高校生活④ いきなり失敗 後編
1980年(昭和55年)12月8日
あれから一週間、私は通院以外は朝から晩まで自宅で勉強を続けていた。
高台寺さんは学校を終えてから毎日、私の家に来てくれている。彼女はとても親切に教えてくれており、母も喜んで迎えている。
ただし、以前の私たち二人の関係が、いまだによく分からない。
この人は私のことを「藤一郎君」とファーストネームで呼び、言葉も表情も私に好意を持っているのは疑いようがない。それは恋愛経験の乏しい私でも理解できる。
そもそも、毎日わざわざ我が家に通ってくれている時点で、それは明らかだろう。
普通なら恋人同士と判断しても良さそうなのだが、最初に会った日の「無視はしないで欲しい」という一言がどうにも引っかかっている。ケンカでもしていたのだろうか?
彼女が時折見せる影のある表情も気になるし、どんな関係だったのか、尋ねられる雰囲気ではない。
変なことを言って機嫌を損ね、勉強を教えてもらえなくなるのが不安で、結局、未だに質問できずにいる。
幸いなことに、この頭脳の持ち主の記憶力は悪くない。それは若さのお陰かもしれないが、とにかく、学んだことがよく身につき始めていると実感できている。
それと前世の記憶が呼び覚まされる感覚があったから、意外と何とかなるかもしれない。
事実、優等生と思われる高台寺さんが驚いているのだから。
「藤一郎君がこんなに勉強が得意だったなんて意外だわ。今まではわざと隠していたんでしょ?
仲間の手前、悪ぶっていたというわけね?」
いやぁそれは違いますよとは言えないから、曖昧な笑顔で誤魔化した。
実際にどうだったのかは分からないし。
ただ、最近の私は、よくこの手の曖昧な表情でその場をやり過ごしている自覚がある。
勉強についてだが、数学は時代が変われどそれほど違和感はなかったが、英語は別の意味で難しかった。
私はネイティブレベルではないが、外交や交渉の場で使う国際英語、いわば英国式に近い表現と、アメリカの実務で使われる米語の双方には慣れていた。
だが、日本の英語教育における和文英訳は、意味は合っていても「指定の構文で書かないと不正解」にされたり、単語や語順が「教科書の模範解答とズレたら減点」というルールで運営されている。
例えば『私は彼が部屋に入るのを見た』という日本語と同等の英文は『I saw him enter the room.』が正解とされており、ネイティブが普通に使用する『I saw that he entered the room.』や『I saw him entering the room.』は不正解とされてしまう。
間違いなく完全なネイティブ表現でも、現在の日本では不正解になるのだ。
令和でもそうだったが、文法教育がメインのこの時代は、もっと徹底しているから慣れるしかない。
そもそも、中高で6年も英語を学んでいるのに、英語話者が少なすぎる日本の英語教育は最低で厄介だ。
社会科系はもっと厄介だ。
まずは地名だ。
1980年の現在「さいたま市」なんて都市名はまだ存在していない。
細かい話だと大阪市も区名が微妙に違う。
だから日常会話であっても、発言には気を付けないといけない。
最も大きな変化が市町村の数だ。
令和では全国で1700前後の市町村の数は、この時代には3300も存在している。
よって地名を用いた会話は可能な限り避けるようにしている。
地図はもっと露骨で、新幹線や高速道路はまだ完成していない場所がたくさんある。
逆に令和では廃線になった鉄道もあるから、うっかり会話すると危険だ。
駅名も同じく危険で、「東京スカイツリー駅」などと、うっかり言ってはいけない。「業平橋駅」と、意識を切り替えて正しく言わないと疑われる。
もちろん、新宿その他のビル名なんて絶対に禁句で、どの建物がいつ完成したかなんて覚えているはずがない。かろうじて都庁の第一本庁舎だけは、日本一の高さだった時期があるから覚えているが、あれが完成するのは約10年先だ。
教科書に載っている人物に関する記述も、令和とは違う場合が複数ある。
代表的なのが、昭和時代は定説だった源頼朝と足利尊氏の肖像画だろう。武田信玄もそうだ。令和では別人説が有力になっていた。
また聖徳太子についても定説は大きく変わったし、鎌倉幕府が成立したのは『いい国つくろうキャバクラ幕府』ではなくなっている。
これは東大入試における過去問で出たやつでもある。
科学の世界も同様だ。
代表的な事例は惑星の数で、冥王星は令和において惑星にカウントされていない。
元素記号もそうだ。この時代には自然界に存在するとされていた元素は92番までだった。令和では、118番までが周期表に載り、新しい元素が合成・認定されていた。
恐竜の体温も同様で、現時点で恐竜は変温動物、つまり爬虫類の仲間という見方が支配的だ。これが令和では、羽毛を持つ恐竜の発見や骨の構造研究から、多くの恐竜が恒温性を持っていたという説が有力になり、教科書の記述も変わった。
日常生活では電話番号もそうだ。
携帯電話が無いから「スマホ」が禁句なのは当たり前だけど、固定電話の番号も違う。
多くの地域で市外局番を含めて8桁や9桁が主流だ。これが全国で市外局番を含む10桁が基本となるのは随分先の話なのだ。
とにかく、家族を含めて話す内容には気をつけており、それは高台寺さんに対しても同じだったから会話も途切れがちで、自然と勉強に打ち込む格好になっている。
そんな私たちの様子を、一歳歳下の弟が興味深そうに見ている。
彼の名前は小二郎。
私と違って成績はトップクラスで、有名私立高校を目指しての受験を目前にしている。
「兄さんがそんな熱心に勉強するのは1年ぶりだね。高校に入学してからは見たことがなかった。記憶喪失になるのも、悪いことばっかりじゃないんだね」
などと、妙に感心していた。
以前の話を聞くと、私たち兄弟の仲はとても良かったそうだ。
それに、彼の性格はとても素直で、兄である私を盛り立ててくれそうな、そんな存在になりそうだった。
前世の私は参謀役を務めることが多かったが、私なんかより参謀向きだな。
そう感じた。
12月9日。
家族が外出し、静まり返った家にてひとりで勉強していたところへ、今日も学校帰りの高台寺さんがやってきた。
しかし、なぜか今日は最初から空気がおかしい。昨日までと違う。
その顔は、まるで裁判所に向かう検察官のように固い。
「藤一郎君……さっきニュースで聞いたのだけど」
椅子に座ると、すぐに彼女は切り出した。
「ジョン・レノン、暗殺されたらしいわ。
しかも犯人、チャップマンって名前で、“ミスター・レノン?”って聞いてから撃ったって」
えっ…今日だったのか。
ただ、その感想を口に出す前に、彼女の視線がまっすぐ刺さった。
「ねえ、藤一郎君。これ…先週、私が初めてこの家に来た時に聞いた話と、全部同じなの。
どうなっているのか、説明してくれない?」
息が止まった。
やばい。本当に、やばい。発言には気を付けていたはずだが、あの時は女子高生を前に緊張してしまい、いや…舞い上がってしまって思わぬ墓穴を掘ってしまった。
私は失言を取り繕う政治家みたいな言い訳を、必死に捻り出した。
「ふ、不思議に思うだろ?この前も言ったけど、記憶が錯綜してしまうんだ。
その…夢と現実がごっちゃになる感じでさ。
入院している時に、急にそんな状態になっちゃったんだけど、ジョン・レノンの話も、たぶん入院中の夢で見たような…そんな気がするんだ」
苦しい。
自分でも分かるくらい苦しい言い訳だ。
彼女はしばらく黙ったまま、じっとこちらを見つめていた。
そのまま疑いの色が濃くなるかと思ったが。
「夢で、…ね」
小さくつぶやいた後、彼女の表情がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ迷うような顔をして、そして。
「でも、当たってるのよね?その夢」
そう言いながら椅子の背にもたれ、うつむいてため息をつくような仕草をした。
疑わしいが、私のことを信じたい。
女心はよく分からないが、長年、政治の世界で人の表情を読み続けてきた私には、そんなふうにも見えた。
「夢で見たことが、こうして現実になるなんて、そんなこと、普通ありえないわよね?」
小さく笑ってみせるが、目は笑っていない。
彼女の眼差しは、ゆっくりと確信へと変わっているように思えた。
だめだ。やっぱりここで来る。
絶対に来る。
“あなた、未来から来たの?”という恐るべきセリフが。
「ねえ藤一郎君。もし…もしよ? 本当に未来のことが“見える”としたら?」
一度そこで言葉を区切る。
考えを整理しているみたいだった。
「そう考えれば、全部説明がつくわよね?」
もう目は真剣そのものだ。
これは、もはや万事休すだ。
転生者だと発覚してしまった場合のペナルティは何だろう?家族への暴露、学校への報告、世間から受ける好奇の眼。そして最後は社会的な抹殺。
落選議員より悲惨な光景が目に浮かび、暑くもないのに額から汗が流れるのを自覚した。
そして彼女は黙り込む私に対して、ついに“その言葉”を告げた。
「もしかして藤一郎君…予知能力、持っちゃったの?ちょっと…すごすぎない? やだっ、ノストラダムスみたいじゃないの!」
吉本新喜劇だったら、ここで盛大にズッコケただろう。
何でや。何でそないな展開になんねん?
ご都合主義にもほどがあるだろう。この小説の作者は何を考えているのだ!
それにしても、久しぶりに聞いたぞノストラダムス。1999年第7の月に人類は滅びる。って言い散らかしていたアレだ。
この時代には大ブームになっていたため、信じてしまった人もいたことだろう。しかし結果はご存じのとおり、人類は滅亡することなく生き延びた。
ノストラダムスという呼び方は、フランス語の「ノートルダム」をラテン語風に綴ったもので、「我らが淑女」、つまり聖母マリアを表す語だ。って、そんなことはどうでも良かった…この話に全力で乗るしかない!
私は汗だくになりながらも必死で聞いた。
「そ、そう。そんな感じかもね。信じてくれる?」
「だって、偶然にしては出来すぎてるもの。同じ犯人、同じ状況。夢にしても、ここまで一致するなんておかしいわ。UFOとか超能力の番組だってあるし、予知夢くらい本当にあってもおかしくないよね?」
顔を紅潮させて続けて言った。
「すごいっ!頭を打って記憶喪失になった代わりに、そんな能力を手にしていたなんて凄いわ!
ノストラダムスっていうより、エドガー・ケイシーのほうが近いかもね?どっちにしてもこれから先の未来はお見通しってことね?
じゃあ、今年のレコード大賞は誰が取りそうか分かる?」
彼女はもう大はしゃぎだ。
おいおい、レコード大賞?い、いや?そんな細かいことまで覚えているはずがないし、そもそも芸能ネタは弱い。とりあえず彼女は記憶喪失と絡めて、都合よく解釈してくれているから助かるけれど。
オカルトに理解があるのは都合いいが、あまり頻繁に聞かれてもこれはこれで困る。
ここは全力で修正しておかねばならない。
「あ、あのね?全部が全部、夢に出てくるわけじゃないし外れることもあると思うよ?
実際にジョン・レノンの日付は外しただろう?」
彼女はまだ私から視線を外してくれない。
「そうなのね?でも、大事件なら夢で見る確率も上がるんじゃない?
例えばこれからどんな大事件が起こりそう?」
「えっ?そ、そうだねえ…」
一難去ってまた一難。
これはドツボにはまりそうな予感がする。
だが、何か言わないと彼女は納得してくれそうにない。だが、あまりに身近な話だと後で困りそうだ。
ここは外国の話で誤魔化そう!
「アメリカの大統領が、年明けに民主党のカーターから共和党のロナルド・レーガンに替わるっていうのは当然知っているよね?だったら…就任直後にレーガン銃撃事件が起こりそうだね。たぶん4月になる直前、3月末だと思う」
ジョン・レノンの日付は外したが、こっちは政治家についてだから日付は間違いない。
だけど、つい勢いで言ってしまったが、これもちょっとまずかったかな。
少し断定し過ぎた気がする。もっとぼかしたほうが良かった。
しかし彼女はようやく表情を緩めてくれた。
「そうなのね!来年3月末まで楽しみに待ってるわ」
ふぅ~何とかピンチを脱したみたいだ。
もう本当に発言には気を付けないといけないな。
12月10日
だが、この話はこれで終わらなかった。
翌日も私の家に来てくれた高台寺さんは、勉強の合間にこう言ったのだ。
「夢で未来が見えるって凄くロマンがある話よね?
でも、そうなると、例えば株式相場とか、かなり正確に当てられるんじゃないの?」
こっちの世界に来てからは考えたこともなかった言葉。
女子高生が持ち出す話題としてはズレてないか?
「えっ?株式相場?なんでそう思うの?」
「私のお父さんが、新聞の株式欄を見て”未来が見えたらいいのに”っていつも言ってて、今朝もそんな話をしていたから、ちょっと気になったのよね」
株式相場?そう言われると、確かにそうだ。
もっとも、個別銘柄の細かい値動きまで覚えていない。
そんな都合のいい話なんてあるはずがなく、この小説の作者だってそこまではやらないだろう。
だから、ピンポイントで銘柄を指定した取り引きはできないが、市場全体の大きな流れは知っている。
なにしろ、これから日本経済はバブルに向かうのだ。
未来知識をフル活用すれば確実に儲けられそうだ。それに、世間の流行といったものも先取りできるんじゃないか?
彼女に指摘されるまで気付かなかったが、これから世界は驚くほど変化を続ける!
この波に乗って新しい人生を謳歌する!
新たな目標が出来た私は一層勉強に励もうと思った。
だけど問題はある。
私は高台寺さんにお願いした。
「この話が拡がると困るから…二人だけの秘密にしてくれないか?もちろん俺の家族も含めてね」
その申し出を彼女は嬉しそうに受け止めてくれた。
“秘密の共有”というワードに反応したみたいだった。




