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「ふぅ……」
僕が大浴場にて人心地つけたのは、日付けが変わってから二時間ほどが経過した後だった。
さすがは月夜が用意した高級ホテル、24時間営業の大浴場で助かった。旅先での入浴は、大きな風呂に限る。
昔は温泉やらにさほど興味のなかった僕ではあるが、しかしの価値観は、ここ数年で大きく変化していた。
年寄りくさいことを言うが、肩凝りと腰痛が酷いのである。編集者になってから。
元より学業の得意だった僕にしてみれば、いい大学に入るための勉強も苦ではなかったし、必要とあらばコミュニケーションだって問題ないからバイトの面接も就活も余裕でこなしてきた。
今までの人生はかなりイージーモードだったと思っているし、実際に他の人と比べても大きな苦労もなく(恋人が記憶を失ったこと以外は)、ここまで生きてきた。のだが。
この仕事についてから、およそ体調と呼べるものは存在しなくなった。
基本ずっと座り仕事である。原稿のチェックもメールの返信も。ソファでだらけながらでも出来るだろと言われれば、それはそうなのだがしかし、一応僕の会社員。サラリーマンだ。それも若手なので、会社にいるうちはしゃきっと背筋を伸ばしておく必要がある。
それに作業効率を考えると、集中して短時間にやった方が絶対にいいし。
肩凝りや腰痛だけならばまだよかったが、編集者の生活というのは偏ったもので、平気で午前4時とかに電話がかかってくるし、夕方に出社してくるやつもいるくらいだ。そんな不規則な生活を続けていると、当然ながら体を壊す。食事も10秒チャージで全てを賄っている同僚がいるし、基本的に三食しっかり食べている僕にも付き合いというものがあり、仕事終わりにビールを煽ったりもする歳となった。
一応健康診断に引っ掛かったことは(まだ)ないが、今後はより一層気をつけねばならない。もうアラサーだし。
そんなわけで、たまに来る温泉は、日ごろの疲れを癒すのに絶好の場所なのだ。この時間帯だと他に人もいないし、高級旅館の源泉かけ流しを独り占めしている僕である。水上は性別の問題で男湯には入ってこないし、唯一の気の抜ける時間と言ってもいい。
凝り固まった筋肉が、お湯によってほぐされていく。至福の時。昔は一冊でも多く本を読むためにシャワーだけで済ますことも多かったが、今は絶対にそれでは物足りない。
大体、僕の担当作家は癖が強すぎるんだ。望んで担当になった側面ももちろんあるが、しかしこんなにやべえ連中だと事前に分かっていたら絶対に会議で手をあげたりなんかしなかった。静観していた。何があっても鉄の意思で。
……まあ、癖が強いというのはクリエイターにとっては一つの能力なので、彼ら彼女らはそれなりのヒットを飛ばしてくれているし、おかげで僕の評価もあがりまくりなので助かってはいるのだが。
才能。
昔は当たり前のように多用していた、僕だって幾度も言われてきた言葉。
その言葉が、今は肩に重くのしかかっている気がした。
この世界において、僕は凡人だ。僕自身は彼らのように『作品』を0から作る能力は持っていないし、立ち上げたヒット作だってまだまだ少ない。編集者としての僕は、平凡極まりなかった。
大人になってようやく、現実を知ったのだ。
神童と呼ばれ、天才と呼ばれ、そして現実に、『凡人』に帰る。ただそれだけの話だ。
僕は才能なんて、何一つ持ち合わせていなかったという、それだけの。
露天風呂に移動し、星を見上げる。いつだったか、水上瑞乃と星を見上げたことがあった。それも沖縄のホテルで。
あの時と違うのは、屋上ではなく2階にある大浴場にいることと、そして一人であることだけ。
にも関わらず、星々は随分とくすんで見えた。
この沖縄旅行を最後に、彼女の担当を降りよう。
僕に彼女を背負うのは、荷が重すぎる。もっといい人が、才能のある人が彼女にはぴったしだ。
僕なんかの凡人のいたら、せっかくの才能も腐ってしまうだろうし。
だから次の一作が、僕が彼女に関われる最後の一作だ。僕にできる最高の作品を、作り上げてやろう。自分の限界を、見極めるために。彼女の中に、せめて僕という存在を残すために。
いつまでも夢ばかり、星ばかり見上げてはいられない。彼女のように生まれたての赤子のような精神というわけではないのだから。
社会人なのだから。見るべきは、知るべきは現実だ。上を見るくらいなら下を見て、そこまで落ちないようにせいぜい足掻くしかないのだ。
冬の風が、肌を突き刺す。
僕はうっすらと笑みを浮かべながら、浴室を出た。
1日を240時間と考えれば、これも連日投稿と捉えられなくもないですね(白目)




