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第一章 白砂の廃墟

※この作品は橙乃ままれさんの「ログ・ホライズン(N8725K)」の二次創作作品です。

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第一章 白砂の廃墟

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◆ Chapter1-1


 戸口に立ち尽くしたまま、シロエは動けなかった。

 濡羽が逃げた。

 悲鳴のような声を上げて、仲間の手を振り払い、打ち捨てられた人形のように不器用な足取りで——逃げた。シロエの目の前で。シロエと目が合った、その瞬間に。

 弾けるように。

 あるいは砕けるように。

 大朝堂の広間にはまだ余韻が渦を巻いていた。インティクスの告発が刻んだ沈黙と、ウーデル公爵の血の匂いと、そして大勢の人間が息を殺して立ち尽くしている圧迫感。それらが混ざり合って、白砂を敷き詰めた広間の空気を鉛のように重くしている。

 シロエは眼鏡のブリッジに指を当てた。

 考えろ。

 いまこの場で自分が取るべき行動は何だ。感情は後だ。分析が先だ。それがシロエという〈冒険者〉の——〈記録の地平線〉のギルドマスターの、やるべきことだ。

 しかし、脳裏にこびりついた映像が剥がれない。

 床に手をつき、髪を掴まれ、それでもなお目を見開いていた濡羽。あの、何もかもを剥ぎ取られた目。シロエを見つけた瞬間に浮かんだ、あの——絶望よりもなお深い、何かに似た色。

 恥、だろうか。

 最も見せたくない姿を、最も見られたくない相手に晒した。あの一瞬の視線に凝縮されていたのは、そういう類の感情だ。

 「主君」

 声は背後から来た。

 アカツキだ。いつもの通り、気配を殺してシロエの二歩後ろに立っている。小太刀の柄に手を添えた姿勢は、有事に即応できる構えだった。

 「……ああ」

 「状況を報告する。広間の北側と東側に衛兵。数は二十前後、練度は低い。大朝堂の屋根構造は——」

 「アカツキ」

 シロエは振り返らずに遮った。

 「ありがとう。でも、まず先にやることがある」

 「……うむ」

 アカツキの声は短く、硬い。しかしシロエにはわかる。見ていたのだ、アカツキも。濡羽が崩れていく様を。シロエがそれを見ている様を。

 すべてを見ていて、それでも黙って背後に立ち続けたアカツキの判断を、シロエは信頼している。

 濡羽が消えた広間の向こう側で、インティクスが立っていた。

 ついさっきまで濡羽の髪を掴んでいた手を、何事もなかったかのように下ろしている。その視線が、まっすぐシロエに向いた。

 眼鏡のブリッジを押し上げる仕草——シロエと同じ、〈放蕩者の茶会〉の頃に移った癖——をしながら、インティクスは広間を歩いてきた。その瞳には虹色の揺らめきがかすかに宿っている。

 「不便をかけたわね、シロエ」

 穏やかで、刃のように冷たい声だった。

 「予定外のことが起きてしまったけど、安心して。わたしたちの目的は変わらないわ。東西の融和よ」

 シロエは黙って彼女を見返した。

 血の匂いがまだ残る広間で、ウーデル公爵の亡骸がまだ片付けられていない床の上で、この女はそれを言うのか。

 「……ご丁寧にどうも」

 シロエの声は平坦だった。感情を押し殺したのではない。いま表に出すべき感情がどれなのか、まだ整理がついていない。

 怒りか。

 警戒か。

 それとも——あの仕草に対する、かすかな既視感と、もっと古い記憶に由来する何かか。

 「使節団には別棟を用意してあるわ。明日の朝にでも改めて話しましょう」

 「それはどうも。……断る選択肢はありますか」

 「もちろんよ」

 インティクスは微笑んだ。完璧な、何の感情も読み取れない微笑。

 「どこへでもお好きなところへ。——ただ、キョウの夜道はこの時期少し物騒だから、気をつけてね」

 それは脅迫だった。微笑みと優しい声で包装された、紛れもない。

 シロエは顎から手を下ろした。

 「ご厚意に甘えます」

 アカツキが無言で一歩前に出た。シロエとインティクスの間に立つように。「主君に近づくな」という身体の言語だ。

 インティクスはアカツキを一瞥し、ふっと目を細めた。

 「頼もしい従者ね」

 「従者ではない」

 アカツキが短く言った。

 「わたしは——」

 言葉を探すように、一瞬だけ間があった。

 「わたしは、主君の隣に立つ者だ」

 インティクスの微笑が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。

 シロエはそれを見逃さなかった。




◆ Chapter1-2



 キョウの夜は暗い。

 アキバの街灯に慣れた目には、この闇は原始的ですらあった。〈魔法の街灯〉が整備されていない路地裏は、月明かりだけが頼りだ。

 濡羽は走っていた。

 着物の裾が石畳に引っかかる。何度も躓き、膝を打ち、それでも止まれなかった。止まったら考えてしまう。考えたら死んでしまう。そんな理屈にもならない恐怖だけが、濡羽の足を動かしていた。

 大朝堂からどれだけ離れただろう。

 方角もわからない。足の裏が痛い。どこかで草履を片方落としたらしい。血の匂いがする。自分のものか、あるいは——

 ウーデル公爵の首が転がってきた映像がフラッシュバックする。

 「っ——」

 路地の壁に手をついて、濡羽は嘔吐した。

 胃の中身はとっくに空だった。何も出ない。それでも身体が内側から裏返ろうとするように痙攣する。涙と涎で顔が汚れているのがわかった。着物の袖で拭おうとして、その袖にも泥がこびりついているのに気がついた。

 汚い。

 全部、汚い。

 「……嘘だった」

 声が漏れた。自分の声が、こんなに薄っぺらいものだと思わなかった。

 「全部——砂のお城だった」

 〈Plant hwyaden〉を作った。冒険者に居場所を与えた。大地人との共存を図った。パス制度で経済を安定させた。キョウの都の政治にまで食い込んで、ウェストランデの秩序を——

 嘘だ。

 全部、自分のためだった。

 誰よりも濡羽自身がそれを知っている。「皆さんに居場所を差し上げているだけ」と口にする度に、爪の間に食い込む嘘の棘を感じていた。居場所が欲しかったのは濡羽の方だ。溝鼠の娘が、初めて人の上に立てるこの世界で、もう二度と地を這いたくなくて——

 「砂の城は、崩れるものよ」

 インティクスの声が耳の奥で反響する。あの優しく残酷な声色。

 そして。

 あの戸口に立っていたシロエの顔。

 「——っ」

 それだけは駄目だ。

 他の何もかもは耐えられる。公開の場で告発されたことも。仲間に裏切られたことも。政治的に死んだことも。ウーデル公爵の首を見せられたことも。

 でも、シロエに見られたことだけは。

 濡羽がかろうじて守っていた最後の砦——シロエの前では「対等な存在」でいられるという、その一点だけは。

 崩れた。

 シロエは見た。床に這いつくばり、髪を掴まれ、泣き喚く濡羽を。

 もう会えない。

 あの人の前には、もう。


 足音が近づいてきた。

 濡羽は身を竦ませた。追手だ。インティクスの兵が——

 「姫」

 低い、落ち着いた声だった。

 ロレイル=ドーンだ。

 甲冑の重い足音。しかしその足取りには迷いがない。まっすぐに、この暗い路地裏の行き止まりまで、ロレイルは歩いてきた。

 「来ないで」

 濡羽は顔を上げずに言った。

 「見ないで——お願い。お願いだから」

 「姫」

 ロレイルの声は変わらなかった。宮廷の広間で濡羽に仕えていた時と、今こうして泥にまみれた路地裏で見下ろしている時と、寸分の違いもない声だった。

 「それでも姫は姫です」

 濡羽は唇を噛んだ。

 血の味がした。自分の血は薄い。地球にいた頃からそうだった。何もかもが薄い。存在が薄い。だからこそ、この世界で厚化粧をして、仮面を被って——

 「……姫なんかじゃない」

 「姫は姫です」

 ロレイルは二度、同じことを言った。それ以上の言葉を持たないかのように。しかしその反復には、論理ではどうにもならない重さがあった。

 「あたしは——あたしは溝鼠よ。萩尾(はぎお)の——薄汚い」

 声が途切れた。

 嗚咽が塞いだのではない。言葉にすることで認めてしまう恐怖が、喉を絞めたのだ。

 ロレイルは何も言わなかった。

 代わりに、甲冑のまま片膝をつき、泥に汚れた濡羽の手を取った。

 「帰りましょう」

 「帰る場所なんてない」

 「あります」

 それが何処なのか、ロレイルは言わなかった。

 ただ、立ち上がると、嗚咽を漏らし続ける濡羽を背負い、夜の路地を歩き始めた。

 月明かりが、二つの影を白く照らしていた。一つは甲冑の輪郭。もう一つは、その背中にしがみつく、小さく震える狐の耳。

 キョウの夜は、どこまでも暗かった。




◆ Chapter1-3



 白砂御所の中庭は、月光の下で青白く浮かび上がっていた。

 白砂を敷き詰めた枯山水。手入れの行き届いた松の影。水のない池に描かれた波紋の文様。それらすべてが、いま起きている暴力を嘲笑うかのように静謐だった。

 その静謐を、刃の嵐が引き裂いた。


 ソウジロウの打刀が弧を描く。

 打刀の刃が一閃、二閃。〈武士〉(サムライ)の極意は連撃にある。一太刀が次の一太刀を生み、絶え間ない斬撃の奔流が敵を呑み込む。ソウジロウはそれを呼吸するように繰り出した。

 しかし。

 その奔流を、カズ彦は一刀で受け止めた。

 受け止めた、という表現すら正確ではない。ソウジロウの連撃がカズ彦に届く前に、空間そのものが重くなるのだ。まるで見えない壁がある。存在の密度が、冒険者のそれとは根本的に異なっている。

 ソウジロウは感じていた。

 この男は——強い。

 〈典災〉と戦った経験がある。シブヤで〈典災タリクタン〉と斬り結んだ時も、〈結婚の典災カマイサル〉を隊で撃破した時も、ソウジロウは「すかすかした」感覚を覚えていた。敵の力は圧倒的でも、どこかゲーム的な法則が支配する空間にいた。

 カズ彦は違う。

 〈典災〉よりも——厚い。

 重い。

 人間がここまで重くなれるのかと、ソウジロウは驚嘆していた。

 「——ッ」

 カズ彦の刀が跳ね上がる。〈エクスターミネイション〉。暗殺者の大技だ。しかしその軌道はソウジロウの知る技とは別物だった。大地を割るような衝撃波が走り、白砂が渦を巻いて舞い上がる。

 ソウジロウは後方に跳んだ。着地の瞬間、逆手に持った打刀で足元の砂を斬り、即座に体勢を立て直す。

 三合。いや五合か。

 シロエたちを通すために斬り結び始めてから、もう数十合に達していた。

 しかし、ソウジロウは気づいていた。

 カズ彦には殺意がない。ただ、立ちふさがっているだけだ。

 「カズ彦先輩」

 ソウジロウは刀を構えたまま口を開いた。息は乱れていない。この程度で乱れるような鍛錬はしていない。

 「何を守ってるんですか」

 カズ彦の目が、かすかに揺れた。

 「……」

 「僕を止めたいなら、もっと簡単な方法があるでしょう。斬ればいい。でもカズ彦先輩はそうしない」

 切っ先が、かすかに光った。しかしその切っ先は、ソウジロウではなく地面を向いている。

 カズ彦はしばらく黙っていた。

 白砂の庭に、二人の影だけが伸びている。松の枝が風に揺れ、夜気が冷たさを増した。

 「……おれがここで剣を振るってるうちは、インティクスは領民に手を出さない」

 カズ彦はそう言った。食いしばるように。

 「それだけの話だ」

 その言葉の奥にあるものを、ソウジロウは感じ取っていた。ソウジロウは感覚的に物事を捉える人間だ。理屈ではなく、空気を読む。そして今、カズ彦の纏う空気は——壊れかけた鉄橋のそれに似ていた。限界まで荷重を受け止めて、しかしもう一片の重さが加わればたわむ、そういう類の危うさ。

 念話が入ったのだろう。

 カズ彦の目が一瞬、遠くを見た。インティクスからの指示。ソウジロウにはそれがわかった。

 「……もういい」

 カズ彦は刀を鞘に収めた。

 背を向ける。その背中は広かった。かつて〈放蕩者の茶会〉で攻撃指揮を務めたという男の背中は、仲間を守るために広げた翼の残骸のように見えた。

 「おまえの仲間のメガネに伝えてくれ。キョウは危険だ」

 「——どういう意味ですか」

 「そのまんまの意味さ」

 それだけ言って、カズ彦は夜の闇に消えた。白砂の上に、深い傷跡だけが残されている。通常の〈冒険者〉なら残るはずのない深さの——存在の重さを刻みつけた痕。

 ソウジロウは刀を収めた。

 空色の羽織の裾を風がはためかせる。ふにゃりとした笑顔は——今は、どこにもなかった。

 代わりにあるのは、冷たい確認だ。

 「……まだ挨拶の途中なんですけどね、カズ彦先輩」

 言葉は軽い。しかしその声の底には、ソウジロウだけが持つもう一つの顔——刃としての意志が、静かに研がれていた。




◆ Chapter1-4



 レイネシアは、円卓の制服の胸元を無意識に握り締めていた。

 念話の内容は断片的だった。カラシンからリーゼへ、リーゼから新円卓全体への緊急連絡網。しかし断片だけで十分だった。

 キョウでクーデター。

 濡羽が失脚。

 インティクスが全権を掌握。

 使節団は——シロエたちは——事実上の軟禁状態。

 「ポダルゲーの出航を前倒しします」

 レイネシアはそう言った。

 会議室に集まった面々が、一斉にレイネシアを見た。リーゼ、にゃん太、直継、ミノリ。新円卓の中核メンバー。円卓の制服を着た四人の視線が、レイネシアに集中する。

 「姫さん。ちと急ぎすぎじゃねえの」

 直継が腕を組んで首を傾げた。

 「ポダルゲーはクラスティ救出のための船だ。キョウの事態とは——」

 「繋がっています」

 レイネシアは直継を遮った。自分でも驚くほど、声が硬かった。

 「インティクスがウェストランデを掌握した以上、東に対する圧力は確実に増します。それに対抗するには——」

 言葉が詰まった。

 対抗するには、何が必要だ?

 兵力か。政治力か。それとも——

 (あの人がいてくれたら)

 その思考を、レイネシアは奥歯で噛み殺した。

 「対抗するには、東の大戦力を取り戻す必要がある。クラスティ卿を連れ帰ることが、結果的にシロエ様たちの安全にも繋がります」

 「理屈は通るにゃ」

 にゃん太が穏やかに頷いた。頷きながら、その猫の瞳はレイネシアの顔をじっと見ている。見透かされている、とレイネシアは感じた。

 理屈が先か、感情が先か。本当はどちらなのか、にゃん太にはきっとわかっている。

 「シロエちたちのことは心配いりませんにゃ。カラシン氏が裏で動いておりますし、アイザック氏もあちらにいる」

 「シロエさんなら、自力で脱出する手段を考えると思います」

 ミノリが小さく手を挙げた。ノートを膝に広げ、すでに何かを書き留めている。

 「あの人は——シロエさんは、状況を分析してから動くタイプです。インティクスが使節団を軟禁しているのは、すぐには害を加えないという意味でもあります。時間はある」

 「ミノリの言う通りだろうな」

 直継が頷いた。親指を立てて、いつもの調子で。

 「シロは頭だけは良いからな。いや頭だけ、って言ったら怒るか。頭と性格の悪さと見栄っ張りは一級品だ」

 「直継さん」

 ミノリが咎めるように名前を呼ぶ。直継は肩をすくめた。

 「褒めてんだよ」

 「聞こえませんでしたが」

 リーゼが小さく笑った。しかし笑いはすぐに消えて、真剣な表情に戻る。

 「ポダルゲーの出航前倒し、了解しました。D³Hubから護衛部隊を出します。レイネシア姫、乗船されるのですか」

 「はい」

 レイネシアはためらわなかった。

 ためらうべきだったかもしれない。新円卓の議長が自らアキバを離れることの政治的リスクを、冷静に計算すべきだったかもしれない。

 しかし、計算よりも先に口が動いていた。

 「わたしが行きます。クラスティ卿を——連れ帰ります」

 その言葉を口にした瞬間、レイネシアの胸の奥で、矛盾する二つの感情がぶつかった。

 怒り。

 あの人は勝手にいなくなった。自分のギルドを、自分の部下を、自分の——自分の、なんだ?——を置いて、大陸の向こうで好き勝手に戦っている。帰る気があるのかないのかもわからない。『地球の家は捨てるので、アキバの家はよろしくお願いします』? なんだそれは。丸投げもいいところではないか。

 そして、もう一つ。

 (会いたい)

 それは怒りよりもずっと奥にあって、ずっと正直な感情だった。

 レイネシアはそれを表に出さなかった。完璧な淑女の微笑を——「雨に打たれた花のような」と評される、あの仮面を——被ったまま、会議室を見渡した。

 (孤独万歳。放置万歳。他人と視線をあわせるだなんて馬にでも喰わせてしまえばよい)

 内心でいつもの呪文を唱えてみるが、今日はまるで効かなかった。

 「アキバのことは心配いりませんにゃ」

 にゃん太が、にはは、と笑った。

 「直継もいますし、ミノリさんもいる。リーゼさんのD³Hubは頼りになりますにゃ」

 「おう。任せろ。おぱんつの護りは俺に任せとけ」

 「何の護りですか」

 リーゼが冷たく言い放つ。直継は悪びれずに親指を立てた。

 レイネシアは、その光景を——アキバの、この人たちの日常を——目に焼き付けるように見つめた。

 明日には出航する。

 海を越えて、ユーレッド大陸へ。

 レイネシアは立ち上がった。

 円卓の制服の裾を翻し、窓の外に目をやる。アキバの夜空に、月が白く輝いていた。

 同じ月が、キョウの空にもかかっている。

 濡羽を背負ったロレイルが歩く路地裏も。カズ彦が消えた闇の奥も。そしてシロエとアカツキが見上げる異国の空も。

 すべてを、同じ月が照らしている。



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