0、旅立ち。
学校から自転車を走らせ数分、そこには疑いようのない世界の終わりがあった。
キーンコーンカーンコーン。
放課後、チャイムが今日の日課の終わりを知らせるなり僕は颯爽と廊下を駆け抜けていく。何一つ引き留める声はない。だって今日この学校に来たのは僕一人だから。
教師もいない、生徒もいない、校長や教頭、用務員さんだって保健室の先生だっていない。この学校に現在存在しているのは僕だけだった。
誰一人いない学校の廊下に優しい橙色の光が差し込む、まるでカーテンのようになったそれらをくぐるように僕は廊下を走っていく。人とすれ違うことはない、他学年さえこの学校には存在しないのだから。
廊下の突き当りを曲がり、階段を下りだす。
この突き当りで昔、彼女とぶつかり一緒に階段から落ちたのはいつの日の事だっただろうか。もうあれから何年も経つのに、今でも彼女の長い髪と茶色い瞳が忘れることができない。僕が好意を寄せていた彼女はもうどこにもいやしないのに…。
階段を段飛ばしで勢いよく降りていく、何度通ったのかもわからない歩き慣れた階段。今日が最後だと思うとなんだか切なかった。ふと上を見上げれば階段の踊り場に飾られている生徒作品に埃が積んでいた。それは美術が大好きだった彼が残したものだった。そしえ彼が僕によく話してくれたことを思い出した。
「形あるものは全て壊れる、僕の作るものは全ていつかは壊れ形を失ってしまうと思う。散り散りになって、何もかもが元から無かったことになってしまうと思う。でもね、それは形のないものだって同じだと思うんだ。変わらないものはこの世には一切なくて、そして壊れないものはない。だから僕は新しいものを作り続けて人の心を動かし、変え続けていきたいだ。」
高校生の割にどこか高校生離れしていた友人だった。彼の姿も今はない、ただ彼の遺した絵画が壁に掲げられ、ぽつんと佇んでいるだけだった。そこに描かれているのは一本の向日葵、それが誰かから誰かへと渡される瞬間を描いたものだった。
彼が一体何を思ってこの絵を描いたのかはわからない。それでもこれに彼がどれだけの力を注いで書いていたのかは知っていた。色使いから細部に至る一本一本の線まで、彼は一切の妥協をせずにこの絵を描き上げていた。そのことだけは僕も知っていた。
僕は足を進める、彼との思い出はもう視界の外に出て行ってしまった。心の中でそっとお別れを告げる。
彼に出会えたことへのお礼の気持ち。それを抱きながら僕はまた階段を下りていく。タン、タン、タン。急いで降りていくときはいつもこのリズムを奏でていた。懐かしいリズム、たいていこのリズムを打った時は課題の未提出で起こられていた気がする。苦い思い出のはずなのに、鼻にツンと何かが来たような感覚を覚える。
あの時僕に怒ってくれた先生はもうだれ一人としてここにはいないのだから。
絵画のあった踊り場の一階下の踊り場、そこにも僕の友人の生きていた証明があった。
大きく印刷された夕焼け、そこには僕のクラスメイトだった人間が何人も写っていた。各々夕陽に向って進んでいっているように見える、顔は夕陽の光にさえぎられて映ることはなかったけれどたくさんの苦楽を共にしてきた人間は顔を見なくてもすぐにわかった。
液体がなんとか零れ落ちない様に眼を固く瞑る。瞼の裏には仲間の笑い顔が1人1人浮かんではまた、霞み、消えていった。
文化祭でみんなではしゃぎ、馬鹿みたいな悪ノリをし、その様子をとったものが偶然、市のちょっとした写真展で賞を受けた。あの時は本当に時間の一秒一秒が輝いていて、楽しくない時間なんて存在しなかった。喧嘩もあるクラスだったけれど、それ以上にみんなで協力してやり遂げることが好きなクラスだった。
みんな底抜けに明るくて、意思がはっきりしていて。時には全力でぶつかって傷つけあって、お互いを知っていくようなそんな変な奴だらけのクラスだった。
今、そんなこと思い出し、いくら懐かしんだところであの時のみんなが戻ってくるわけでもないんだけど。
目元から何かが落ちるのを必死にこらえるように走った。階段が終わり下駄箱へと走っていく。自分の下駄箱の前に立った時、間違えて入れられていたラブレターにはしゃいだ二年の春を思い出した。学校を別れを告げる最後の最後に思い出した滑稽な笑い話に頬を緩ませると、僕の涙腺も同じように緩くなった。
靴をとろうとしていた手に、そしてプラスチックでできた履き替えの場所に、夕陽の当たった滴がポタッ、ポタッと落ちて淡くはじけた。
視界が歪んで見えた、自分の靴入れ以外、全く靴の入っていない空っぽの靴箱が変形したように曲がる。僕の前にあった世界自体が曲がって見えた。
靴を履いて、僕は再び駆け出した。教室で前に進むと誓ったばかりなのに、もう立ち止まりそうになった自分を精一杯押し殺す。後ろ髪を引かれる思い、後ろ髪を引く人間なんて既にいなくなってなまっている、その事を頭に、心に受け止めるよう強制した。
もう過ぎたことだと何とか割り切ろうと試みる。でも涙は止まらなかった。それでも僕は涙を流したまま駐輪スペースに足を進める。僕がどんな格好していたって気づく人間はここには存在しない。
だから、ちょっとだけその虚しい孤独に僕は甘えた。
駐輪スペースには何台もの自転車が止められていて風に吹かれたのだろう連鎖的に倒れていた。そのほとんどがさび付いており動く気配すら感じられないものばかりだった。雨ざらしにされていたその中から辛うじて動きそうな一台を引きずり出し、僕はまたがりペダルに足をかける。そして力強く今の気持ちを紛らわせるように、一生懸命に漕いだ。ペダルは少しだけ歪な音を奏でながらもクルクルと回っていく。
校門から勢いよく僕を乗せた自転車は出ていった。車道の真ん中を疾走していく、もちろん車は通っていない。車を使う人間はもういなくなってしまったから。
学校裏の坂に差し掛かる、立ち漕ぎをしてとにかく前へ、前へ、と貪欲に僕は自転車を進めていった。ギシギシと僕の体と自転車から似たような音が聞こえる、好きだったラジオ番組もなくなってしまった今、良いBGM代わりだ。錆付いた自転車に無理を利かせながら強く、力の限り強く漕いだ。
途中で自転車が限界を迎えたのだろう、車体は大きな音を立てて横転する。自転車を見てみるとチェーンが切れていた。その場に自転車は放棄して、それでも僕は足を進める。いつも学校帰りに彼女と二人で登っていたあの丘へ、決して諦めるなんてことはしない。
人工林に入りまばらな日陰を歩いていると膝から血が滴ってきていることに気が付いた。いつの間にか靴下まで到達したその赤かった僕の体液の筋は、だんだんと鮮やかさを失い変色していく。それでも道を踏みしめる僕の足が止まることは一切なかった。
道はアスファルトから生い茂った道に変わっていく。人の手入れが行き届かなくなったその道は、もう道と呼べるのかすら判らなくなっていた。一歩一歩踏みしめて歩いていく感覚がどこか新鮮なもののような気もした。いつだってこの道を通るときは誰かと話して意識していなかった、だから本当のこの道の特徴を僕は初めて知ったのだと思う。
細々しくも生命力を感じられる数多の種類の虫の音、風に揺られて鳴る木々の葉のこすれ合う音、軽快で爽快なスズメの囀る声、僅かに水の滴るような音。どれもが新鮮でどれもがここがどれだけ価値のあったところなのかを僕に再び教えてくれた。
そんな場所に恵まれていた事を知り、少し、この場所に感謝した。
自然に囲まれた景観は僕の視界を流れ通り過ぎていく。遠くに人工林の出口らしいものが見える、僕はそれを見るなり走り出した。このゴールまでの距離がもどかしくて、届きそうなのに届かないそんな気がして、ふと気付けば無くなってしまいそうで、手から零れ落ちてしまいそうで。もう一度、どうしてもたどり着きたいと願い、手を伸ばし掴もうと足を目いっぱい大きく踏み出す。
そして、僕はたどり着いた。
何もないこの公園に、彼女と毎日のように来たこの公園に、クラス皆で夕陽をバックに写真を撮ったこの場所に、僕は終にたどり着く事が出来た。
見晴らしの良さしか取り柄のないこの、空き地といって何ら差し支えない公園。僕の高校生活において重要な場所だったこの公園。おおよそもう二度とこないであろう、でも絶対に僕が忘れることはない公園。
足が痛む、よくよく見ればあちらこちらを擦切っている様だった。でもそんなのがどうでもよくなるくらいに世界の終わりは美しかった。
破壊されているわけでもえぐり取られているわけでもなく、ただ人間が一人もいない。その光景は僕の思う世界の終わりそのものだった。
少しだけ高くなっているここから見えた景色は、人の気配のない廃れた街、そして秋の夕日が町のいたるところに反射して煌びやかに光る眩しい夕景だった。決して好ましい物じゃない自分の孤独を突き付けられ、突き放されるように感じるこの景色を、僕は美しいと、そう感じた。
美術が大好きだった彼の真似をしてこの景色を親指と人差し指を重ねて作った四角に収めてみる。これだったらいろんな賞を総なめにできるんじゃないか?なんて愚かに考えてしまった。こんな今、そんなものが残っているはずないのに。
さて、この景色も見た。そろそろ僕も踏み出さないといけない頃合だろう。みんなが踏み出せなかった一歩を、彼が人の心を変えるつもりだった一歩を、僕は代走して進んでいこうと思う。彼の未来を、みんなの未来を代走したいと思う。
この世界で僕にできること。それを探す旅に出よう。
この日から僕は、この身一つで放浪を始めた。