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深海真水は紛れもない天才である。
ある一冊の本が出版されてから一か月後、そんな見出しの記事が、新聞に載った。それはもう大きく。
彼女が書き、仕事「は」できると評判の僕が担当した作品なのだ。まず間違いなく、売れるとは思っていた。映画化くらいは余裕だろうと、僕は何の疑いもなく思っていた。
けれど、僕の予想は大きく外れた。いや、売れなかったとか、映画化のオファーが来なかったとかではなく、全てが速すぎたのだ。一年で100万部くらいと思っていたのが、たったの半年でその大きな壁をぶち壊してしまった。それどころかもっと大きな、作家にとって最初の鬼門である実売10万部を、わずか一か月で突破してしまった。おかげであの頃は重版関連のことで忙しすぎた。途中からみんなヤケになって、8刷目で一気に50万部刷ったし。その英断のおかげで、僕は死なずに済んだといっても過言ではない。
……まさかここまでとは、本当に思っていなかった。世間に見つけられるのが、こんなにも早いとは。これがやはり、とんでもない大きさの才能というやつなのだろうか。だとしたら、この目の前にいる女が僕は怖い。どれくらい怖がっているかというと、お化け屋敷で叫んで男の腕に抱き着きだすJKくらい怖がっている。それ全然怖がってねぇな。
「……エナジードリンクでも買ってこようか?」
タイピングの速度がわずかに遅くなっているのが気になって、話しかけてみる。他の作家からしたらこれでも早い方なのだろうが、一時間で一万字という驚異の速さを誇る彼女の指は、こんなものではないはずだ。本気を出せば、この倍くらいは、普通に行けるはず。多分。
「あ、じゃああれのピンク色のやつお願いします。おいしいんですよね、あれ」
「おい小説家。一度も登場してない言葉を代名詞に置き換えてんじゃねぇ」
「小説家は日本語を正しく理解する必要はありますが、日本語を正しく使う必要はないんですよ」
「…………」
負けた。というか彼女は小説家、つまるところ日本語のプロだ。しかもその中でも天才と呼ばれているやつを相手に、僕ごときの一般人が勝てるはずもない。
今までの人生で敗北を喫することなどほとんどなかったはずだが、彼女と出会ったからは――特に、記憶をなくした後に出会った彼女には、負けてばかりだ。
以前ならば、僕と付き合っていたころの彼女ならば、弱弱しく、その癖人を頼ることをしない一人の人間であれば、僕が付け入る隙も少しはあった。けれど、今の彼女には、そんな隙は全くない。いや、あるにはあるのだろう。だがそんなものを軽く超えてしまうほどに、軽く帳消しにしてしまうほどに、今の彼女は人間離れした才能を持っている。
それがどうしようもなく、怖い。
あの頃の彼女と今の彼女は全くもって別の存在だと、そんなことは分かっている。頭では。しかしそれを邪魔する感情がどこかにいることも、また疑いようのない事実で。
つまるところ僕は、恋人だった彼女の面影を今の彼女に映し出し、そしてそのことに文句を並べているのだ。彼女はこんなではない、僕が近寄れないほどの、雲の上の存在などでは、決してなかった、と。
我ながら気持ち悪い。過去の女をこんなにも引きづりやがって。恋愛ごときどうでもいいと、一人で生きていくのだと思っていたあの頃の僕は、一体どこへ消えてしまったんだ。
それでも、どうしても忘れることができないから、今も僕は、ここに居るのだろうけれど。
編集者を目指し始めたあの夜を思い出しながら、僕はおつかいに出た。




