物語の主人公は何故、奇抜な髪型をしているのか?
古今東西、有名な物語の主人公は、総じて特徴的な髪型をしていることが多いです。
作者の年齢がバレますが、有名どころで言うと、「ドラゴンボール」の孫悟空、「セーラームーン」の月野うさぎ、なんかがそうですね。
最近の漫画では普通の髪型が多くなってきたような印象ですが、これはどうしてなんだろうと思いました。
ドラゴンボールは今もやってますので、例にあげますが、まず孫悟空の髪は「サイヤ人」だからあんなすごいクセ毛になるんですよね。
潜在パワーが強すぎて、それが体の特徴にも表れているわけです。
最初はそういう設定はなかったようですが、それでも物語の初期から鳥山明先生は「ただ者ではない」という印象を読者に印象づけたかったのだと思います。
また、セーラームーンですが、これはもう連載も放送も終わってしまったので、代わりに「プリキュア」を例にあげます。
プリキュアの主人公たちは変身すると髪がものすごく長くなったり、色も変わったりします。
変身前はまあ現実世界でもありえるかな、といったレベルです。
しかし、そこまで大きく変わるということは、変身後のパワーがけた違いになったということを示しているのです。見た目で「すごさ」を表現しているのだと思います。
話は変わりますが、わたしは子供の頃、長い髪の女性にあこがれました。
いつも親にはおかっぱにさせられていて、それ以外の髪型にすることを禁じられていたからです。
ですので、とても長い髪の女性を見るとそこに「大人」というものを感じました。
自分にはできないことをやれる人、そういうものに憧れていたのです。
こう考えると、何も髪型に限ったことではないのかもしれませんね。
奇抜な衣装、奇抜なしゃべり方、奇抜な乗り物。
自分はこういうことをしないというものにあえて挑戦している人を、人は良い意味でも悪い意味でも注目してしまいます。
たとえば、車。
今はそれほど所持するのに躍起になる人はいないと思いますが、一昔前までは車を持つことがステータスでした。
自転車や、電車・バスなど公共機関で行けない場所にもたどりつける乗り物だったからです。
その性能も重視されました。
デザインや、乗り心地、走るスピードなど。それらが良いものであればあるほど、人に誇ることができ、また人からの尊敬を得ることができたのです。
北斗の拳に出てくるラオウが乗っている馬、「黒王号」もそうですね。
あれだけ巨大な馬を手なずけているのもすごいですし、それに乗りながら闘っているのもすごいです。
時代とともに、そのニーズは移り変わっていきますが、その根本は同じなのでしょう。
憧れを抱けるようなポイントをもつキャラこそ、物語をけん引していける。
そういうことなのです。
逆に普通の髪型の主人公は、どうでしょうか。
等身大の読者寄りの人間を描くことで、共感を引き出します。
今の小説のトレンドとしては、「憧れ」よりも「共感」の比重が多いのかもしれませんね。
等身大のキャラに共感させることで読者をひっぱっていくやり方です。
入り口はそれでよくても、いずれは「憧れ」に変えていかなければ、物語は続いていかないでしょう。
事実、等身大キャラの物語も、いずれはハーレム化したり、チート能力を持ったりすることが多いからです。
そこにはたしかに「憧れ」が存在しています。
漫画的手法ですと、初めからそれを予感させるような「見た目」だったり、「言動」だったりが顕著です。
小説においてはそれが後回しになりがちだということです。
しかし、いずれ書籍化してアニメ化をするのであれば、初期からそうしたデザインをイメージしておいたほうがいいのではないでしょうか。
何故、奇抜な髪型をしているのか?
そして何故、普通の髪型の主人公もいるのか?
その辺の意味をみなさまも一度よく考えてみてはどうでしょう。
小説を書き上げていくうえでいつかはぶち当たる問題だと思います。