プロローグ⑤ 財務官僚の反応
2025年11月末。
片市首相が高らかに宣言した「民の富=社会の富」。
結局は一部の野党が賛成に回り、首相の消費税廃止・物品税復活に関する法案が審議・可決成立した。
これによって食料品の消費税は2026年3月末で廃止、それ以外の消費税も2027年3月末で廃止が決定した。
私たちの思いは一歩前進したというわけだ。
霞ヶ関にて。
それからしばらく経ったある日、財務省に幹部たちが集結した。
もちろん今後の政府に対する対抗策を話し合うためだ。
集まったのは財務運営統括官の黒田、国際交渉官の宇喜多、重要課題戦略官の小早川といった重鎮たちで、彼らの下に属する局長級官僚を含めて総勢50名近くにもなる規模だった。
彼らは通常の業務時と変わらない表情で集まったが、会議室の重厚な扉が閉じられると、室内の空気は一変した。
この場を仕切る、財務運営統括官の黒田 鉄雄が、全体を威圧するかの如く睥睨した。
彼は財務省内部において、本来ならトップであるはずの事務次官をも超えて影響力を持つ“闇の執行者”と囁かれる男だ。
神経質そうな細い目は笑っているようで決して笑っておらず、その奥には計算と疑念と支配欲だけが沈殿している。
長年の不摂生と過労が刻んだ灰色がかった肌は、生気よりもむしろ毒気を帯び、その顔つきは“霞が関に棲む老獪な狐”と恐れられていた。
狐と呼ぶには腹は出ているし、頭髪も薄かったが…
むしろ外見だけで言えば“ハゲ狸”が相応しいだろう。
外見は醜悪だが、彼がひとたび眉を動かすだけで各局が震え上がり、政策の方向すら変わると言われる。
国家の未来よりも省益、自らの権力維持が最優先。
気に入らぬ者は静かに潰し、抵抗勢力は予算査定一本で息の根を止める。
だがそれは自分より立場が弱いものに見せる態度であり、上位者や強者に対しては全く異なる。
卑屈な物腰で追従の言葉を並べるのだ。
上司からは単なるイエスマンとしか映らないだろうが、それがこの黒田という男の処世術であり、そうやってこの男は現在の地位までのし上がってきた。
誰の目にも明らかなのは、この男は日本の未来の事など微塵も考えていない。考えているのは自分自身の栄達と保身だけだという点だろう。
それゆえに職員たちからは、半ば本気でこう呼ばれていた。
──“腹黒田”。
そして省内の最終障壁。
黒田が会議室を見渡すと、誰もが息を呑んだ。
彼の前では、全員が一介の駒に過ぎないことを理解していたからだ。
黒田はその風貌や態度からは想像すらできない丁寧な口調で言葉を発した。
「年末の忙しい時に集まっていただいて感謝します。
さて、先日から続いている首相の国会答弁についてですが…皆さんはこれをどう思われますか?」
柔らかい語尾とは裏腹に、その口調は慇懃無礼そのもの。
言葉遣いこそ丁寧だが、ひと欠片の反論すら許さない圧が室内を支配していた。
この圧に押されたのか、国際交渉官の宇喜多 直貴が、憤懣やる方なしといった顔つきで口を開いた。
「話になりません。まず、”民の富=社会の富“という片市首相が言った内容ですが、我ら財務省の根幹を揺るがすものであるのは明白です。
財政規律、プライマリーバランス。霞が関の秩序は今まさに挑戦を受けています。」
この発言を受けて重要課題戦略官の小早川 秀春が続けて言った。
「首相の発言内容など、単なる理想論に過ぎません。財政赤字を拡大させれば、国債市場の信認が揺らぎます。そうなれば我々にも責任が及ぶのです」
国際戦略局戦略部長の長宗我部 元彦も続く。
「海外の格付け機関も注視しています。
円安が進めば更なる物価高に繋がり、庶民の生活が直撃される。首相の発言は、国際的な信用すら損なう危険があります。」
黒田は頷き、机上の資料を指差した。
「では、我らは具体的にどう動くかが問題ですね。
まずは予算査定での圧力強化でしょう。特に首相肝いりの『地域再投資枠』や『社会資本強化制度』には厳密で慎重な査定を行うべきです。次に、経済界との連携が必要で、経団連にはすでに非公式ですが接触済みです。」
大企業で構成される経済界の各団体は、消費税廃止を許さない。
幹部たちは静かに頷き、自分たちの勝利を早くも確信した。財務省は、政治の理想に対して現実の壁を築く準備を始めたのだ。
黒田は締めの言葉を静かに、だが誰の耳にもしっかりと届く言葉で放った。
「国会で法案が通過したところで意味はありませんね。私たちが動かねば前に進まないのです。
夢しか語らない政治家には骨の髄まで思い知らせる必要があります。」
そして独り言のように呟いた。
“我らの仕事は財政の数字を一時的にでも改善させることだ“と…
それは総理の発言に対する当てつけ以外の何者でもない。
出席者は全員がそう受け取った。
だが、その場にいた国債調査部長の前田 慶一は、黒田の言葉に頷きながらも内心に複雑な思いを抱いていた。
彼はかつて地方自治体に出向し、地域経済の疲弊と格差の拡大を肌で感じており、首相の「民の富=社会の富」という言葉に一縷の希望を見出していたのだ。
そんな日本にとって希望とも言える総理の方針に逆らってまで、省益や自分たちの権限維持が大切なのか?などと考えていた。
会議、いや謀議と表現するのが適切だろう。それが終わった後、暗い気持ちで一人俯きながら廊下を歩いていた前田は、気鋭の若手女性官僚で前田の部下でもある佐久間に後ろから声をかけられた。
彼女もまたこの会議に参加しており、会議中に見せたその表情は暗いものだった。
「前田部長。私たちの仕事って、本当に国民のためになっているのでしょうか?
実際に私は首相の方針が正しいと感じていますし、私たちの世代は、ほぼ全員が同じ気持ちだと思います。
でも、さっきの会議は予算と組織を守ることが目的化し、現場や国民の声を無視してるような気がして…
しかも首相に対してサボタージュをするように指示しているのと変わらないじゃありませんか?
それは国家公務員として、許される範囲を超えているのではありませんか?」
前田は少し驚いた顔をしたが、静かに答えた。
「実のところ私も同じことを考えていた。
しかし…財務省の中でそれを口にするのは危険だ。黒田統括官は別名”腹黒田“とも言われる曲者だ。彼の頭の中は国家の未来に対する懸念など欠片もない。
あるのは自分自身の保身だけだし、邪魔をする改革派に対して容赦はしないだろう。」
ここが日本の正念場だから、軽はずみな行動は慎むよう佐久間には言い含めて別れたが、前田は別のことを考えていた。
それはかつての同僚で、今は政治家となっている男のことだった。
”あいつも…羽柴も、黒田に飛ばされた人間の一人だ。
正義感の強いあいつは、部下の功績を奪う黒田のやり方に公然と反発した。
だが結果は…ある時に省内で発生したトラブルの責任を、全く関係ない羽柴に押し付けて、本当の責任者だった黒田は逃げ切ったのだ。
結局、羽柴は官僚生活に見切りをつけて政治家へ転身し、現内閣では片市首相の懐刀として国民の人気も高い。
今となっては官僚を辞めて正解だったのだろう。
だが……“
「俺はあいつみたいに器用には生きられない。
しかも…さっきの謀議はあいつにも深く関係する話じゃないか。
俺はどうすればいいんだ…?」
そう彼は呟いたが。
だが、今の彼が考えなければならない事は多く、片付けねばならない日常業務は他にも山積しているのだ。
前田は頭を振って思考を停止させ、自身の職責を果たそうと前を向いた。




