高校生活⑩ 為替のお話
1981年(昭和56年)3月31日。
レーガン大統領暗殺未遂事件が起きた日。
私は寧音さんに質問を受けていた。
「なぜドルと円の為替は3桁の数字なの?」と。
私は彼女に理由というか質問の意図を訪ねた。
「大学に行けば学べると思うけど、なんで今すぐ知りたいの?」
「為替って商学部や経営学部では必須でしょう?それで勉強してたんだけど、他の通貨と円の関係だけ変だなと感じたのよ。だから素朴な疑問として聞いたのよ」
なるほど……まあ確かにね。
世界をリードする経済大国の中で「円」だけレートがおかしいのは事実だから。
だけど、それに疑問を持つとは大したものだ。
私は高校時代に、そんな疑問なんて感じたことはなかった。
とにかく一例を挙げると現状では以下の通りだ。
・1ポンド=約2.15ドル
やはりイギリスポンドは強い。ドルが登場するずっと以前から君臨し続けているのだ。
それ以外の通貨だと以下の通りだ。次はドルを起点に表記してみる。
・1ドル=約2.2ドイツマルク
・1ドル=約4.2フラン
・1ドル=約1.7スイスフラン
それに対して日本だけ突出している。
・1ドル=約205円
私は少し笑いそうになるのを我慢して、机の上の鉛筆を指で回しながら言った。
「なるほどね。確かにポンドやマルクに比べると、円だけ桁が違うように見えるよね」
寧音さんが身を乗り出す。
「でしょ? 同じ先進国の通貨なのに、どうして日本の円だけ200とか、そんな数字になるのかしらって。とても不思議なのよ。理由はあるの?」
「うん、理由はちゃんとあるよ。というか日本が“自分でそう決めた”んだ」
「え? 決めた? どういうこと?」
私は黒板代わりにノートを開き、ペンで円記号を書いた。
「簡単に言うと、戦後すぐの時期に、1ドル=360円っていう“固定レート”が日本政府とアメリカの協議で決まったんだ。
これがスタート地点。ここから円は三桁になった」
寧音さんは目を丸くした。
「固定だったのは知っていたけど、そんな勝手に決まるものなの?」
「当時はね。世界中が“固定相場制”だった。今みたいに市場が値段をつける方式じゃない。
戦後の日本は輸出で稼ぐしかなかったから、円を安く設定したほうが都合が良かったんだ。だから三桁でスタートした」
実際の話として、これが池田勇人・元総理の最大の功績だと私は考えている。
本来なら300円前後が妥当なラインだったはずが、20%下駄を履かせてもらったようなものだ。
だから輸出産業が絶好調になって高度経済成長が達成できたし、池田が提唱した所得倍増も可能となった。
当時、大蔵大臣だった池田勇人は、GHQの財政顧問として派遣されて来たジョセフ・ドッジの厳しい緊縮財政要求を受け入れつつも、この為替レートがもたらす輸出メリットを最大限に活かす腹積もりがあった。「負けるが勝ち(緊縮を受け入れてレートで勝つ)」という交渉術で、まさに策士だった。
実は、「日本経済を早く自立させないと、貧困が原因で共産化してしまう」との恐怖が、この当時のアメリカ側に芽生えていた。という背景が後押しした。
だったら!なぜここまで徹底的に焼いたんだと言いたいし、ソビエトに騙されて日本を戦争に引きずり込んだのは誰だ!とも言いたい。
ともかく…
この時に「円は丸い。つまり360度だから、1ドルは360円にしよう」という話を聞いたことがあるが、あれは都市伝説だ。
寧音さんは“なるほど”と頷き、だがまだ納得しきれていない表情だった。
「じゃあ、他の国はどうしてそんなに小さい数字なの? 1ドル=1マルク前後とか、2ドルで1ポンドとか……」
私は笑った。
「それはね、その国の“通貨の歴史”の長さと“物価水準”が関係しているからだよ」
ポンドの例を指さして続ける。
「ポンドは何百年も前から紙幣として存在していて、途中でインフレをそこまで起こさなかった。
マルクもフランも、第二次世界大戦後に“通貨改革”をしていて、価値を高く保つように作り直した。
逆に言えば、価値が高い状態をキープした通貨は、1単位の“重さ”が厚い」
マルクは第一次世界大戦後に破茶滅茶になり、史上稀に見るハイパーインフレに襲われたが。
具体的には『1兆マルクの紙幣』が発行されて、賃金は一日に数回支給され、支給後すぐに買い物へ走らないと価値が消えるという異常事態が発生した。
例えば…パン1斤が朝は数億マルク、夕方には数千億マルクになった。
マルク紙幣の末路は悲惨で、最後は暖炉で燃やされた。薪より安くなったからだ…
この結果として共産党とナチ党が急速に台頭する土壌ができる。
これがなんとか収まるのは、土地など不動産を価値基準とした「レンテンマルク」の導入を待たねばならない。
この際に旧マルクは1兆:1で切り替えられ、ようやく収まった。
寧音さんは目を細めた。
「つまり……円は“軽い”の?」
「そういうこと。円は歴史の途中で、インフレや戦争や混乱も経験したし、戦後の復興のために安いところから”リスタート”した通貨なんだ。
だから三桁は当たり前で、むしろ今は360円より円高になっている途中だと表現していいと思うよ」
寧音さんは「ふ~ん」と独り言のように言い、ノートにメモを取り始めた。
「なんだか……通貨って国の人生みたいね。たくさん苦労すると軽くなったり、やり直すと価値が変わったり」
その言葉に引っかかりを感じつつ、そういった見方は、もしかしたら的を射ているのかもしれないと思う。高校生の純粋な疑問は、時として専門家の胸に刺さるのだ。
だから私は言った。
「いい例えだと思うよ」
私は肩をすくめてみせた。
「だから今“1ドル=200円台”なのも、ゆっくりゆっくりと“円の信用が戻ってきている途中”ってこと。
日本はこれからもっと強くなる。為替レートの桁も、いつか変わるよ」
寧音さんはその言葉に、なぜかじっと私の顔を見つめた。
「藤一郎君は……本当に夢を上手に解釈して未来のことが見えているね」
心臓が一瞬だけ跳ねた。
しかし私は、いつもの調子で笑って返した。
多分、今のは曖昧な笑顔だろうと自覚しつつ。
「夢なんかよりも、新聞を真面目に読むと、だいたい分かるんだよ」
寧音さんは完全には理解していないみたいだったが、それ以上追及することなく言った。
「ありがとう。何となくだけど理解できたような気がするわ。
じゃあ、また明日ね」
そう言って帰って行った。
私は一人になって改めてこの件を考え直してみた。
だけどねえ。
この話を明治から語り始めると、全く様相が変わってしまうのもまた事実だ。
戦前の話を寧音さんにしても、彼女にとってメリットが無いから言わなかったけれど、というか…日本人の意識は、ドル円レートのみならず、昭和20年で何もかも全て一旦リセットするような、そんなイメージがある。
だけど、当然だけど、人間の歴史は繋がっているし、全ての日本人が昭和20年で入れ替わったわけじゃない。その観点で言えば、さっきの話は根本からひっくり返る。
何故なら最初は1ドル=1円だったのだから。
さっきのレンテンマルクの裏付けが土地なら、この円の裏付けは金だった。
つまり金本位制に参加したのだ。
明治時代、当時の政府は金本位制を採用し、国際的な信頼を得るために「1円」に1ドルとほぼ同等の価値を持たせた。
アメリカの金貨と日本の円貨を交換可能とした、誇り高きスタートだった。
1円=1ドル。実際には少し違うけれど。
つまり、今の感覚で言えば「円は最も重い通貨」として、先進国の仲間入りを果たした瞬間だ。
その後の歴史は、円の価値がゆっくりと、そして時には急激に軽くなっていく過程だった。
日清・日露戦争の戦費調達のための紙幣増発。
第一次世界大戦と関東大震災。
そして最も大きな影響を与えた世界恐慌。
さらには、最終的に日本経済を崩壊させた第二次世界大戦。
円は戦争のたびに、紙くずに近づいていった。
さっき寧音さんに教えたのは、「戦後」というリスタート地点以降の話。
そこで1ドル=360円という数字から始まったという、希望と復興の物語だ。
それは、輸出で稼ぎ、高度成長を成し遂げた日本のサクセスストーリーの起点だった。
しかし、そのサクセスストーリーの裏には、明治の「1ドル=1円」という栄光の数字を、戦争とインフレで「1ドル=360円」という数字にまで下げざるを得なかった、敗戦の影がある。
1ドル=360円。この圧倒的な桁の変化は、日本の戦後80年間の激動の歴史、特に戦争と通貨の崩壊を物語っているということだ。
1953年に一度デノミネーション(通貨単位の切下げ)が真剣に議論されたことがあったが、国民感情や経済の混乱を恐れて見送られた。もしあの時、例えば100円を新しい1円に切り替えていたら、今の1ドル=200円は、1ドル=2円前後になっていたかもしれない。
マルクやフランが戦後に通貨改革を行ったように、日本もリセットボタンを押す機会はあった。しかし、それをしなかった。
だから円は、「360円」という戦後の復興の歴史と、「明治の1円」から360倍に価値を下げた戦争の歴史の両方を、三桁という数字に背負い続けているのだ。
寧音さんは、「通貨って国の人生みたいね」と言った。
そうだ。彼女の言葉は的を射ている。
さっき感じた引っ掛かりは、私自身と同じだからだ。
円という通貨は、栄光、戦争、敗北、そして奇跡的な復興という、日本の波乱に満ちた人生そのものを、あの三桁の数字に刻み込んでいるのだ。
そしてそれは、政治家としての敗北を味わった私の人生にも重なる。
私は与えられたチャンスを逃さずに、見事に復活してやろう。
私は机の上で指先で回していた鉛筆の動きを止め、深く息を吐いた。




