13 英国を目指す梅
佐倉の相談では以前も面倒に巻き込まれたことがあった。もっともそのお陰で私は妻と結婚できたのだから文句も言えなかった。妻にしてみれば佐倉は元部下というより親友なのだ。その親友の頼みを無視できるはずはなかった。よって私は妻の頼みに従って妻は佐倉の頼みに応じたことになった。そういうものなのだ。結婚後は女には逆らわないのが良策なのだ。異常事態以外なら男の出番はないほうが良いのだ。つまり今回は異常事態だったということだった。佐倉の持ちこんだ相談は言うまでもなく厄介だった。平穏を乱す才覚なら佐倉は日本一だった。
佐倉の商品化で多忙を極めた一週間が過ぎると営業部内は落ち着いた。落ち着いたことを見計らって私は有給休暇を一日だけ取った。妻が休みの水曜日に合わせて。
「車で行くの?電車で行くの?」水曜日の朝妻が最初に私に言ったのは佐倉の実家に向かう手段だった。
「電車にしよう」私が言うと妻は早速娘をおぶって玄関で待機していた。
「ベビーカーは?」
「おぶっているほうが良く寝るのよ、この子」妻は荷物を全て私に任せて出掛ける催促をした。私は朝食も取らずに急かされるまま外に出た。
私と妻が佐倉の実家に到着したのは十時前だった。
「おっはようございまぁす!やっぱりチーフは優しいですねぇ。助かります」佐倉は朝からフルパワーだった。佐倉の母親が「いつも娘がお世話になっていますねぇ。響子が無理を言ってすいません」と言って何度も頭を下げた。「母ちゃん!お茶とお茶菓子お願い」と佐倉が言うと佐倉の母親は小走りでその場を去った。佐倉の母親は佐倉とは違い常識を備えた人だった。ユニークな点は共通していた。お茶ではなくカルピスと芋羊羹を持って現れた時にそう思った。正直言ってカルピスと芋羊羹はあまり合わなかった。
「母ちゃん!芋羊羹しかないの?」佐倉が言うと佐倉の母親は「あぁはいはい」と言って乾燥芋を持ってきた。芋が好きな家族のようだった。
「実はですねぇ、帳簿の付け方がわからんのです。教えてください」
「帳簿?」
「はい、チーフなら詳しいと思ったんですけど」
「それって経理に聞けばいいんじゃないの?」
「あっ、やっぱり」
「そりゃそうだよ」
「それじゃ、営業を教えて下さい」
「営業?」
「はい。あちこちで営業してマイの学費を稼ぐんですよ」
「あちこちって何処?」
「日本はチーフとマネージャーのところだけでいいんです。今度はイギリスとインドですかね」
「イギリスとインド?」私と妻は呆気にとられた。
「はい。ダニエルとイギリスに行きます」
「イギリス?」
「イギリス国籍ですからねぇ。マイはケンブリッジとかオックスフォードに進学しちゃうかもしれないですねぇ」佐倉は二十年先の未来に思いを馳せていた。私は佐倉の娘が勉学に励む姿を想像できなかった。
「ダニエルはなんとかっていう大学院に行っていたらしいからマイも勉強出来ちゃうと思うんですよねぇ。でも私に似たら絶望的だなぁ。困っちゃいますねぇ」佐倉は一人で勝手にしゃべっていた。
「ねぇ佐倉、ダニエルは何て言ってるの?」妻が尋ねると佐倉は「もちろんイギリスでバンバン稼ごうって言ってます」と答えた。バンバン稼ぎたい夫婦の思惑に私と妻は巻き込まれることになった。それは佐倉が再び日本を離れる前の最後の恩返しとなった。