高校生活⑦ 3学期始まる
1981年(昭和56年)1月。
3学期が始まり、私は在籍している都立成城高校へ初めて登校した。
家まで迎えに来てくれた高台寺さんと一緒に登校し、最初は職員室へ行って、校長と担任に挨拶と謝罪をした。
担任の先生の態度は想定内だった。入院中に見舞いにも来てくれたし年末に一度、家庭訪問の形で会っていたからで、特にこれといった違和感は感じなかった。だが、校長の反応はいささか過剰に感じるほど大袈裟なものだった。
「君は…確かに木下君だが、私の知っている木下君ではないな。
失礼だが記憶喪失になる人間は全員、君のような未来の希望にあふれた目をするものなのかね?
以前の君は、ひどく暗い目をしていたと記憶しているのだが」
そんなことを言われてもね。だが、長らく教育者を務めていると、人間の本質みたいなものに触れる機会も多いだろうから、自然にそう感じるのだろう。
それにしても校長の記憶に残るほど『やんちゃ』をしていたってことかな?
何をやらかしていたのか?なんか、だんだん怖くなってきた。
職員室を出て、廊下で待っていてくれた高台寺さんと歩きながら、私はつい弱音を吐いた。
「…なんかもう帰った方がいいんじゃないか?って思うようになったんだけど」
すると高台寺さんは怒った顔を作って言った。
「駄目よ!私も一緒に教室に入るから、自分と向き合いましょう!」
強い人だなと思ったし、そこまで言われたら帰るわけにはいかないので、渋々ながら自分の教室に入る。
職員室に寄っていたから始業時間ギリギリになった。
教室内は既にほぼ全員が着席しており、私たちが教室前方のドアを開けて入ると、ざわついていた室内が静まり、全員が一斉に私たちに注目した。
予想通り、誰もが好奇の目を向けてくるが、これは当然だろう。
久しぶりなのだし、記憶喪失の高校生なんて身近にいないのだから。
高台寺さんに案内されて自分の席に着く。
教室の一番後ろの窓側だ。
私の勝手な印象だと“不良の指定席”だ。
一方の高台寺さんは対角線上、一番前の出入り口に近い席に座った。
まあ優等生の占める位置かな?という印象だ。
直後に担任が入って来てホームルームが始まったが、改めて担任から皆に何か言うように促されたので挨拶を行った。
だが、ここでも要注意だ。
なぜなら政治家っぽく、堅苦しい内容で挨拶するのはご法度なのだ。
ここは高校生、しかもちょっと不良の高校生らしい内容でなくては、いきなり変に思われてしまう。
よって、私は全員の前に立ち、室内を見渡しながら慎重に言葉を繋いだ。
政治家の時はもっと大人数を前にしゃべっていたのだ。緊張などするはずがない。
胸を張って言った。
「え~事故ってしまいました。
とても痛かったですが、命が助かったのでまぁそれは良かったと思っています。
ただし、事故前の記憶が全くありませんので、そこはご理解ください。
従いまして以前の話をされても全く分かりません。
また2度とバイクには乗るなと家族に言われましたので、生活を改めるつもりです。
それと、やることがなかったので高台寺さんに勉強を教えてもらっていました。留年しないよう頑張る所存ですので、ご承知おき下さい。皆さんよろしくお願いします」
なんか最後はやっぱり政治家っぽくなってしまったが、まあいいか。
同級生たちの反応は?
あれ?薄い…
全員がポカーンとした顔をした次の瞬間、教室内は爆笑の渦に包まれた。
高台寺さんは笑いをこらえるのに必死みたいで、下を向いたまま体を震わせているが、私は何か面白いことを言ったかな?
まあ以前の私だと、絶対に言わないような言葉を使ったのだろうとは想像するが。
担任が笑いを堪えながら言った。
「…確かに木下君は成績がギリギリだ。
だが3学期の成績次第で進級は可能となる。最後まで諦めないように頑張れ」
もとよりそのつもりです。はい。
いよいよ学校生活の始まりだ。
幸いなことに授業内容は理解できるし、なんなら同級生たちより理解度は深いだろう。
数学、英語と授業が進むうちに教師に質問されて答える私の姿を見て、教室内にはどよめきが起こっているが、これも事故前の私ではあり得ない状況なのだろう。
休み時間になるとクラスメイトに囲まれて、記憶喪失の件や入院生活についてあれこれと聞かれた。
誰が誰やらさっぱり分からないが、そのうちに顔と名前は覚えるだろう。
覚えた頃には進級してクラス替えになるだろうが。
昼休みになると、病院にも見舞いに来てくれた不良仲間が3人、昼食を終えてざわつく私の教室に顔を出した。
3人の中で1番ガラの悪そうな高校生が話しかけてきた。
「おい藤一郎。もうバイクには乗らないとみんなの前で言ったそうじゃないか?それは本気か?」
ここは無理に強がる必要はない。ヘタレを演じたほうが彼らとの縁も切りやすくなるだろう。
「ああ、もうそんなトシじゃないからな。
い、いや…う、急に怖くなってね…バイクは卒業することにした」
いかん。私は高校1年生だった。
「つまんねえやつだな!けど、記憶がないんじゃしょうがないよな。気が向いたらまた一緒に遊ぼうぜ。
それと…最近は”地味子”と仲がいいんだって?」
誰だそれ?
「じみこ?誰それ?」
3人は呆れたような顔をした。
「本当に記憶がないんだな!
あそこにいる地味な女だよ。お前は”地味子“って呼んで避けてたじゃないか?
優等生がお節介なことを言うとかいって」
彼らが指を差したその先に座る後ろ姿は…高台寺さんだった…
確かに私も最初に会った時に地味な子だなとは思ったが。
放課後、一人で残って勉強をしていた高台寺さんに近づいて聞いてみた。
「昼休みに来た3人組に聞いたんだけど、俺は君のことを…その…“地味子”って呼んでいたって本当かい?」
高台寺さんはちょっと顔を曇らせたが言った。
「本当よ。あと、“近寄るな”とか…まあ、そんな感じだった」
「…………」
「…………」
お互い無言になったが、私は慌てて謝罪した。
「…あ、ああ。そうだったんだね。教えてくれて助かるよ。
それと…本当にごめんなさい」
と私は頭を下げた。ここはしっかりと謝罪しなくてはいけない場面だ。
「済んだ話だからいいんじゃない?
今は仲良しなんだし」
私はできるだけ自然に返す。
「そう、そうだね!
あ、だから最初会った時に”無視はするな“みたいな事を言ったのかい?やっとわかったよ」
「そう…でもいいの。変に責めるつもりはないわ」
そう言うと、高台寺さんはにこっと微笑んだ。
柔らかい笑みで安心する。
しかし、この身体の過去の“人格”は、かなり手の施しようがないレベルのクソガキだったらしい。
私が戸惑っていると見たのか、高台寺さんは笑って誤魔化すように続けた。
「本当にもう、いいの。入院してからの藤一郎君は、別人みたいに優しいから…むしろ安心してるくらい」
別人なんだよ。
まさにその通りなんだよ。
しかしそれを言うわけにはいかない。
彼女が続けた。
「これからは、普通に接してくれればそれでいいよ。
無視とか……あんなの、もうしないって約束してくれたら」
「ああ、うん。もちろん」
彼女はふわっと微笑んだ。
その笑みを見た時に、私は何かとんでもない勘違いをしているような、何とも言えない違和感に襲われた。
だが、次の瞬間、その理由に思い当たった。
そうだ。
私も50年以上生きたし、人の心の機微のようなものはだいたい理解しているつもりだ。
その経験で言えば、思春期の男子が女子に対して無視をする状況って、少なくとも、私が思い当たる限りでは一つしかない。
それは決してイジメとかではなく、藤一郎の行動や性格を思えばなおさら答えは一つだ。
それは、藤一郎は高台寺さんに好意を寄せていた。
それを隠すため、虚勢を張るために逆に悪く言ったり無視したりした。
そういうことだろう。
ここは真実を話して安心させてあげなくてはならない。それがせめてもの罪滅ぼしというやつだ。
「俺は…今は第三者の目線になってしまうけど、記憶を失くす前の藤一郎の気持ちは、手に取るように分かる気がするんだ」
そう前置きして、私は一度息を整えた。
「たぶん以前の俺は、高台寺さんのことが好きだった。
いや、好意とかじゃなくて、ちゃんと恋愛感情があったと思う」
彼女は何も言わず、ただ私を見つめている。
「だけど、それをどう扱っていいか分からなくて、格好つけて、強がって…逆のことを言ったり、無視したりした。
子供じみてるけど、きっとそうだった」
その瞬間だった。
彼女の目に、ふいに涙が溜まり、ぽろりと頬を伝った。
「あ……」
慌てて言葉を探す私をよそに、彼女は声を詰まらせながら言った。
「それを……それを聞けただけで、救われたわ」
涙を拭おうともせず、彼女は続ける。
「正直に言うね。
もし藤一郎君の記憶が戻ったら、また前みたいに無視されるんじゃないかって……ずっと怖かった。
だから……このまま戻らないほうがいいなんて、そんな酷いことまで考えてた」
これは自分が思っていた以上に、彼女を傷つけていたのだと胸が痛んだ。
「多分だけど……俺の記憶は戻らないと思う」
そう言って、私は彼女の目を見た。
「以前の藤一郎とは違う。
でも……これからの藤一郎として、君とちゃんと向き合いたい。
こんな気持ちでも、一緒にいてくれるだろうか?」
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
泣き顔のまま、少しだけ照れたように。
「……当然でしょ」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが一気にほどけた。
私は改めて、自分自身の今の気持ちを、飾らずに伝えた。
過去の誰かではなく、今ここにいる自分として。
彼女は静かに頷き、ほんの少し距離を詰めて言った。
「じゃあ……これからは、恋人ね」
その瞬間、世界が少しだけ柔らかくなった気がした。
これから私は、彼女のことを「高台寺さん」ではなく
「寧音さん」と呼ぶことにした。




