第二章 魔女の園
※この作品は橙乃ままれさんの「ログ・ホライズン(N8725K)」の二次創作作品です。
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第二章 魔女の園
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◆ Chapter2.01
イコマ離宮は、夜明けの光の中で沈黙していた。
かつて濡羽が〈Plant hwyaden〉の政務に使っていた広間は、一夜にしてインティクスの執務室に変貌していた。調度品は同じだ。壁にかかった掛け軸も、置かれた花瓶も、何ひとつ変わっていない。変わったのは、そこに座る人間だけだった。
インティクスは書簡に目を落としていた。
十席会議の再編案。濡羽が空けた第一席。ウーデルが消えた後の元老院との調整。ミナミの商人への通達。冒険者ギルドへのパス制度の新規約——やることは山のようにある。しかしインティクスの手は止まっていた。
窓の外で雀が鳴いている。
その声が、なぜか遠い。
「……カナミ」
口の中で転がした名前は、もう何の返事も返さない。
〈放蕩者の茶会〉が終わった日のことを、インティクスは正確に覚えている。カナミが去った。理由もなく。説明もなく。太陽のように輝いていた女が、ある日突然いなくなった。
残されたのはインティクスだった。
あの日から、何も変わっていない。
(わたしはまだ負けていない。一度だって。カナミが勝手に逃げただけ。あの女が臆病風に駆られて、青空を——頂点を——わたしたちの場所を捨てて逃げただけ)
だから取り返す。
(この世界の頂点に立てば、もう誰にも見捨てられない。誰も去れない。カナミさえも)
書簡を持つ指先に、かすかに虹色の光が揺らめいた。
インティクスはそれに気づき、拳を握って光を消した。
まだ、早い。
障子の向こうから声がかかった。
「インティクス様。カズ彦様がお見えです」
「通しなさい」
カズ彦が入ってきた。
「壬生狼からの報告だ。昨夜の騒ぎで逃げた連中がいる。ウーデル派の残党が三家、それに……濡羽がまだ見つかっていない」
「ふうん」
インティクスは視線を書簡に落としたまま答えた。
「濡羽なんてどうでもいいわ。行きたいところに行かせておけばいいでしょ。砂のお城から放り出されたドブネズミに何ができるの」
カズ彦は黙っている。
カナミが去ったあと、この女の狂乱を隣で受け止め続けたのは自分だ。何日も何夜も。あの時インティクスが撒き散らした呪詛を、茶会の他の仲間に聞かせないために。
あの頃の彼女を知っている。だからこそ、今の彼女が——わからない。
「それよりミズファに伝えて。十席会議の第三席を用意したって。軍事は彼女に任せるわ」
「ミズファは〈大地人〉だ。冒険者の——」
「冒険者の反発?」
インティクスが初めて顔を上げた。鬼を戴いた鋭角の眼鏡の奥で、瞳が冷たく光る。
「カズ彦。この街の冒険者が、わたしに逆らえると思う?」
カズ彦は答えなかった。
答える必要がなかった。パス制度がある限り、ミナミの冒険者の経済は〈Plant hwyaden〉に握られている。銀行口座を凍結されれば装備も消耗品も買えない。ギルド会館の利用権を停止されれば倉庫も使えない。——それは鎖だ。目に見えない、しかし極めて実効的な鎖。
「パス制度の見直しを提案する」
カズ彦の声は低く、平坦だった。
「却下」
「聞いてくれ。今のままじゃ——」
「却下って言ったの、聞こえなかった?」
インティクスは微笑んだ。
「カズ彦はカズ彦の仕事をしてちょうだい。護民の司でしょう? 領民を守るのが、あなたのお仕事。——それとも、やめる?」
やめる。
その一言が何を意味するか、カズ彦は知っている。反抗ではない。見捨てることだ。カズ彦がここを離れた翌日には、名前も知らない大地人の子供が毒を盛られて死ぬ。数十人。インティクスにとってそれはただの数字でしかない。わたしはなんの興味もないし痛痒も感じない——あの声が、今も耳にこびりついている。
だからカズ彦はここにいる。
「……了解した」
カズ彦は踵を返した。
「あと、カズ彦」
背中に声がかかる。
「東の使節団は丁重にね。明日の午後、わたしが直接お話しするわ。——風見鶏のシロエと、少しだけ昔話がしたいの」
カズ彦は振り返らなかった。
腰の〈六道輪廻〉が、鞘の中で冷たく黙っている。
障子を閉じる音だけが、広間に残った。
カズ彦は廊下を歩いた。
壬生狼の兵士たちが両脇に立っている。インティクスが再編した親衛隊だ。かつては濡羽の警護にあたっていた者もいるが、その忠誠は一夜で塗り替えられた。——いや、塗り替えられたのではない。パス制度に縛られた冒険者たちにとって、忠誠の対象は人ではなく制度なのだ。
カズ彦は腰の〈六道輪廻〉に触れた。白鞘の刀は冷たい。いつも冷たい。クオンを刺した時も、この冷たさだけは変わらなかった。
(これがまだましなんだ)
自分に言い聞かせる。何度も繰り返してきた言葉。
俺がここにいれば、大地人は殺されない。俺が汚れ役を引き受ければ、誰かが死なずに済む。それは事実だ。事実だが——この選択を何年も続けた結果、自分が何になりつつあるのか、カズ彦にはわかっていた。
ソウジロウと斬り結んだ昨夜のことを思い出す。あの若い武士の刀は真っ直ぐだった。迷いがない刃。自分にはもう振れない種類の刃だ。
「何を守ってるんですか」
ソウジロウの問いが、まだ耳に残っている。
守っている。守っているはずだ。——だが、その守り方は、いつまで持つのか。
カズ彦は廊下を曲がり、壬生狼の詰所へ向かった。今日も仕事がある。護民の司の仕事。誰かを守るために、別の誰かを見殺しにする——そういう仕事が。
一人になったインティクスは、拳を開いた。
掌に、虹色の光が薄く残っていた。
力は確かに手に入った。この世界を動かすに足る力。虹の力——世界の根源に触れる力を、インティクスは手にしている。
その代償は。
(代償のことは考えない。考える必要がない。この力があれば——もう誰にも——)
「……カナミ」
同じ名前を、もう一度口の中で転がした。
今度は、声にならなかった。
窓の外では、雀がまだ鳴いている。
離宮の庭に朝の光が差し込み、池の水面がきらきらと光っていた。昨夜の血の匂いは、もうどこにもない。インティクスはそれを知っている。血は洗い流せる。汚れは落とせる。人の記憶だって——上書きできる。
ただ一つ、上書きできないものがある。
カナミがいなくなったあの日の空の色。
あの完璧に青い空を、インティクスはまだ覚えている。覚えているからこそ——その空を取り戻すために、この手を汚し続けている。
そのことに、インティクスは気づいていなかった。
◆ Chapter2.02
翌朝。
使節団に割り当てられた別棟の一室で、シロエは思考を整理していた。
昨夜のことは念話でカラシンに報告済みだ。使節団は全員無事。アイザックが仲間を集めて宿舎の警備を固めている。イセルス殿下もキリヴァ侯も問題ない。ただし出入り口にはにこにこした顔の衛兵が立っていて、「ご案内しますよ」と言いたげに微笑んでいる。
笑顔つきの監禁だ。
カラシンの言い回しが的確すぎて、シロエは苦笑を禁じ得なかった。
「主君。茶が入った」
アカツキが盆を差し出す。シロエは湯気の立つ湯呑を受け取った。
「インティクスが会談を申し入れてきた。今日の午後、大朝堂で」
「罠か」
「罠というほど荒っぽいことはしないと思う。インティクスは——暴力より管理の人だ。少なくとも表向きは」
シロエは茶をひと口啜った。苦い。キョウの茶はアキバのものとは品種が違うらしく、深煎りの渋みが舌の奥に残る。
窓の外では、御所の庭に朝の光が差し込んでいた。美しい庭だ。白砂の枯山水。手入れの行き届いた松。——昨夜、ソウジロウとカズ彦さんが斬り結んだ中庭とは別の庭だが、同じように静謐で、同じように何事もなかったかのような顔をしている。
考えるべきことは山のようにある。しかしその前に、整理すべき事実がある。
「考え事の最中に悪いが」
アカツキが言った。
「ソウジロウから念話があった。昨夜の戦闘の報告だ」
「カズ彦さんとの?」
「うむ。カズ彦は撤退したそうだ。それと——伝言がある」
「伝言?」
「『キョウは危険だ』と」
シロエは湯呑を置いた。
インティクスの側にいる人間が、わざわざ警告を寄越してきた。
カズ彦さんがミナミで何をしているか、正確には知らない。だが、あの人がインティクスの傍にい続ける理由は想像がつく。
「……カズ彦さんも、限界なのかもしれない」
シロエは独り言のようにつぶやいた。
廊下に出ると、別棟の広間からにぎやかな声が聞こえてきた。
「ボク的にはこの軟禁生活、意外と快適ですよ? ご飯出るし、布団ふかふかだし。強いて言えばファンの皆に会えないのが辛いですけどねー」
てとらが足をぶらぶらさせながら言った。深刻さを溶かすような声だった。
「なんか俺にできることないのかな、シロエ兄ちゃん」
トウヤが振り向いた。じっとしていることが苦手な少年は、刀の柄を無意識に握っている。
「トウヤ。今は待つのも仕事だよ」
シロエが言うと、トウヤは納得しきれない顔で頷いた。
「ボクは外交官として毅然と振る舞わねばならないのだ。ここで取り乱すなど、使節団の名折れであるぞ」
ルンデルハウスが背筋を伸ばして言った。声は立派だったが、膝の上で組んだ手がわずかに白くなっていた。トウヤがその肩を軽く叩く。「ルディ、堅いって」「これは矜持の問題だ」
広間の隅では、キリヴァ侯が茶を啜っていた。湯呑を持つ指先が小刻みに揺れている。それでも侯爵は背筋を崩さず、アイザックが固めた警備の配置を黙って見ていた。不安を呑み込んで座っている——それが、この場でキリヴァ侯にできる最善だった。
シロエはその光景を一瞥した。守るべきものの重さを、改めて確かめるように。
てとらの軽口。トウヤの焦り。ルンデルハウスの虚勢。キリヴァ侯の震え。——この人たちを安全にアキバに帰す。それが最優先だ。インティクスとの知略戦も、カズ彦さんの事情も、濡羽のことも——全て、まずはここを切り抜けてからだ。
「主君」
アカツキが廊下の隅から声をかけた。
「御所内部の偵察、もう一度行く。午後の会談までに、脱出ルートの候補を三つに絞りたい」
「頼む。——気をつけて」
「了解した」
アカツキの姿がかすかに揺らぎ、廊下の影に溶けた。〈追跡者〉のサブクラスが、昼間の御所でも機能していることを示す動きだった。
シロエは部屋に戻り、壁に地図を広げた。カラシンから念話で受け取ったキョウの市街図だ。御所の見取り図。水路網。門の配置。まだ情報が足りない。しかし、今あるもので考えるしかない。
(脱出の鍵は——正面からの交渉と、裏からの脱出を同時に走らせることだ)
会談に臨む。情報を引き出す。同時に、アカツキの偵察で脱出ルートを確定する。
二正面作戦。
シロエは眼鏡のブリッジを押し上げた。
午後。
大朝堂は昨夜の惨劇の痕跡を綺麗に拭い去っていた。
白砂の広間に設えられた座席。卓の上に茶と菓子。すべてが「歓迎」の体裁を整えている。ウーデル公爵の血痕は一滴も残っていない。白砂は掃き清められ、松の香が焚かれ、まるで何もなかったかのように。
——これもインティクスのやり方だ。
シロエは広間を見渡しながら考えた。暴力の跡を消し、秩序の仮面を被せ直す。力ではなく管理で支配する。
インティクスが広間の奥に座していた。メイド服の上に薄い羽織を纏い、鬼を戴いた眼鏡をかけている。その姿は大朝堂の主としてではなく、来客を迎える主人のように見えた。演出だ。すべてが。
シロエは対面に腰を下ろした。アカツキがその二歩後ろに立つ。
「よく眠れたかしら、シロエ」
「おかげさまで。衛兵さんが子守歌でも歌ってくれそうな勢いだったよ」
インティクスの目が一瞬細くなった。笑ったのか、怒ったのか、判別がつかない。
「冗談が上手くなったわね。昔はもっと堅かった」
「人は変わるものだよ」
「そうね。——変わるわ」
インティクスはカップを持ち上げ、一口含んだ。
「本題に入るわ。わたしの提案は単純よ。〈Plant hwyaden〉と〈円卓会議〉の統合。ヤマト全土を一つの組織で管理する。そのための参謀に、あなたが最適だと思っているの」
シロエは顎に手を当てた。
予想通りの提案だ。大朝堂の惨劇を演出し、濡羽を追い落とし、ウーデル公爵を見せしめにして——その翌日にこの提案。インティクスにとっては、ここまでが一連の手順なのだろう。混乱を作り出し、収拾の名目で支配を拡大する。教科書通りの手法だ。
しかし教科書通りであることと、対策が容易であることは別問題だった。
「統合というのは、つまり〈Plant hwyaden〉の傘下に入れということかな」
「対等な立場よ。あなたは参謀として全体の運営に関わる。意思決定の場に、シロエがいる。——それだけで、どれだけのことが変わると思う?」
「変わるだろうね。ただし、パス制度の下で『対等』は成り立たない」
インティクスの指が、わずかに止まった。
「パス制度は必要よ。経済の安定には——」
「経済の安定のためなら、もっと穏やかな方法があります」
シロエは茶会の元メンバーとして、しかしあくまで他組織の代表として、語尾を整えた。ここはアキバのギルドホールではない。ヤマトの東と西、二つの勢力圏の接点だ。
「パス制度は安定じゃない。従属です。冒険者の経済活動をギルドが管理するのは、ゲーム時代なら当たり前でした。でもここはもうゲームじゃない。パスがなければ生きていけない状況を意図的に作り出して、その上に『対等な統合』と言われても——それは同意じゃない。強制です」
インティクスの瞳がかすかに細まった。
「強制? 大げさね。嫌なら出ていけばいいだけよ」
「出ていけない状況を作った上で『嫌なら出ていけ』は、自由とは言わない。インティクスさん、あなたならわかるはずだ」
沈黙が落ちた。
茶の湯気だけが、二人の間でかすかに揺れている。
インティクスの瞳の奥で、虹色の揺らめきが一瞬だけ光った。シロエはそれを見逃さなかった。
シロエは相手の目を見据えながら、次の一手を探っていた。
(パス制度の本質は従属だ。しかし——それを崩す手段がない。批判はできても、代わりの選択肢を冒険者に示せない以上、ここで決裂するわけにはいかない)
しかしこれ以上は踏み込めない。
使節団が別棟にいる。イセルス殿下もキリヴァ侯も。ここで全面対決に持ち込めば、インティクスは笑顔のまま人質を締め上げるだろう。パス制度の批判は的確だが、それを力に変える手段が今の自分にはない。
「……検討させてください」
シロエはそう言った。
時間を稼ぐ。策士としての判断だ。ここで拒絶すれば決裂、受ければ隷属——そのどちらでもない位置に立ち続けることが、今のシロエにできる最善だった。
インティクスの唇が薄く弧を描いた。見透かしている、という目だった。
「検討、ね。……あなたらしいわ、シロエ。いつも結論を先送りにする。小さな場所で小さな答えを探し回って、肝心の選択を先延ばしにする」
「小さいかどうかは——」
「あなたの〈記録の地平線〉(ログ・ホライズン)は小さすぎるのよ、シロエ」
インティクスの声が、初めて刃を帯びた。
「アキバだけを見ているから、全体が見えない。わたしはヤマト全体を見ているの」
シロエは立ち上がった。
(小さい、か)
否定できない。今の自分にはヤマト全体を動かす手段がない。パス制度を批判する言葉は持っていても、それに代わる選択肢を冒険者に示せていない。
(——それを作らなければ。パス制度に代わる選択肢。冒険者が自分の意志で選べる道。それがなければ、いくらインティクスを批判しても、ただの批評家でしかない。批評家には世界を変えられない)
「全体を見ているなら、足元の人間も見てほしい。それだけです」
シロエは背を向けた。
アカツキが無言でついてくる。二人が広間を出るまで、インティクスは一言も発しなかった。
互いに手の内を探り、互いに決め手を出さなかった。会談は物別れだ。シロエは負けてはいないが、勝ってもいない。
廊下に出てから、シロエは小さく息を吐いた。
アカツキは何も言わなかった。会談の一部始終を二歩後ろで聞いていた。言葉にする必要はない。
「……対抗手段がない」
シロエが先に口を開いた。
「パス制度の構造は見えた。あの瞳の虹色も気になる。でも、崩す手段がまだ見えない」
「アキバに持ち帰ればいい」
アカツキが短く言った。
「主君一人で全部やる必要はないのだろう」
「……そうだね。帰って、みんなで考えよう。」
素直に受け入れられることに、自分で少し驚いた。一年前なら——いや、半年前でさえ、この言葉を素直に聞けたかどうかわからない。
シロエは小さく笑った。
「——でもその前に、会いたい人がいる」
「誰だ」
「KRさん。キョウの裏で動いてる、茶会の元メンバーだ」
KR。〈放蕩者の茶会〉の元メンバー。かつてカナミやシロエと同じ空の下で冒険をした男が、今はキョウの裏に留まっている。カズ彦さんのこと、インティクスの虹色の瞳のこと——KRなら何か知っているはずだ。
「夜まで待ってくれ」
シロエはアカツキに言った。
「日が暮れてからの方が動きやすいだろう」
「うむ。夜は忍びの時間だ」
アカツキが珍しく口元を緩めた。
◆ Chapter2.03
キョウの夜の路地裏は、入り組んだ水路のように複雑だった。
表通りの華やかさが嘘のように、一本奥に入るだけで闇が支配する。アカツキの〈隠行術〉(ハイド・シャドウ)がなければ、衛兵の目を逃れてここまで来ることは不可能だったろう。
アカツキが先行し、衛兵の巡回パターンの隙を縫う。二人は壁沿いに走り、水路の上を跨ぎ、目印の石灯籠を曲がった。念話で指定された場所——廃業した呉服屋の二階。
階段の板が軋む。黴びた布と古い染料の匂いが鼻を突いた。
暗い部屋の奥に、人影が一つ。長身の男が古びたマントを纏い、壁にもたれかかっている。その足元に、不機嫌そうな顔の少女——ガーネットドラゴンの従者が膝を抱えて座っていた。
「やあシロエ。」
軽い声が闇の中から響いた。
「こんな裏路地まで足を運んでくれるとは、株が上がったもんだね」
KRだった。
〈放蕩者の茶会〉の元メンバーで、〈召喚術師〉。情報通にして宮廷の裏側に通じた男だ。
「お久しぶりです、KRさん」
「堅いなあ。まあいいけど」
KRは口角を不敵に吊り上げた。暗がりの中でも、その飄々とした顔はシロエの記憶と変わらなかった。
「——で、わざわざ来たってことは、聞きたいことがあるんでしょ」
シロエは頷いた。
「いくつかあります」
「欲張りだね」
KRは壁にもたれかかったまま、肩をすくめた。
「まず——カズ彦さんのことです」
KRの表情が、わずかに翳った。闇の中でも、その変化はシロエにはわかった。
「カズ彦ね」
KRは手持ち無沙汰に指を鳴らした。癖だ。考え込む時に出る。シロエはそれを茶会の頃から知っている。
「——何が聞きたい?」
「彼がインティクスさんの傍にい続ける理由と、今の立場を教えてください」
沈黙が数秒。
KRはガーたんに視線を落とし、それから天井を見上げた。
「あいつが護民の司を引き受けてるのは知ってるでしょ。あの体制の中で唯一、大地人の側に立ってる歯車だ。カズ彦が抜けたら——まあ、想像つくよね」
「歯止めが消えますね」
「そ。だからあいつは抜けられない。自分がいなくなった翌日に何が起きるか、分かってるからね」
シロエは黙った。
カズ彦さんが「キョウは危険だ」と警告を寄越してきた意味が、少しだけ見えた気がした。あの人は警告すると同時に、自分が離脱できないことも示していた。
「それ以上のことは——」
シロエが踏み込もうとすると、KRが手を挙げて遮った。
「カズ彦のことはさ。……あいつ自身が話すべきだろうさ」
声色が変わっていた。飄々とした調子が消え、低く、重い。
「あいつが何をしたか、何をさせられてるか——それはあいつの話だ。俺が勝手にばらす筋じゃない」
シロエはそれ以上追わなかった。仲間の秘密を他人に明かさない——その判断に、シロエ自身が共感したからだ。
「わかりました。——もう一つ。インティクスさんの瞳の虹色。あれは何ですか」
KRが口笛を吹いた。
「さすがだね。目がいい」
「KRさんも気づいてますよね」
「まあね。——あれは虹の力だ。この世界の根っこにある力。冒険者が持ってるものじゃない。少なくとも、普通は」
「どこから手に入れたんですか」
KRは姿勢を正した。壁から背を離し、シロエに正面から向き合う。
「取引だよ」
シロエの背筋に冷たいものが走った。
「誰かから力をもらった。その代わりに、何かを差し出してる。——具体的に誰とどういう取引かは、俺もまだ全容を掴んでない。ただ、あいつの目が虹に光り始めた頃から、何かが変わったのは確かだ」
KRはガーたんの頭を軽く撫でた。少女はちらりとKRを見上げ、不機嫌そうにしながらも撫でるに任せた。
「俺も調べてはいるんだよ。でもこういうのは——裏取りが難しい。あいつの側近でさえ知らないかもしれない。カズ彦も、あの力の出所については何も言わない。知っていて黙ってるのか、知らないのかも俺にはわからない」
シロエは顎に手を当てた。
取引。虹の力。冒険者が通常は持ち得ない力。——その取引相手が何者であるかは、KRでさえまだ確証を得ていない。しかし推測は可能だ。この世界で「取引」によって異常な力を付与できる存在は限られている。〈共感子〉の理論。〈典災〉の行動原理。偽りの同意——。
断片が頭の中で回っているが、まだ一つの絵にならない。
「取引の相手が誰であれ——そういう力を使い続けたら、代償は」
「それな」
KRの目が据わった。飄々とした男の顔の奥に、ほんの一瞬、深い疲労のようなものが覗いた。
「シロエ。忠告しとくよ。インティクスは確かに危険だ。でもあいつは——壊れかけてる」
ガーたんが足をぶらぶらさせるのを止めて、KRの顔を見上げた。
「頂点に立ったはずなのに、全然満足してない。それが一番やばいんだ。満足しない人間は、永遠にエスカレートする」
KRの声には、仲間を案じる色が滲んでいた。
「……今日、会ってきました。インティクスさんと」
「で?」
「パス制度の問題は指摘した。でも、それ以上は踏み込めなかった。使節団を人質に取られている以上」
「だろうな。あいつはそういうところで抜け目がない」
KRは鼻を鳴らした。
「まあ、今日のところはそのへんが限界だろうさ。情報は持ち帰りな。アキバに戻ってから頭を使えばいい——あんたにはそういうのが向いてる」
KRは壁にもたれ直し、天井を見上げた。
「俺がここにいるのはさ。……見てなきゃいけないと思ったからだよ。カナミが作ったものが壊れていくのを、せめて誰かが見ていなきゃいけないだろ。——それが脇役の仕事さ」
シロエは黙った。
シロエは立ち上がった。
「ありがとうございます、KRさん。帰ったらメンバーと共有します」
シロエは頷いて、暗い階段を降りていった。古い板が踏むたびに軋む。呉服屋だった名残か、壁に染料の匂いがかすかに残っていた。
階段の途中で、背後からKRの声が降ってきた。
「シロエ。——あんたが来てくれて、正直ちょっと安心したよ」
暗い階段の上を振り返っても、KRの顔は見えなかった。声だけが降りてくる。
「俺は見てるだけの人間だからさ。——だから、動ける人間が来てくれると助かる」
シロエは何か言おうとして、やめた。代わりに軽く頭を下げた。見えていないとわかっていても。
KRの気配が暗がりに戻っていった。
路地に出ると、頭上に細い月が覗いていた。雲が多い夜だ。キョウの屋根の連なりが、闇の中で黒い波のように見える。
「主君」
「うん」
「KRから聞いた話、帰ったらみんなに共有するんだろう」
「そのつもりだよ。断片的だけど、アキバに持ち帰って円卓で検討する材料にはなる。虹の力。取引。壊れかけたインティクス。——全部、一人で抱え込むには大きすぎる」
アカツキは頷いた。
「主君が自分でそう言えるようになっただけで、前より良い」
「……それ、褒めてる?」
「事実を言っただけだ」
シロエは小さく笑った。
夜のキョウは、静かだった。しかしその静寂の底に、何かが蠢いている。シロエにはそれが聞こえていた。
◆ Chapter2.04
〈三日月同盟〉のギルドホールは、夕食の喧騒が引いた後の穏やかさに包まれていた。
台所では当番の料理人たちが後片付けをしている。鍋を洗う水音と、皿が重なる音。廊下の向こうからはメンバーたちの話し声が聞こえる。「明日のパーティ編成、ヒーラー足りなくない?」「マリ姐に相談しなよ」——いつもの夜の、いつもの会話だった。
リビングの長テーブルには、マリエールとヘンリエッタが残っていた。小竜が窓際で双剣の手入れをしている。布で刃を拭く規則的な音が、静かなリビングに響いていた。
マリエールはココアのカップを両手で包みながら、テーブルに広げたメンバーリストに目を落としていた。
ヘンリエッタはテーブルの反対側で、収支概算書に目を通している。
「消耗品の支出がこの三日間で八パーセント増えていますわ。ダンジョンの難易度を上げすぎですわね」
「えー。でもメンバーが上げたいって言うんやもん」
「上げたいと上げられるは違います。予算は有限ですわ」
「ヘンリエッタは帳簿のことしか考えとらんのちゃう?」
「帳簿はすべてを物語りますわ」
「出たわ」
マリエールは彫刻刀を置いて、自分のココアに口をつけた。ぬるくなっている。作業に集中すると飲み物のことを忘れる癖がある。
テーブルの下で、ナナミが丸くなって眠っていた。洗いたての毛布に包まれて、小さな寝息を立てている。飛燕が部屋に入ってきて、ナナミの様子を確認し、毛布の端を直して出ていった。何も言わなかった。
「それとマリエ」
「ん?」
「今夜も直継さんと念話するのでしょう?」
マリエールの顔がみるみる赤くなった。
「な、なんのことやろ。うちは別に——」
「毎晩九時きっかりに席を外すのは、ギルドマスターとして規則正しい就寝時間を守っているわけではないでしょう」
「せ、正論で攻めんとき!」
マリエールが両手で顔を覆う。耳まで赤い。ヘンリエッタはココアを一口啜り、眼鏡の奥で目を細めた。
「内容は聞いておりませんわよ? 壁が薄いので多少は漏れ聞こえてきますけれど」
「聞こえとったんかい!」
「ええ、ええ。承知しておりますわ」
ヘンリエッタはにっこり笑ってココアのカップを置いた。
マリエールは指の隙間からヘンリエッタを睨んだ。睨んでいるつもりだが、赤い耳が台無しにしている。
ヘンリエッタが帳簿を抱えて席を立った。その背中を見送りながら、マリエールは窓の外に目を向けた。
アキバの街灯が揺れている。穏やかな夜だった。
マリエールはナナミの毛布をもう一度掛け直した。
(ええギルドやな、うちのギルドは)
毎晩そう思う。毎晩そう思えることが、どれだけありがたいか。
九時まで、あと少し。
◆ Chapter2.05
ミナミの街は、何も変わっていないように見えた。
朝の市場には威勢のいい声が飛び交い、露店には色とりどりの食材が並び、大地人の商人たちが忙しそうに荷を運んでいる。キョウの政変の噂はまだ庶民の耳には十分に届いていない。
しかし、冒険者の目には変化が見えていた。
ボイルは〈ゼスタの店〉のカウンターで、ぬるくなったエールを傾けながらそのことを考えていた。
今朝、ギルドの上から通達が来た。
パス制度の適用範囲が拡大される。これまで自由取引が許されていた素材市場にも、〈Plant hwyaden〉の認可が必要になる。つまり——〈Plant hwyaden〉を通さない商売ができなくなる。
「嫌な感じだな……」
エールを置いて、ボイルは頭を掻いた。
「ボイルさーん。元気ないですねえ?」
カウンターの向こうから、ウィカが顔を覗かせた。〈ゼスタの店〉の看板娘だ。ボイルがダンジョンから戻るたびに「おかえりなさい」と笑顔で迎えてくれる、この店の太陽みたいな存在だった。
「おう、ウィカ。いや、ちょっとな」
「今日、朝から〈冒険者〉さんたちの入りが悪くって。いつもなら昼前には満席なのに……」
ボイルは唸った。
パス制度の新規約。認可なしの取引禁止。それが広まれば、冒険者は自由に物を買えなくなる。飯屋に金を落とす余裕もなくなる。
「大丈夫だよ。ちょっと制度が変わるだけさ。そのうち慣れる」
嘘だ。
大丈夫なはずがない。ボイルにはわかっていた。
パス制度が強化されれば、冒険者はダンジョンで得た素材すら自由に売れなくなる。経済が〈Plant hwyaden〉に完全に握られる。それは冒険者にとっての鎖であると同時に、大地人の商売にとっても致命的だ。冒険者が金を使わなくなれば、ウィカの働くこの店は——
「ボイルさん」
ウィカが不安そうな目で見上げている。
「店主のゼスタさんが言ってたんです。『今度の新しいお姫様は、前のお姫様より怖い』って」
ボイルはエールを一気に呷った。
「……ゼスタのおやじ、賢い人だな」
店の奥で皿が重なる音がした。
いつもと同じ音だ。いつもと同じ昼下がりのはずだった。
しかし空気が違う。ミナミの街全体が、息を潜めているような——何かの前触れを待っているような、そういう重さがあった。
店の窓から、イコマ離宮の塔が遠くに見えた。
あの塔の上で、新しい支配者が何を考えているのか。ボイルには想像もつかない。
しかし——ウィカの不安そうな目は覚えている。この店が潰れたら、ウィカはどこへ行くのだろう。大地人の商人が冒険者の経済に依存している。冒険者がパス制度で締め上げられれば、その影響は大地人にも及ぶ。
そんなことは、イコマ離宮の上にいる人間には見えていないのだろう。
「ボイルさん。おかわりいりますか?」
ウィカがエールの瓶を持って近づいてきた。いつもの笑顔。しかしその笑顔の端が、わずかに引きつっているのをボイルは見逃さなかった。
「……おう。もらうよ」
ボイルはジョッキを差し出した。
ただ一つ、確かなことがある。
明日もダンジョンに潜る。その先も。ウィカの店に金を落とす。それだけは続ける。
ボイルにできるのはそれだけだ。——今のところは。
ウィカが店の窓を閉めた。
夕暮れのミナミは、いつもより静かだった。
通りを歩く冒険者の数が、確かに減っている。パス制度の新規約が広まり始めたのだ。馴染みの装備屋が店を早仕舞いしていた。素材商の露店が二軒、たたみかけている。
変化は少しずつ——しかし確実に進んでいる。
ボイルは店を出て、夕暮れの通りを歩いた。
明日も、ここに来る。ウィカの「おかえりなさい」を聞くために。
それだけは——誰にも奪わせない。




