プロローグ⑩ 暗闘 後編
翌1月9日の午前9時。
東京市場が開くと同時に、円は暴れた。
数分のうちに1ドル=160円を突破し、外資系ファンドの自動売買が火を噴いた。経済ニュースは「市場の懸念」と報じたが、官邸の空気はすぐに異様なものとなった。
財務省主計局が差し出した為替介入のメモには、あからさまな遅延と無言の抵抗があった。
「これは……」
片市総理の声は低かった。滝川官房長官は沈痛な面持ちで頷く。
「これはあからさまな報復ですよ、総理。彼らは“市場”を人質に使ってきた」
世論の動揺と、政権の危機を演出するのが目的なのは明らかだった。
翌朝の新聞一面は「片市ショック」、「円暴落、首相改革に黄信号」と一斉に報じた。
ワイドショーは首相について「市場を混乱させた未熟な政治判断」と断じ、コメンテーターがしたり顔で首相を批判した。
ネットでは「財務省を怒らせた報いだ」と揶揄する書き込みが相次いだ。
影響は甚大で、支持率は一週間で20ポイント下落し、連日マスコミは総理を非難し続けた。
1月20日。
夜の官邸で片市総理は、私に呻くように感情を漏らした。
「結局、この国の根幹を握っているのは国民じゃないのよね。通貨よ。通貨を握る者が、民主主義国であるこの国を支配している。だけど、見てらっしゃい。このままでは終わらせないわ」
翌1月21日。
私は民自党の堀幹事長から、幹事長室へ来るようにとの連絡を受けた。
今はとても大事な時で一分一秒が惜しいと感じているのに、何の用なのだろうと訝しく思ったが、幹事長からの呼び出しとなれば応じざるを得ない。
私が民自党本部ビル内にある幹事長室に入ると、中で待っていたのは堀幹事長と、森幹事長代行、そして…前幹事長の明智 光昭だった。
明智 光昭…当選11回を数える民自党の重鎮で、前政権においては守旧派の代表格と目された男だ。
そして今は亡き球磨 慎司元首相の政敵でもあった男で、今では片市の政敵でもある。
当然ながら民自党に約半数近くは存在するだろう非主流派。片市が総理になる前の政権では主流派だった面々の相談役で、指南役でもあると言われる一癖も二癖もある男だ。
片市首相はこの男を嫌っているだろうが、私もこの男は嫌いだ。
私が嫌うその理由は…首相とは違って、生理的に受け付けないのだ。
私の受け止め方だが、この男は食事の仕方が下品だ。
クチャクチャと音を漏らしながら食べる癖があり、会食を共にするのが苦痛だ。野生動物じゃあるまいし、育ちが悪いとしか言いようがない。
それだけでも許せないのに、この男はそれに加えて常に歯を見せ、ニタニタと笑いながら話をする男で、しかも笑いながら辛辣なこと、他人への異議や悪口を平気で言う。要するに気持ちが悪い。
一般社会でニコニコ笑いながら話す人間は現実に存在し、この心理を分析すると、本人の自信の無さなどが背景にあるのだろうが、この男からはもっと禍々しい瘴気のような悪辣さを感じる。
だが、この男は常に悪辣な手段を平気で選びながら百鬼夜行の永田町を生き延びてきた。
そんな明智がニタニタ笑いながら口を開いた。
だが、目は笑っていない。この男はこの使い分けを老獪に行い、生き延びてきたのだ。
「羽柴君。忙しい時に来てもらって悪かったね。
まあ掛けて楽にしてくれたまえ」
堀幹事長と森幹事長代行は、明智のその言葉を待っていたかのように言った。
「では…明智先生。この部屋は自由に使ってくださって結構ですので、私たちはここで失礼します」
明智は鷹揚に頷いた。
おいおい…現幹事長が前幹事長に遠慮してどうするんだよ……逆だろう。
私はそう思ったが、二人の動きは素早いもので、あっという間に幹事長室からいなくなってしまい、私は明智と向き合う羽目になった。
まったく…いまだに民自党の”金庫”は明智に握られているらしい。
この男の用件は想像できるが、明智は私の想像を肯定する内容を口にした。相変わらずニタニタしているから気持ちが悪いが。
「最近、君は頑張っているみたいじゃないか?
お陰で財務省の優秀な官僚たちは私に助けを求めてきている。さて、どうしたものかね?」
ニタニタしながら言うな!と本音では叫びたいが、ここは我慢だ。
「明智先生…改革には痛みが伴うものです。
ですが、その痛みを国民に押し付けるよりは遥かにマシだと信じています」
明智のニタニタは止まらない。
「永田町は、君のような“理想だけで動く者”を何度も見てきた。だが、それだけで生き延びた者は一人もいない。今回の件も、君のその安っぽい正義感が混乱を招いているのだとの自覚は無いのかね?」
ここは逃げるべきではない。正面突破だ。
「感じ方は人それぞれでしょうから、安っぽいか否かについてはコメントしません。
ただし、私は政治家としての信念を貫き、最善と信じる道を歩くことは正しいと感じています。
愚直と言われようとも、不器用と言われようとも、また安っぽいと言われようとも、それを変えるつもりはありません。そして、国民は必ずその変化に気づきます」
明智はニタニタしながら言った。
「そうかね…では私と君とは平行線のままというわけだね?
残念だ。実に…残念だ。
経団連と経済同友会も君に対して憤りを感じるだろうし、もう私には止める手段が無い。
困った。これは困ったことになった」
行間に脅しの意味を込めながら明智は言ったが、こんな脅しに屈しては何も成し遂げることは出来ない。
しかもニタニタしながら言う内容とは思えず、私は嫌悪感を更に強くした。
一刻も早くここから立ち去るべきだ。
「それでは明智先生。他に要件が無ければ私はこれで失礼します」
そう一方的に言って私は幹事長室を後にした。
”後で頭から塩をふってお清めをしておこう”
そんなことを考えていた。
1月21日夜。
私は一人で財務省前の歩道に立った。ビルの明かりは深夜でも消えていない。
この建物の窓の奥では、今でも無数の端末が点滅していることだろう。
私はスマホを取り出し、旧知の新聞記者に短いメッセージを送る。
「匿名情報、現在の円安の震源地は財務省主計局。操作記録あり」
すぐに返信が返ってきた。
「その確証は?」
私は返信する。
「もちろんある。今夜中に送る。発表は君たちの判断に任せる」
私は懐からUSBメモリを取り出し、わずかに笑った。
そこには、省内の機密端末から得られた内部資料が記録されていた。
前田が佐久間という部下ととともに、危険を顧みずに流してくれた情報だ。
これを無駄にするわけにはいかない。
さらには、誰が誰に送ったのかまで明確な指示メール付きだ。
“片市政権に市場の厳しさを教育すべし”
”我らの意向に従わない政治家には退場を促す”
”財務省は男の最後の聖域だ。女が土足で踏み込むのは許さない”
傲慢な官僚の論理が無機質に並んでいた。
これが彼ら財務省の本音なのだ。
翌朝、読経新聞の朝刊一面トップは、この素破抜き記事だった。他社も追随し、HNKも夜のトップニュースで報じた。
「財務省内から為替操作の指示メール」、「『最強官庁』の暗部、暴かれる」、「国民の怒りはどこへ向かうか」
永田町や霞が関に衝撃が走る中、私と面会した片市首相は静かに呟いた。
「これで……ようやく、土俵に上がったと言えるわね」
「はい。ですが、これだけでは勝ったことになりません。官僚の人事権を押さえる必要があります」
「その通りよね。中途半端は一番いけないやり方だわ。この際だから徹底的にやりましょう」
「はい。我々政治家は言うまでもなく選挙の洗礼を等しく受けます。よって結果に対して責任を問われるのです。しかし、官僚には責任を取るなどという発想はありません。それが戦後80年、膿のようにたまっているのですから」
私たちは大きく頷きあった。
日本の未来を希望と前進に変えるのだ。
まずは黒田とその一派を一掃する。
それが私たちの出した結論だ。
かつて私に対してそうしたように、黒田にはどこかの地方で勉強し直していただこう。
そう考えていた。
翌、1月22日。
朝一で前田から携帯に着信があった。
内容は私が想像すらしていない事だった。
「俺に突然、日銀への出向が命じられた。しかもド田舎の事務所だ。佐久間も左遷を食らった…申し訳ないが、これからは力になれそうにない」
私は言葉を失った。
こんなに早くリアクションがあるとは…これは財務省単体で動いている案件ではないな。本能的にそれを感じた。おそらくは明智や財界の重鎮たちも関わっている話だろう。私の目と耳を奪い、復讐しようとしているのは明白だった。
「前田。二人とも俺が何とかするからしばらくは我慢してくれ。短気は起すなよ?」
そう言うと前田はくくっと笑い声を出し言った。
「大昔に短気を起こして財務省を飛び出したお前に、そんなことを言われる日が来るとは思わなかった。
俺は大丈夫だし、お前の力を信じている。だが…油断はするな。連中は何を仕掛けてくるか分からんぞ」
「ああ分かった。用心しておこう。じゃあな」
やはり早めに黒田一派は排除しよう。
私には人事権がある。相手が無茶をするなら私も対抗するまでだ。
1月24日。
今日は土曜日で、久しぶりに休みが取れたのでリフレッシュすることにした。
黒田一派を追放する人事案が完成したのも理由だが、ここのところ忙しく、プライベートなんて全くなかったからだ。
赤坂のバーや財務省前に寄った以外は、全て議員宿舎と首相官邸を往復する日々だったから、世間が浮かれていたであろう正月も、全く印象に残らなかった。
だが、たまには休息も必要だし、観たい映画もあったから一人で外出することにした。
外はあいにくの雨で、人通りは少なかった。
“週明けには黒田一派の異動命令書にサインしよう”
“これで勝負ありだ。財務省は首相の管制下に入る”
そんな事を考えつつ、雨の中を一人で歩いていると、後ろから近づく足音が聞こえた。
次の瞬間、背中から胸にかけて灼けるような熱さを感じた。
”刺された”と意識したのは、道路に倒れこんだ後だった。雨に濡れた路面に私の血が拡がっていく…不思議と路面の冷たさは感じなかった。
たまたま周囲を歩いていた通行人からは、怒声とも悲鳴とも区別の出来ない声が聴こえた。
どんどん呼吸が苦しくなり、意識が薄れていく…これは助かりそうにないなと直感した。
そんな時、私を襲った犯人が耳元でささやいた。
「裏切り者…」聞いたことのない声音だったが、はっきりとそう聴こえた。
その直後、私の意識は途切れた。
お読みいただきありがとうございます。
暗い終わり方でしたが、次回から雰囲気が変わります。
引き続きよろしくお願いします。




