大学生活⑯ 冬の王と春の王 後編
1986年(昭和61年)1月
アメリカ合衆国 カリフォルニア州 レッドウッドシティ
NeXTのオフィスにてスティーブは笑った。乾いた笑いではなく本物の笑いだ。
「いい。気に入った。今日は予定を全部キャンセルする」
そう言って、彼はドアの外に向かって叫んだ。
「コーヒーを三つ。それから今日はもう、誰も通すな」
寧音と私は、顔を見合わせた。
その日は語り合った。お互いのこれまでのことを、私と寧音のことを。そして未来の夢を。時間を忘れて話し合い、いつしか私は彼の話を聞く役になっていた。
やっぱり彼の心の奥底に溜まっていた何かがあった。それを今、私に吐き出している。そう感じた。
私の横では寧音が真剣に話を聞いているが、間違いなく世界を変えるだろう怪物の、本当の姿に接して何を思っているのか。
やがて話が一段落すると、彼はあの件を持ち出してきた。
「ところでキノシタ。私がキリスト教の信者ではないのは知っているか?君の信仰する宗教は何なんだ?」と。
おそらくは「禅」の話になるだろうと直感した。
私は禅宗と呼ばれる臨済宗、曹洞宗、あるいは黄檗宗の信者ではないが、これあるを予想して、予習だけは日本でみっちりやってきた。
「君がキリスト教徒でないのも、洗礼も受けていないことも知っている。確か、禅に興味があるんだろ?詳しく聞こうか」
なんだか最後はゴ〇ゴ13っぽい言い方になってしまっただろうか?そんな私の心の中を知るはずもないスティーブは言った。
「そうか。私は最近、禅の概要を知って感銘を受けた。そして私のこれからの羅針盤になってくれるのではないか。そう感じたんだ。ここから先、どう禅に接すればいいと思う?」
禅宗に限らず、信仰する宗教に接するには形だけ真似ても意味はない。
私は前世の記憶を呼び起こし、政治家として理想を追い求めていた時期の経験も交えて伝えることにした。
「私は禅宗の信者でないことは最初に言っておく。だが、禅は日本人の心の源流を支えているといっても差し支えないだろう。普段の生き方にも影響を与えているのは間違いないからだ」
スティーブが身を乗り出してきた。
「まず、身の回りに余計なものを置かない。ごちゃごちゃした飾りは不要だ。出来るだけ身軽に、自然に溶け込んで生きる。そして自分のことは自分でする。それから常に清潔を心掛ける」
スティーブは私の言葉を一言も漏らさぬよう、食い入るように見つめていた。彼の瞳の奥で、何かがパチパチと音を立てて燃え始めているのが分かった。
私は、前世で公僕として、また政治家として国家の形を考え、今世で未来を見通す者として、彼に禅の本質を語り続けた。
「スティーブ。禅の真髄を一言で言えば、『不立文字』だ。
これを言葉や文字が全てなのだと考える君たちに伝えるのは極めて難しい。英語に翻訳することはもっと難しい。だが、簡単に言えば、文字や理屈に頼らず、体験そのものを通じて真理を掴むことを指すことだと思ってくれ。君がプロダクトを作る時、マニュアルを読まなくても直感で分かることを重視するだろう? あれは極めて禅的なアプローチなんだ」
私はさらに踏み込んで、禅の核心にある三つの要素を説明した。
「まずは今、ここに集中するんだ。誰にでもある過去の失敗や、未来の不安に心を奪われず、今、目の前にあるコードやデザイン、あるいはこの一杯のコーヒーに全存在を懸けること」
「次はすべては移ろいゆくものであり、固定された自己などない。だからこそ、古い自分を壊し、何度でも新しく生まれ変わることができると考えるんだ」
「そして最後は引き算の美学だ。真理は、何かを足していくことではなく、余計なものを削ぎ落とした先に現れる」
世界各国の王侯貴族の部屋のように、装飾で埋め尽くした華美なものとは違う。例えるなら皇居の「正殿 竹の間」のような、外国の賓客をもてなすための部屋を想像すれば、ある程度わかってもらえるだろうか。シンプルながらも威厳ある空間を理想としている。
私は彼の考えを聞いた。
「スティーブ、君が求めている『完璧』とは、これ以上加えるものがない状態ではなく、これ以上削るものがない状態のことではないのか?」
私のこの問いかけに、彼は深く、深く頷いた。
私はそれを見て続けた。
「君が理解しやすいように言えば、禅は、日本人の精神に組み込まれたOSのようなものだ」
今の言葉は彼の心にどう刺さっただろうか?
「日本人は、日常の些細な所作の中に宇宙を見ようとする。掃除一つとっても、それは単なる汚れ落としではなく、自分の心の塵を払う行為なんだ。君がNeXTで目指している『美しいコンピュータ』も、その執念の延長線上にあるべきだ」
私の話が終わると、部屋には長い沈黙が流れた。 スティーブは窓の外を見やり、まるで遠くにある未来のApple Campusを見つめているように見えた。
「……キノシタ、君の話は私が今まで断片的に感じていたことを、すべて繋いでくれた」
彼はゆっくりと立ち上がり、私と、そして緊張した面持ちで見守っていた寧音に近付いた。
「日本人は、これほどまでに鋭い哲学を日常に溶け込ませているのか。
私がNeXTで作ろうとしているのは、単なる箱じゃない。『思考のための道具』であり、それ自体が禅の精神を体現する芸術品でなければならないんだ」
彼の目から迷いが消えていた。挫折直後の「冬の王」は、この瞬間、再び世界を塗り替えるための「炎」をその内に宿したのだ。
「ありがとう。……さて、未来を少しだけ知っている日本人。次はビル・ギーツに会いに行くと言ったね?」
スティーブは不敵な笑みを浮かべました。
「彼に伝えてくれ。『スティーブは、まだ牙を抜かれていない』とな」
「分かった。伝えておくよ」
別れ際に彼が言った。
「時間を見つけて日本に行く。禅をもっと知りたいんだ。どこかいい場所へ連れて行ってくれないか?」
「それはとてもいい考えだと思う。この場所で禅僧に師事しても意味はない。日常生活を離れ、日本の深山幽谷で自分を見つめ直すんだよ。簡単なことではないが、それが最も理解が進むはずだ」
彼は近いうちに日本へやってくるだろうから、もっと深い友誼を結べそうではあるな。
さて。次は、春の王だ。彼は、この炎をどう見るだろう
スティーブとの面会から二日後、私たちはシアトルへ向かった。
西海岸の乾いた光とは違い、北へ行くにつれて空は重くなり、雲が低く垂れ込めてくる。
機内から見下ろす景色も、どこか無機質だ。まるで感情を排した世界そのもの。ギル・ビルという人間を象徴しているようにも思えた。
ようやく時差ボケの治った寧音は、窓際の席で黙って雲を眺めていた。
「なんかやっぱり、スティーブって人にはオーラとでもいうのかしら?独特の雰囲気があったわよね。
でも結局、藤一郎はスティーブと仲良くなってどうしたいの?」
ついに聞かれてしまったか。
私は長年温めていたプランを言った。誰にも漏らしたことのない話で、もちろん寧音も初耳のはずだ。
「スティーブを部下にしたい。そしてAppleを買収してスティーブをCEOとして送り込みたいんだ」
一瞬、寧音は私を見て固まった。だが、すぐに思考を巡らせたみたいで言った。
「…なんとなくだけど、そんな気がしてた。
藤一郎のスティーブに対する執着はちょっと変だったし。でも今すぐじゃないんでしょ?」
もちろん今の私にそんな資金はないし、あったとしても買うのは今じゃない。
「そう。まだ先の話だね。まあ今のAppleの経営陣は失敗して会社が傾くと予想しているから、動くとしたらその時だろうと思う」
「じゃあ、これから会うビル・ギーツもそうなの?スティーブとは、ずいぶん違う人なんでしょう?」
ぽつりと、そう聞いてくる。
「ビルはスティーブとは正反対の人間だと予想しているんだ。簡単に表現すれば、スティーブは思想で世界を掴もうとする人間。対するビルは論理で世界を囲い込む人間なんじゃないかな?そんなだから、俺はビルを部下にしようとは考えていない」
それでも寧音が心配そうに言う。
「そんな人と話が通じるの?通じたとして、藤一郎になにか得るものがあるの?」
「そうだね。通じるかどうかはわからないし、得るものがあるのかどうかもわからない。ただ、せっかくここまで来たんだから会ってみたい気持ちのほうが大きいね」
これは本音だ。
スティーブは心で殴れば響くが、ビルは数式で殴らなければ振り向かない。
竹中とその部分では同類かもしれないが、独善的・利己的な部分がまったく違うだろう。ビルは全てを奪いたいと考えているはずだ。だが、それが彼の足元を揺るがすことになるはずだが。
とにかく、まずはどんな人物なのか。映像や画像ではなく生身のビルを知っておきたい。
シアトル郊外、レドモンド。
Microsoftのキャンパスは、NeXTとはまるで違っていた。
整然と並ぶ低層の建物、無駄に広い駐車場、効率だけを追求した配置。ここには未完成の熱ではなく、勝ちつつある組織の匂いがあった。
受付で名前を告げると、事務的な対応の後、簡素な会議室に通された。壁にはホワイトボード、机の上には資料の束。飾り気は一切ない。
寧音は同席せず、ここからは一人だ。なぜなら彼女に、ここは向かない。ビルの世界はあまりにも冷たいのだ。
数分後、ドアが開いた。
セーターにシャツ、眼鏡。想像通りの姿だが、目だけが異様に鋭い。
スティーブのような燃える目ではない。計算する目だ。
「時間は30分だ」
握手もそこそこに、いきなり本題に入る姿勢。
やはりだ。
私は座るなり、こう切り出した。
「IBMは、あなたにとって最良の顧客であり、また最悪のパートナーになるんじゃないか」
ビルの眉が、わずかに動いた。
「理由は?」
即答を求める。無駄な前置きは許さない男だ。
「PC互換機市場が拡大すればするほど、IBMのブランド力は相対的に下がる。しかし、OSの主導権をあなたが握っている限り、IBMは逃げられない。
問題はその先にある。互換機メーカーが乱立し、OSの価値が当たり前になった時だ」
ビルは椅子に深く座り直した。これは、興味を持ったサインだ。そう前世で何かの本で読んだ記憶がある。
私は続けた。
「その時、戦場はOSじゃない。API、開発環境、アプリケーションの生態系になる。Windowsは入口に過ぎない」
沈黙が支配した。
彼は、否定しなかった。つまり、すでに対策を考えている。
私は続ける。
「ただし、その道は独占と表裏一体だ。そのうちに必ず、強すぎると叩かれる。
その時、あなたが守るべきなのは市場じゃない。物語だろう」
「……物語?」
初めて、彼の口から感情の混じった言葉が出た。
「あなたは便利なソフト屋では終わらない。標準を作る会社になるだろう。
だが、標準化は嫌われる。だから」
私は一拍置いた。
「あなたには、その際にスティーブや私が必要になる。
君がどんなに嫌でも、協力し合わないといけない時代が来るだろう」
ビルは、はっきりと笑った。短く、乾いた笑いだ。
「それは、ずいぶん面白い仮説だな」
否定しない。だが、受け入れてもいない。
「今日は投資の話をしに来たわけじゃないし、スティーブの近況を知らせるのも本題ではない」
私はそう付け加えた。
「確認に来ただけだ。あなたがこの先のどこまで見えているかをね」
彼は立ち上がった。30分は、とっくに過ぎている。
「君は危険な人間だ」
そう言って、ドアに手をかける。
「だが、無駄ではない。また、どこかで会うことになる気がする」
それが、最大限の肯定だった。
建物を出ると冷たい雨が降っていたが、西海岸の太陽とはまるで別の世界だ。
寧音が駆け寄ってくる。
「どうだった?」
「春の王だったよ。完全に」
そう答えると、彼女は少し考えてから言った。
「でも、冬を知った人の顔だったみたいね?」
私は頷いた。まあ今回はこんなものだろう。あのビルと会えたのだから良しとしよう。
こうして私は冬の王と春の王、両方に触れた。歴史はまだ何も変わっていない。だが、分岐点には確かに立ったのではないか。
私の未来はまだ霧の中にある。そして未来は最善を尽くした者に微笑むだろう。
とにかくやることはやったのだ。帰国便の中で私は静かにそう確信していた。




