転生せずに異世界へ
裁判所、事務室。
カタカタ、カタカタカタカタ……。
「おー、流射芽くん。精がでるね~! また判決文書いてるの?」
パソコンに向かい、セッセと判決文を作成している俺に部総括判事が声を掛けてきた。ヤバイ、毎度のことながら緊急事態発生。
「いやぁ、原告さん。ちっとも和解に応じてくれなくて……」
「そうかそうか! じゃ、仕方ないねー」
上に媚び諂い伸し上がって来た壮年の眼光が穏やかな口調とは掛け離れて鋭いことぐらいは見なくても分かる。
「ですよねー!」
追い込まれた兎が逃げ道を探すように調子を合わせてみたものの、両の肩に掛かったゴツイ掌の圧と「でも、ね」と耳元で囁かれたことで観念する。
「君だけ極端に【売り上げ】悪いんだよね」
「す、すいません……」
膿栓が漂う息がヌメリと右頬を通り過ぎて鼻腔を刺激した。口呼吸へと切り替えた俺に法の番人たるこの御方は更に声音を落として言葉を続ける。
「頼むよ。私達【農耕民族】は、和解させてナンボなんだから」
脂汗が噴き出す。俺は「はい」と、それだけを絞り出した。
【民事事件担当裁判官】通称【農耕民族】は、訴訟において和解に持ち込んだ数を売上と呼ぶ。そして、その成績によって出世の道が開かれており、部総括判事であるこの人の出世も俺の成績が少なからず影響する。それは何故か。答えは明瞭、上司だからである。
本来『すべて裁判官は、その良心に従ひ、独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される』ということで、裁判官は指示をされたり従属させられたりはしないということを憲法では謳っているのだが、古来より人が揃えば自ずと上下関係が出来るもので肩書きなんかが加われば猶のこと。我々裁判官も上下の関係が自然・必然を問わず構築されている。ましてや、上級裁の意向なんかもきっちりと反映されている。出世という高みを大勢の裁判官が目指している以上、十分に忖度して弁論準備手続が個室であることをいいことに和解に向けた脅迫紛いの手口を原告・被告にブチカマす。だが、そういったことが俺は苦手だ。故に、判決を求める意志が固いと押し切られてしまう。まぁ、裁判本来の有り方には合致しているのだろうけれども、組織の【本音と建て前】からすると俺は完全にドロップアウト組だった。
「そうだ。君を適任の職場へ推薦しておいたからね」と、笑顔の暗黒神と呼ばれる上司は判決のように俺に告げた。
「え!? 【いってらっしゃい】ですかっ!?」
眼を見開きつつ、僅かに首の角度を変えた俺は鼻呼吸してしまったことを後悔する。
「いやいや、好きなだけ判決文書けるところだよ。近いうちに通達があると思うから準備よろしくね」と、そう言って上司は身の熟し軽く自分の席へと戻って行った。
「まじか……」
【いってらっしゃい】とは、閑職に追いやられることである。要するに、仕事を与えないで飼い殺し。早く辞めてのサイン。正直なところ、来るべき日が来たと思わないでもない。
「……はぁ」
憑き物が落ちたような後ろ姿を見送って、大きな溜息を吐いた俺は、鼻から残気をも出そうとした――。
その日の夜。
コンビニ弁当と数本の缶ビールをぶら下げて、賃貸マンションの一室へと帰宅する。誰もいない部屋の中は暗く、そして寂しい。アレルギーさえなけりゃネコでも飼うんだけどな。
「ああは言ってたけど、いってらっしゃいだろうなぁ……」
明るくなった部屋は掃除することを要求しているようだった。俺は、隅に溜まっている埃に気付かないフリをしてソファの背もたれに背広を放り投げてネクタイを緩めながら体を預けた。そして、タバコに火をつけて天井を見上げた。
「あ~あ……」
そんなに判決を出すことが悪いのか? 白黒つけて、そこからまた新しく人生をスタートさせたいっていう原告の気持ちを酌むことが、そんなに駄目なことなのか?
「ほんと、納得いかねぇよなぁ」
組織というものに違和感を覚える。【狩猟民族】と呼ばれる【刑事事件担当裁判官】は検察とだって馴れ合いのようだし【民事事件担当裁判官】はこっちで付き合いの長い弁護士は御歳暮を持ってくる上にレクリエーションまである始末。正直、終わってると思う。でも、だかといって楯突こうとまでは思わない。ただ真っ当に仕事をしたいだけ。それだけ。だけど、それが組織にとって迷惑なのも事実。
(世渡り下手……って、ことだわな)
弁当を掻き込みながら悔しさを飲み込むようにして、いつもより多くビールを流し込んだ――。
――さん!? 流射芽さん!!
声がする……どうやら、いつの間にか眠ってしまったようだ。だけど、俺に呼び掛ける? んなことある訳ない。俺は独り者だ。
――射流芽さん 「起きてください!」
揺さぶられとる。この状況で考えられること。それは……火事!
「火元は!?」
跳ね起きた俺は片腕を折り曲げて鼻と口を押さながら叫んだ。そして、急いで辺りを見回した……が、煙の臭いも火の熱さも感じられなかった。
(おかしいな……)
代り映えのない部屋があるだけ。だが、明らかにおかしな様子に気付く。
「えっと……君は?」
「初めまして、射流芽さん。異世界人材交流センターの紹介でやって参りました」
片膝をついて見上げていた彼女は、立ち上がりながらそう名乗った。
腕を下げた代わりに俺の表情筋が屈託のない笑顔に釣られて少し上がった。
「うん、そっか……。まー、帰りはあっちだから」
そう言って、俺は玄関を指差した。
「え!? ちょっと待ってください!!」
薄鈍色に輝く髪の毛先が、両手を小刻みに振るに合わせて揺れている。
「あのねー。なんで居るのか分からないけれど、おじさん見逃してあげるって言ってるんだよ? 君、いま完全に不法侵入だからね? あと、コスプレを否定するわけじゃないけれど、そんな露出の高い恰好はいかがなものなの? 年頃の娘さんなら、もうちょっとその辺の自覚もった方がいいと思うよ。それに、人様の家に土足で上がるなんてもっての外だから……あ、でも汚れてないならいいんだ。うん、大丈夫大丈夫」
シュンとなった様子を見て言い訳のように床を見回した。そして、濁すように「そういう事で」と俺は再度促す。すると「部総括判事さんの推薦で迎えに来たんです……」と、そう言って彼女は背中に片方の手を回して一枚の書面を差し出す。
「…………は?」
これには、流石に反応した。
猫背になって見てみると、その書面には俺を推薦する文言がビッシリと書かれてあった。文末の署名欄には上司の筆跡もある。
「というわけで、さっそく参りましょう」
食い入るように見ながら「どこへ?」と俺は呟く。すると「セントーリア最高裁判所です」と、彼女は程よい大きさの胸を揺らして頭上高く指差した。さっきの様子は何処へいったよ。
「……はい?」
彼女の指の先を追ってみた。顔に見えるシミ天井に発見。
「ですから、セントーリアです」
「えっと、世界を股にかけて裁判官やってるわけじゃないんだけど」
「この世界ではありません。知らなくても不思議じゃないですよ」
「本気で言ってる?」
「もちろんです」
「そろそろいいかな? 明日も早いんで」
「嘘はついていません」
「大人からかうのもいい加減にしてよ~」
「からかってません」
「じゃ、なに? 異世界とでもいうの?」
「そうです」
満面の笑み。薄い唇と零れるような白い歯がウザく感じるぞ。
「……どうやって行くの?」
「私が導き手になります」
「……あのさ~。異世界っていったら、よくいう転生しないと駄目なやつなんじゃない? ほら、死ななきゃ行けないやつ。コンセプト崩壊してませんか?」
「え? 流射芽さんは転勤ですよ」
「だから、異世界って言ったら転――」
「勤です」
「……あのね、君。小説は読む? ライトノベルとか。そこでは転――」
「勤です」
「……」
「……」
「……転」
「勤……」
頑なですね。
「いいでしょ、 いいでしょう! 転勤でも百均でも除菌でもなんでもやってやりましょう!」
「ちょっと何言ってるか分からないですけれど、話がまとまって良かったです」
「……で、どうすりゃいいの?」
この状況がアホらしくて、自分が情けなくなってきた。
「私と手を繋いで、目を閉じてください」
「ちょっと待って。言質取るから録音させて」
「何故ですか?」
「後からセクハラだって言われたら――」
「そんなこと言いません」
「……」
「言いません!」
(へいへい……)
溜息を吐き、その子の細い腕から伸びるしなやかな手に自分の手を重ねた。きめ細かな肌の感触に年甲斐もなくドキリとしてしまう。
彼女はというと、落とした碧眼を持ち上げて満足そうに微笑むと、目を閉じて何事かを呟き始めた。
「……え?」
それは、直ぐに起こった。
俺らが立っている足元。そこから部屋の明るさなど無いに等しいような眩い光が顕れて、彼女の膝裏まで届こうかという長い髪がフワリと持ち上がり始めていた。
「え″ーーーーっ!?」
文様のようなものが光の中に幾重にも表れて激しく回転し始める。この状況に、俺は瞠目した。
「消滅してしまいます。目を閉じてください!」
非現実的なことを云われているのは、重々承知、で・す・がっ!!
裁判官である以上【論より証拠】な訳で、この輝きが何よりの証拠と認定いたします!
(……)
慌てて目を閉じる。俺は、大きな恐れと少年のようなドキドキから彼女の手を強く握り込んだ。すると、彼女は指の先の力を強めてくれる。
(なんだ、この気持ち……)
それは、懐古するような感情だった。彼女から伝わってくる何かが蓋をしていたものを溢れさせるようだった。だけど、思い当たるような人生の遍歴は俺にはない。解ったことといえば、その中で体が軽くなっていったことぐらいだった――。
「流射芽さん。もう大丈夫ですよ」
恐る恐る、ゆっくりと目を開いた。
「……ここは?」
目の前には、法の女神であるテミス神のような巨大な彫像がそびえ立っていた。右手には、六法全書のようなの厚みのある本を抱えている。突き出された左手には、天秤が少し高低差を付けて俺らに罪を問うているかのようだった。
「……」
足元には、落ち着いた深紅の絨毯があった。なぞるように振り返ってみると、その上を大勢の人達が行き交っているのが分かった。その姿は、まるでハロウィンを彷彿とさせるかのようだ。
「なんなんだよ……」
理解が及ばない。顔を曇らせる俺に、誇らしげに彼女は言った――
「ようこそ、セントーリア最高裁判所へ!」
全く把握し切れない状況。だが【転勤】と言っていた以上、相違があってはならないこととして、最も重要なことを俺は確認することにした。
「福利厚生、どうなってる?」
そうして、ここから俺の異世界勤務が始まった――。