若き企業家⑦ 白の完成 前編
1992年(平成4年)10月
東京の秋は、バブル崩壊後の冷え込みを隠しきれずにいた。
新聞の株式欄は多くの企業の株価が下落を示す「▲」がずらりと並び、街には閉塞感が漂っている。
一方で土地価格の下落は株価とは連動せず、1年から2年ほどのタイムラグを経て、都心部を中心に昨年から急激に下がり始めている。これもまた、バブル崩壊の典型的な特徴だった。
だが、その喧騒から離れた『ワイドギャップテクノロジーズ』の研究所では、全く別の熱気が渦巻いていた。
私は、ホワイトボードの前に立っていた。目の前には、私が資本参加し、強引に運命共同体として引き込んだ二社の顔ぶれが揃っている。老舗カメラメーカーとして光学・精密機械に長けた『ミノルタカメラ』、そして光の検出・計測において世界一の技術を誇る『浜松ホトニクス』。
技術者、製造責任者、知財担当。彼らの視線は鋭い。彼らはまだ、自分たちが何に巻き込まれたのか、その全貌を理解していなかった。
「今日から、目的は三つだけとします」
私はホワイトボードに一本の線を水平に引き、その上に三つの円を描いた。
「一つ目。『歩留まり』の徹底追求を行います。
研究室で90%光るLEDと、工場で90%売れるLEDはまったくの別物です。研究者の“チャンピオンデータ”という幻想は今日で終わりにしてください。我々が欲しいのは、100万個作れば100万個が同じ波長で光る製品で、そこには感情も個性も不要です。つまり、無機質な軍隊のように揃った光なのです」
二つ目の円を叩く。
「二つ目です。『再現性』の確立。職人芸を排除してください。誰が、いつ、どの装置のボタンを押しても、全く同じ光が出る工程だけを残す。属人的な技術は、量産においてはリスクでしかありません。技術をブラックボックスから引きずり出し、マニュアルという名の鋼鉄の檻に閉じ込めるのです」
そして三つ目。
「三つ目です。それは『スケール』です。月産千個では趣味に過ぎない。最初から100万個を基準に立案してください。投資を惜しみません。その代わり、生産速度を一秒でも縮める努力を怠らないで欲しいということです」
室内は静まり返った。ミノルタの製造責任者が、苦々しい表情で口を開く。
「社長、GaN(窒化ガリウム)は既存のシリコンラインとは別世界です。温度、ガスの種類、腐食性……共通点など何もない。最初から専用のラインを組むとなれば、投資額は……」
「初期で300億。追加は状況次第で無制限に出します」
私は即答した。
隣に座るミノルタから移籍してくれた吉川専務の顔が強張り、細川常務は彫像のように固まった。
吉川専務が震える声で私に言った。
「失敗すると三社ともに倒れます。銀行の経営すら危うい現状で、融資は期待できません。すなわち、自殺行為です」
「いいえ。これは必要な投資なのです」
室内にどよめきが走る。
1992年の大不況下、この金額をひとつの光る粒に投じるなど、常軌を逸している。私は参加者全員を見渡して言った。
「勘違いしてもらっては困ります。あなた方の研究は終わっていません。ですが、これからの戦場は顕微鏡の下じゃありません。工場の床に移るのです」
浜松ホトニクスの技術者が、慎重に言葉を選んだ。
「量産が始まれば、検査工程がボトルネックになります。青色は波長が短く、人間の目では正確な光量や色度の判別が追いつかない。全数検査は不可能です」
「そうです。ですから、皆さんがここにいるのです」
私は彼を指差した。
「全数検査を前提にした、超高速の自動光学検査装置を、この青色LED専用に設計してください。検査が追いつかないなら工場を倍にします。ただし、人は増やしません。機械に光を測らせるのです」
その瞬間、浜松の技術者の目に、特有の狂気、あるいは挑戦的な輝きが宿るのを私は見逃さなかった。測る側の人間に最高の舞台を用意したのだ。
「いいですか。私たちは価格競争は一切しません。我々は世界で最初に青色LEDを量産する。だから価格は我々が決める。安く売る必要はありません。欲しければ、こちらの条件を飲ませるだけです」
知財部の責任者が、ペンを走らせながら私に質問した。
その隣では、司法試験に見事に合格した小二郎が真剣な表情で私を見ている。
「特許使用料は、どの程度の数字を想定していますか?」
「売上連動型です。ライセンスはオープンにしますが、その利益からは一銭たりとも逃さない。嫌なら、作らせない。それだけです」
会議が終わり、石田が私の隣に立った。
「社長……研究者としては、少し怖い決断ですね。あなたは光を作っているんじゃない。産業の順番を作り替えている」
「石田。研究者が安心できる世界は、誰かが戦って作らなきゃならないんだ」
1992年12月
量産化に向けた最初の壁は、予想外のところにあった。基板となるサファイアだ。
当時、GaNを積層するためのC面サファイア基板は、宝石や時計の風防用が主流で、半導体グレードの安定供給など誰も考えていなかった。
石田にその事実を指摘され、事態の深刻さに気づいた私はすぐに動いた。
世界トップクラスのサファイア引き上げ技術を持つメーカーの本社を訪ね、私は一枚の契約書を差し出した。
「今後10年間、貴社の生産するサファイア基板のうち、半導体グレードとして合格したものはもちろん、微細な欠陥で弾かれる規格外品もすべて、わが社が買い取ります。市場価格の2割増しで」
相手は目を丸くした。
「規格外品を? そんなゴミを買い取ってどうするんですか」
「ゴミにするか、21世紀の石油にするかは、こちらの勝手です。ただし、条件は一つ。今後5年間、御社の従来からの取引先を除く、新規顧客からのサファイア供給依頼に対しては、先行予約ですでに満杯という建前で断ってください。供給枠をわが社が独占する契約です」
金で殴るような無粋なことはしない。物理的な材料そのものを市場から消し去り、後発組が実験すらできない状態を作り出す。これが、経営という名の兵糧攻めだ。
石田は後で苦笑していた。
「社長がサファイアを押さえてくれなかったら、私たちは実験室から一歩も出られなかったですよ。材料がないという恐怖は、技術者にとっては死と同じですから」
1993年1月、浜松ホトニクスの研究所では、装置との死闘が続いていた。
MOCVD(有機金属気相成長装置)。ガスを反応炉に送り込み、原子レベルで結晶を積み上げるこの装置は、当時の市販品ではGaNの成長に全く適していなかった。
「社長。正直に言います。メーカーのカタログスペックを信じていたら、一生光りません」
石田は、油と煤にまみれた手で装置を指した。彼らは、数千万円する最新の装置を一度完全に分解し、自分たちで再構築していた。
「温度管理が甘いなら、ヒーターを独自に巻き直す。ガスの対流が淀むなら、石英ノズルの形状を一から作り直す。メーカーの保証は初日に捨てました。これはもはや半導体製造装置じゃありません。私たちの肉体の一部ですよ」
昼は改造、夜は成長、朝には失敗のデータを分析して、また分解。ネジ一本、配管の角度一つで結晶の色を、そして将来の利益を変える。私はその様子を黙って見守った。
特許明細書には「1000℃で成長させる」としか書かれない。
だが、その1000℃をどうやって安定させるかという、この研究所での魔改造こそが、法では守りきれない最大の営業秘密になるのだ。そしてそれは、特許の有効期限である20年が過ぎたとしても「ブラックボックス」として秘匿可能だ。
1993年3月
青色LEDの量産体制が完成に近づいた頃、私は石田を呼び出した。
「石田、青だけでは世界を取れない。我々の本当の武器は『白』だ」
「それは当然そうですが、赤と緑に今回の青が加われば光の三原色が揃いますから、簡単に白が作れるはずですよ?」
「もちろんそうだ。その方式なら調光も自由自在だ。だが万能じゃない」
「緑ですね?あの色だけ効率が悪いことは私も気になってはいました」
「いや、それだけじゃない。技術者は忘れがちだが、三原色混合型はコストが高いんだ」
「コストですか…ではどうすればいいんでしょうか?社長は何か妙案がありそうですが」
「青色LEDに黄色の蛍光体を被せると疑似的だが白が作れるはずだ。しかも圧倒的にコストが安い」
この擬似白色の原理を私はすでに知っていた。なぜ知っていたか。それは2010年代半ばに目の前にいる石田から教えてもらったからだ。それを1993年の今、私が石田に教える。
当然だが石田には困惑の表情が浮かんだ。
「それは、いつもの社長の直感ですね?あなたには大学時代から驚かされてばかりです。……わかりました。いつものようにやってみましょう」
あまり妙なことばかり言うと、いつか正体がバレるんじゃないかとひやひやするが、石田は技術以外に興味のないタイプだからある程度は大丈夫かな?
この蛍光体だが、ただ作るだけでは意味がない。
私は地方の小さな蛍光体材料メーカーを訪ねた。
「実績がないから、あなたたちと組むんです」
社長は当惑していたが、私は契約の骨子を提示した。
「開発費はこちらが持ちます。その代わり、青色LEDに最適化した蛍光体の『粒径』と、それを樹脂に混ぜる際の沈殿速度を共同特許で固めます。原理ではなく、『白く見せるための工程』に網を張るのです」
これは、後発メーカーへの毒薬になる。
他社が青色LEDチップを開発できたとしても、それを白くするために、特定のサイズの蛍光体を使い、特定の濃度で塗布した瞬間、こちらの特許に抵触する。
青色LEDそのものの特許、三色混合型の特許、そして今回の疑似白色関連の特許を合わせれば、国内外で延べ800件、関連する周辺特許まで含めると、優に1500件を超える巨大な特許群になる。
小二郎は資料から顔を上げた。
「……これ、特許というより、もはや法律の迷宮ですね」
呆れたような感心したような声だったが、続けて言った。
「アメリカで今、問題になっている、特許申請をわざと遅らせる『潜水艦』のような手法ですが……もし、日本でもできるなら、やっておいたほうが良さそうですね。
他社が投資を完了して、いざ生産しようと思ったら、実は我々の特許が存在していたと気づいた時の反応が見てみたい」
小二郎はさらりと言った。
サブマリン特許か。私はしばらく黙って考えた。
「……いや、今回は使わない」
「なぜです?」
「敵を殺すには、姿を見せた刃の方が効く場合もあるからだ」
白日の下にさらされた圧倒的な特許網は、他社にとって「手出し不可能」な絶望感を与えるだろう。後で小銭を稼ぐことよりも、「自分の作ったルールに従わなければ、この産業では生き残れない」という絶対的な恐怖を植え付ける道を選ぶのが効果的だ。
1993年10月
ついにその瞬間が訪れた。
新設された専用ラインの最終工程。浜松ホトニクスの全自動検査機が、無機質な機械音を立てながら、完成したばかりのチップにプローブを当てる。
モニターに数値が出る。電流10mA。電圧3.4V。波長450nm。そして、その上に黄色い蛍光体の樹脂をドロップする。
「……点灯します」
石田がスイッチを入れた。一瞬の静寂の後、多くの技術者や従業員が見守る中、一個の小さな粒がこれまでのどんな光源とも違う、鋭利で純粋な「白」を放った。完璧ではない。少し青みが強く、光にはムラがある。
しかし、その光は、100年前のエジソンが灯した火の色とは、明らかに一線を画していた。
「社長、白です。……本当に、白く光りました」
石田の声が震えている。だが、私の視線はすでにその先を見ていた。この一粒の白は、いずれ世界中の電球を、車のヘッドライトを、そしてテレビのブラウン管を淘汰し、駆逐していく。
ゼネラル・エレクトリック(GE)の蛍光灯、オスラムの白熱電球にフィリップスの水銀灯、そして世界中の照明メーカー。それらすべてが、今日を境に旧時代の遺物へとカウントダウンを始めるのだ。
「社長……青木先生に、見せたかった」
「そうだな。時間を見つけて墓前に報告しよう。生きている我々は前に進まねばならない。いいか、石田。これは、ただの光じゃない」
私はホワイトボードに記した最後の一文字「$C$(Control)」を指差した。
それは技術でも特許でもない。産業のハンドルそのものだった。
「我々は今、人類の夜を支配するライセンスを手に入れたんだ」
1993年の冬、日本は細川連立内閣の誕生という政治の混迷と、戦後初のマイナス成長の入り口にある。そんな社会において、東京の片隅で灯った小さな白い光は、不況に喘ぐ日本を、冷徹な勝利の色彩で塗り替えようとしていた。
次は、世界市場だ。そして、その時に震えるのは既存の光でカルテルを結んで生きてきた、すべての巨大企業たちだ。
私は石田の肩を叩き、静かに工場を出た。ポケットの中には、まだ温かい最初のサンプルがあった。
現在の保有・提携企業
『株式会社ピクセルジョイトロン』
『株式会社アバンダント・アリージャンス』
『株式会社ワイドギャップテクノロジーズ』
『ミノルタカメラ株式会社』
『浜松ホトニクス株式会社』




