大学生活⑩ 新会社設立②
1985年(昭和60年)3月
竹中と阿戸さんは無事に復活できた。
まるでこのゲームで復活の呪文を使ったみたいに感じたが、結局、新たなRPG作品の正式名は『バイナリー・エボリューション ― 覚醒のシグモイド ―』。
発売日は4月11日(木)と決まった。
チームに復帰してくれた阿戸さんは作曲に没頭し、何とか完成させることができた。
曲調は……もちろん私が鼻歌にて、彼女の意識にすり込んだ「アレ」に似たもので、東京オリンピック2021の入場行進曲として採用されるだろう本家よりも、人気が出そうな名曲に仕上がった。
まあここは転生者としてのアドバンテージが活かされる部分だが、こうなったらもう……本家に怒られないように祈るしかない。
現在は発売に向けた最後の追い込み中だが、年末年始を含めて楽しみにしていたイベントの数々、は最後のバグ出し作業で終わってしまい、寧音とのクリスマスを祝うこともできなかった。
その代わり、4人でささやかに事務所内にてパーティーをしたのだった。
それから私は先月末、いよいよ二十歳となった。
成人として認められ、会社代表としての正式な登記も可能となったのだ。
そこでこれまでの『有限会社ピクセルジョイトロン』は、父が代表者だったのだが、これを事業停止状態で存続させたうえで、新たに株式会社を立ち上げた。
これで『株式会社ピクセルジョイトロン』が発足した。
同時に投資専門の会社も立ち上げることにした。
こっちも将来は大きな金額を扱うことになるだろうから、設立資金は少々お高くつくが、最初から株式会社にしてしまい、社名は『株式会社アバンダント・アリージャンス』とした。
ともかく資産形成も順調で、これまでの2本のソフト販売による現金、売掛金、在庫評価を含めた会社と個人の総資産は、帳簿上ついに1億円の大台に到達した。
これを有効に使用して、さらに資産を増やす。
ここから先の成長は、まさに「シグモイド関数的」カーブを描いて増えていくことが期待される。
この関数を使用した『バイナリー・エボリューション』との違いがあるとすれば、ゲームと違ってわが社の成長に上限がないという点だろう。
まさに天井知らずに伸ばすことが可能となるのではないかと思う。
だが、我々は大学生であるのを忘れてはいけない。
仕事と両立させて、ちゃんと大学にも通っている
……とはいえ、その「両立」という言葉が、どれほど無茶な綱渡りであるかは、春期の時間割を見た瞬間に痛感することになる。
必修科目、ゼミ、語学、そして石田たちとのLED実験や演習。
前世で一度通過した道とはいえ、楽になるわけではない。
むしろ今回は、脳内のリソースを会社経営とゲーム開発に根こそぎ持っていかれている分、油断すれば簡単に破綻する。
「……これ、普通に詰んでないか?」
事務所の机で授業の時間割を睨みながら、思わず呟いた。
「詰んでいるって何が?順調そのものじゃなくって?」
隣で仕様書を読んでいた寧音が、顔を上げる。
その声は相変わらず落ち着いていて、こちらの焦りを見事に中和してくれる。
「いや、大学と会社と、あと……人生全般」
「人生を科目扱いしないでください」
軽く呆れたように言いながら、寧音は私の時間割を覗き込む。
「……でも、ちゃんと全部入ってるね。これを削る気はない、というわけね?」
「そういうこと。削ったら崩れる。バランス型ビルドだ」
「なんだかもうRPG脳になっちゃったみたいね」
寧音は苦笑しつつも、否定はしない。
むしろ、私たちが作っている『バイナリー・エボリューション』そのものが、そういう思想で組み上げられている。
一つの能力に全振りすれば、確かに序盤は楽だ。
だが、中盤以降、環境が変化したときに脆くなる。
だからこそ、成長曲線を滑らかにつなぐ”シグモイド関数”。
「現実も同じ、か……」
大学、会社、仲間、そして寧音。
どれか一つでも欠ければ、ここまでの成長はあり得なかった。
数日後。
事務所に顔を出すと、竹中から思わぬ報告が入った。
「デバッグ抽出作業、ほぼ終わったよ」
「……“ほぼ”?完全ではなくて?」
阿戸さんが補足した。
「そう。ほぼ。再現性の低い挙動が二件。でも致命的ではない」
それは、経営者として最も聞きたくて、同時に最も恐ろしい言葉だった。
だが、竹中の表情は、いつになく自信に満ちている。
「今回は……いけると思う」
その一言で、胸の奥に溜まっていた緊張が、すっと抜けた。
発売日まで、あと一か月半。
もう引き返せない地点を、私たちはとっくに越えている。航空業界では『帰還不能点』と言ったか。
トラブルが発生したとしても、出発地に戻れない地点のことだ。
私たちの事業も、まさに同じ状態だろう。
夜、事務所を出ると、3月初めだというのに、風の中に春の匂いが混じっていた。
街は変わらず騒がしく、誰もがそれぞれの未来に向かって歩いている。
その中で、私は二十歳を迎え、会社の代表となり、新しい法人を立ち上げ、次の時代に賭けようとしている。
昭和という時代の静かな転換点。そして、私自身の次なる進化の入口。
この先に待っているのが、成功か、それとも破滅か。
それはまだ分からない。だが一つだけ、確信していることがある。
この世界は、正しく設計すれば、必ず成長する。
そして、その設計図を描く権利は、私たちの手の中にあるのだと。
4月11日(木)
今日は『バイナリー・エボリューション ― 覚醒のシグモイド ―』の発売日だ。
この発売に際して、任天堂が巨額の宣伝費用を投下してくれたのは、ありがたいことだった。
もちろん、我が社も相応の負担はしたが。
お陰で、世間における前評判は高いものらしい。
したがって、初回ロットはいきなり10万本からスタートした。
世界で初めてとも言うべき本格的RPGソフトなのだから、当然だろう。
ファミコン本体の販売数も、すでに500万台に達したし、年末には北米での展開が決まったそうだ。
それに応じて、ファミコンソフトも順次、各社から発売され続けているが、最初に我が社が発売した、宇宙を舞台に大暴れするシューティングゲーム『スター・ヴァンガード』も、あれから順調な発売本数に達している。
すでに家内制手工業で対応できるレベルを超えているし、海外でも展開されるようになったら、もっと本数は伸びるだろう。
加えて『バイナリー・エボリューション』が、爆発的人気を博することができたら、資産がどれほどになるか、想像もつかない。
ただし!
それは、予定数量が順調に売れたらという前提に成り立つ話だから、前提条件が崩れたら、一気に未来は霧の中となる。
まさに今回の製品は、社運を賭けた一大プロジェクトなのだ。
発売日当日。
午前中は、信じられないほど、何も起きなかった。
電話は鳴らず、ファックスも沈黙したまま。
事務所の空気は張り詰めているのに、外界からの反応だけが、切り離されたように遅れている。
「……静かすぎないか?」
竹中が、モニターから目を離さずに呟く。
私は返事をしなかった。
正確には、できなかった。
初動売上というものは、往々にして午後から夜にかけて、数字として姿を現す。
だが、理屈で分かっていても、脳内では勝手に嫌な想像を始める。
もし、売れなかったら?
10万本という初回ロットは、賭けとしては明らかに大きい。
売れなければ、在庫はそのまま、重さとして会社にのしかかる。
午後3時。
任天堂から、一本目の連絡が入った。
「……出ています」
担当者の声は淡々としていたが、その抑制が、逆に事態の大きさを物語っていた。
「初日午前分の集計ですが、主要都市部では想定を上回るペースです。
本社の倉庫から、追加出荷の準備に入っています」
その瞬間、事務所の空気が一変した。
誰かが歓声を上げるでもなく、拍手が起きるでもない。
ただ、全員が同時に息を吐いた。
「……滑り出しは、順調ね」
阿戸さんが、静かに言った。
夕方になると、今度は別の波が押し寄せてきた。
ゲーム雑誌社、新聞社、そしてテレビ局。
「世界初の本格RPG、本日発売」
「成長曲線をゲームシステムに持ち込んだ異色作」
「大学生ベンチャーが切り拓く新ジャンル」
言葉は、少しずつ誇張され、脚色されていく。
だが、それでも否定できない事実が一つあった。
我々の作ったゲームが、注目されている。
ファミコン専門誌の速報レビューでは、
「システム理解に時間はかかるが、そこを抜けた瞬間に視界が開ける」
という一文が踊っていた。
それは、まさに狙い通りの評価だった。
数日後、任天堂東京支店の支店長が、直々に事務所を訪ねてきた。
これまで何度も顔を合わせてきた人物だが、その表情は、これまでとは明らかに変わっていた。
「……正直に言います」
そう前置きして、彼は言った。
「ここまで行くとは思っていませんでした。
これは単なる一本のソフトじゃない。
流れを変える可能性があります」
その言葉に、営業的な社交辞令は感じられなかった。
むしろ、警戒と期待が入り混じった、企業人としての本音だった。
任天堂は慎重だ。
だが同時に、流れを読むことに関しては、異様なほど鋭い。
「北米展開の話ですが……本社では、前倒しを検討しています」
その一言で、私の中で何かが確定した。
もう、後戻りはできない。
このゲームは、私たちの手を離れ、産業の流れの中へと放たれたのだ。
事務所を出ると、空気はまだ少し冷たかった。
だが、確かに感じる。
数字として、評価として、そして人の視線として、成長が始まっている。
それは、まだ序盤にすぎない。
だが、このシグモイド曲線は、確実に立ち上がり始めていた。
現在の保有企業
『株式会社ピクセルジョイトロン』
『株式会社アバンダント・アリージャンス』




