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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾壱話 刈和野駅 (秋田県)
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拾壱之拾肆


 本陣跡と武家町跡を散策した旅寝駅夫と星路羅針、そして平櫻佳音の三人は、この後の行程について話し合っていた。

「次はどこに行くんだ。」

 駅夫が羅針に次の予定を確認する。

「この後は、刈和野出身の俳優さんに纏わる展示室がある温泉施設だな。駅からタクシーで行く予定。」

 羅針が説明する。

「例のあの人か。」

 駅夫が前から話題に上っていた人物を指して言う。

「そう、例のあの人。平櫻さん、どこか寄りたいところありますか。」

 羅針が駅夫に応えると、平櫻にも予定の確認を取る。

「予定どおりで大丈夫です。」

 平櫻は頷いた。

 羅針はタクシーの予約をし、三人は駅へ向けて歩き始めた。


 駅までは10分も掛からない道程である。

 閑静な住宅街の中を三人は歩いて行く。

「なあ、羅針、送迎バスとかないのか。」

 駅夫が歩きながら羅針に聞く。

「一応先方に確認したけど、特に送迎はしてないみたいだね。路線バスも通ってないし、歩いて行くかタクシーを使うか、レンタカーで行くかのどれかしか選択肢はないね。」

「そうなのか。それじゃしょうがないか。」

 駅夫は羅針の答えに納得し、後ろを付いてくる。


 刈和野駅に到着すると、既にタクシーは待ち構えていて、運転手に名前を告げるとドアを開けてくれた。

 平櫻を最初に乗せ、駅夫、羅針の順で乗り込む。少し窮屈だが、10分程の辛抱である。温泉施設までお願いすると、運転手は復唱して車を出した。

 

 車は線路沿いに暫く走り、跨線橋に回り込み、その跨線橋で線路を渡る。線路の反対側には田畑が広がる中に住宅地が点在していた。車はそのまま真っ直ぐ国道13号線を潜り、周りを木々で囲まれた道へと入り、標高が少しずつ上がっていく。完全に山道に入る頃、温泉施設への道へと分岐した。


 あっという間に温泉施設に到着した。

 昔流行った保養施設の様な建物の正面玄関に車を着けて貰うと、一旦ここまでの料金を精算する。タクシーの運転手さんに2、30分で戻る旨を伝え、可能なら待機、不可能なら別の方をお願いしたいと言うと、待機しているので、ごゆっくりどうぞと言われた。

 お礼を言って三人は早速温泉施設の建物へと入っていく。


 一階の入り口ロビーの受付で、俳優の展示室を見学し、動画の撮影をお願いしていた者であることを伝えると、快く迎えてくれた。

 一階に設けられた、俳優の展示室には、一世を風靡したパフォーマンスグループの時代に着用していた衣装や、受賞された数々の盾、出演したドラマや映画のポスター、他の出演者たちと撮影した写真など、ファン垂涎の品々が所狭しと並べられていた。特に代名詞ともいえる刑事ドラマのコーナーには、使用された小道具なども展示され、小さな展示室ながらも、見応えはあった。


 駅夫も羅針もあまりテレビを見ない方だし、この俳優さんのファンという訳ではないので、特に思い入れがある訳ではないが、この俳優さんが出演した刑事ドラマの映画は何作か観たし、彼がパフォーマンスグループに所属していた時代には、路上パフォーマンスの映像として、ニュースなどでも取り上げられていたので、むしろ懐かしいあの頃といった気持の方が強かった。

 平櫻は、刑事ドラマの脇役として存在感のある役者として認識しており、世代は違うが知ってはいた。


「動画のネタが出来て良かったです。」

 平櫻が展示室を一通り見終わった後、二人に向かって言った。

「それは良かった。平櫻さんの世代だと、彼が路上パフォーマンスグループにいたなんて知らないんじゃない。」

 駅夫が聞く。

「ええ、もちろんリアルタイムで拝見した訳ではないですから、知らないことも多いんですが、実は、以前秋田に来た時の動画に、この方に関するコメントが付いて、私が存じ上げないと言ったら、色んな方が色々と教えてくださったんです。その後、色んな動画を拝見したので、ファンという訳ではないですが、今ではよく知る有名人の一人になったんですよ。」

 平櫻ははにかみながら言った。

「なるほどね。俺たちでも上の世代の有名人について多少は知っているのと、大差ないということかな。」

 駅夫が平櫻の言葉に納得する。

「そうなんですかね。……そうかも知れませんね。

 今回刈和野に来ることになった時、以前動画にコメントをくれた方たちのことを思い出して、皆さんにこの俳優さんの故郷のことをお届け出来るなって、期待していたんです。

 ご実家とか、通われた学校みたいな、縁の地には行けなかったですけど、こうやって展示室に来られただけでも良かったです。

 話題作りができたし、良い素材が収録出来たと言うこともありますが、この方について理解を深められたことが、何よりも嬉しいです。」

 平櫻はにこやかに微笑んだ。


 最後まで展示品を熱心に見ていた羅針が漸く見終わると、三人は資料室を出て、受付で礼を言い、待機していたタクシーに乗り込んだ。

「お待たせしました。刈和野駅までお願いします。」

 羅針はそう運転手に告げた。

「刈和野駅までですね。かしこまりました。」

 運転手はそう応えて、車を出した。

 道中、運転手さんからその俳優さんについての蘊蓄があった。学生時代の噂話に始まり、様々な武勇伝が語られた。

「いやー、あん人、ほんと普通の町民みてぐだっけよ。矜持なんてかなぐり捨てで、一緒に大綱引ぎさ参加してんだもの。おら、そったら姿見で、ほんと感動したっけ。」

 運転手は、大綱引きに一町民として参加している彼を見て、心を鷲掴みにされたらしく、特に熱く語っていた。

 タクシーは、来た道を戻るように走り、10分もせずに駅に到着した。


 タクシーを降りた三人は、駅舎の前で話をしていた。

「どこか行きたいところ、寄りたいところはありますか?あの俳優さんが通った学校とか行かなくて良いですか。」

 羅針は、平櫻に聞き、駅夫にも応えを促す。

「はい、大丈夫です。行くと色々ご迷惑をお掛けしちゃうと思うので。」と平櫻。

「ああ、俺も良いよ。」と駅夫。

「それじゃ、このまま宿に戻りますね。」

 そう言って羅針は、宿に連絡をして、峰吉川駅到着予定時間を告げて、送迎をお願いした。予め送迎をお願いしており、時間が決まり次第連絡する約束をしていたからである。「今迎えの人が空港に迎えに行ってるため、少し遅れるけど、迎えに来てくれるそうだ。」羅針は、二人にそう告げた。

「了解。」と駅夫。

「分かりました。」と平櫻。

「それじゃ、ホームに上がりましょう。」

 羅針がそう言うと、三人は公民館のような駅舎の刈和野駅に入って行った。


 この旅何度目かの刈和野駅である。駅夫と羅針にとっては既に見慣れた景色となったが、平櫻はインサート用なのか動画撮影を怠らない。

 やがて、秋田行きの701系がホームに入線してくると、三人は一番前のドアから乗り込んだ。

 駅夫はいつものとおりかぶりつきへ、羅針と平櫻は座席に座った。平日の真昼であるためか、観光客らしき数名が乗車しているだけで、車内はガラガラだった。


 刈和野駅を出ると、すぐに駅夫が羅針へ前を向くように促している。

 駅夫の肩越しに正面を見ると、向こうから赤い車両、そう新幹線のこまちがこちらに向かって来ていて、気が付いた時には新幹線と擦れ違っていた。

 ゴォーっという風切り音が他の音をすべてシャットアウトした。窓ガラスが震える程の轟音が車内に響き渡り、窓の外は白い壁が視界を遮っていた。

 列車全体が空気の圧力に押し潰されるかのような圧迫感を感じたが、それも一瞬の出来事で、次の瞬間にはすでに白い壁は消え去り、車内には静寂が戻り、圧を掛けてきた当の新幹線車両は遙か後方に走り去っていた。


「ローカル線の車両に乗って、新幹線と擦れ違うって、すげぇ迫力だな。」

 駅夫が興奮気味見に言う。

「ああ。」

 駅夫の声が耳に届かなかったのか、それとも聞こうとしなかったのか、羅針はぼそりと言って、写真に撮れているか興奮気味に確認していた。

「凄かったです。」

 平櫻もそう言って、動画の撮れ具合を確認していた。

 三人とも、余りの迫力に心臓が早鐘を打つように鳴っていた。しかし、鉄道ファンである羅針と平櫻の興奮度合いは、駅夫とは比べものにならない程だった。

 新幹線と擦れ違った後の車内には、車両のモーター音と、線路の繋ぎ目を走る車輪のガタゴトという音だけが響き渡っていた。


 峰吉川駅到着までは大した時間は掛からなかった。

 カーブで斜めとなった車両から飛び降りるように、三人はホームへと降り立った。

 一日良い天気に恵まれ、昨日とは打って変わって、もうちょっとで夏日になるかという程の気温に、夏の到来を感じながらも、山からなのか、川からなのか、どこから吹いてくるのか分からないが、時折吹きつける涼風に自然のありがたみを三人は感じていた。

 駅構内や駅前の景色を写真や動画に収めた後、三人は駅舎内のベンチに座って送迎車を待った。


「刈和野は如何でしたか。」

 羅針が平櫻に聞いた。

「はい、とても良い場所でした。大綱引きについても色々学べましたし、こんな小さな町にも歴史があるんだって知ることが出来て、とても有意義な時間でした。」

 平櫻がにこやかに言う。

「ルーレットで出た時は、どこ?って感じで、何もない場所だろって思ってたけど、大綱引きに戊辰戦争の爪痕、宿場町の名残もあって、見所は充分だったよ。」

 駅夫も満足げに応える。

「それにしても、お二人は凄いですよね。刈和野は私にとってあの俳優さんの出身地としか認識してなくて、訪問することもないだろうなって思っていたんです。それこそ、旅寝さんがおっしゃったように何もない場所だろうと思っていました。ところが、実際に来てみたら、有名観光地とは違う魅力が其処此処にあるじゃないですか。それを心から楽しでるお二人に、感心するばかりです。」

 平櫻がそう言って微笑んだ。

「そうですかね?そんなに感心することではないと思うんですが。

 確かに京都や奈良の様な歴史ある場所とか、東京のような遊ぶ場所に困らない地域とか、いわゆる観光地と呼ばれる場所は、確かに見所は多いですが、見せられてるだけですよね。あれを見ろ、これをしろって強要されているように感じるんです。それよりも、刈和野みたいな何もない場所で、自分から見たいもの、体験したいことを主体的に考える方が、よほど旅が楽しめると思うんですよ。だろ、駅夫。」

 羅針が平櫻に説明し、駅夫に同意を求める。

「ああ、そうだな。まぁ、俺にとっては有名観光地も無名観光地も、お前に連れてって貰うだけだから、どっちにしても主体的には楽しんでないけどな。」

 駅夫はそう言って笑う。


「星路さんのおっしゃるとおりですね。自分で観光する場所を探し出すって、大変ですけど、それで素敵な場所に出会ったら、最高に気分上がりますよね。どこでも楽しめるって、そういうことなんですね。勉強になります。」

 平櫻が感心したように言う。

「そうなんですよ。例えば、刈和野で言えば、雄物川のほとりでも良いんですが、ただ流れる水音に耳を傾けながら、川面を滑る鳥の姿を追うだけでも、心が洗われるはずです。都会では感じられない静けさと、時折吹き抜ける風の心地よさ。そんな贅沢な時間こそが、旅の醍醐味なんじゃないですかね。」

 羅針が例示する。

「確かに、送迎車から見た雄物川は素敵でしたよね。あんな場所で日がな一日日常を忘れて過ごすなんて、きっと良い思い出になるでしょうね。」

 平櫻が、羅針の例示を想像して、目を細めてうっとりした。


「私がツアー会社にいた時の話ですが、中国旅行を担当していた際に、とにかく詰め込み詰め込みで、如何に多くの観光地を巡るかが重要だったんですよ。

 中には七泊八日で北京、上海、西安、香港を巡るツアーなんていうのもあって、どこも素晴らしい観光地なんだけど、参加者は観光というより時間との勝負をしている感じでしたね。お客さんもそれが当たり前で、良く付いてきてましたよ。まさに無茶苦茶な時代でした。

 でも、あるお客さんが私に言った言葉は今でも心に残っていて、『これだけの日数で、これだけのものを見せてくれる、君の旅行会社の手腕は賞賛に値するが、出来れば何もしない時間があっても良いとは思わないか。ただ、名もない公園で、日がな一日中国人の生活を眺めるなんていうのも、良いと思うけど。』なんておっしゃってて、その時は、この人は何を言ってるんだろう、ツアーというものをまったく理解していないな、なんて思ってました。

 しかし、今なら分かります。あのお客さんの言葉がまさに金言で、ツアーというものを理解していなかったのが自分だったんだって。旅というのは観光地を数多く見ることではなく、時間を掛けてその土地を見て、非日常を体験することなんだって。

 だから、このルーレット旅では、見るべき場所は押さえるけど、詰め込みすぎないようにしてるんですよ。」


 羅針の言葉に駅夫が反応する。

「おいおい、このルーレット旅が始まった時は、かなり詰め込みだったけど。」

 駅夫が文句を言う。

「あれは、一日で移動と観光しろってルールだったからだろ。詰め込むなって方が無理な話だろ。だから丸一日観光に当てるようにしたんだからな。」

 羅針が反論する。

「そうだっけ?」

 駅夫がわざとらしく首をかしげる。

「そうだよ。だから長崎では廻りきれないからって一泊増やしたんだろ。それともあれか、また詰め込みツアーやるか?俺の十八番、詰め込みプランをやってもいいんだぜ。昔取った杵柄ってやつだからな。1箇所15分、10箇所観光なんてお手の物だぞ。」

 羅針は笑みを浮かべながら、わざと威圧的な口調で駅夫に迫る。

「勘弁してくれって。お前の詰め込みプランはマジシャレになんねぇから。」

 駅夫は両手を挙げて降参した。

「なんだよ、あっさり降参かよ。」

 羅針が残念そうに言う。それに対して、駅夫は舌を出して笑った。


「こいつ、降参はフェイクだな。」

 羅針が拳を振り上げる。

「まあ、まあ、ドウ、ドウ、ドウ。」

 駅夫が馬でも宥めるように羅針を制する。

「俺は馬じゃねぇっての。」

 羅針は歯を剥き出しにして馬の鳴き声を真似た。

「いや、そこまでリアルにやられると逆に怖ぇよ。」

 駅夫は噛みつかれないように身をのけぞらせながら、羅針の肩を押さえ込んで笑った。


 平櫻は二人の様子を見ていて、またいつものが始まったと、微笑ましげに目を細めて笑っていた。二人の半世紀に亘って培われてきた友情に、今まではどこか疎外感を感じていた平櫻だったが、今日一日を共に過ごすうちに、この二人の掛け合いに自分も加わりたいと思うようになった。最初は単に仲良くなりたいという軽い気持ちだった。二人との距離感はまだ良く分かっていなかったが、それでも仲良くなりたいという気持は、次第に願望にも似た強い思いへと変わりつつあった。


 三人は、駅夫と羅針の馬鹿話も含めて、色んな話をした。殆どが旅行に関する体験談だったが、駅夫がよく行くキャンプの話、羅針がツアー会社に所属していた時代の話、そして平櫻が旅行ライターとして経験してきた話など、旅行好きの三人に話題は尽きなかった。

 そうこうしているうちに、車のエンジン音が聞こえてきて、駅舎の外に宿の送迎車が到着した。

 三人は、慌てて荷物を持って駅舎の外へ出て、運転手の若旦那に礼を言って、車に乗り込んだ。


 宿に向かう途中の車内では、刈和野観光の感想を若旦那に報告した。

 やはり、若旦那からも例の地元の俳優に話題が及んだ。若旦那がまだ子供だった頃に、人気絶頂期のその彼が普通に町中を歩いていて、声を掛けたら気さくに返事をしてくれたのがとても嬉しかったと、話してくれた。

 どうやら、彼は地元では気さくなお兄さんという感じだったようだ。今ではおそらく気さくなおじいさんという感じにはなっているだろうが。


 そんな話をしていると、あっという間に宿へと到着した。

 二泊目である三人は、勝手知ったるなんとかで、若旦那に礼を言って、宿の中に入っていった。夕食まではまだ時間があるので、部屋で休むことにした。


「羅針、風呂行かないか。」

 駅夫が部屋に戻るなり、内風呂に行こうと言う。羅針は露天風呂の予約時間は夕飯の後にしていたので、風呂はその時にと考えていた。

「お前、ホントに温泉好きだな。分かったよ、行こうか。」

 羅針は呆れたように応える。


 二人は、内風呂へと向かう。

 日帰り入浴もやっている宿ではあるが、今は誰も入っておらず、完全に二人の貸切となった。

 毎分240Lに及ぶ湯量で、源泉掛け流しの温泉は少し熱めで、歩き疲れた身体に染み渡った。

「やっぱりこれだよ。」

 駅夫が大きく息を吐いて、呟く。

「ああ、気持ちいいな。」

 羅針も隣に浸かりながら応える。

「体調はどうだ。」

 駅夫が尋ねる。コミュ障の羅針が、今日も丸一日赤の他人と同道したのだから、諫早からの帰り道、列車の中で体調を崩したのと同じような症状が出ないか、駅夫は気に掛けていたのだ。

「ああ、別になんともないよ。多少歩き疲れたけど、体調はすこぶる良いな。」

 羅針は首を回しながら、何も問題ないことをアピールした。

「そうか、それなら良いんだけど。何かあったらすぐ言えよ。」

 駅夫は、羅針の返答に安心しつつ、平櫻を羅針が無意識に受け入れ始めたようだと一安心した。

「ありがと。」

「気にするな。」

 二人は、何も言わず、水滴が落ちてくる天井を眺めながら、心行くまで温泉の湯を堪能した。


 風呂から上がった二人は、部屋に戻りノーパソを立ち上げて、作業を始めた。

 羅針は次の目的地である静和しずわ駅でのスケジューリングを詰めていた。これまでは次の目的地へ到着するギリギリまでスケジューリングをしていたが、今回は平櫻という同行者がいるため、大まかでも早めに仕上げる必要があるからだ。

 とは言っても、静和駅までの乗車券は既に手配を済ませ、宿も押さえてあるので、後は現地の観光スケジュールだけなので、どんな場所があって、観光する価値があるかどうかを見極め、選択し、タイムスケジュールを決めていくだけである。


 一方駅夫は、自分のブログを更新し、その後すぐに寝てしまった。テレビがない宿であるため、テレビを見て時間を潰すことが出来ない分、ゆったりと流れる時間を楽しむことが出来るのだが、どうやら、駅夫は睡魔に勝てず、夢の世界へと旅立っていったようだ。

 羅針は、駅夫に風邪を引かないよう毛布を掛けてやった。


 夢中になって調べ物をして、スケジューリングを終え、平櫻にメールで送った羅針は、時計を見て、間もなく夕飯の時間であることに気付く。

 駅夫はまだ昼寝をしていたので、揺り起こして夕飯の時間が迫っていることを告げた。


 二人は大広間へと足を運ぶと、既に平櫻は座って、テーブルに並べられた料理を撮影していた。

 駅夫が、タイミングを見て平櫻に声を掛けると、撮影の手を止めた平櫻が返事をした。

 平櫻も風呂に入ったのか、化粧は落としていなかったが、浴衣に着替えていた。

「それじゃ頂きますか。」

 羅針の言葉で、三人が手を合わせていただきますをした。


 そこへ丁度頼んでおいた昨日とは銘柄の違う地元の銘酒を仲居さんが運んできて、昨晩同様テーブルに置いてあった鍋に火を入れてくれた。

 今夜の先付けは、蓴菜と長芋の梅肉和え、山独活と蕗の金平の小鉢、イワナや虹鱒、鯉など川魚のお造り、そして鮭の粕漬けは定番なのだろうか今日も並んでいた。


 三人は早速銘酒で乾杯をする。

 昨日のキリッとした辛口の酒とは違う、どこかスルッとした飲み口の酒だった。

 平櫻は昨晩同様料理一つ一つを撮影し、一口食べては感想を述べていった。二人もそれに合わせて箸を進める。

 今日は前菜で羅針が蘊蓄を語りたくなるようなものはなく、梅肉の酸味が蓴菜の食感を引き立てているとか、山菜の風味を活かした香ばしい味わいだとか、そんな味の感想を言うだけだった。


 前菜が終わる頃に運ばれてきたのは、虹鱒の木の芽焼きと季節の野菜添え、鱚の天麩羅とアスパラガスのフリット、豚の角煮と新玉ねぎの炊き合わせが並び、今日も進肴は川蟹の蟹味噌甲羅焼きだった。

 モクズガニの蟹味噌の甲羅焼きはこの宿の売りなのだろう、皆楽しみにしていたのか、他のテーブルからも歓声と溜め息が漏れ聞こえてきた。


 そして、良い頃合いになったメインの鍋は、比内地鶏と茸の味噌鍋で、もちろん切蒲英きりたんぽも添えられていた。今日は昨日のモクズガニの出汁ではなく、一般的な鶏肉の出汁で、たっぷりの茸からも良い出汁が出ていた。

「なんだろうな。やっぱり美味いしか出てこない。」

 駅夫が素直な感想言う。昨晩も鍋を食べた感想は「美味い」だけだったことを思い出した。

「確かに美味いしか出てこないな。昨日のモクズガニの出汁も良かったけど、この鶏肉と茸の出汁は切蒲英に良く合うな。定番と言うだけのことはある。」

 羅針も追随する。

「本当に美味しいですよね。鶏肉と茸は食べ慣れているので、ホッとするというか、懐かしい家庭の味って感じですけど、私はモクズガニのお出汁の方が好きですね。あの独特の旨味はちょっとクセになりそうでした。」

 平櫻はそんな感想を述べる。

「そうだよね。昨日のあれは、マジでクセになりそうだった。っていうか、多分クセになってる。」

 そう言って駅夫は笑った。

「確かにそうですね。泥臭さもなく、すっきりした味わいに仕上げていながら、がっつりと出汁の味を感じられる、料理長の手腕に依るところが大きいのでしょうが、確かにクセになりますね。」

 羅針もそう言って平櫻に同意した。


「駅夫、切蒲英ってなんで切蒲英って言うか知ってるか。」

 羅針が蘊蓄を話したそうに言う。

「切蒲英が米から出来てるってのは知ってるけど、名前の由来までは知らないな。切蒲英って言うぐらいだから、蒲英を切ったものなんだろってことぐらいは想像出来るけど、そもそも蒲英自体が分かんねぇよ。平櫻さんは分かる?」

 駅夫は予想を立てようとするが、結局答えに辿り着かず、平櫻に振る。

「ええ、一つは、槍の稽古用に綿で作られた先端に被せるものを短穂たんぽと言って、それに形が似ているからという説と、がまの穂に形が似ているからという二つの説があることは、聞いたことがあります。」

 平櫻が答える。

「流石ですね。他にも色々と説はあるようですが、大体その二つの説が語られてますね。他にも、南部藩の殿様に聞かれた町民が答えたのが始まりだとかいう説もあって、調べると面白いかも知れませんね。」

 羅針は感心したように平櫻を褒め、更に負けじと蘊蓄を一つ加えた。


 その後、鯛の昆布締めときゅうりの酢の物、あきたこまちの釜炊き御飯、モクズガニの味噌汁、香の物としていぶりがっこと大根の浅漬け、青菜漬け、そして最後に水菓子としてメロンとマンゴーのコンポートで締め括られた。


「昨日も思ったけど、最高の夕食だったな。」

 駅夫が水菓子をスプーンで口に運びながら呟いた。

「ああ。なんか贅沢ばっかりしている気がするな。」

 羅針も水菓子をスプーンで掬いながら応える。

「流石人気のお宿、料理も、部屋も、温泉も、どれも全部素晴らしいですよね。」

 平櫻も満足げに言いながら、水菓子に手を伸ばしていた。


「そう言えば、御飯足りましたか。」

 平櫻が大食いだったことを思い出し、羅針が尋ねた。

「ええ、ってやだ、恥ずかしい。御飯のお替わりもいただきましたので、充分足りました。ありがとうございます。」

 平櫻が恥ずかしそうにしながらも、気遣いに対し礼を言った。

「遠慮なんてしなくて良いからね。」

 駅夫も声を掛ける。

「ありがとうございます。本当に大丈夫ですから。」

 平櫻はそう言って、まるでスポーツ選手がクールダウンするように、水菓子を味わっていた。恥ずかしがっていた平櫻も、実は内心、二人に気を使って貰えることが嬉しかった。まだまだ距離感は遠いが、それでも少しずつ近づいているという実感が、二人の言葉尻から感じられたのだ。


 三人はこの後も水菓子を堪能し、会話を楽しんだ。

 明日はいよいよ栃木県への移動である。三人は次の目的地も楽しみにしてはいたが、今この時間を存分に楽しんだ。



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