大学生活⑧ RPGソフトへの挑戦 前編
1984年(昭和59年)5月末。
季節は爽やかな初夏を迎えようとしていたが、わが社の事務所内だけは、およそこの世のものとは思えない、淀んだ空気に支配されていた。
朝、私と寧音が顔を出すと、竹中の机の上はもはや「惨状」という言葉すら生ぬるい状態だった。
机としての機能を完全に喪失し、積み上がったグラフ用紙、計算メモ、消しゴムのカス、折れたシャープペンの芯などが地層を形成している。その傍らには、何日前のものか判別しがたいカップラーメンの残骸と、栄養ドリンクの空き瓶が乱立していた。
事務所内に充満する、あの独特の「すえた匂い」。
たまたま東大の試験日が重なっていた私には、彼がここでどれほどの孤独な夜を明かしたのか、その全貌を窺い知る術はない。
ただ、散乱するノートの余白にびっしりと書き込まれた「攻防差分式」や「二項確率モデル」の数式が、ここで行われていた思考の激しさを無言で物語っていた。
令和のブラック企業でも、これほど凄惨な現場はお目にかかれないだろう。そのゴミの山の中に、竹中重治に似た人物の死骸が横たわっていた。
いや、死骸ではなかった。私たちがドアを開けた微かな音に反応し、その物体はゆっくりと蠢き始めたのだ。「……ゾンビか?」と一瞬身構えたが、そいつの口から漏れ出たのは、呪文というよりは病的なまでの執着がこもった日本語だった。
「……レベル1から50。攻撃力、防御力、素早さ……。一次関数じゃ、ダメだ……線形成長なんて、つまらないんだ……」
ゾンビの正体は竹中だった。
そして竹中は呪詛と間違いそうな数学用語を口にしたが、それは新たなゲームに必須のものだった。
わが社が次に手掛けるゲーム、それはRPGだった。任天堂ですら未開拓のジャンル。いかに竹中が天才とはいえ、これは地図のない航海だ。
ようやく私たちの存在に気づいたらしい彼は、焦点の合わない目で呟いた。
「おお……おはよう。今日は、雨だな……」
私は思わず寧音と顔を見合わせた。窓の外は、憎らしいほどの快晴だ。
社長として、この極限状態の社員にどんな言葉をかけるべきか。私は単語を慎重に選び、努めて穏やかに声をかけた。
「あ、ああ……そうだな、竹中。いや、お疲れさま。君の努力は、誰が見ても賞賛に値するものだ」
だが、彼は無反応だった。
今の言葉も独り言の延長だったらしい。彼は再び計算式の中に沈み込んでいった。命中率判定、会心の一撃の確率試行……。
寧音は素早く、しかし音を立てないよう静かにカーテンを左右に引き、窓を開け放った。初夏の爽やかな風が、竹中の放つ陰鬱な空気を容赦なく駆逐していく。
そんな私たちの動きなど目に入らない様子で、竹中は方眼紙に勢いよく軸を引き、一本の線を描いた。
「ずっと同じペースで強くなるなんて、人間の感覚とズレるだろ? 序盤は変化が少なくて、少し不安になる。でも、ある時ぐっと線が立ち上がるんだ。急に強くなった実感が押し寄せて、終盤はまたなだらかに完成へと向かう。……これこそが、人の成長だと思うんだ」
私はその曲線を見つめながら、最近大学で学び始めた、しかし高校時代の竹中が既に口にしていた関数を思い出していた。
「……竹中。それを実現する関数なら、もう知っているじゃないか。お前が高校時代に言っていたロジスティック関数……シグモイド曲線、そのものだろう?」
竹中の目が見開かれた。
制約の解除が、彼を単なる「オタク」から「エンジニア」へと脱皮させた瞬間だった。
「そうだ……! それだよ! レベル20から30で『世界が変わる』感触。実装するなら反比例モデルとの組み合わせか……。なぜ、こんな単純なことに気づかなかったんだ……!」
彼はオタク特有の歪んだ笑顔を浮かべ、猛然と新しい紙にペンを走らせる。
「戦士は線形成長と冪関数のハイブリッド、魔法使いは中盤から化ける指数関数的成長……」
再びブツブツと言いながら淡々と計算式を構築していく。
「……なんだか、会社の人事みたいね」
隣でノートを覗き込んでいた寧音が、ふふっと笑った。その言葉で竹中は一瞬、動きを止めて寧音を見た。
「同じ年数働いても、得意分野も伸び方も、みんな違うでしょ?」
「……あ、それだ」
その言葉を聞いて竹中は再びペンを走らせた。
「性格のパラメータも入れられそうね。慎重とか、大胆とか」
寧音の何気ない一言が、竹中の脳内に新たな火花を散らせたらしい。
「数学だけじゃない。人間そのものを数式に落とし込む……。逆に、燃えてきたぞ」
正直、寧音も私もゲームに詳しくない。それでも、彼の描くその輪郭は、後世に語り継がれるあの大ヒット作の鼓動に酷似している気がした。
だが。ゲームと違って、現実はそう簡単にハッピーエンドには向かわない。
数日後。事務所の景色は「ゴミ屋敷」の深度を増していた。すえた匂いはさらにきつくなり、竹中はゴミの山に埋もれて呻いていた。
「……メモリが、足りねえ……」
彼は頭を抱えていた。精緻な成長テーブルを作れば作るほど、現在のハードウェアの壁が牙を剥く。
後世のスーパーファミコンとは違い、RAMの容量が彼の理想を物理的に拒絶しているらしい。私は竹中の横に座り、数式を指差した。
「なら、いっそ”テーブル”を捨てたらどうだ?」
「……違うんだ。そうじゃなくて関数なんだ。計算式でその都度算出したいんだが、複数の式を詰め込む余裕が、このチップにはない……」
ごみをあらかた片付け終わった寧音が、現状の簡易システムをテストプレイしてみるが、表情は晴れない。
「悪くはないわ。でも……最初は少し退屈かも。強くなった実感が湧かないから、みんな途中で投げ出しちゃうんじゃないかしら。レベルが上がった瞬間、音でもフラッシュでもいい、何かが欲しいわ」
「音かフラッシュ……」
ああ確かにそうだった。
あの音は覚えてるぞ。
♩タッラッラ~♫みたいな軽快な音だったし、場面ごとに違うあのバックミュージックも独特で懐かしい。
あの曲に似た感じの音楽を作らねばならないが、さすがの寧音も音楽は得意ではない。
ここは阿戸さんの出番だろうな。
竹中は再びペンを取る。「数字」が「体感」へと昇華されていく。だが、それでもメモリの壁は高かった。
「……無理だ」
竹中が机に突っ伏した。
「パーティー全員の個別パラメータなんて、全部載せたら動かない……」
私は、彼の肩にそっと手を置いた。何もかもを最初から詰め込みすぎなのだ。あの伝説の第一歩も、最初はもっとシンプルだったはずだ。
「竹中……複数人を同時に動かすのは、今は諦めないか。苦渋の決断だが、まずは主人公一人に絞るんだ。その分、一人への感情移入と成長曲線の精度を極限まで高める。それでどうだ? 反響を見て、シリーズ化していけばいい」
「……無念だ。もう少し、あと少しで理想に届くのに……」
「わかっている。だが俺たちはまだ若い。お前の理想は、第二弾、第三弾で必ず俺が形にしてみせる。だから今は、一人で戦う英雄を創ろう」
こうした紆余曲折を経て、ようやく「世界でも類を見ない画期的なRPG」の完成が目前に迫った。架空の大陸。平地を旅し、街で武器を買い、モンスターを倒しながら囚われの姫を救う英雄譚。
アレに似ていると思いつつも、私はそのストーリー構築に胸を躍らせていた。
だが。 そこからが本当の難産だった。あの竹中重治が珍しく深いスランプに陥ってしまったのだ。
連載を始めて2か月ちょっとになりますが、5月分の予約投稿を完了しましたのでご報告いたします。




