プロローグ⑧ 暗闘 前編
2025年12月末。
財務省本庁舎にて。
今日の首相の執務場所は財務省本庁舎だった。
彼女は財務大臣を兼任しているのだからこれは当然で、私も同行を命じられた。
財務省の玄関では、事務方のトップたる財務事務次官が待っていた。
そして首相に対し最敬礼をした。
だが、最敬礼にしては腰の角度が妙だ。
90度どころか130度位に身をかがませていて、地面に頭が着くんじゃないかと心配になった。
大臣室に入ると早速、幹部たちを招き入れて打ち合わせを行う。
私は首相の机の横に立ち、幹部たちを迎えた。
メンバーは5人だ。
・事務次官
・財務運営統括官の黒田 鉄雄
・国際交渉官の宇喜多 直貴
・重要課題戦略官の小早川 秀春
・国際戦略局戦略部長の長宗我部 元彦
以上、財務省における主要な顔ぶれで、事務次官以外の表情からは感情が読み取れなかった。
だが、私は全員の顔をよく知っている。
かつて彼らは私の”仲間たち”だったからで、特に黒田 鉄雄の部下だった私はこの男から特別な”お世話”を受けた。
今ではこの男は省内において「腹黒田」と呼ばれているらしいが、当時の私はこの男を軽蔑を込めて「クロテツ」と呼んでいた。
漢字で書けば「黒鉄」で、これは「くろがね」とも読める。
陰湿で冷酷、頑固さにおいては鉄の如くと言われたこの男には相応しい名だと思っていたが、最近言われ始めて定着した「腹黒田」も悪くはない。
今ではお互いの立場が逆転し、かつて黒田の部下だった私は人事権を持つ上司となったわけだが、クロテツはその事実をどう受け止めているのか?
まあ強い奴には巻かれるのが大好きな男で、上司が替わる毎にその上司が気に入る態度を研究していたから、表面的には尻尾を振って見せるだろうが、面従腹背となるのは当然で、これは想定の範囲内だ。
官僚たちは集団として、旧知の仲である私を無視するような雰囲気を醸し出しているから、今の内閣に対しても気に入らないと考えているのは明白だな。
そもそも…入省年次はこの中で私が一番若いのだ。たったそれだけで彼らには許せない事実だろうし、屈辱だろう。
つまらない官僚のプライドだが。
首相はそんな立ったままの財務省官僚たちに着座をすすめ、我々の決定事項を事務的に伝えたが、私は故意に着席しなかった。
これは心理戦なのだ。
“私がここに立っている理由を忘れるな。
今日はお前らを見下ろす日だ”
という、静かで冷たい宣言なのだ。
この私の態度は彼らの目にはどう映っているか?
『虎の威を借る狐』とでも見えているだろうが、改革が実行出来るなら何でも受け入れよう。
それに彼らの敵意が首相に向くのは避けなければならない。
首相が落ち着いた声で言った。
「法人税の抜本的な見直しと、その運用方法の改善は既にお伝えした通りです。
消費税廃止に伴う財源の確保は絶対に必要ですから、皆さんには確実な職務の履行を強く求めます。」
決してサボるなよと、首相が官僚たちに直接クギを刺すのは異例だろうが、これで官僚たちは動くしかなくなるだろう。
このために首相と財務相を兼任して財務省を”直轄地”としたのだし、それは私の入れ知恵だったのだが。
財務次官が懐からハンカチを取り出し、額の汗をぬぐいながら言った。
「は、はい。総理の決定に従い、粛々と進めますのでそこはお任せください。
ところで…今日はそれ以外にも何か、総理から我々にお話があると伺っておりますが?」
さあここからが本番だ。
官僚たちは何と言うだろうか?
首相が宣言した。
「そうです。私の決定事項を伝えるために今日は来ました。
それは、私が以前から公言していた内容ですから皆さんも既にご存知でしょうが、財務省を二つに分けます。」
片市はあっさりと告げたが、その瞬間、室内は氷のような冷気で満たされたと感じた。
黒田が一瞬、私へ視線を向けた。
「お前の入れ知恵なのか?」黒田の目はそう語っていた。
そんな中で一人、事務次官が更に汗を拭きながら総理へ質問した。
「い、以前から確かに総理が公言されていたのは存じ上げていますが、今一度ご説明を願えませんでしょうか?」
総理が淡々と告げた。
「まずは『税制庁』を新設し、財務省から独立した国税・徴収体制とします。
欧米諸国ではごく普通の仕組みですから、日本のやり方が珍しかっただけなのです。
更には財務省と各省庁の間に『財政調整会議』を設け、各省が自らの予算を自律的に策定できる仕組みを作ります。」
お前たちは単なる金庫番に徹しろというわけで、例えるなら、鳥から左右の翼をもぎ取るような決定となる。
次官はもう顔から噴き出る汗を拭おうともせず言った。
「そ、それはいつから始めるおつもりでしょうか?」
「準備期間が必要ですから令和8年4月からというわけにはいかないでしょうね。
ですが、私は遅くとも翌年の令和9年4月からはこの体制とする予定です。」
5人とも茫然自失か?
だが、この先に様々な妨害工作を仕掛けてくるだろう。それは予測できるが、さて…どんな反撃となるか。
再び黒田が私に視線を向けてきた。
明らかにファイティングポーズと受け取れる表情で、これは彼からの宣戦布告に等しいだろう。
こんな事態は楽しみではないし、争いは好きではないが、敵の攻撃は全て防ぎきらなくては日本の未来が拓けない。
ここは踏ん張りどころだと私は気を引き締めた。
彼らが退室する際に黒田はもう一度私を見たが、今度の目は「絶対にお前を潰してやる」そう語っていた。
2026年1月6日。
首相官邸 閣議室
内閣総理大臣・片市 早由紀は、私の隣の席に静かに腰を下ろした。
会議室を包む沈黙は、張り詰めた糸のように細く、鋭い。今年初となる重要閣議でもあり、各閣僚の視線が一斉に集まる。
彼女が言葉を発した。
「…まず、最初に申し上げます。」
片市は一拍置き、書類を閉じた。
「日本の経済を停滞させてきた最大の要因。
それは、財務省に過剰に集中した権限構造です。予算と税の両輪を一つの官庁が握る現状は、行政の健全性を損ねています。」
ざわめきが広がった。
私を除いた財務官僚出身の閣僚と秘書官が顔を曇らせる。
以前から方針は判明していたし、所信表明演説でもある程度触れたから周知の事実だったろう。また年末には財務省で公表した内容でもある。
だが、実際に発言を耳にすると衝撃も大きく、「本当にやるのか?」と感じている者が多いのだろう。
首相が続けた。
「よって、私は財務省の権限を分離します。その目的を達成させるために、敢えて総理大臣と財務大臣を兼任したのです。
『税制庁』を新設し、国税・徴収を切り離します。『財政調整会議』を設け、各省が自らの予算を自律的に策定できる仕組みを作るのです。」
彼女の言葉は淡々としていたが、その口調には決意が宿っていた。
「この国を、財務省の帳簿から解放する。それが私の政権の最終目標です。」
私はその言葉を聞き、深く息をついた。
ようやく、本当の改革が始まる。そう感じた。
閣議室に重い沈黙が落ちた。
誰もが発言をためらっていた。だが、最初に動いたのは財務大臣経験者でもある古参議員の松永 秀久だった。
「総理、それは……あまりに拙速ではありませんか。税と予算を切り離せば、国家財政の統一的運営が崩れ、経済の信頼を損なう危険があります。」
声は穏やかだが、明らかに挑戦的だった。
その背後には、数名の財務省出身秘書官が控えている。彼らの視線は冷たく、まるで“無謀な素人”を値踏みするかのように見えた。
松永が続けて言った。
「我々がこの国の財政を守ってきたのです。政治主導を唱えるのは結構ですが、数字の世界は理想では動きませんよ。」
松永の周囲からは、同調する皮肉めいた笑い声が漏れる。
今、彼は”我々”と言ったな?
つまりは彼は財務省のイヌであることが確定したな。
それは同時に私たちの敵ということになる。もっとも、以前から知ってはいたが。
片市はわずかに微笑した。
「理想で動かないのなら、現実を変えるしかないでしょう。私たちは、そのためにここにいるのです。」
その瞬間、室内の空気が一段と冷え込んだ。
私は黙ってノートを閉じ、ひそかに拳を握った。
これが“財務省との最後の戦い”の幕開けであることを、誰よりも理解していた。




