婚約破棄
「調子はどう?」
翌朝、目が覚めたばかりのシリウスに声をかける。
すると、ぼんやりとした彼の表情が、みるみるうちに引きつっていく。
「こ、ここは!?」
シリウスは周りをキョロキョロと見渡すと、枕の横に置いてあった昨日の護身用ナイフを慌てて掴んで胸に抱きしめる。
どうやら、まだまだ警戒心は強いようだ。
「ここは俺の家。昨日倒れた君を運んできたんだ」
そんな俺の言葉に、シリウスの顔が青ざめていき、自身の服を捲って身体を確認し始める。
「大丈夫。怪我の手当てと顔周りの汗を拭いただけで、他には指一本触れていないから」
「…………」
シリウスを安心させるために、穏やかな口調を心掛けながら、彼の不安を取り除くように事情を説明していく。
まだ幼いながらも、シリウスの容姿は人を惹きつけるものがある。
それに目をつけた貴族男性のもとに、売り飛ばされるところだったのだ。
(しかも、売り飛ばしたのは孤児院の院長……。ほんとクソだな)
ゲームの設定資料集に書かれていた通りなら、俺を警戒するのも無理はない。
「お腹は空かない?ちょうど朝食ができたところ……」
「どうして俺を助けた?」
シリウスが俺の言葉を遮る。
「何が狙いだ?」
そして、探るような視線を俺に向けた。
「昨日も言っただろ?目の前に怪我をしている子供がいたから助けた。ただそれだけだよ」
「…………」
「心配なら俺を見張っていればいい」
そして、俺はベッドの側から離れ、ダイニングと一体型になっているキッチンへと向かう。
寝室の扉は開けたままにしてあるので、ベッドにいるシリウスから俺の行動は見えているはずだ。
まだ十分温かいスープを鍋から深皿によそうと、それをテーブルに置く。
すると、いつの間にか寝室から出てきたシリウスがすぐ側にいた。
「ベッドまで運ぶつもりだったんだけど……」
「ここでいい」
「じゃあ、一緒に食べようか」
手に護身用ナイフを握り締めたままのシリウスを椅子に座るよう促し、スプーンを並べてテーブルを挟んだ向かいの椅子に俺は座る。
「さあ、召し上がれ」
そう声をかけるが、シリウスはスープに視線を落としたまま動かない。
毒などが入っていないことを証明するように、俺が先にスープを口にする。
「うん。美味い」
キャベツやニンジンなどの野菜を細かく刻み、薄味で仕上げただけのスープだ。
少し物足りないかもしれないが、病人にはこれくらいのほうがいいだろう。
そんな俺の姿を凝視していたシリウスだったが、しばらくすると自身もスープを口に運び始める。
最初はおそるおそるといった様子だったが、次第に無心でスープを口に運ぶ姿に、お腹が減っていたであろうことを察した。
「おかわりあるよ」
「…………」
無言のままコクリと頷くシリウス。
結局、彼はスープを二回おかわりした。
「体調が戻ったらスープに肉も入れようか」
食後のお茶の準備をしながらシリウスに声をかけると、彼はこちらをじっと見つめながら口を開く。
「あんたは一体何者なんだ?」
「あー、まだ名乗ってなかったね。俺はウィリアム。君の名前は?」
「………シリウス」
目の前の少年が予想通りシリウスであったことに安堵の気持ちが湧き上がる。
やはり、俺の役割は間違っていなかったようだ。
「それで、お貴族様がどうしてこんなところに住んでるんだよ?」
「え………?」
しかし、続く言葉に俺はギクリと動きを止める。
「えっと……どうして?」
「あんたの食べ方は上品過ぎるし、朝からゆっくり紅茶なんて飲むのも貴族くらいだ」
「…………」
シリウスの鋭い指摘に驚き、声も出ない。
前世では庶民だったが、この世界では貴族として生きてきた。
いくら前世の記憶が蘇ったといっても、この二十年で染み付いた所作や習慣は変わらなかったらしい。
「たしかに俺は貴族だけど、すでに家とは縁を切っているんだ。だから、ここに一人で住んでいるんだよ」
「どうして縁を切ったんだ?」
意外とグイグイ聞いてくるな……。
誤魔化そうかと一瞬考えたが、こちらの素性を明かさなければシリウスが安心できないのではと思い直す。
「その、情けない話なんだけど、婚約を破棄されて……あ、婚約ってわかるかな?結婚の約束って意味なんだけど」
「それぐらいわかってる!結婚の約束を破られたってことだろ?」
「うん……」
イリック男爵家の次男として生まれた俺には魔法の才能があり、それは在学中に王室魔術師団への入団が内定する程だった。
そんなエリートコースが約束された俺に縁談が舞い込み、とある伯爵令嬢との婚約が整う。
婚約者のことを俺なりに大切にしていたつもりだったが、卒業パーティーでまさかの婚約破棄を彼女から宣言されてしまったのだ。
突然のことに呆然とする俺。
そして、元婚約者は俺からDVを受けていたと言いながら泣き崩れ、そんな彼女の隣には公爵子息が寄り添っている。
訳が分からないまま、俺は最低なDV野郎として烙印を押されてしまった。
家族は俺の無実を信じてくれたが、すでに根回しがされていたようで、噂は社交界にまで広まっており、このままでは家名を傷付けてしまう。
だから俺を勘当するよう自ら父に頼み込み、そのまま逃げるように王都を出てきた。
「もちろん俺は暴力なんて振るってないよ」
事情を話し終えたあと、シリウスを怖がらせないためにも、そこはしっかりと弁明しておく。
「じゃあ、その女が嘘を吐いたってことか?」
「まあ、そうなるね……」
彼女の嘘を公爵子息が信じたのか、彼女が嘘を吐くように公爵子息が唆したのか……。
どちらが真実かはわからないが、二人が恋愛関係にあったことは間違いないのだろう。
(卒業パーティーで断罪されて婚約破棄だなんて、悪役令嬢だけだと思ってた……)
前世の記憶がある今ならばそんな風に思えるが、当時は人間不信になるくらいに落ち込み、人目を避けてこの森に住むことを選んだのだ。
ちなみに、この家は買い手が付かないまま長年空き家になっており、破格の値段で買い取ることができた。
街から離れている点は不便だが、一人でゆっくり過ごすにはぴったりで気に入っている。
「それがここに暮らしている理由だよ」
話し終えた俺の顔を、紅い瞳がじっと見つめた。
「あんたは悔しくないのか?」
「悔しくないと言ったら嘘になるけど……どうしようもないことだから」
そう言って、俺は苦笑いを浮かべる。
いくらエリートコースだといっても当時は入団前で、公爵子息と伯爵令嬢の大団円に対抗できる力はなかった。
俺が勘当され王都を出て行ったおかげで、慰謝料などの請求がなかっただけマシだろう。
「でも王室魔術師団に入るつもり……あっ!」
何かに気付いたかのようにシリウスが声をあげる。
「じゃあ、あんたは魔術師なのか!?」
「まあ、一応は……」
「俺を騙したんだな!?」
シリウスはテーブルに置いてあった護身用ナイフを慌てて掴む。
彼の反応は正しい。
魔術師ということは、ナイフがなくとも魔法で攻撃することができるのだから。
「あの時は君を助けたくて……。でも、結果的には騙す形になってごめん!」
「…………」
「君に危害を加えないと誓うよ。なんなら誓約魔法を使ってもいい」
俺の必死の訴えに、シリウスはゆっくりとナイフをテーブルに置いた。
「別に……誓約魔法まではいらない」
なんとか俺の気持ちが伝わったようでホッと息を吐く。
「それで、君は……えっと、迷子なのかな?」
次はこちらが事情を聞く番だとばかりに、シリウスに問いかける。
もちろん、シリウスが孤児であり、売り飛ばされそうになって逃げてきたことはわかっていた。
だが、それは前世の記憶で知り得た情報だ。
「………帰る場所なんてない」
吐き捨てるようなシリウスの言葉に、わかってはいても胸は痛む。
「じゃあ、しばらく家に居たらいいよ」
「え?」
「まだ熱もあるみたいだし、これからのことはゆっくり考えればいい」
「…………」
シリウスは驚いたように紅い瞳を見開く。
こうして、シリウスとの共同生活が始まった。