教室(1)
白墨が空中に浮いている。
その白墨を一人の少女が見つめている。まるでその存在だけを認識しているような、真摯な瞳で――。
ボクは、その横顔に少し”どきり”とした。
この世界は、一個の白墨と一人の少女が、存在しているだけのようだ。物音もせず、空気も微動だにしない。二つの存在だけが、この世界にあった。
その時、一瞬、世界が白く輝いたように感じた。不思議なオブジェが、見えたような気がする。だけど、それは単に頭の中だけのイメージだったのかもしれない。
――突然、世界の「時間」が動き出した。
と、同時に金切り声(と、いうか奇声)が上がった。その声の主は、そう、その少女だ。
「あたたたっ――!!」
紅く染まった「おでこ」を両手で抑えながら、その少女は立ち上がった。
「――な、何すんのよっ!!!」
栗毛で若干ウェーブのかかった前髪を掌で掻き上げながら、その「証拠物件」を、目の前に立ちはだかっている人物に示している。
頭の後ろで縛って短いポニーテールもどきが、ゆらゆらと揺れている。ボクは、昔からその振り子を見ているのが、好きだ。
その少女――道玄坂つなぐ(どうげんざか・つなぐ)は、ボクの幼馴染みだ。と、いうより、たまたま近所に住んでいて、保育園・幼稚園・小学校が同じといるだけのことなんだけど。(近所に住んでいれば、学区が一緒なのは当たり前か)
「何するのって、こちらのセリフよ、道玄坂さん!」
彼女の前に立ちはだかっていた、小柄の人物は一層近づいてきて、こう言い放った。
「ワタシの神聖な授業中に、何をボケっとしているのっ——!!!」
「あ……」
彼女は、現実の絶望的な状況に気がついた。
目の前にいるのは、単なる不審者ではなく(おいおい)、ウチの中学校の先生だ。それも、間が悪いことに、厳しいことでは右に出る者がないという、古文の山手女史なのだった。
この先生、見た目はかなり可愛らしい感じなのだけれど(何たって、身長が一四〇そこそこしかない)、その性格がキツイのだ。彼女より一回りも二回りある男子生徒を叱りつけて、泣かしてしまうことさえあるのだから。
つなぐが、徐々に状況を把握しているのは、ありありと分かった。今まで眉間にシワをよせて、鬼の形相(大袈裟)だったのが、だんだん頬の肉を引きつらせていく。
「たはは……」
口元を歪めて愛想笑いしようとしているのが、妙にぎこちなく、余計に相手の感情を激昂させている様子だった。
「笑ってごまかさないの! 最近たるんでるんじゃないの、道玄坂さん――」
「ごめんなさい、せんせぃ……」
彼女は、両手で顔を抑えながら俯き、ひと呼吸置いてから大きく顔を上げた。
ぱっと見では、美少女のカテゴリーに分類される(ボクにはそう思えないのだけど)彼女が、こんな表情を見せたら、一般の男では太刀打ちできないだろう。
ただし、目前の敵は「女性」だ。それもこちらも美人にカテゴライズされるほどの強敵だ。(ただし小っちゃいけど) 果たして、彼女の作戦は成功するのだろうか……?
しばらく、二頭のタイガー&ドラゴンは、対峙していた。
不意に、その少女の大きな瞳がウルウルとし出した。その瞳から一筋の涙が流れる。空気が一変する。
大きな瞳に涙を滲ませた彼女を目の前にして、ヤツは大いに怯んだようだ。やっぱり、彼女の「武器」は昔から切れ味がある。
「よ、よし。分かれればいいのよ。分かれば……」
なんだか、口の中でもごもご言いながら、山手女史はそそくさと教壇に戻っていった。流石にやり過ぎたとでも思ったのだろうか。
彼女は、その後姿を見ながら拳を握り締め、小さくガッツポーズをしている。
その時、彼女と目が合った――。
彼女は、ふふーんと言うようにその小さな胸(余計か)を張ってみせている。ボクはその姿を見ながら、やれやれと肩をすくめた。