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俳句は何故、五七五なのか?

 たまに「プレバト!!」という番組を見ます。

 みなさんはご存知でしょうか。

 キレッキレの辛口選評する、俳句の先生で有名ですね。

 この先生、夏井いつき先生という方なんですが、この方のダメ出しがまあ面白い。常に的を射ているし、言葉の表現方法など、見ているととても勉強になるんですね。

 なのでやってるとつい見てしまいます。


 俳句というのは奥が深いですね。

 松尾芭蕉が大元をつくり、そして近代では正岡子規が文芸として広めたと言われていますが、五・七・五の縛りがあったり、季語を入れなくてはいけないなど、かなり独特なルールがあります。

 しかし、どうして俳句は五・七・五なのでしょうか。


 これについて少し考察してみました。




 まず、俳句とは「音律を楽しむもの」であるということ。

 五・七・五の調べは耳に心地よく、すんなりと胸に入ってきます。

 八・五・四など、基本はどこで区切っても良いのですが、それ以外の字足らず・字余りであるとなんとなく気持ちが悪く、たとえ素晴らしい情景を表現していたとしても、どうしても音律が悪い方に注意がそれてしまい、句の良さを半減させてしまいます。


 また俳句には、長文にはない、厳選された言葉の妙があります。

 十七音の中に収めるために余計な言葉を省いていかなくてはなりません。そうすることにより、さらに芸術性が高まるのです。


「夏は暑く、冬は寒い」


 こうした決まりきった表現を削ることで、句に必要な情報だけを詰め込むことができるのです。またそういった言葉を省略すると「余韻」を作ることができ、句に奥行きや広がりが生まれ、人はその句の背景(作者の人柄や句を詠んだ動機など)などにも思いを馳せることができます。


 季語はその予測可能な事柄をさらに拡大させたものと言えるでしょう。

 春は桜、夏は花火、秋はもみじ、冬は雪など。「春の桜」と表記しなくても「桜」だけで、さらに言えば「花」と表記するだけで春だとわかるようにしたのです。

 共通認識ができる語録=季語を作ることで省略の範囲を広げたわけです。



 この省略していく方法、「省略文化」ともいえるこの方法は現代でもかなり応用できます。


 現代は「情報過多」の時代です。ですので情報=ストレスというほどにもなってきています。

 かのアップル社の創設者であるスティーブ・ジョブズは毎日同じような服を着ていたといいます。それは服装を何にしようか考える時間を省くことによって、他のことに脳を活用していたからだと言われています。


 余計な思考時間をつくることはもったいないことです。

 ひと昔であれば、それはとても有意義な時間であったかもしれません。物や娯楽がそれほどなかったので、一つの娯楽を最大限利用しようと時間もお金もたくさん使ってきたのです。


 でも、現代は違います。

 物は溢れ、娯楽も情報も、洪水のようにあふれかえっています。それらの中から取捨選択するだけでも膨大な時間がかかるようになっていて、現代人のストレスは常にピーク状態です。




 ですから、小説も昔ほど難解なものは敬遠されるようになってきました。

 ラノベなどはその最たるものだと言えるでしょう。


 読みやすい文章。

 困難があまりない、ノーストレスな展開。

 見た目が楽に想像できるキャラクターなど。


 異世界もの、日本のファンタジーにおける「お約束」などは俳句の「季語」にあたるのではないでしょうか。

 オークやゴブリン、エルフなど、今では特徴をわざわざ表現しなくても、誰でもすっと頭に思い描けますよね? わかりにくい容姿のキャラクターが出てきたとしても、ラノベであれば、表紙や挿絵にその見た目がそのまま表現されます。


 それはすべて読者にストレスを与えないための工夫です。

 なにか俳句に通じるものがありませんか?

 



 ちなみに、俳句に近い表現方法には、「連句」というものがあります。

 もともと俳句とはこの連句から派生してきたものらしいのですが、わたしも調べていて初めて知りました。


 連句は、何人かの俳人が集まり、最初の人が発句=挨拶句(五・七・五)を作り、続いて次の人がそれに続くような脇句(七・七)を作り、三人目の人がまたそれに続くような(五・七・五)を作り、四人目の人がまたそれに続くような句(七・七)を作り、そして一番最後の人が挙句を作るというものです。(ちなみにここから「挙句の果てに」という言葉ができたんですね)


 俳句とは、この最初の発句だけを抜き出して、それを極めたものでした。

 最初に詠まれる発句は、のちに続く脇句が詠まれやすいようにしなければなりません。ですので、それだけで成り立つような完結性が求められました。

 時や場所(季語や場所に関連するような事柄)を盛り込んだり、体言止めなどで「切れ」を生み出して、句の奥行きを作らなくてはならなくなったのです。



 この連句というのも小説に応用できそうですね。

 まず、プロローグが発句なわけです。

 それだけで物語の奥行きを感じさせるようなものにしないといけません。ひとつの完結した短編のようなプロローグを冒頭に持って来れば、それだけで読者は続きが読みたくなるでしょう。また作者は続きが詠みたく(執筆したく)なります。



 調べていてさらにわかったのですが、この連句はもとをただすと平安時代からの和歌になるようです。

 和歌も「枕詞まくらことば」という省略技法がありますよね?

 「あかねさす」という枕詞がきたら次にくる言葉は「照る」や「君」、「朝露の」ときたら「消え」とか「わが身」とかが次に来ますよね。

 そういったルールを作ったのも、少ない言葉の中に味わい深さや奥行きを表現したかったからではないでしょうか。


 でも、こういったルールは、ある集団がまとまってやりはじめないとできません。

 一人ではなかなか生み出せないものなんですよね。




 なろうにおいては、ファンタジーは「異世界チーレム俺tueee」、恋愛は「悪役令嬢」、コメディは「勘違い系」といったものが主流ですが(その時の流行は多少あるでしょうが)、これは多くの人が最初にやった人の次にのっかることで、「独特な省略世界」を構築していったものと思われます。


 「異世界チーレム俺tueeeはこういった物語である」という共通認識があれば、読者も作者もすっと物語に入り込みやすいのです。期待と違った展開にならないので安心するのです。

 テンプレとはまさに、俳句で言うところの季語、和歌でいうところの枕詞なのかもしれませんね。




 思えば、日本という国は省略文化が盛んな国です。

 振り返ってみますと、若者の省略言葉なんてまさにそうです。「やばい」「可愛い」にはいろんな意味が含まれてますよね。


 その最初に言いだした人は、まさか自分が出発点になるだなんて思ってなかったでしょう。

 でも、それに乗っかる人たちがいたということは、みんなもそれを心のどこかで望んでいたということです。「いかに少ない言葉で自分たちの気持ちを最大限通じ合わせるか」、そういった共通認識をみんなが無意識のうちに求めていたんです。

 だから流行したのでしょう。



 今も昔も、人の表現方法って奥が深いんだなと思いました。

 みなさんはどのような省略文化を利用していますか? またどのような省略世界を構築したいと思ってらっしゃるのでしょうか。

 良かったら感想欄でお聞かせください。

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