若き企業家⑮ Apple買収 前編
1996年(平成8年)1月
東京 西新宿
私はアバンダント・アリージャンスの本社会議室にて幹部を前に宣言した。
「私はApple社の今後の展開に深く関心を寄せています」と。
さあ、寧音や小二郎以外には、まだ口外していなかった目標を実行しよう。これに対して当然、会議室は大きなざわめきに包まれ、幹部の一人に問われた。
「Appleの動向に関心を向けるというのは、つまり……次の買収目的はAppleなのですか?」
「その通りです。あの会社は近年、業績不振に苦しんでおり、買収する絶好のタイミングなのです」
だが、当然ながら反対意見が噴出した。
「正気ですか、社長!?」
先陣を切ったのは、財務担当の重鎮で『七本槍』の一人、脇坂泰治だった。彼は机を叩かんばかりの勢いで身を乗り出す。
「Appleの現状をご存知ないわけではないでしょう?
直近の四半期だけで数億ドルの赤字、市場シェアは数パーセントにまで落ち込んでいる。死に体ですよ。今あそこを買い取るのは、沈没船にわざわざ乗り込むようなものです!」
こうやって直言してくれる脇坂のような人物は得難いものだ。私は心の中で感謝の言葉を漏らした。
脇坂に続いて、他の幹部たちも同調するように頷く。
「OS市場はWindows 95の独壇場です。いまさら独自のハードとソフトを抱えるAppleに、何の勝ち目があるというのですか?」
「資金を投じるなら、もっと堅実なインターネット・サービス・プロバイダ事業や、国内の半導体メーカーにすべきです」
会議室に渦巻く否定的な熱気。
それは1996年という時代においては、極めて真っ当な経営判断だった。現在のAppleはスティーブも不在で、迷走の極みにあったからだ。
私はその喧騒を、冷徹なほど静かな視線で見渡した。そして、手元の資料を一枚めくる。
「皆さんの懸念はもっともです。ですが、私は今のAppleを買うと言っているのではない。未来のデジタル・ハブの中心を買うと言っているのです」
私はホワイトボードの前に立ち、大きく円を描いた。
「今後、音楽、映像、通信……あらゆるデジタルデバイスが個人の生活に浸透します。その時、それらを統合する洗練されたOSと、美的なハードウェアを持つ企業が覇権を握る。そのポテンシャルを秘めているのは、世界中でAppleだけです」
今度は七本槍のさらに一人、加藤昭嘉が静かに慎重論を語った。
「しかし、彼らには今、リーダーシップが欠けています。あの会社の現状を思えば、頻繁なCEOの交代は致命的でしたから、強力な指導者が必要です」
それはその通りだ。
スティーブ追放後、Appleは3人のCEOを使い潰した。現在のギル・アルメアになっても、経営状態は悪化する一方だ。私の前世では、皮肉にも彼こそがNeXTを買収してスティーブを呼び戻した人物だった。「Appleを救う決断」をした直後に追い出されるという結末とともに。
私は隣に座る寧音と視線を合わせた。彼女は、私の無謀とも思える「予言」を信じ、既に水面下で動いてくれていた。
「そこで、提案があります。買収と同時に、ある人物を呼び戻す。彼を呼び戻すための『舞台』として、Appleを手に入れるんです」
小二郎がニヤリと笑ったが、彼にしては珍しい表情だ。きっと彼も心が躍っているのだろう。
幹部の一人が、呆気にとられたような顔で尋ねる。
「……ある人物? 社長。それはいったい誰のことです?」
私は確信を込めて、その名を告げた。
「もちろんAppleを創業したスティーブその人です」
室内は静寂の後に再びざわめきが大きくなった。
「そんな!無茶です」
脇坂が静かに言う。
「不可能です。彼は一度、会社を追われた人間です。それに彼は今、NeXTコンピュータのCEOとして自社を率いているのです。誇り高いあの男が、古巣に雇われの身で戻るはずがありません」
脇坂の言葉は、1996年当時の常識を代弁していた。
だが、私は知っている。前世とは違ってスティーブが今、人知れず絶望の淵に立たされていることを。彼が鳴り物入りで立ち上げたNeXT社は、ハードウェア事業で失敗し、OS販売に転換したものの、資金は底をつきかけている。彼の「理想」は、現実のキャッシュフローという冷酷な壁に阻まれ、窒息寸前なのだ。
私は静かに口を開いた。
「皆さんは彼が順風満帆に見えますか?私の調査では、NeXTの財務状況は極めて深刻です。彼には今、自分のビジョンを具現化するための強大な資本と、再起を賭けた巨大な市場が必要なのです」
私はさらに言葉を重ねる。
「一方でAppleのCEOギル・アルメアは、次世代OSの基盤を求めて迷走しています。自社開発のCoplandは完全に頓挫した。彼は他社のOSにまで手を伸ばそうとしている。しかし、どれもAppleの魂には適合しない」
私はホワイトボードの横に、NeXTのロゴを描き込んだ。
「私が狙うのは、AppleによるNeXTの買収です。ただし、主導権は我々が握る。我々アバンダント・アリージャンスが筆頭株主としてAppleを買い取り、同時にNeXTをその傘下に収める。そして、スティーブにこう告げるのです。『君のNeXT STEPをAppleの心臓にし、君自身がAppleの救世主として帰還しろ。資金の心配は我々が一切を引き受ける』と」
幹部たちが絶句する中、私は付け加えた。
「これは救済ではない。世界を創り変えるための投資です」
この会議に先立ち、寧音はスティーブと連絡を取り合ってくれていた。
表向きは、あくまで「技術提携の可能性を探る投資家」として。だが、その実態は互いに分かっている。これはAppleにとって最後の賭けだ。
私は会議室の空気が冷え切るのを感じながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「スティーブは戻ります。戻らざるを得ない」
幹部たちの視線が、一斉に私に集まる。
「彼は天才です。しかし同時に極めて現実的な男でもある。今のNeXTに未来がないことを、彼自身が一番よく分かっているでしょう」
私は資料をめくり、NeXTの売上推移とキャッシュフローのグラフを示した。
「OSとしてのNeXTSTEPは優秀です。しかし市場が小さすぎる。このままでは、どれほど思想が正しくても、会社が先に倒れるでしょう」
静寂が会議室を支配した。
誰も反論しなかった。
「彼に必要なのは勝利ではなく、自分の思想が世界を変えるという証明です」
私はホワイトボードに二つの言葉を書いた。
Vision 目指すべき北極星
Execution 形にする力
「スティーブは前者を極めた男です。しかし、Appleを失ったあの日から後者をも同時に失い続けてきた」
脇坂が、低い声で問う。
「……社長。仮に彼が戻ったとしても、彼は危険な人物です。カリスマはあるが独裁的ですから、社内を混乱させ、優秀な人材を切り捨てるのではありませんか?」
私は頷いた。
「ええ。その見方は正しい。だからこそ、彼一人にAppleを任せない」
ざわめきが一瞬止まる。
「Appleはいわば神輿です。スティーブは神輿に担がれる存在であり、担ぐ側は我々が務める」
私ははっきりと言った。
「経営の手綱は、アバンダント・アリージャンスが握る。資本、ガバナンス、半導体調達、サプライチェーン。彼が不得意な部分は、すべてこちらで引き受ける」
その瞬間、加藤の表情が変わった。
「……つまり、Appleを核にしてデジタル産業の垂直統合をやるおつもりですか?
LEDでそれを成し遂げたように」
私は笑った。
「話が早いですね」
ホワイトボードに、私は新たに矢印を書き加えた。
Apple→OS・UI→端末→半導体→製造
「ここにあるOSについては説明は不要でしょう。UIとは、ユーザーインターフェイスのことです。つまり、人間が機械に触れたときに最初に感じる見た目と、直感による操作のしやすさそのものです。これでお分かりと思いますが、Appleは入り口に過ぎません。本丸は、その下にある」
理解が、ゆっくりと会議室に広がっていく。
「今、日本の半導体産業はどうなっていますか?」
私は問いかけた。
「記憶を司るDRAMは韓国勢に押され、計算を司るロジックはアメリカに握られ、装置と材料だけがかろうじて生き残っている。その傾向はこの先もっと顕著になる」
誰も否定できなかった。
「その原因は一つです。最終製品を支配していないからなんです」
私はAppleのロゴを指で叩いた。
「最終製品を持つ者が、仕様を決める。仕様を決める者が、半導体を支配する。
なぜなら、どんな部品が必要かを決める側に回ることが可能になるからです」
静まり返った室内で、私は断言した。
「Appleを押さえれば、演算のためのCPUや、画像処理のためのGPUといった中核部品から、電源やメモリに至るまで、端末のすべての仕様に日本の要求を織り込める」
脇坂が低く唸った。
「守るだけでは、凋落は止められない。主導権を取り返すのです」
沈黙ののち、脇坂が深く息を吐いた。
「……社長。あなたはAppleを買おうとしているのではありませんね?
世界の次の標準を買おうとしている」
私は彼を見返し静かに頷いた。
「その通りです」
会議室の空気が、反転した。否定の熱気は興奮に変わりつつあった。
私は最後に、こう締めくくった。
「これは1996年の話ではありません。21世紀の主導権の話です。
日本の半導体産業を守りたいなら、まず、世界が欲しがる完成品を支配しなくてはならないのです。Appleは、そのための唯一の鍵です」
もはや誰も反対しなかった。
現在の保有企業
『株式会社ピクセル・ジョイトロン』
『株式会社アバンダント・アリージャンス』
『株式会社ワイドギャップテクノロジーズ』
『ミノルタカメラ株式会社』
『浜松ホトニクス株式会社』
『日亜化学工業株式会社』
業務提携
『 株式会社オハラ』




