大学生活⑦ 円の話
1984年(昭和59年)3月17日(土)
竹中重治が新たに挑戦している対戦ゲームの設計は終わり、現在はバグ出し作業の最終過程だ。
2回目だからもう慣れたもので、前回に比べて、あっけないほど順調に推移できているから、夏前には発売できるだろう。
製品名は「ファイティング カラテ」に決めた。
タイトル通り、空手大会を勝ち抜く設定だ。私としては海外展開も視野に入れたタイトル名としたのだが、果たして世界にこの「空手」の様式美は届くだろうか。
自分の仕事が終わった竹中は早速、次の作品の構想を練り始めるそうだ。
私が未来知識をパクってゲーム内容をささやき続け、彼の創作意欲に火をつけている状態だが、私が知っているのは内容であって、裏でどんな数式が組み込まれていたのかまでは分からない。
そこは彼の力量に頼るしかないわけだ。
そんなわけで、時間に余裕ができたから、今日は仕事を忘れて久しぶりにデートをしようと、寧音と約束をしている。
たまには映画を観るのだ。そしてこれから見ようとしているのは、先週公開されたばかりの「風の谷のナウシカ」だ。ウォルト・ディズニーと並び称されることになる日本が生んだ名監督の作品で、世間での評価も高いものとなりつつあるのだ。
やがて扉が開き、軽いベルの音とともに寧音が入ってきた。
最近彼女のお気に入りとなっている、DCブランドのコートがよく似合う装いだ。
今の時代の若者は誰もがファッションにこだわり、バイト代の大半を費やすような若者も珍しくない。
令和とは単に景色が違うだけでなく、こういった常識というか意識も随分違うものだと感心している。
彼女は席に着くと、早速、今から観る映画について話し始めた。
「なんかすごく感動するアニメ映画みたいじゃない?楽しみよね」
それはそうなんだが、例によって私は内容を知っている。
最終的には海外でも高く評価されることになったはずだ。
「そうだね。きっと外国でも評判になるんじゃないかな」
「えっ?日本人向けのアニメが?そうなったら嬉しいわね」
「うん。きっと東欧とか東ドイツ辺りでも公開される日が来るんじゃないかな」
寧音は急に何かを思い出したように、視線を斜め上に向け話題を変えた。
「そういえば、大学の授業で教授が言っていたわ。最近、ルーブルの闇レートが相当ひどいことになっているって」
「だろうね。公式には存在しないはずの数字が、その国の本当の体力を示している。ソ連という国は、表の顔は強気でも裏側はもうボロボロなんじゃないか?」
ソ連の状況が酷いものになりつつあるというのは、西側諸国には静かに広がりつつある話だろう。
「通貨の信用ってのは、そういう残酷なものだから」
私はそう言ってから、ふと考え込んだ。信用のない通貨。それはただの紙切れだ。いや、裏が白い紙のほうがまだメモに使える分、価値があるかもしれない。
「ねえ、藤一郎」
寧音が、ふと柔らかいトーンで話題を変えた。
「ルーブルの話で思い出したんだけど……どうして、私たちの国のお金は『円』って呼ぶか知ってる?」
コーヒーをスプーンで静かにかき混ぜながら、彼女は試すような、それでいて楽しげな瞳で私を覗き込んだ。
「正直、深く考えたことはなかったな。寧音は知っているの?」
「昨日、講義の余談で聞いたの。日本の通貨名が『円』になったのは、ただ形が丸いからっていう単純な理由じゃないんですって」
「ほう。興味深いな」
「江戸時代までは『両』だったでしょ? でも実際には金貨、銀貨、銭貨が入り混じって、レート計算もバラバラ。すごく不便な制度だったらしいの」
そうだった。かつての日本には『江戸の金遣い、大坂の銀遣い』という二重通貨制があった。
当時は両替商がその差益で巨万の富を築いたが、FXとはそのスケールを世界に広げただけの話だ。
日本橋にあった金座は現在、日銀本店になっているし、銀座は最初、駿府(静岡)や京都にあったが、後に江戸の「新両替町」に移転。そこが現在の銀座という地名の由来となった。
「歴史を遡れば、日本人は昔から為替の変動と戦ってきたけど、そこへ幕末、黒船と一緒にアメリカやカトリック国との貿易が始まったわけだね」
「ええ。そこで一気に問題が爆発した。日本の金と銀の交換比率が、世界の相場と全然違っていたから、外国人は日本で両替するだけで大儲けできたのよ」
「その結果、国富である金が滝のように海外へ流出した」
「そう。その時、明治政府は痛感したんだと思うわ。国内だけの物差しじゃ、もう世界とは渡り合えないって。だから、当時のアジア貿易の共通ルールだった『メキシコドル』に合わせることにしたの」
彼女が誇らしげに語るのを見て、私は思わず口角を上げた。
「よく勉強しているな」
「ふふ、これでも学生だもの。あの丸い銀貨が中国で『銀圓』と呼ばれていたから、それを取って『圓』ってつけたの。戦後に文字は『円』に変わったけれど。
欠けることのない丸……『台湾元』や『人民元』も、韓国の『ウォン』も、語源は同じ圓って漢字なんですって」
寧音は財布から百円玉を取り出し、愛おしそうに指先で転がした。
「ただの硬貨だと思ってたのに……背景を知ると急に手元が重たく感じるわね」
そう言いながら彼女は、そっと私の手に自分の手を重ねた。その体温が過去の冷徹な数字の記憶を溶かしていく。
「藤一郎と話してると、ただのニュースやお金が、急に立体的な物語に見えてくるわ」
「それは褒め言葉として受け取っておこう」
「もちろん。最高の褒め言葉よ」
私は苦笑しつつ、少しだけ声を潜めた。
「じゃあ、一つだけ覚えておくといい。この『円』というお金は、もうすぐ世界を飲み込むような、とんでもない荒波を起こすことになる」
「……また、夢予言?」
「そう。何度も夢で見たから間違いないよ」
「そうやって世間を出し抜くなんてずるいわね。でもこれからも頼りにしているわね」
窓の外では1984年の乾いた風が、人々の期待と不安を乗せて街を吹き抜けていた。
来年9月のプラザ合意。そして、その先に待つ狂乱の円高。
政治家たちは対応に追われ、日本中が狂喜と悲鳴に包まれるだろう。だが、今の私にはそれがどこか遠い世界の出来事のように思える。
もう、政治家になろうなどとは、完全に思わなくなった。
前世で財務を担っていた頃、私はメディアの格好の標的だった。円高になれば「輸出企業を殺す気か」と叩かれ、円安に振れれば「国民生活を見捨てるのか」と罵られる。
彼らは為替という、制御不能な力に右往左往しながら、誰もがその本質を理解しようとはせず、ただ自分たちの新聞がどれだけ売れるかという、目先の数字に一喜一憂して怒鳴り散らしていた。
適正なレートなど、この世に存在しない。私が学んだのは、そんな虚しい真実だけだった。汚く、醜い、報われない世界。 私の未来知識は私自身と、そして目の前の大切な人のためにだけ使うつもりだ。
とにかく、この人生では政治の泥沼に足を取られるつもりはない。
ファミコンソフトという時代の寵児で財を成し、その資金を青色LEDという未踏の地へ注ぎ込む。石田との研究は相変わらず失敗の連続で、現状は出口の見えないトンネルの中だが、今はまだそれでもいい。
寧音の手に意識を戻す。彼女は何も言わず、ただ優しく微笑んで私の言葉の続きを待っていた。
私は彼女の手を包み込むように握り直し、これから来る円という名の荒波をともに渡る覚悟を、静かに指先に込めた。
ふと、寧音がいたずらっぽく小首をかしげて話題を変えた。
「そういえば、藤一郎って金には興味がないの?
これまで投資の話はたくさん聞いたけど、金の話だけは一度も出ないから、不思議だなって思ってたの」
金か。手を出さない理由は、あまりに明確だ。
金価格は私がこの世界に来る直前、1980年に歴史的な暴騰を見せて最高値を更新した。その後は急落し、現在は緩やかな下落トレンドの真っ只中にある。
ドル建ての金価格が1980年のピークを再び超えるのは、2000年代後半まで待たねばならない。日本円ベースに至ってはさらに残酷で、実質的な最高値更新は2010年代に入ってからだ。
だから、今ここで手を出せば四半世紀以上の「塩漬け」が確定する。私が金に目を向けるのは、21世紀の足音が聞こえてからで十分すぎるほどだ。
「1979年のイラン革命に、第二次オイルショック。テヘランの米大使館占拠事件があって、年末にはソ連のアフガン侵攻。さらにイラン・イラク戦争の勃発。あの数年間は、まさに地政学リスクのバーゲンセールだったんだ」
「つまり、みんな怖くなって『安全な資産』に逃げ込んだってこと?」
「その通り。1gが7000円近くまで跳ね上がったのは、『世界がこのまま壊れてしまうんじゃないか』という恐怖の総量だったんだよ。でも、結局世界は壊れなかった。それどころか、銀行に預ければ高い利息が付く時代になった。利息を生まない金を持つ理由は、もうどこにもないんだ」
「そうね、金は持っているだけじゃ増えないもの。……なんだか、平和になった証拠みたいで、下落してるのも悪いことじゃない気がしてくるわ」
寧音は納得したように頷いたが、私はその先の未来を知っている。 21世紀、特に2010年代以降に金が再び輝き始めるのは、1980年のような「一時的なパニック」ではない。
中国、ロシア、インド、そして中東。
ドルの支配を嫌う国々が、米ドル依存からの脱却と制裁リスクへの備えとして、国家レベルで金を買い増し始める。それはある種の「新・金本位制」への回帰とも言える動きだ。かつては事件だった地政学リスクが、未来では「常態化」してしまう。
ドルという信用の盾が剥げ落ちた世界で、唯一どの国にも依存しない無国籍の資産、それが金だった。
ああ仮想通貨もそうか。
「……藤一郎?」
「ああ、ごめん。少し考え事をしていた」
これから吹く風。プラザ合意という追い風を受け、私はこの1984年の凪から一気に加速しなければならない。窓の外、3月の風に揺れる東京の景色を眺めながら、私は自分の野心の輪郭を確かめていた。
「とにかく、今は金よりも面白いものがたくさんある。例えば……君と歩くこの街の未来とかね」
「もう、急にそういうこと言うんだから」
寧音は少し顔を赤らめて、握り返す手に力を込めた。
さあ映画を観に行こう!




