高校生活⑫ 夏のひととき
1981年(昭和56年)7月
期末テストが無事に終わり、一息つける状況なのが嬉しい。
結果はまずまずで、私の成績は竹中には及ばないものの、安定のベスト10圏内だ。
今日も寧音さんと仲良く下校中だが、これから竹中の家に寄って三人でゲームをする約束をしている。
しかし、この世界に来て最初の夏を迎えたのだが、東京の夏が過ごしやすいのには驚いた。酷暑や猛暑という言葉とは無縁で、湿度が高いから快適ではないが、それでも許容範囲だ。
地球温暖化なんて言葉はまだ誰も知らないだろうし、40年後の惨状は想像すらできないだろう。
それに比べたら2025年の夏は特に暑かった。
もう今年は秋が訪れないのではないかと思ったほどで、参議院選挙では私も応援で各地を回ったが、死にそうになったのを覚えている。
それはともかく、最近は寧音さんが興味を示す分野が変わってきた。
私に感化されてきたのか、それとも彼女自身が目標にしている将来の夢のせいかは分からないが、経済関係であることが多く、今日も歩きながら話す話題もそれだった。
「春頃に教えてもらった為替だけど、変動相場制になってから不安定になったわよね?
この先も不安定なままかしら?夢ではどうなりそう?」
これは危険な兆候だ。
あくまでも”夢の話”として押し通さねばならない。
「そうだねぇ。為替って巨大な生き物みたいなものだから、個人でどうこうできる範囲を超えているよね。国が介入しない限り、自然と円安になりそうな雰囲気すらあるよね。
今は210円前後で推移しているが、来年は240円近くまで円安が進行しそうだ」
「そうなのね?円安ってことは、輸出が有利ってことだから…じゃあ藤一郎君が持っている株もまだまだ上がりそうね?
この先もずっとそうなのかしら?」
いや、日本を含む海外との貿易赤字と、それと同時進行した国内産業の衰退に焦ったアメリカは、ついにドル高是正へ舵を切る。
それが『プラザ合意』だ。
ニューヨークのプラザホテルで開催されたからそう呼ばれている。
私はそれとなく伝えてみた。
「だけどアメリカはどう思っているんだろうね?
日本だけじゃなく、主要国との貿易赤字が膨らんでるはずだから、大変なことになっているんじゃないかな?」
「じゃあアメリカは、そのうちに何か言ってきたりしてね?」
「うん。何となくだけど、どこかのホテルの部屋に集まって難しい話をしているような夢を見たから、アメリカが日本やドイツにドル安を強引に迫るんじゃないかな」
「ドル安になるの?そうなると円高ってことよね。
それはつまり輸出企業が打撃を受けるということだから、藤一郎君の保有している株も大きな影響を受けるわよね?」
やっぱりこの人は賢い。
そして全体を見渡せる目を持っているのではないかな。
「そうなるね。でも、何事もそうだけど、ゆっくり変動するならともかく急激に動くのは良くない。
例えば1ドル260円から一気に130円台まで円高になったりしたら、輸出関連企業は対応する時間がないと大打撃を受けるだろうね。そうなったら日銀は企業を助けるために、無担保コール翌日物金利を下げるんじゃないかな?」
寧音さんは一瞬、私の顔をまじまじと見た。
それまでの思慮深い表情が消え、代わりに怪訝そうな色が浮かぶ。
「なに?その変な名前は?聞いたことのない言葉だわ」
名前?あっ!
「あ、いや、え〜こ、公定歩合だった」
そうだった。
この時代には、のちに使われる「無担保コール翌日物金利」などという言い方は存在しない。令和の時代でさえ専門家以外にはほとんど使われず、一般には単に「政策金利」と呼ばれているほど、分かりにくい用語なのだ。
「公定歩合のことね。それなら知っているけど、未来はそんな呼び方をするようになるのね?
もしかして藤一郎君、本当は未来から来た人だったりして。ふふ」
急な言葉にどきりとした。
あくまでも今の言葉は比喩だろうが、為替も言葉も急激な変動は怖い。
「で、でも、金利が下がったら、借りるほうはいいけど、貸すほうとしては銀行にお金を預けるメリットがなくなるよね?余ったお金が、もし土地や株に向かうと面倒になるかもね」
寧音さんは遠くを見て考え込んでいるが、実際にそうなるし、これがバブルを誘発した。
「カネ余り現象」や、「シーマ現象」の次に行き着いたのが不動産や株式のバブルだった。
銀行もまた、貸さなければならない事情があったし、地価が下がるという発想自体がこの国にはなかったから、土地さえ担保にしておけば融資は回収できる。そんな土地神話が日本全体を狂わせた。
だから、プラザ合意がバブルを引き起こすきっかけとなったのだが、プラザ合意がなかったところで、日本のバブルは遅かれ早かれ膨らんでいたのだ。
この時代の空気は、そういう熱を帯びているのを肌で感じる。
その理由の一つが団塊の世代の存在で、この世代が住宅を購入する年齢と重なってしまう。
あの巨大な人口を抱えた世代が、一斉に動く。
それだけで、この国はしばらく熱を下げられなくなる。
そもそも私にはバブルを止める力なんぞない。
推移を見守り、自分が損をしないように立ち回るだけだ。
そんなことを考えていたら竹中家に到着した。
よし!気持ちを切り替えてゲームだ!
竹中重治謹製の海戦シミュレーションゲームをやろう。
いつものように竹中の母親に挨拶をしてから彼の部屋に入る。
彼は私たちの顔を見て、それまでのオタク顔から一転してにやりとしたが、私とゲームをするのが楽しくて仕方ないのだろう。
ただし寧音さんに嫌われない範囲でやらなければならない。
これは絶対条件であり、勝利条件でもある。経済もゲームも、ルール次第で人の動きが変わるのだ。
まず、カセットテープを挿入し、カチッと音が鳴ると、緑色の文字列とドットの海図がゆっくりとモニターに表示され始める。プログラムを読み込み中の「ガーッ」というノイズが部屋に小さな緊張感を生む。
「よし、出撃だ」と私が言うと、竹中は得意げに隣に座る。
本当なら提督らしい雰囲気の服や帽子があればいいのだが、そんなものはないので学生服で代用している感じだ。
だが、これが妙にいい感じを醸し出していると勝手に思っている。
互いにキーボードを操作して、自分の艦隊を動かす。画面上には「○」で自艦、「×」で敵艦が表現され、海域は「~」や「=」のドットで荒波を表している。
「こっちの駆逐艦を前進させて、敵戦艦に接近するんだ」と竹中が指示する。
画面の中の動きはチープだ。それを我慢してカクカクと動く艦隊を慎重に進め、敵艦が射程に入った瞬間、ビープ音が鳴り、雷撃マークが画面にチラッと現れる。
「魚雷命中!」と竹中が声を上げ、私は小さく笑う。
操作は単純だ。上下左右キーで艦隊を動かすだけだが、個別設定の速度や射程距離を計算して動かす“戦術のリズム”が楽しい。
駆逐艦なら1回のターンで多くのマスを移動できる代わりに射程は短く、戦艦はその逆といった具合だ。
参考までに言えば、潜水艦や航空母艦はプログラミングしていない。
三次元的な表示が必要になるからだそうで、現時点ではグラフィックがショボくて、さすがの竹中でも無理らしい。
また命中率計算も艦種で固定だ。
竹中が目指していたのは、国別の優劣要素だったらしい。つまり、日本海軍やアメリカ海軍は命中率が高く頼りになるが、イタリア海軍を選んでしまったらまず勝てないというような。
あるいは長門型やサウス・ダコタ級なら高い命中率が期待できるが、ヴィットリオ・ヴェネト級を選んだら最悪、みたいな感じが目標だったらしいが、これも現状ではお預けだ。
そんなわけで、敵味方の動きは単純だが、先読みして動かすと、あたかも本物の戦場で指揮を執っているかのような感覚になる。
寧音さんは少し離れたところで観戦しているが、眉をひそめながらも興味深そうに画面を見つめる。
「…なるほど、こうやって戦うのね」と小さな声。
竹中は満足そうに頷き、私は艦隊を再配置しつつ、敵の包囲をかわす。
モニターの緑色の光が三人の顔を淡く照らし、海図上のドットが一隻一隻動くたびに、小さな戦場が目の前で生まれる。
勝利条件はシンプルだが、戦術の組み立て方次第で勝敗が変わる。
一手一手に集中し、時に笑い、時に悔しがる。1981年の電子機器が生んだ、海戦シミュレーションの小さくて確かな幸福だった。
「じゃあ次は私の番ね」と寧音さんも少しずつ操作に興味を示す。
こうして三人で並び、ドットの海に艦隊を進める時間は、単純なゲーム画面を通して濃密な体験を生んでいた。
だが、単純に遊んでいるわけではない。
この遊びの目的は竹中を誘導、いや育成することなのだから、それも忘れてはいけない。
私は竹中の心に届くよう提案をした。
「お前が作ったこのゲームの面白いところは、一手一手の戦術の計算だ。
だが、この要素に『プレイヤー自身の成長』を組み込んだらどうなるだろう?」
竹中はまだピンと来ていないみたいだな。
だが、私は気にせず続けた。
「戦闘に勝利するたびに、キャラクターは『経験値』というポイントを獲得する。
経験値が一定値に達すると、キャラクターの『レベル』が上がる。そうすると、基礎の強さや攻撃力、防御力が計算に基づいて永続的に上昇するようにすればどうなるだろう?
そこに素早さや回避といった要素を盛り込めば、更に奥深いゲームとなるだろう。
これは海戦ゲームだが、これとは別に勇者の冒険みたいなストーリーに昇華できるんじゃないか?
例えば竜にさらわれたお姫様を救う物語とか…」
私が言った内容は、要するにあのゲームのことだが、丸パクリしたら絶対怒られるだろうから内容は変える必要があるな。
ともかく、彼が熱中している「計算」や「ロジック」そのものが、ゲームの面白さの根幹になる。
私は彼の知的好奇心を強く刺激するのだ。
彼はすぐにこの「経験値テーブル」や、「成長カーブ」のロジック構築に夢中になる。
それが狙いだ。
私はトドメの一言を放った。
「複雑なグラフィックは当分いらないし、まだ期待はできない。
むしろ、その計算とロジックの設計こそがお前の才能を活かせる世界だ。誰も作っていないこのシステムを、お前が日本で一番最初に作り上げたらどうなると思う?」
彼は手を止めて考え込み、画面ではなく宙を見つめた。
いつものオタク顔ではなく、何か新しい世界を見た人間の表情だった。
そしてぽつりと言った。
「それなら、ステータスの成長は直線じゃなくて一定の曲線にするべきかな…
であるならば、その関数は何が最適か考えるべきだな。ああ…シグモイド関数なんかぴったりだな」
寧音さんはそれを不思議そうに見ている。
だが、そのうちに「夢予言」の一環だと気付くかもしれない。
それはそれでいいと思う。
年内の掲載はこれで最終ですが、1月いっぱいまで予約投稿済みです。
当面はこのようなテイストで、時にお色気が入るユルい感じですが、それでも着実に前進していきます。
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