9 : 出逢いと懸念
コンビニエンスストアを出た光一と蓮は、購入した傘を見よう見まねでさし、再び歩き始めた。そのまま人の流れに沿って少し歩くと、徐々に飲食店や生活用品を扱う店舗が増えてきた。
「……あれ、駅じゃないですか?」
雨のカーテンの奥に見えた大きな建物を見て、蓮が声を上げた。広場に面したその大きなその建物は、他よりも人の出入りが激しく、2階部分に電車のホームのようなものも見える。
「そうみたいだな――とにかく入ろう」
2人がその建物に近付くと、改札口の上に大きく駅名が書いてある。その駅名を見上げた光一は立ち止まった。
「どうなさったんです?」
不審に思った蓮が質問すると、光一は顔に張り付いた髪を掻き上げながら唸った。
「――なんか、この駅名、どっかで見たことがあるんだよな。昨日調べたデータになかったか?」
そう口にする間も光一は、任務以前に自分が未来世界で実際に足を運んだことがある場所なのかと記憶を辿ったが、心当たりは全くない。蓮も駅名を見て自分のまとめた内容を思い起こしたが、やがて首を振った。
「いえ。すみませんが調べた覚えはありません」
「……そうか。すまん、時間の無駄だったな」
光一が言うと、蓮は駅の構内に入って傘を閉じた。そして、人通りのない壁際まで移動して、バッグの中からタブレットを取り出した。
「いえ、とんでもありません。強いて言えば、コンビニでの興奮具合について謝ってほしいものです。……あ、よかった、バッグの中はほとんど浸水してません」
蓮に倣って光一も駅構内に入りバッグを開いた。蓮が言うように、ファスナーの付近のTシャツが少し濡れただけで中央に入れたタブレットと携帯と大佐の書類は無事だった。
――「携帯」?
「……っ! もしかして!」
光一の大声に、タブレットで路線図を確認しようとしていた蓮だけでなく何人かの通行人も光一に注目した。光一はすいませんと小さく呟き、取り出した携帯を操作した。
「一体、どうなさったんですか」
小声で責めながら訝しげに自分を見やる蓮の視線を無視し、光一は携帯のメール画面を開いた。そして、今朝大佐から送られてきたメールを蓮に見せた。到着地の下に書かれている住所を見て、蓮は目を丸くした。
「確かにこの住所、ここの駅と同じ地名ですね? 何なんです?」
「分からん。突然大佐が送ってきたから」
光一が指差す送信者の名前を見て、蓮は苦笑した。
「ま……まぁ、行ってみれば分かるかもしれないですし。せっかくですから電車に乗る前にその住所のところへ寄ってみましょう」
「そうだな。ちょうどあそこに交番があるし」
2人は駅のすぐ隣にある交番へと向かった。歩きながら、光一は警察官に見せてもよいよう、大佐からのメールを住所だけの文に加工した。受信日が今から23年後だと目に止まりでもしたら厄介だ。
交番まで数メートルの位置まで近付いたところで、蓮は光一を呼び止めた。
「俺が話しますので、コウさんはできるだけお話にならないように」
「……何で」
「あなたは嘘を付くのが下手くそでいらっしゃるので」
「…………そうだな」
光一は顔をしかめたものの何の反論もできず、蓮に警察官とのやり取りを任せることにした。
「すみません、道をお聞きしたいのですが」
蓮は人のよさそうな笑顔を作り、交番の前に立つ警察官に声を掛けた。被っている野球帽の下から白髪をのぞかせる老齢な警察官は、蓮を見て驚いたように声を上げた。
「お、君たち、随分濡れたなァ。傘ささなかったのかい?」
「ええ、田舎から出てきて昨晩こちらに着いたのですが、傘を忘れてしまって。学生の貧乏旅行なのでさっきまで傘の代金も倹約していたのですが、さすがにここまで降られては……」
スラスラと嘘を述べ苦笑する蓮に、光一は唖然とした。それが偽りだと分かっているのに、余りに自然な蓮の様子に光一まで信じたくなってしまう。蓮の演技は熟練した人間観察の目を持っているであろう警察官にも通用したようだった。
「ははっ、それは災難だったね。で、どこに行きたいんだね?」
「はい、この住所なんですが……」
蓮はそう言って、光一の携帯画面を警察官に見せた。すると警察官は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに目尻に皺を作ってにっこりと笑った。
「ああ、ここに何の用事だい?」
警察官は道順を説明する訳でもなく、蓮に問い掛けた。蓮は一瞬何と返そうか迷ったようだったが、敢えてほとんど事実を答えた。
「いえ、出てくる時に先輩のお父さんから『困ったらここを頼るように』と言われまして……実は僕らもここが何なのかよく分からないんですけど」
蓮がそう言うなり、警察官は声を立てて笑った。何か悪いことを言ったのかと蓮と光一は顔を見合わせたが、警察官はそんな様子を気にすることもなく2人に笑顔を向けた。
「ははは、成程! 困ったら頼れば間違いないな! これ、交番の住所だよ」
「えっ?!」
この答えは、光一はもちろん蓮にも想定外であった。
「それで君たちは何に困っているんだい? 生憎、この大雨に困っていると言われてもさすがに天気は変えられないけれど。それ以外で私にお役に立てることはあるかい?」
話好きらしい警察官は笑顔で蓮に問い掛けた。
この年配の警察官が楽しげに尋ねる間に、蓮は元の調子を取り戻したようだ。ほっとしたような笑顔を作って答えた。
「ああ、そうでしたか。実は、こちらの大学にいる知り合いを尋ねようと思っていまして。T工業大学ってどこですか? あ、これは駅員さんにうかがった方がいいですかね?」
「いや、大丈夫だよ。電車で行くなら2駅目。駅の改札を出るとすぐ門が見えるはずだ。歩ける距離だし道順が知りたかったら説明しようか?」
「いいえ。早く屋内で落ち着きたいので、電車にします。ご親切にありがとうございます」
蓮がそう言って頭を下げると光一も感謝を口にし、2人は交番に背を向けた。
ちょうどその時、自転車に乗った警察官が巡回から戻ってきたようで、先程蓮に対応した警察官が出迎える声が光一たちの耳に届いた。
「お! おかえりなさい。赤坂さん、杉原くん」
その声に、というより『杉原』という名前に光一は思わず振り向いた。そして、帰ってきた2人の警察官のうち若い方の顔を見て思わず「あっ!」と声を上げた。同じく振り返った蓮も、声には出さなかったものの、酷く驚いている。
そこにいたのは、若き日の杉原修大佐その人であった。
「――何か?」
視線に気付いた修は、優しげな表情で光一たちに尋ねた。
「い、いえ……僕らの知人に似ていらっしゃったので。でも、よく見ると人違いでした。失礼しました」
言葉を忘れた光一の隣で蓮が早口で答えた。2人はもう一度頭を下げて、急ぎ足で駅へと向かった。
「な、何で、アイツ……!」
口をパクパクと意味もなく開閉させた後、光一は考える前に言葉を発した。心臓の動悸がうるさい。暑さのせいではない汗が頬を伝っている。対する蓮は少し落ち着きを取り戻したようで、光一の背中をぐいぐい押して、券売機へと促した。
「コウさん、とりあえずICカードを買って改札を通りましょう。ここだとまだ向こうから見えます」
「……あ、ああ――そうだな」
蓮がICカードを2人分購入する間、光一は冷静になろうと努めた。通行の邪魔にならぬよう、太い柱の陰に立って目を閉じた。瞼の裏には先程の警察官の修と、いつもの新日本国防軍陸軍部大佐の修がオーバーラップして浮かび、消えていく。
確かに23年前の2022年といえば、光一の父である修は23か24歳の青年だ。今の光一と2歳も違わない年齢である。大好きな映画の1つである「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にもタイムスリップして自分の年代の両親に逢うというエピソードがあるが、まさかそれが自分の身に起きるなど、思いもよらなかった。しかも、偶然に遭遇したのではない――他ならぬ父親本人の手によって引き合わされたと言っていい。
光一は大きく溜息をついた。「目的以外の改変は断じて行わない」と言い含めておきながら昔の自分と接触させるなど、修の言動は矛盾し過ぎているように思った。
「だあー、もー! 分からんっ! 何なんだアイツの神経回路は!」
ついに思考が光一の脳内に収まらず、口から飛び出た。邪魔にならないように柱の傍に寄っていたのだが、その意味もなく、駅の利用者たちは頭を抱えてうずくまる彼を避けるようにして通り過ぎて行った。駅員がチラチラと光一を見始めたところで、ICカードに入金を済ませた蓮が慌てて走ってきて光一を拾い上げた。
光一は蓮のまとめたICカードの使用方法を確認していなかったので、蓮をまねてその後から改札を通った。ちょうど通勤の時間のようで、改札からホームはかなり混雑していた。妙に不機嫌な人々が縦横無尽に空間を早足で行き交っている。光一と蓮は早く先程のことを話し合いたかったが、さすがに他人との距離が近過ぎたので、大学の最寄り駅に降りた後、話し合うことにした。
電車に乗ると、やはり全身ずぶ濡れの2人は他の乗客から白い目で見られた。濡れた本人はもちろん不快であるが、この蒸し暑さのさなか、濡れた他人の服や肌が自分に触れて不快感を覚えない人間はいない。光一と蓮は肩をできる限り窄めて到着までの時間をやり過ごした。こんなことなら、あの老齢の警察官が言っていたように徒歩で行った方が、人目に付かずによかったかもしれない。
不幸中の幸いは、学生が夏季休暇中でほとんどいないということもあり、電車は辛うじてすし詰め状態ではなかったことだ。そして、乗車時間も、2駅分なのでたったの3分であったことも、彼らにとって救いであった。
電車がT工業大学の最寄り駅に着くと、2人は電車から吐き出されるようにして降車した。先程の雨の雫なのか、車内の高温多湿の空気による汗なのか、彼らの顎からは汗がぽたぽたと滴り落ちている。その駅のホームは地下にあり、少し電車や外よりも涼しいような感じがする。
蓮はホームのベンチに腰を下ろし、コンビニエンスストアで買った飲料水の大きなボトルと鈴木中佐から預かったイオン飲料の粉末を光一に手渡した。蓮はもう1本大きなサイズのペットボトルを取り出して封を開けると、何口か飲んで水の量を減らした。そしてイオン飲料の粉末をボトルの口から入れ、キャップを閉めて振った。光一も蓮のやったように少し内容量を減らして粉末を入れ、シェイクした。あらかた混ざったところで光一はそれを飲んだ。水分、糖分、塩分が身体に染みていく。
「コウさん……1つお伺いしてもよろしいですか?」
他の人間に届かないように抑えた声で蓮が尋ねた。光一は夢中で飲んでいたペットボトルから口を離し、首を傾げた。イオン飲料は既に2リットルボトルの半分程まで減っていた。
「何だ? 改まって……」
「――上村沙紀がお母さんである可能性はありませんか?」
「ははっ、まさか! 確かに死んだけど、主婦でずっと家にいたし、髪も短かった。俺には上村一家のような知能も遺伝してないし」
真剣に言う蓮の言葉を、光一は笑い飛ばした。そして、ほら、あんな感じの髪型だった、と通るボブスタイルの女性を指す。蓮はその女性に目をやったが、疲れた表情で光一に視線を戻した。
「……長い髪は、切れます。――まあ……しかし、主婦でいらっしゃったのでしたら違います、かね?」
蓮が納得できない様子で言葉を繋げると、光一は声を上げて笑った。
「ああ、絶対違う。考え過ぎじゃねえの?」
「そう――ですかね……?」
しかし、この30分後、光一の答えは否定されることになった。
蓮が疑ったように、2028年に殺される上村沙紀は、光一が5歳の時に亡くなった母だったのだ。