15 最終話 佐倉、再び
夏の空から入道雲が姿を消すと風は秋の匂いを運び始めた。佐倉が日本を発つまでの時間がわずかとなって会社の同僚たちは見送りの宴を準備し始めた。当然私と妻も巻き込まれた。佐倉の意思に関わらず周囲は大いに盛り上がっていた。しかしその頃佐倉は病院で危篤の父を見舞っていた。その佐倉から私に電話があったのは営業部の終礼が終わった時だった。
「チーフぅうううう」佐倉の泣き声だった。
「どうした?」
「うわぁん。チーフぅうううう」佐倉は号泣していて何を言っているのかが分からなかった。
「今どこだ?」
「病院ですぅ。うわぁん。あー、あー、お父ちゃんが、お父ちゃんが」
「お父さんがどうしたんだ?」
「うわぁー、お父ちゃんが生き返ったぁ」
「なに?」
「お父ちゃんが助かったよぉ」佐倉は父親の無事を伝えるために電話をしてきたのだ。
「今から行くから病院にいろよ」私はそれだけ言って妻に連絡をした。そして会社を飛び出してタクシーを捕まえた。
病院に到着すると妻が佐倉と一緒にいた。佐倉の母親は私に頭を下げて「ご心配をおかけしました」と言った。佐倉の父親がどんな病気だったかは知らなかったが重病だったことは疑いようがなかった。
「チーフぅううううぅ」佐倉はまだ泣きやんでいなかった。その手には幾つものお守りが握られていた。ダニエルが佐倉の側で呆然として立っていた。
「良かったですね」私はダニエルに言った。
「もうお父ちゃんは安心だそうデス」ダニエルは泣き崩れる佐倉を見ながら私に言った。
「これで心置きなくリバプールに行けますね」私が言うとダニエルは私の手を両手で握って「ありがとう」と言った。妻は佐倉の肩を抱いて泣き続ける佐倉に声をかけていた。
「マネージャーぁあああぁ!」佐倉は安堵して緊張から解き放たれた。妻は佐倉に何度も「良かったね」と言った。私は佐倉の胸中に深く沈みこんでいた葛藤を初めて知った。佐倉は梅干し柄のシャツを縫いながら常に病床の父を案じていたのだ。溜めこんだ不安はやっと彼女の胸中から放たれた。気丈に振る舞いながらも幾つものお守りに念じ続けた佐倉の苦悩はこの時終わったのだった。
それから一週間後佐倉を見送る華やかな宴が催された。その宴にはダニエルとマイちゃんもやって来た。コスモス柄のお披露目はマイちゃんの衣装だった。佐倉に似て陽気なマイちゃんは集まった来賓に笑顔を見せて喜ばせていた。佐倉は「皆の衆、ありがとう!」と言って礼を言って会場を回っていた。佐倉との別れを惜しみ泣きはじめる者が多数現れた。佐倉がもたらした数々のエピソードはこの日が最後となった。佐倉はこの日最後の言葉を残した。別れには相応しくないその言葉は「ありがとうございました」だった。誰も「さようなら」を口にしなかった。佐倉は再び日本を後にした。それは長い長いお別れとなった。
おしまい