明日香は事もなげに言うと、龍の方を見やった。
「……どうよ、龍。」
……龍はいきなり下の名前で呼ばれたのも気づかなかった。そして、なし崩し的に彼女に協力することを約束していたのだった。それが思ったより長大な計画になるとは思いもせずに。