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「僕は編集者になる」
そう伝えた時の周りの人たちの反応が、たまに脳裏にちらつくことがある。
両親だったり、少ない友人たちだったり、妹だったり。
みんな、酷く驚いていた。そりゃそうだ。そんなことを言いだした僕が一番驚いているんだから。きっと僕以上に僕のことを知っている、ちゃんと僕という存在を見て、知っていた彼ら彼女らからすれば、それは今までの僕という人間を覆すのに十分なことだったのだろう。
それでも、黙って送り出してくれた。
彼ら彼女らは、そっと僕の背中を、押してくれたのだ。
中には感づいている人もいたのだろうが、ほとんどの人は知らなかったのではないだろうか。
僕がそう言いだした主因が、ひとつの拗らせに拗らせた、恋だということを。
一般に人間というのは、初めての出来事を鮮明に記憶するものらしい。初めての怪我、初めて怒られたこと、初めての百点……もちろんそのすべてを記憶している人はいないだろうが、というか幼いころの、すぐに忘却してしまうころの初めてを覚えている人はかなり少ないだろうが、大人になってから経験した初めてを覚えている人は、多いのではないだろうか。
なぜこんな事が言えるのかというと、僕がそうだった。
僕にとって、初めての恋だった。彼女は。
だから実った時の高揚は今も手に焼き付いているし、そして失ったときの、胴体をまるごとえぐられた時のような痛みもまた、鮮明に記憶している。
それくらいに、僕はきっと、本気で彼女が好きだったのだ。
だから。
だからなのだろう。
この恋を、この愛を。この溢れる「好き」を、抑えられなかったのは。
もうとうに二十歳を越え、自分で金を稼いで生活している男のセリフとは思えないほどに恥ずかしいが、これが偽らざる僕の本心なのだから仕方あるまい。
要するに、拗らせたのだ。僕は。初恋を。
まとめると、それだけの話だった。単純明快だ。
さて。拗らせた恋愛の先になにがあるのか。
答えは簡単、醜い執着だ。
それが、それこそが、僕が編集者を目指し始めた、始まりの動機だった。
水上 瑞乃は小説を書く上で、他を寄せ付けない(物理)ほどの才能を持っている。それはきっと、彼女の今までの経験から来ている分もあるだろうし、全てが全て神様とかいう贔屓野郎からの授かりものだとは思っていないが、しかしそれでも、彼女が天才だということに変わりはないと、僕は思う。
それは、圧倒的なまでの才能は、記憶を失ってからも変わらなかった。というか、さらに磨きがかかったくらいだ。おい神様。さすがに贔屓が酷いんじゃないか?
会社近くのコンビニで頼まれたエナジードリンクを手に取りながら、長いため息をゆっくりと吐く。
そういえばそろそろ夜ご飯の時間だ。〆切間際の作家にがっつりと食事を与えるわけには行かないが、軽くパンくらいは食べさせた方が良いだろう。
自分用の食事と、その他いくつかを籠に詰め、レジに並んでいる間、再び思慮の世界へと戻る。
つまり何が言いたいかと言うと、あれほどの才能を持つものは、いずれこの世界に来るだろうと、僕は踏んでいた。だから僕は、編集者になった。もう一度彼女と自分の道を、まごうこと亡き天才と天才の仮面をかぶっただけの凡人の道を、交わらせるために。
もちろん確証があったわけではない。瑞乃が小説を好かない世界もあり得たかもしれないし、僕の務める出版社ではなく、例えば佐原の契約しているライトノベルの類を主に扱うところに流れていくかもしれなかった。そもそも記憶を失ったあとの彼女と編集者になることを決めたころの僕は一言も話していない。すべては不確定要素に満ちていたし、なんなら失敗確率の方が高かったくらいだ。
けれど実際にはこうしてこの世界で、再び彼女と巡り合うことができたし、首尾よく担当編集にまでなった。仮にも天才と呼ばれていた時代もあった僕だ。要領の良さには自信があったし、有能編集として名を通していたため、期待の新人を任せてもらうことができた。やったぜ。
不確定要素には満ちていたが、だがこうして再び僕は彼女と出会うことができたのだ。ならばすべてよしとしよう。終わりが良ければすべて良し、だからな。もっとも、僕らの場合はまだまだこれからが始まりで、終わりなど程遠いのだが。
もっとも、瑞乃が再び小説を書き始めてたという情報は僕が大学の頃に月夜から聞かされていたし(財閥の力を使ってすべての情報を得ていたらしい)、彼女が一番好きだった本の出版社である今の勤め先に潜りこめた時点で、半分勝ちのようなものだったのだが。
どうせ僕の徹夜は確定しているので、眠気覚ましの飲料もいくつか籠に入れ、レジへと持っていく。
深海先生を煽るためのチキンやらも注文し、会社へと戻った。
原稿を待つ間、他の仕事をするためにパソコンを持って地下へ行き、ぱちぱちぱちと絶え間なく続いているタイピング音に安堵の息を漏らしながら、冷たい風の吹く廊下を歩く。
人のぬくもりを感じる鉄格子の前で立ち止まり――そして僕は、目を見開いた。
目は真っ直ぐに、文字の紡がれていくパソコンの画面に向かい、ひと時もそらされることはなく。口元はただひたすらに、殴りつけるかのような勢いでキーボードを叩かれる指に呼応するかのように、短く息が吐かれ。
背中からは、青白い光が漏れているかと錯覚するほどに、そこだけ空気が歪んでいるかのような、そんな「オーラ」としか言いようのないものが漏れていて。
そっと目を伏せ、息を吐く。
これが、天才か。
もう僕には、たどり着けない場所。彼女だけが足を踏み入れることを許された、神の領域。
そこに僕が入る余地など、方法など、あるわけもなくて。
僕はコンビニの袋の中身をすべて、部屋に通じる小窓のような場所に入れ、踵を返した。
才能とは一体なんなのか。
天才という言葉を人間は日常的に使っているが、この問いに答えを出せる人はいるのだろうか。
少なくとも、僕には無理だ。僕に無理ということは大抵の人間には無理であり、つまりこの問題を証明問題としてだせば、正答率はゼロに近くなること間違いなしだろう。
しかし部分点をもらいたいだけならば、僕はそれなりの回答をすることが、ひょっとしたらできるかもしれない。
僕が思うに、才能とは経験だ。
天才とは、その分野を経験しつくした者のことだ。
つまり、才能とはまやかしに過ぎないのだ、と最近の僕は思い始めた。
水上 瑞乃を――深海 真水を見てきて、僕はそう思い始めた。
彼女は紛れもなく天才だ。十人に聞けば十人がそういうだろう。それくらい、編集者としてそこそこの時間を接している僕ならば当然分かっている。いや本当は、彼女が応募してきたときから、その才能を見出していた。
けれど僕は、それを才能だとは認めたくなかった。
だって彼女は、今まできっと、誰よりも辛い経験をしてきただろうから。
その経験が、きっと小説をいう分野に対しての才能として積み重なったのだと、そう思えるから。
だから僕は、彼女を天才だとは呼びたくなかった。
すべては経験に過ぎず、すべては塵が積もって山となっただけ。そう、思いたい。
でなければ彼女は、どこまで報われないのだろう。
彼女には幸せになってほしいと、心から思うから。
僕はいつまでも、この気持ちを告げずにいる。




