逢う。
真冬の風が、枯れ葉を巻いて吹き抜けた。視線の先には掃き溜めのようなボロアパート。その背に見える空は、穢れた黄金のような混沌とした色彩を帯びている。まるで欲望と快楽を貪る、薄汚れたこの街の縮図のようだ。
アパートの脇、赤錆びた階段をゆっくりと上る。階段を背に、二階の廊下を覗き見た。
柄の悪い男が自室の前で立ち止まり、伸ばした手でドアを開き、閉める。鍵を掛ける音は続かない。たまたまではない。この男は毎日“こう”なのだ。まったく不用心な事だ。だから、こんな事になる。
男の部屋の前、俺は鍵の掛けられなかったドアを再び開け放った。部屋に風が吹き込み、密室の破れる音が聞こえた。
チャイムも鳴らさぬ来客が、この街において何を意味するのか。この男にもきっと、分かる事だろう。
ああ、そうだ。俺は今、お前を殺す。
コートを翻し、腰の拳銃を引き抜いた。男も感付き振り向き始める。だが遅い。その遅れは致命的だ。銃口は既に脳天を捉えている。
躊躇など最早、ある筈も無い。俺は引き金に掛けた指に力を籠めた。
「悪いな」
「な、」
ぱん、という破裂音。銃声が、男の間抜けた声を断ち切った。
銃口から立ち上る硝煙の向こう、男の身体は操り糸が切れたかのように、どさりと倒れた。床とぶつかる衝撃で、頭部の破片が散っていく。
―――終わった。深く息を吐き射撃の姿勢を解く。いくら容易い仕事とはいえ多少の安堵はある。しかし。
「……?」
微かに、人の気配を感じた。殺しの現場だ。目撃者が居るとなれば、仕事はまだ終わってはいない。速やかにドアを閉じ、鍵を閉めチェーンを掛ける。俺は、再び銃を手に、明かりの無い廊下へと踏み入った。
窓から覗く空は、その色を金から橙へと変えている。外側では風が吹き荒み、それに流された雲間から鋭い夕日が噴き出した。目障りな程に、強い光。
「ちっ……」
片手で日差しを避けながら、辺りを見渡す。部屋の真ん中に大きく広がった血だまりが白々と輝いている。その周囲には散乱した注射器や薬の空シート。なるほど、相手は聞いた通りのクズらしい。だがそんな事はどうでもいい。そのまま日差しの外側、部屋の奥へと視線を向けた。
まったく我ながら、呆れてしまう。
何故今の今まで、気が付く事が出来なかったのか。
部屋の角、一人の少女が項垂れている事に。
その少女には、生気が無かった。纏ったワンピースは薄汚れており、そこから伸びる白い手足もまた、あざや傷で穢されている。しかし腰まで伸びた髪だけが、艶めいた銀色で、そのちぐはぐさが余計に、悲惨さを助長させていた。
少女の風貌を見とめ、俺は理解した。彼女は、男に玩具として扱われていたのだろう、という事を。
殺しを生業にしていると、このような少年少女を目にする事も度々あった。だからといって、その行為を容認出来ている訳ではない。
虚ろな瞳。目撃者として到底機能しているようには思えない。恐らく状況の変化にさえ気付いていないだろう。ならばこの娘を殺す事に、意味などない。連れ去られ弄ばれ、殺しの現場に居合わせたばかりに命まで奪われるというのは、あまりにも不憫ではないか。
俺はこの少女を見逃すと決めた。これが偽善と理解はしている。余分な事だとは百も承知だ。しかしこんな街で、そんな情けすらも捨ててしまったのならば、それは飢えた獣と変わらないだろう。俺はまだ、自分を人間なのだと信じていたい。
「おい、お前。立てるか。飼い主は死んだぞ」
その言葉でやっと少女はこちらに気付いたようで、虚ろなままの瞳を向けて、壊れたように微笑んだ。そしてただ静かに、ぽつりと。
「殺して」
と、血の気の無い唇から零した。確かに、この状況から鑑みて想像に難くない言葉だ。だが。
「殺して。お願い。こんなに弄ばれて、壊れて、穢れた自分がおかしくて、かなしくて、もう生きていたくないの。そいつを殺したみたいに、お願い、私を、殺してください」
だが、馬鹿げている。くだらない願いだ。震えながら頭を抱える少女を見て、俺はそう思った。そもそも俺は、趣味で殺しをしている訳でもない。これは食い扶持を稼ぐための手段であり、慈善事業ではないのだ。殺し自体に価値を感じているわけではないのだから、報酬の無い殺人にメリットなど存在しない。
「殺しの依頼なら、金を積め」
「そんなもの、あるように見えるんですか」
「見えんな。無いと判った上で言った」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「俺の知った事じゃあないな」
少女は唇を噛み、ぽろぽろと涙を零しながらこちらを睨みつける。
「お母さんもお父さんも殺されて、兄弟もどこに居るか、生きているかすらわからない。こんな知らない、最低の街に売られて、毎日毎日……こんな私で、こんな世界で、それでもまだ生きろって言うんですか? はは……人殺しの貴方が! こんな私に!! 行きたい場所? 帰りたい場所? そんなの、もう、この世の何処にも無い!!」
少女は銀の髪を振り乱して叫んだ。鬱積した憎しみを吐き散らすように。自分の眉間に力が入るのが分かった。苛立たしい。ただ逃げ出したいから、どうしようもなく思えるから死ぬ、その主張。それは罪の所在を吐き違えている。遠い日の何処かの誰かでも見ているようで、癪に障る。ならばどうする。俺は再び銃を抜き、少女の前に立った。
「うっ!?」
少女の顎をひっ掴み立ち上がらせ、壁に押し付ける。間髪入れずに口に銃を捻じ込み撃鉄を起こし、引き金に指を掛けた。
「そこまで言うなら、特別だ。合図しろ。好きなタイミングで引き金を引いてやる」
震えた少女の歯が、銃に当たりカチカチと音を立てる。何を怯える。死にたかった筈だろう。
「いッ……いつでも……」
「いつでも?……そうか」
覚悟は出来てる。と言いたいのか。そうは思えない。逆だ。こいつは、決められないのだ。怖いから。覚悟がないから。当然だ。逃避の為の死なのだから、覚悟など、ある筈も無い。生きる事が怖いのに、死ぬ事が怖い筈がない。こうする間にも震えはいっそう増して、喉を抜ける息がひゅうひゅうと音を立てて始めている。俺はそれに構う事なく引き金に掛けた指を折り、撃鉄を下した。
かちり。
「はぁっ……はぁぁっ……え…あ…?」
銃声は鳴らない。当然だ。元より弾など、入ってなどいないのだから。
銃を降ろし押し付ける腕を解く。少女は壁に背を擦り、がくりと座り込んだ。額には汗が滲んでいる。胸を抑え呼吸を整えながら、少女は絞るように声を紡いだ。
「な、んで……どうして……」
「確かに引き金は引いた」
嘘は言っていない。
「ふざけているんですか?怯えるのを見て楽しんでいるんですか?こんな事して……何が、したいんですか」
少女は震え、怯えた様子で自らの肩を抱いた。無理もない。この部屋で起きた事を思えば当然の事なのだろう。どんな想像をしたのかは見当が付く。
「お前こそ、何故俺を頼った。死のうと思えば一人でも死ねた筈だろう。方法など腐る程にある。わざわざ俺を頼り、いざ銃を突き付けられれば震え、いつでも撃てなどと嘯いた」
「――それは」
「死にたいのなら、今すぐ撃てと言うんじゃないのか?お前はいつ撃たれても良かったんじゃない。自分の命の終わりすら、自分で定められなかっただけだ。そんな奴に死ぬ覚悟があると言えるのか」
「……死にたいのに、死ぬのが怖いと、いけないんですか?死ぬのは怖い、だから生きようと。そんなに簡単に割り切れる程、私は強くない。大事なモノ全部、無くなって、嫌な事だけが全部、残ったまま。こんな有様で、何もかも取り返しの付かない状況で、まだ、続けなくちゃいけないんですか、辛い事だけが待ってるって、判っているのに……」
言っている事は分かる。しかし、違う。そうじゃないはずだ。
「辛いだろうな。だが、お前がそうなっているのは、お前が悪いのからなのか」
痛みが、傷が深すぎて、気付けないのか。傷そのものが、悪いのではないという事に。
ならば、誰が悪いのか。そんなものは簡単だ。
「……私が?」
「これまでの不幸は、全てお前のせいなのか、と聞いている」
少女の顔は、何かに気付いた様に表情を失くしていた。そしてゆっくりと、唇を動かし、俺の問いに答えた。
「……じゃ、ない」
そうだ、お前のせいではない。
「私の、せいなんかじゃ、ない……」
「ならば、何が悪い。誰が悪いんだ」
「誰って、そんなの……決まってる」
そうだ、決まっている。簡単だ。聞くまでもない事だ。しかし、その口から発せられる事に価値があった。自分を殺そうとしていた、コイツの口から。
「……あいつらが、悪いんだよ」
そうだ。傷付けた者が悪い。
希望など無くても、生きられる。生きるのに必要なのは、目的だ。何のために生きるのか。生きなければならないのか。その理由があるならば、今を生きる事に価値が生まれる。例えその目的が、理由が、酷く歪で、醜く憎悪に塗れたモノであっても構わない。
「なら、今一度聞こう。お前はまだ死にたいか。その身に罪は無く、ただ奪われただけだというのに、最後に残った命すらも、自ら捨ててしまうのか。何もかも奪った奴らを野放しにしたまま。のさばらせたまま。奴らがのうのうと息をして、また誰かに理不尽を押し付けるのを、お前は、死ぬのだから関係がないと許すのか」
銃を床に置き、少女の足元へと滑らせた。弾は入っている。男を殺した方の銃だ。少女は、黙ってそれを手に取った。
「……これは」
「取れ。そしてもう一度選べ。そいつがあれば、自分を殺す事も、憎い誰かを殺す事も出来る。お前次第だ。何もかも」
たとえ、残されたものが、その命と憎しみの他に何一つ無いとしても。
復讐は、空虚で無価値だと誰かが言った。本当にそうか。少なくとも、今コイツの生きる理由になるのならば、どんなものにも価値があると思えた。
「そうですね、辛くて痛くて、忘れそうになっていました。私、許しません。あいつらが生きていることを。だから、生きます。生きなければ、いけなかった」
少女は銃を手に、静かに涙を流していた。しかし、瞳はもう明瞭に世界を写している。
ただすすり泣く声だけが、赤黒い部屋に響いていた。
それからどれ程時間が経っただろう。やがて少女は泣き止んだ。時が止まったかのような静寂。それを破るのは俺ではなく、少女の方だった。
「……ところでこれ、くれるんですか?」
少女は泣き腫らした赤い眼で、銃をまじまじと見つめている。
とぼけたような言葉。どう答えるか。そうだな。
「タダなんて誰が言った」
「え」
少女は口をぽかんと力なく開いて、唖然とした表情を作った。
「冗談だ、くれてやる」
「……はは、なんか、ケチですね」
気付けば、日は落ちていた。過去の傷も、現在の傷も、明け透けに照らし燻り出す、あの無粋な光は今は無い。夜の闇は、少女の肌傷を隠し、蒼い月明かりは銀色の髪を一層輝かせている。少し笑った少女は、穢れているようには、見えなかった。
どうという事の無い日。いつも通り一人を殺し、結果としてたまたま、一人を助けた。しかしこの偶然は、殺し屋という職業にとって恐らく、毒だ。悲劇を痛み、苛むような良心を育てては、果てに仕事の腕を鈍らせるだろう。だが今は、そんな事はどうでもいいと思えていた。
人殺しのこの手が、誰かを救えたという喜びを、ただ噛み締めていたかった。この選択は間違いじゃないと、そう、信じていたかった。