雨の日のドアの前に
ああ、見慣れた我が家のドアが見えてきたよ。
あいつは傘を被らなかったから、私は意地でも被り続けてやろう。
そう思って、傘を閉じながら、「おかえり」って降りてきた妹に応えた。
どしゃ降りの雨。
いつも通り、予想通りの天候。
天才と謳われる私にできないことなんてなかった。
雨が好きだと抜かす私にとっての天災が現れるまでは。
というか、なかなかの腐れ縁なんだが。
私は何でもできたよ。
テストだっていつも百点。本とか読んだら一発で暗記できるし、スポーツなんて楽勝。男子にだって恐れられるほどだ。
できないことなんてない。だから、私はやりたいことをやりたいようにできて、ストレスフリーだったんだよ。
雨の日に傘を差さない馬鹿が現れるまでは。
本当、腹が立つ。
私は[お姉ちゃん]になりたかったから、父に頼んでいいくらいの大きさの人形を作ってもらった。あれは果たしていつのことだったか。私も幼かったな、と思う。
でも、それが本当に私を「お姉ちゃん」と呼んだときは、本当に驚いた。
でも、だから。
そのときから私に得られないものなんてないって確信したんだ。
だというのに、やつは何なのだ。
思い返せば、昨年度末、たはは、と乾いた笑いを浮かべているやつの笑い方が不自然だったから訊いたのが発端だった。
やつは本当に馬鹿だ。
言うには
「いやぁ、僕としたことが、とんだ失態だよ」
「大事な大事な傘を、雨が降っているのに忘れて、学校に処分されちゃうなんて」
やつは本当に馬鹿だ。
大事なことだから二回繰り返した。
なんで雨なのに傘を忘れる?
でも、大事な傘だったっていうから。
でも、学校が廃棄処分したというのならもう取り戻すのは不可能だろう。
それなら、買えばいいじゃないか。
そんな当たり前の結論をあの馬鹿は「被らない自分でわざわざ買うのはなんか億劫でさ」と一蹴した。
なんで被らないんだ?
けれど、そこそこに長い付き合いだ。あの馬鹿は傘を被らなくても、空が天晴れなほどの大快晴でも毎日傘を持ってきていた。随分とぼろぼろで色褪せたみすぼらしい傘だが、それだけ長年大切にしているのは私じゃなくてもわかるだろう。
だから、新学年を迎えて、ほどなくして訪れるあいつの誕生日に傘を贈ろうと決めたんだ。
当たり前だが、天才らしい思いつきだろう?
ただな……
あいつの傘、結構洒落た模様の傘でな。もう今はそのデザインの傘は廃盤になって売っていなかったんだ。
私は大抵のものは手にできると自負している。周りに聞いても否定の言葉なんてあまり出てこないくらいには。
だが、廃盤はどうしようもない。天才といえど、私は一介の女子高生だ。それをひっくり返すほどの力までは持っちゃいない。
だから、自力で、あいつが気に入りそうな傘を探したんだ。
淡々と過ぎていく日常を妹が人形という非日常な日常を送る私は遥かに平凡な日常を過ごす中で何が楽しいのか、へらへらと笑ってばかりのやつは何を好み、何を愛すのだろう?
その疑問にぶち当たって、私は気づいた。
私はあいつのことを知っているようでほとんど知らない。
私はあいつを知らない。
私は初めて、私の中にずっとあった欠点を認識させられた。
腹が立った。
あいつが何が好きなのだろう?
雨が好き、といつも雨に濡れた重たそうな学ランで帰る顔は嬉々としているから、雨は好きなのだろう。
傘は毎日欠かさずその右手を支配していて、左手には学生鞄。
世の中には右に出るものはないという言葉がある。だから、右手に持つそれはあいつの中でかなりの容量を持つ存在なのだろう。
どんなにぼろ傘でも、あいつがこんなに嘆くなんて。あれが好みだったんだろうか。
冷静に考えて、記憶の限りを尽くす。あいつの傘はどんなだったか。
なんか、案外と無地の黒とか、目立たない感じの服を選ぶのに、傘は少し凝っていたな。浅いチェック柄のように見えたが、傘を開いた真ん中が花の形にほんのりと色づいた、地味だが、こっそりひっそりなんだか目立たない小洒落たものだったはずだ。
ならば、意外と、無難に無地なんていうのはあいつにとっちゃ邪道なのかもしれないな。なら、好みに合う、主張の控えめな。
いつもにこにこと笑うあいつには何が似合うか。
少しくらい洒落の効いたやつがいいというと……実は悩む。
普段、人形に可愛いと思うものを着せ替えをしているが、それとこれとでは話が違う。
ああ、わけがわからない。
だからたった一つ、妹に相談したんだ。
どんな傘が人にプレゼントしても心を動かせるのだろう。
そしたら妹は、
「このチェック柄なんてどうかな?」
悶々としていた私にあっさり答えを差し出した。
茶色とモスグリーンのチェック。時折差し色のように赤が混じったそれは、そこそこ地味でいて、洒落っけのある。
手に取って、私も満足した。地味でいて、差し色の赤が少しちらついて、私の中で唯一の異端で地味を気取っている、性格と性癖が噛み合っていないあいつにはこれ以上の似合いの傘はないだろう。
うん、妹を連れて選んできてよかった。
私ならあまりに適当なものを選べなかっただろう。
誕生日プレゼントの傘。ちゃんと渡せた。案の定、気にいってくれた。毎日肌身離さず……までは色々な都合上できないけど、毎日持ってきてくれているよ。
で嬉しかったんだ。
複雑な思考回路をしている私がそんな単純な想いを久しぶりに抱いて、無邪気に喜んでいたんだ。
なのに、
こんなどしゃ降りの雨なのに、
被らないなんて、酷いじゃないか。
優しさで翳したのをあからさまに笑顔で拒絶するなんて酷いじゃないか。
以前からずっと苛立っていたんだ。
雨音が、苛立つ。
あいつがへらへら笑って、平気で雨で濡れて、バイバイって最後まで笑うんだ。
傘はいらないって。
ねぇ、私が贈った意味はあったの? なんで消すの?
なんで気づいてくれないの。
幼なじみのくせに鈍感なフリして笑って流して。さりげなく拒絶して。
言ったよね。笑うのが苦しいって。
全部嘘だったの?
どこからが嘘だったの?
わけがわからない私は、あんたじゃなく、妹の友達になりかけた子に当たり散らしたよ? その子は今、どうしているだろうね?
フードを被った男の子とすれ違った。
あの、妹のたった一人の友達。
バレないように傘で顔を隠してすれ違った。
それで、雨で濡れたパーカーの少年を見て、
やった。
私が思ったとおり、妹の友達は妹から離れる。
拒絶される。
私と同じように。
そんな優越感を抱いた。
残酷なことをした。
ちゃんと自覚はあるよ。
家の前に着く。
妹が迎えるためにぱたぱたと降りてくる音がする。
ドアを開ける前に、少し躊躇って、
それを振り払うように頭を振った。
あの子に酷い真実を告げたのはただの腹いせ。私が悪いのは……そうかもしれない。
でも、相合い傘してくれなかった、あんたのせいだからね。