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第二章 魔女の園

※この作品は橙乃ままれさんの「ログ・ホライズン(N8725K)」の二次創作作品です。

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第二章 魔女の園

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◆ Chapter2.01



 イコマ離宮は、夜明けの光の中で沈黙していた。

 かつて濡羽が〈Plant hwyaden〉の政務に使っていた広間は、一夜にしてインティクスの執務室に変貌していた。調度品は同じだ。壁にかかった掛け軸も、置かれた花瓶も、何ひとつ変わっていない。変わったのは、そこに座る人間だけだった。

 インティクスは書簡に目を落としていた。

 十席会議の再編案。濡羽が空けた第一席。ウーデルが消えた後の元老院との調整。ミナミの商人への通達。冒険者ギルドへのパス制度の新規約——やることは山のようにある。しかしインティクスの手は止まっていた。

 窓の外で雀が鳴いている。

 その声が、なぜか遠い。

 「……カナミ」

 口の中で転がした名前は、もう何の返事も返さない。

 〈放蕩者の茶会〉が終わった日のことを、インティクスは正確に覚えている。カナミが去った。理由もなく。説明もなく。太陽のように輝いていた女が、ある日突然いなくなった。

 残されたのはインティクスだった。

 あの日から、何も変わっていない。

 (わたしはまだ負けていない。一度だって。カナミが勝手に逃げただけ。あの女が臆病風に駆られて、青空を——頂点を——わたしたちの場所を捨てて逃げただけ)

 だから取り返す。

 (この世界の頂点に立てば、もう誰にも見捨てられない。誰も去れない。カナミさえも)

 書簡を持つ指先に、かすかに虹色の光が揺らめいた。

 インティクスはそれに気づき、拳を握って光を消した。

 まだ、早い。


 障子の向こうから声がかかった。

 「インティクス様。カズ彦様がお見えです」

 「通しなさい」

 カズ彦が入ってきた。

 「壬生狼からの報告だ。昨夜の騒ぎで逃げた連中がいる。ウーデル派の残党が三家、それに……濡羽がまだ見つかっていない」

 「ふうん」

 インティクスは視線を書簡に落としたまま答えた。

 「濡羽なんてどうでもいいわ。行きたいところに行かせておけばいいでしょ。砂のお城から放り出されたドブネズミに何ができるの」

 カズ彦は黙っている。

 カナミが去ったあと、この女の狂乱を隣で受け止め続けたのは自分だ。何日も何夜も。あの時インティクスが撒き散らした呪詛を、茶会の他の仲間に聞かせないために。

 あの頃の彼女を知っている。だからこそ、今の彼女が——わからない。

 「それよりミズファに伝えて。十席会議の第三席を用意したって。軍事は彼女に任せるわ」

 「ミズファは〈大地人〉だ。冒険者の——」

 「冒険者の反発?」

 インティクスが初めて顔を上げた。鬼を戴いた鋭角の眼鏡の奥で、瞳が冷たく光る。

 「カズ彦。この街の冒険者が、わたしに逆らえると思う?」

 カズ彦は答えなかった。

 答える必要がなかった。パス制度がある限り、ミナミの冒険者の経済は〈Plant hwyaden〉に握られている。銀行口座を凍結されれば装備も消耗品も買えない。ギルド会館の利用権を停止されれば倉庫も使えない。——それは鎖だ。目に見えない、しかし極めて実効的な鎖。

 「パス制度の見直しを提案する」

 カズ彦の声は低く、平坦だった。

 「却下」

 「聞いてくれ。今のままじゃ——」

 「却下って言ったの、聞こえなかった?」

 インティクスは微笑んだ。

 「カズ彦はカズ彦の仕事をしてちょうだい。護民の司でしょう? 領民を守るのが、あなたのお仕事。——それとも、やめる?」

 やめる。

 その一言が何を意味するか、カズ彦は知っている。反抗ではない。見捨てることだ。カズ彦がここを離れた翌日には、名前も知らない大地人の子供が毒を盛られて死ぬ。数十人。インティクスにとってそれはただの数字でしかない。わたしはなんの興味もないし痛痒も感じない——あの声が、今も耳にこびりついている。

 だからカズ彦はここにいる。

 「……了解した」

 カズ彦は踵を返した。

 「あと、カズ彦」

 背中に声がかかる。

 「東の使節団は丁重にね。明日の午後、わたしが直接お話しするわ。——風見鶏のシロエと、少しだけ昔話がしたいの」

 カズ彦は振り返らなかった。

 腰の〈六道輪廻〉が、鞘の中で冷たく黙っている。

 障子を閉じる音だけが、広間に残った。


 カズ彦は廊下を歩いた。

 壬生狼の兵士たちが両脇に立っている。インティクスが再編した親衛隊だ。かつては濡羽の警護にあたっていた者もいるが、その忠誠は一夜で塗り替えられた。——いや、塗り替えられたのではない。パス制度に縛られた冒険者たちにとって、忠誠の対象は人ではなく制度なのだ。

 カズ彦は腰の〈六道輪廻〉に触れた。白鞘の刀は冷たい。いつも冷たい。クオンを刺した時も、この冷たさだけは変わらなかった。

 (これがまだましなんだ)

 自分に言い聞かせる。何度も繰り返してきた言葉。

 俺がここにいれば、大地人は殺されない。俺が汚れ役を引き受ければ、誰かが死なずに済む。それは事実だ。事実だが——この選択を何年も続けた結果、自分が何になりつつあるのか、カズ彦にはわかっていた。

 ソウジロウと斬り結んだ昨夜のことを思い出す。あの若い武士の刀は真っ直ぐだった。迷いがない刃。自分にはもう振れない種類の刃だ。

 「何を守ってるんですか」

 ソウジロウの問いが、まだ耳に残っている。

 守っている。守っているはずだ。——だが、その守り方は、いつまで持つのか。

 カズ彦は廊下を曲がり、壬生狼の詰所へ向かった。今日も仕事がある。護民の司の仕事。誰かを守るために、別の誰かを見殺しにする——そういう仕事が。



 一人になったインティクスは、拳を開いた。

 掌に、虹色の光が薄く残っていた。

 力は確かに手に入った。この世界を動かすに足る力。虹の力——世界の根源に触れる力を、インティクスは手にしている。

 その代償は。

 (代償のことは考えない。考える必要がない。この力があれば——もう誰にも——)

 「……カナミ」

 同じ名前を、もう一度口の中で転がした。

 今度は、声にならなかった。


 窓の外では、雀がまだ鳴いている。

 離宮の庭に朝の光が差し込み、池の水面がきらきらと光っていた。昨夜の血の匂いは、もうどこにもない。インティクスはそれを知っている。血は洗い流せる。汚れは落とせる。人の記憶だって——上書きできる。

 ただ一つ、上書きできないものがある。

 カナミがいなくなったあの日の空の色。

 あの完璧に青い空を、インティクスはまだ覚えている。覚えているからこそ——その空を取り戻すために、この手を汚し続けている。

 そのことに、インティクスは気づいていなかった。




◆ Chapter2.02



 翌朝。

 使節団に割り当てられた別棟の一室で、シロエは思考を整理していた。

 昨夜のことは念話でカラシンに報告済みだ。使節団は全員無事。アイザックが仲間を集めて宿舎の警備を固めている。イセルス殿下もキリヴァ侯も問題ない。ただし出入り口にはにこにこした顔の衛兵が立っていて、「ご案内しますよ」と言いたげに微笑んでいる。

 笑顔つきの監禁だ。

 カラシンの言い回しが的確すぎて、シロエは苦笑を禁じ得なかった。

 「主君。茶が入った」

 アカツキが盆を差し出す。シロエは湯気の立つ湯呑を受け取った。

 「インティクスが会談を申し入れてきた。今日の午後、大朝堂で」

 「罠か」

 「罠というほど荒っぽいことはしないと思う。インティクスは——暴力より管理の人だ。少なくとも表向きは」

 シロエは茶をひと口啜った。苦い。キョウの茶はアキバのものとは品種が違うらしく、深煎りの渋みが舌の奥に残る。

 窓の外では、御所の庭に朝の光が差し込んでいた。美しい庭だ。白砂の枯山水。手入れの行き届いた松。——昨夜、ソウジロウとカズ彦さんが斬り結んだ中庭とは別の庭だが、同じように静謐で、同じように何事もなかったかのような顔をしている。

 考えるべきことは山のようにある。しかしその前に、整理すべき事実がある。

 「考え事の最中に悪いが」

 アカツキが言った。

 「ソウジロウから念話があった。昨夜の戦闘の報告だ」

 「カズ彦さんとの?」

 「うむ。カズ彦は撤退したそうだ。それと——伝言がある」

 「伝言?」

 「『キョウは危険だ』と」

 シロエは湯呑を置いた。

 インティクスの側にいる人間が、わざわざ警告を寄越してきた。

 カズ彦さんがミナミで何をしているか、正確には知らない。だが、あの人がインティクスの傍にい続ける理由は想像がつく。

 「……カズ彦さんも、限界なのかもしれない」

 シロエは独り言のようにつぶやいた。


 廊下に出ると、別棟の広間からにぎやかな声が聞こえてきた。

 「ボク的にはこの軟禁生活、意外と快適ですよ? ご飯出るし、布団ふかふかだし。強いて言えばファンの皆に会えないのが辛いですけどねー」

 てとらが足をぶらぶらさせながら言った。深刻さを溶かすような声だった。

 「なんか俺にできることないのかな、シロエ兄ちゃん」

 トウヤが振り向いた。じっとしていることが苦手な少年は、刀の柄を無意識に握っている。

 「トウヤ。今は待つのも仕事だよ」

 シロエが言うと、トウヤは納得しきれない顔で頷いた。

 「ボクは外交官として毅然と振る舞わねばならないのだ。ここで取り乱すなど、使節団の名折れであるぞ」

 ルンデルハウスが背筋を伸ばして言った。声は立派だったが、膝の上で組んだ手がわずかに白くなっていた。トウヤがその肩を軽く叩く。「ルディ、堅いって」「これは矜持の問題だ」

 広間の隅では、キリヴァ侯が茶を啜っていた。湯呑を持つ指先が小刻みに揺れている。それでも侯爵は背筋を崩さず、アイザックが固めた警備の配置を黙って見ていた。不安を呑み込んで座っている——それが、この場でキリヴァ侯にできる最善だった。


 シロエはその光景を一瞥した。守るべきものの重さを、改めて確かめるように。

 てとらの軽口。トウヤの焦り。ルンデルハウスの虚勢。キリヴァ侯の震え。——この人たちを安全にアキバに帰す。それが最優先だ。インティクスとの知略戦も、カズ彦さんの事情も、濡羽のことも——全て、まずはここを切り抜けてからだ。

 「主君」

 アカツキが廊下の隅から声をかけた。

 「御所内部の偵察、もう一度行く。午後の会談までに、脱出ルートの候補を三つに絞りたい」

 「頼む。——気をつけて」

 「了解した」

 アカツキの姿がかすかに揺らぎ、廊下の影に溶けた。〈追跡者〉のサブクラスが、昼間の御所でも機能していることを示す動きだった。

 シロエは部屋に戻り、壁に地図を広げた。カラシンから念話で受け取ったキョウの市街図だ。御所の見取り図。水路網。門の配置。まだ情報が足りない。しかし、今あるもので考えるしかない。

 (脱出の鍵は——正面からの交渉と、裏からの脱出を同時に走らせることだ)

 会談に臨む。情報を引き出す。同時に、アカツキの偵察で脱出ルートを確定する。

 二正面作戦。

 シロエは眼鏡のブリッジを押し上げた。


 午後。

 大朝堂は昨夜の惨劇の痕跡を綺麗に拭い去っていた。

 白砂の広間に設えられた座席。卓の上に茶と菓子。すべてが「歓迎」の体裁を整えている。ウーデル公爵の血痕は一滴も残っていない。白砂は掃き清められ、松の香が焚かれ、まるで何もなかったかのように。

 ——これもインティクスのやり方だ。

 シロエは広間を見渡しながら考えた。暴力の跡を消し、秩序の仮面を被せ直す。力ではなく管理で支配する。

 インティクスが広間の奥に座していた。メイド服の上に薄い羽織を纏い、鬼を戴いた眼鏡をかけている。その姿は大朝堂の主としてではなく、来客を迎える主人のように見えた。演出だ。すべてが。

 シロエは対面に腰を下ろした。アカツキがその二歩後ろに立つ。

 「よく眠れたかしら、シロエ」

 「おかげさまで。衛兵さんが子守歌でも歌ってくれそうな勢いだったよ」

 インティクスの目が一瞬細くなった。笑ったのか、怒ったのか、判別がつかない。

 「冗談が上手くなったわね。昔はもっと堅かった」

 「人は変わるものだよ」

 「そうね。——変わるわ」

 インティクスはカップを持ち上げ、一口含んだ。

 「本題に入るわ。わたしの提案は単純よ。〈Plant hwyaden〉と〈円卓会議〉の統合。ヤマト全土を一つの組織で管理する。そのための参謀に、あなたが最適だと思っているの」

 シロエは顎に手を当てた。

 予想通りの提案だ。大朝堂の惨劇を演出し、濡羽を追い落とし、ウーデル公爵を見せしめにして——その翌日にこの提案。インティクスにとっては、ここまでが一連の手順なのだろう。混乱を作り出し、収拾の名目で支配を拡大する。教科書通りの手法だ。

 しかし教科書通りであることと、対策が容易であることは別問題だった。

 「統合というのは、つまり〈Plant hwyaden〉の傘下に入れということかな」

 「対等な立場よ。あなたは参謀として全体の運営に関わる。意思決定の場に、シロエがいる。——それだけで、どれだけのことが変わると思う?」

 「変わるだろうね。ただし、パス制度の下で『対等』は成り立たない」

 インティクスの指が、わずかに止まった。

 「パス制度は必要よ。経済の安定には——」

 「経済の安定のためなら、もっと穏やかな方法があります」

 シロエは茶会の元メンバーとして、しかしあくまで他組織の代表として、語尾を整えた。ここはアキバのギルドホールではない。ヤマトの東と西、二つの勢力圏の接点だ。

 「パス制度は安定じゃない。従属です。冒険者の経済活動をギルドが管理するのは、ゲーム時代なら当たり前でした。でもここはもうゲームじゃない。パスがなければ生きていけない状況を意図的に作り出して、その上に『対等な統合』と言われても——それは同意じゃない。強制です」

 インティクスの瞳がかすかに細まった。

 「強制? 大げさね。嫌なら出ていけばいいだけよ」

 「出ていけない状況を作った上で『嫌なら出ていけ』は、自由とは言わない。インティクスさん、あなたならわかるはずだ」

 沈黙が落ちた。

 茶の湯気だけが、二人の間でかすかに揺れている。

 インティクスの瞳の奥で、虹色の揺らめきが一瞬だけ光った。シロエはそれを見逃さなかった。

 シロエは相手の目を見据えながら、次の一手を探っていた。

 (パス制度の本質は従属だ。しかし——それを崩す手段がない。批判はできても、代わりの選択肢を冒険者に示せない以上、ここで決裂するわけにはいかない)

 しかしこれ以上は踏み込めない。

 使節団が別棟にいる。イセルス殿下もキリヴァ侯も。ここで全面対決に持ち込めば、インティクスは笑顔のまま人質を締め上げるだろう。パス制度の批判は的確だが、それを力に変える手段が今の自分にはない。

 「……検討させてください」

 シロエはそう言った。

 時間を稼ぐ。策士としての判断だ。ここで拒絶すれば決裂、受ければ隷属——そのどちらでもない位置に立ち続けることが、今のシロエにできる最善だった。

 インティクスの唇が薄く弧を描いた。見透かしている、という目だった。

 「検討、ね。……あなたらしいわ、シロエ。いつも結論を先送りにする。小さな場所で小さな答えを探し回って、肝心の選択を先延ばしにする」

 「小さいかどうかは——」

 「あなたの〈記録の地平線〉(ログ・ホライズン)は小さすぎるのよ、シロエ」

 インティクスの声が、初めて刃を帯びた。

 「アキバだけを見ているから、全体が見えない。わたしはヤマト全体を見ているの」

 シロエは立ち上がった。

 (小さい、か)

 否定できない。今の自分にはヤマト全体を動かす手段がない。パス制度を批判する言葉は持っていても、それに代わる選択肢を冒険者に示せていない。

 (——それを作らなければ。パス制度に代わる選択肢。冒険者が自分の意志で選べる道。それがなければ、いくらインティクスを批判しても、ただの批評家でしかない。批評家には世界を変えられない)

 「全体を見ているなら、足元の人間も見てほしい。それだけです」

 シロエは背を向けた。

 アカツキが無言でついてくる。二人が広間を出るまで、インティクスは一言も発しなかった。

 互いに手の内を探り、互いに決め手を出さなかった。会談は物別れだ。シロエは負けてはいないが、勝ってもいない。


 廊下に出てから、シロエは小さく息を吐いた。

 アカツキは何も言わなかった。会談の一部始終を二歩後ろで聞いていた。言葉にする必要はない。

 「……対抗手段がない」

 シロエが先に口を開いた。

 「パス制度の構造は見えた。あの瞳の虹色も気になる。でも、崩す手段がまだ見えない」

 「アキバに持ち帰ればいい」

 アカツキが短く言った。

 「主君一人で全部やる必要はないのだろう」

 「……そうだね。帰って、みんなで考えよう。」

 素直に受け入れられることに、自分で少し驚いた。一年前なら——いや、半年前でさえ、この言葉を素直に聞けたかどうかわからない。

 シロエは小さく笑った。

 「——でもその前に、会いたい人がいる」

 「誰だ」

 「KRさん。キョウの裏で動いてる、茶会の元メンバーだ」

 KR。〈放蕩者の茶会〉の元メンバー。かつてカナミやシロエと同じ空の下で冒険をした男が、今はキョウの裏に留まっている。カズ彦さんのこと、インティクスの虹色の瞳のこと——KRなら何か知っているはずだ。

 「夜まで待ってくれ」

 シロエはアカツキに言った。

 「日が暮れてからの方が動きやすいだろう」

 「うむ。夜は忍びの時間だ」

 アカツキが珍しく口元を緩めた。




◆ Chapter2.03



 キョウの夜の路地裏は、入り組んだ水路のように複雑だった。

 表通りの華やかさが嘘のように、一本奥に入るだけで闇が支配する。アカツキの〈隠行術〉(ハイド・シャドウ)がなければ、衛兵の目を逃れてここまで来ることは不可能だったろう。

 アカツキが先行し、衛兵の巡回パターンの隙を縫う。二人は壁沿いに走り、水路の上を跨ぎ、目印の石灯籠を曲がった。念話で指定された場所——廃業した呉服屋の二階。

 階段の板が軋む。黴びた布と古い染料の匂いが鼻を突いた。

 暗い部屋の奥に、人影が一つ。長身の男が古びたマントを纏い、壁にもたれかかっている。その足元に、不機嫌そうな顔の少女——ガーネットドラゴンの従者が膝を抱えて座っていた。

 「やあシロエ。」

 軽い声が闇の中から響いた。

 「こんな裏路地まで足を運んでくれるとは、株が上がったもんだね」

 KRだった。

 〈放蕩者の茶会〉の元メンバーで、〈召喚術師〉。情報通にして宮廷の裏側に通じた男だ。

 「お久しぶりです、KRさん」

 「堅いなあ。まあいいけど」

 KRは口角を不敵に吊り上げた。暗がりの中でも、その飄々とした顔はシロエの記憶と変わらなかった。

 「——で、わざわざ来たってことは、聞きたいことがあるんでしょ」

 シロエは頷いた。

 「いくつかあります」

 「欲張りだね」

 KRは壁にもたれかかったまま、肩をすくめた。

 「まず——カズ彦さんのことです」

 KRの表情が、わずかに翳った。闇の中でも、その変化はシロエにはわかった。

 「カズ彦ね」

 KRは手持ち無沙汰に指を鳴らした。癖だ。考え込む時に出る。シロエはそれを茶会の頃から知っている。

 「——何が聞きたい?」

 「彼がインティクスさんの傍にい続ける理由と、今の立場を教えてください」

 沈黙が数秒。

 KRはガーたんに視線を落とし、それから天井を見上げた。

 「あいつが護民の司を引き受けてるのは知ってるでしょ。あの体制の中で唯一、大地人の側に立ってる歯車だ。カズ彦が抜けたら——まあ、想像つくよね」

 「歯止めが消えますね」

 「そ。だからあいつは抜けられない。自分がいなくなった翌日に何が起きるか、分かってるからね」

 シロエは黙った。

 カズ彦さんが「キョウは危険だ」と警告を寄越してきた意味が、少しだけ見えた気がした。あの人は警告すると同時に、自分が離脱できないことも示していた。

 「それ以上のことは——」

 シロエが踏み込もうとすると、KRが手を挙げて遮った。

 「カズ彦のことはさ。……あいつ自身が話すべきだろうさ」

 声色が変わっていた。飄々とした調子が消え、低く、重い。

 「あいつが何をしたか、何をさせられてるか——それはあいつの話だ。俺が勝手にばらす筋じゃない」

 シロエはそれ以上追わなかった。仲間の秘密を他人に明かさない——その判断に、シロエ自身が共感したからだ。

 「わかりました。——もう一つ。インティクスさんの瞳の虹色。あれは何ですか」

 KRが口笛を吹いた。

 「さすがだね。目がいい」

 「KRさんも気づいてますよね」

 「まあね。——あれは虹の力だ。この世界の根っこにある力。冒険者が持ってるものじゃない。少なくとも、普通は」

 「どこから手に入れたんですか」

 KRは姿勢を正した。壁から背を離し、シロエに正面から向き合う。

 「取引だよ」

 シロエの背筋に冷たいものが走った。

 「誰かから力をもらった。その代わりに、何かを差し出してる。——具体的に誰とどういう取引かは、俺もまだ全容を掴んでない。ただ、あいつの目が虹に光り始めた頃から、何かが変わったのは確かだ」

 KRはガーたんの頭を軽く撫でた。少女はちらりとKRを見上げ、不機嫌そうにしながらも撫でるに任せた。

 「俺も調べてはいるんだよ。でもこういうのは——裏取りが難しい。あいつの側近でさえ知らないかもしれない。カズ彦も、あの力の出所については何も言わない。知っていて黙ってるのか、知らないのかも俺にはわからない」

 シロエは顎に手を当てた。

 取引。虹の力。冒険者が通常は持ち得ない力。——その取引相手が何者であるかは、KRでさえまだ確証を得ていない。しかし推測は可能だ。この世界で「取引」によって異常な力を付与できる存在は限られている。〈共感子〉の理論。〈典災〉の行動原理。偽りの同意——。

 断片が頭の中で回っているが、まだ一つの絵にならない。

 「取引の相手が誰であれ——そういう力を使い続けたら、代償は」

 「それな」

 KRの目が据わった。飄々とした男の顔の奥に、ほんの一瞬、深い疲労のようなものが覗いた。

 「シロエ。忠告しとくよ。インティクスは確かに危険だ。でもあいつは——壊れかけてる」

 ガーたんが足をぶらぶらさせるのを止めて、KRの顔を見上げた。

 「頂点に立ったはずなのに、全然満足してない。それが一番やばいんだ。満足しない人間は、永遠にエスカレートする」

 KRの声には、仲間を案じる色が滲んでいた。

 「……今日、会ってきました。インティクスさんと」

 「で?」

 「パス制度の問題は指摘した。でも、それ以上は踏み込めなかった。使節団を人質に取られている以上」

 「だろうな。あいつはそういうところで抜け目がない」

 KRは鼻を鳴らした。

 「まあ、今日のところはそのへんが限界だろうさ。情報は持ち帰りな。アキバに戻ってから頭を使えばいい——あんたにはそういうのが向いてる」

 KRは壁にもたれ直し、天井を見上げた。

 「俺がここにいるのはさ。……見てなきゃいけないと思ったからだよ。カナミが作ったものが壊れていくのを、せめて誰かが見ていなきゃいけないだろ。——それが脇役の仕事さ」

 シロエは黙った。

 シロエは立ち上がった。

 「ありがとうございます、KRさん。帰ったらメンバーと共有します」

 シロエは頷いて、暗い階段を降りていった。古い板が踏むたびに軋む。呉服屋だった名残か、壁に染料の匂いがかすかに残っていた。

 階段の途中で、背後からKRの声が降ってきた。

 「シロエ。——あんたが来てくれて、正直ちょっと安心したよ」

 暗い階段の上を振り返っても、KRの顔は見えなかった。声だけが降りてくる。

 「俺は見てるだけの人間だからさ。——だから、動ける人間が来てくれると助かる」

 シロエは何か言おうとして、やめた。代わりに軽く頭を下げた。見えていないとわかっていても。

 KRの気配が暗がりに戻っていった。

 路地に出ると、頭上に細い月が覗いていた。雲が多い夜だ。キョウの屋根の連なりが、闇の中で黒い波のように見える。

 「主君」

 「うん」

 「KRから聞いた話、帰ったらみんなに共有するんだろう」

 「そのつもりだよ。断片的だけど、アキバに持ち帰って円卓で検討する材料にはなる。虹の力。取引。壊れかけたインティクス。——全部、一人で抱え込むには大きすぎる」

 アカツキは頷いた。

 「主君が自分でそう言えるようになっただけで、前より良い」

 「……それ、褒めてる?」

 「事実を言っただけだ」

 シロエは小さく笑った。

 夜のキョウは、静かだった。しかしその静寂の底に、何かが蠢いている。シロエにはそれが聞こえていた。




◆ Chapter2.04



 〈三日月同盟〉のギルドホールは、夕食の喧騒が引いた後の穏やかさに包まれていた。

 台所では当番の料理人たちが後片付けをしている。鍋を洗う水音と、皿が重なる音。廊下の向こうからはメンバーたちの話し声が聞こえる。「明日のパーティ編成、ヒーラー足りなくない?」「マリ姐に相談しなよ」——いつもの夜の、いつもの会話だった。

 リビングの長テーブルには、マリエールとヘンリエッタが残っていた。小竜が窓際で双剣の手入れをしている。布で刃を拭く規則的な音が、静かなリビングに響いていた。

 マリエールはココアのカップを両手で包みながら、テーブルに広げたメンバーリストに目を落としていた。

 ヘンリエッタはテーブルの反対側で、収支概算書に目を通している。

 「消耗品の支出がこの三日間で八パーセント増えていますわ。ダンジョンの難易度を上げすぎですわね」

 「えー。でもメンバーが上げたいって言うんやもん」

 「上げたいと上げられるは違います。予算は有限ですわ」

 「ヘンリエッタは帳簿のことしか考えとらんのちゃう?」

 「帳簿はすべてを物語りますわ」

 「出たわ」

 マリエールは彫刻刀を置いて、自分のココアに口をつけた。ぬるくなっている。作業に集中すると飲み物のことを忘れる癖がある。

 テーブルの下で、ナナミが丸くなって眠っていた。洗いたての毛布に包まれて、小さな寝息を立てている。飛燕が部屋に入ってきて、ナナミの様子を確認し、毛布の端を直して出ていった。何も言わなかった。

 「それとマリエ」

 「ん?」

 「今夜も直継さんと念話するのでしょう?」

 マリエールの顔がみるみる赤くなった。

 「な、なんのことやろ。うちは別に——」

 「毎晩九時きっかりに席を外すのは、ギルドマスターとして規則正しい就寝時間を守っているわけではないでしょう」

 「せ、正論で攻めんとき!」

 マリエールが両手で顔を覆う。耳まで赤い。ヘンリエッタはココアを一口啜り、眼鏡の奥で目を細めた。

 「内容は聞いておりませんわよ? 壁が薄いので多少は漏れ聞こえてきますけれど」

 「聞こえとったんかい!」

 「ええ、ええ。承知しておりますわ」

 ヘンリエッタはにっこり笑ってココアのカップを置いた。

 マリエールは指の隙間からヘンリエッタを睨んだ。睨んでいるつもりだが、赤い耳が台無しにしている。

 ヘンリエッタが帳簿を抱えて席を立った。その背中を見送りながら、マリエールは窓の外に目を向けた。

 アキバの街灯が揺れている。穏やかな夜だった。

 マリエールはナナミの毛布をもう一度掛け直した。

 (ええギルドやな、うちのギルドは)

 毎晩そう思う。毎晩そう思えることが、どれだけありがたいか。

 九時まで、あと少し。




◆ Chapter2.05



 ミナミの街は、何も変わっていないように見えた。

 朝の市場には威勢のいい声が飛び交い、露店には色とりどりの食材が並び、大地人の商人たちが忙しそうに荷を運んでいる。キョウの政変の噂はまだ庶民の耳には十分に届いていない。

 しかし、冒険者の目には変化が見えていた。

 ボイルは〈ゼスタの店〉のカウンターで、ぬるくなったエールを傾けながらそのことを考えていた。

 今朝、ギルドの上から通達が来た。

 パス制度の適用範囲が拡大される。これまで自由取引が許されていた素材市場にも、〈Plant hwyaden〉の認可が必要になる。つまり——〈Plant hwyaden〉を通さない商売ができなくなる。

 「嫌な感じだな……」

 エールを置いて、ボイルは頭を掻いた。

 「ボイルさーん。元気ないですねえ?」

 カウンターの向こうから、ウィカが顔を覗かせた。〈ゼスタの店〉の看板娘だ。ボイルがダンジョンから戻るたびに「おかえりなさい」と笑顔で迎えてくれる、この店の太陽みたいな存在だった。

 「おう、ウィカ。いや、ちょっとな」

 「今日、朝から〈冒険者〉さんたちの入りが悪くって。いつもなら昼前には満席なのに……」

 ボイルは唸った。

 パス制度の新規約。認可なしの取引禁止。それが広まれば、冒険者は自由に物を買えなくなる。飯屋に金を落とす余裕もなくなる。

 「大丈夫だよ。ちょっと制度が変わるだけさ。そのうち慣れる」

 嘘だ。

 大丈夫なはずがない。ボイルにはわかっていた。

 パス制度が強化されれば、冒険者はダンジョンで得た素材すら自由に売れなくなる。経済が〈Plant hwyaden〉に完全に握られる。それは冒険者にとっての鎖であると同時に、大地人の商売にとっても致命的だ。冒険者が金を使わなくなれば、ウィカの働くこの店は——

 「ボイルさん」

 ウィカが不安そうな目で見上げている。

 「店主のゼスタさんが言ってたんです。『今度の新しいお姫様は、前のお姫様より怖い』って」

 ボイルはエールを一気に呷った。

 「……ゼスタのおやじ、賢い人だな」

 店の奥で皿が重なる音がした。

 いつもと同じ音だ。いつもと同じ昼下がりのはずだった。

 しかし空気が違う。ミナミの街全体が、息を潜めているような——何かの前触れを待っているような、そういう重さがあった。


 店の窓から、イコマ離宮の塔が遠くに見えた。

 あの塔の上で、新しい支配者が何を考えているのか。ボイルには想像もつかない。

 しかし——ウィカの不安そうな目は覚えている。この店が潰れたら、ウィカはどこへ行くのだろう。大地人の商人が冒険者の経済に依存している。冒険者がパス制度で締め上げられれば、その影響は大地人にも及ぶ。

 そんなことは、イコマ離宮の上にいる人間には見えていないのだろう。

 「ボイルさん。おかわりいりますか?」

 ウィカがエールの瓶を持って近づいてきた。いつもの笑顔。しかしその笑顔の端が、わずかに引きつっているのをボイルは見逃さなかった。

 「……おう。もらうよ」

 ボイルはジョッキを差し出した。

 ただ一つ、確かなことがある。

 明日もダンジョンに潜る。その先も。ウィカの店に金を落とす。それだけは続ける。

 ボイルにできるのはそれだけだ。——今のところは。


 ウィカが店の窓を閉めた。

 夕暮れのミナミは、いつもより静かだった。

 通りを歩く冒険者の数が、確かに減っている。パス制度の新規約が広まり始めたのだ。馴染みの装備屋が店を早仕舞いしていた。素材商の露店が二軒、たたみかけている。

 変化は少しずつ——しかし確実に進んでいる。

 ボイルは店を出て、夕暮れの通りを歩いた。

 明日も、ここに来る。ウィカの「おかえりなさい」を聞くために。

 それだけは——誰にも奪わせない。


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