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波を割り進む帆船の船首に、元貴族令嬢のローズは、1人佇んでいる。
一切光源の無い、真っ暗な真夜中の海を眺めながら、何故か貰えた棒付きキャンディを口に含む。ダイレクトな砂糖の甘味が、嫌に懐かしい。
「…………ああ、甘い」
そうつぶやく彼女の瞳に映るのは、真っ黒な空でも、海でも、朝には到着する新天地でもない。
彼女の瞳に映るは新たな出会いへの望み。
特に、新たなジャンクフードとの出会いであった。
「フリッツ、フィッシュフライ、クロケット。――思い浮かべるだけで、心が躍る」
ガリリと飴を噛み砕きながら、獲物を前にした猛獣のような、獰猛な笑みを浮かべる。
それが、強烈な向かい風に煽られてなびく茶色の長髪と相まって、得体の知れない威圧感を放つローズだが、実のところ、追放が決まった時には、少しばかりの不安もあった。
毎日の食事が苦痛だったとはいえ、それ以外は不自由なく暮らせていたのだ。
そんな環境から、その日を生きる暮らしへと、一気に生活水準を落とさねばならないというのは、相当な我慢が必要であるとローズは考えていた。
しかし。
「それにしても、あの極限状態の生活も、案外悪くなかったわね」
彼女はそれすらも楽しんだ。
果てしない空腹と疲労感、心身ともに疲れ果てたあの感覚を、心地よいとさえ思っていた。
彼女にしてみれば、そのような経験をするのは初めてであり、全てが新鮮な体験なのである。
ゆえに。
「機会があれば、またやってみてもいいかもしれないわね」
あの時、ガチで限界を迎えていたリリーが聞いたら卒倒しそうな言葉を、ローズは笑顔で呟いた。
この元貴族令嬢、社交界で揉まれただけあって、案外バイオレンスな性格をしていらっしゃる。
「さてそろそろ中に入りましょう。どうにも海の様子が怪しいことですし」
そう言って、ローズは船が向かう先の、眩い稲光を発する分厚い雲を鋭い目で睨みつけると、麻布で作られた上着を翻し、船の中へと姿を消した。
フィッチスとフレンティアを繋ぐドラス海峡は、直線距離が30km前後と狭く、また比較的穏やかな海であることからこの航路を使用する船は多い。
しかしながら時折嵐が発生する。
それこそ数十年に一度いや100年に一度というとても長いスパンではあるが、発生するのは事実だ。
……運の悪いことに、今日この日、海上では嵐が発生していた。
それも、100年に一度レベルの、大嵐が。
◆
船内に入ったローズは、リズムよく階段を下り自室へと戻る。
ガチャリと音を立てながら扉を開けると、そこには顔面の笑みを浮かべるリリーがいた。
「あ、お嬢様! 何処へ行かれていたんですか? さがしたんですよ?」
「あら、それはごめんなさいね。少し風にあたりに行っていたの」
ローズがそう言うと、リリーは首をかしげる。
「そうなんですか? ……次、何処かに向かわれる時には、事前に私に言ってくださいね」
「あら、それはどうして?」
「どうして、って。私、お嬢様が攫われたりなんかしたら嫌ですよ?」
そして、明後日の方向へ話が吹っ飛んだ。
社交場にて色々な経験を積んでいるローズも、さすがにこの吹っ飛び方には対応できなかったようで、少し口元が引きつっている。
「何故、私が攫われる前提なのかが今一わからないのだけど?」
「そりゃあ、ローズお嬢様が可愛いからに決まってるじゃないですか」
「…………へぇ」
「身長もこんなに低いですし、体重も――」
「ちょっと? 急に抱きかかえないで頂戴」
「ああ、すみません。でも、私でも余裕で抱きかかえられるんですよ?」
声色こそ飄々としたものだが、ローズの方は赤く染まっていた。突然抱きかかえられるというのは、普通に恥ずかしいのだろう。
「絶対攫われるじゃないですか!」
「どうしてそうなるの……」
そして、リリーは相変わらず思考が飛んでいた。
いっそ、何か変なものでも食べたのかというくらいには、普段の彼女とは似ても似つかない。
「お嬢様だって、もし目の前に捨て犬が居たとしたら、躊躇なしに拾うでしょう?」
「それは、私が犬同然の存在だと言いたいのかしら?」
「いいえ! お嬢様の方が可愛いですっ!」
言ってしまえば、明らかにテンションがおかしかった。確かに普段も彼女は元気ではあるが、ここまでぶっ飛んではいない。
ローズの1つ上の庶民生まれながら、やっていいことと悪いことはきちんと理解しているし、いくら身分差がなくなったとはいえ、つい先日まで自分の主だった人間をこのように扱うことはできない。
普段の彼女なら。
不審に思ったローズは、机の上を覗き見る。
するとそこには半分ほど中身の減ったワイングラスと、中身の無いノンアルコールのワインボトルが、鎮座していた。
――どう考えても原因これでしょう。雰囲気にでも酔ったのかしら?
ローズの脳裏に稲光が走った。
「あなた、これを飲んだの?」
「美味しかったですよ?」
あっけらかんと言い放つリリーに、ローズはベチンベチンと背中を叩かれる。息の匂いからして、そこまで大量に飲んだわけではなさそうだが、ほろ酔い状態であることは間違いない。
もちろんアルコール的な意味ではなく、雰囲気酔い的な意味で、である。
というか、いくら力を込めていなくとも、何度も叩かれると背中が痛い。
しかしそれを今の彼女に指摘したところで、どうにもならないことは明白だ。
「…………そう」
ローズは半ば諦めたように、リリーに身を任せた。
その瞬間だった。
「ぅああぁあっ!??」
「――っぐ!?」
突然船が激しく揺れ、どこからか木の軋む音そして誰かの悲鳴と何かが折れるような音が聞こえてくる。
リリーがバランスを崩し床に放り出されたローズは、思い切り強く打ち付けた方をさすりながら叫びをあげた。
「リリー、柱に掴まりなさい!」
「っで、でも!」
「無理なら私の手に――ッ!」
さすがにこんなことがあれば、ふわふわしたリリーの脳内もすっきり晴れるというもの。
とっさに手を伸ばしたローズの腕を、リリーが掴んだと同時に、まるで船が悲鳴をあげているかのようなとんでもない轟音が鳴り響き、海水が一気に押し寄せてきた。
それはまるで濁った水の壁。
荷物や船の一部と思わしき木材混じりの水が、二人へと押し寄せてくる。
「息を止めなさい!」
「は、はいっ!!」
その言葉を最後に、2人は水に飲まれた。