拾壱之拾
旅寝駅夫と星路羅針の二人は、貸切露天風呂の丸い形をした湯船に浸かっていた。
二人は豪勢な夕飯を済ませた後、露天風呂の予約時間まで部屋で一休みし、この離れになっている露天風呂にやってきた。
ここの温泉は世界的にも珍しい含ヨウ素・ナトリウム・塩化物強塩温泉で、切り傷、様々な痛み、疲労回復に加え、糖尿病にも効能があるというお湯は、茶褐色に輝き、湯の花が舞い、塩分が効いているが、pH値は6.9と然程低くない、ほぼ中性といってもいい値を示している。
「良い湯だな。」
駅夫が空を見上げながら呟く。
空は曇っているため、星の一つも見えないが、梅雨も近いせいか、連日蒸し暑さが続いていたので、近くを流れる雄物川から抜けてくる風が心地良かった。
「ああ。良い湯だ。」
羅針も同じように湯船に寄りかかり、空を見上げていた。
「なあ、平櫻さんってどう思う。」
駅夫が唐突に聞いた。
「どうって?」
羅針は駅夫の質問の意図が掴めず、一瞬考え、意図を測るような目で駅夫を見た。
「そのままの意味だよ。どういう人物と評価するかってこと。」
駅夫は肩を竦め、羅針の本音を聞き出そうとする意図を悟られないように、わざと軽い調子で言い直す。
「そういう意味なら、良い娘だとは思うよ。裏表は然程なさそうだし、為人は良い方に分類出来るんじゃないか。」
羅針が簡単に分析し評価する。
「女性としてはどう見る。」
駅夫が突っ込んだ質問をする。
「女性として?……見た目の美醜を言うなら美人に入るだろうね。その見た目が好きか嫌いかで言えば、好きに入るかな。性格的な部分で言えば好みに大方合致すると言えるかな。人間性ではなく女性として見ても、俺基準の合格ラインだよ。でも、男女の関係がどうとかっていう話なら、俺は完全にないね。」
「どうして?」
「まず、年齢の差がありすぎる。おそらく彼女の両親と俺らは同世代だろうし、それは大いに考慮すべき点だろ。愛に年の差なんてってことをいうなら、年齢の話を抜きにしたとしても、彼女を好きになる大きな理由がないね。
まず、趣味が合うかで言えば、旅行好きという点は合致するけど、俺は遊び、彼女は仕事にしている点で趣味のレベルが違いすぎる。
それと、話題が合うかといえば、まだそこまで彼女を知り切れていないし、世代の違いは時として残酷だからな。互いに歩み寄って合わせようとしない限り、話はほぼ通じないと見て良い。
そして、女性としての性的魅力を感じるかと言えば、彼女に対してそういう感情は湧いてこない。だから、友人関係になり得ても、男女の関係にはなり得ないと、俺は思うね。」
羅針は一言一言言葉を選びながら、自分の感情を分析した。
「なるほどね。お前の言いたいことは良く分かった。流石、良く分析出来てるよ。」
「なんだそれ、馬鹿にしてるだろ。」
「してねぇよ。お前らしいなって思ってさ。」
「俺らしいか。確かにそうかも知れないな。俺の習性、性分みたいなもんだからな。」
羅針は少し照れ臭そうに肩を竦めた。
「そんな分析博士に質問な。もし俺が彼女と付き合うことになったら、お前どうする。」
駅夫が、鎌を掛けるように聞く。
「別にどうとも思わないよ。もし本当にそうなるんなら、互いに本気かどうかを確認はするだろうけど、本気だとすれば、大いに応援するよ。……お前、まさか、本気か?」
羅針は駅夫の方を見るが、相変わらず空を見上げていた駅夫の表情には、別段本気度は見受けられなかった。
「いや、只の仮定の話。お前ならどんな反応をするか気になっただけ。俺も、彼女は良い娘だとは思うし、良い友人になる予感はある。でも、男女って感じではないな。女性として魅力がない訳ではないけどね。まあ、向こうもお断りだろうけど。」
駅夫はそう言って、羅針を見た。その目は笑っていたが、どこか優しさを感じた。
駅夫の本音がどこにあるのかを推し測ることはできなかったが、平櫻を含めたこの三人の関係がどうなっていくのかを、駅夫が本気で考えているのだろうと、羅針は思った。
「そうか。まぁ、そうだよな。でも、本当に彼女は俺たちのことどう思ってるんだろうな。絶対に性的にどうこうってことは、当然ないだろうけど、好感は持ってくれてるんだよな。」
羅針にとって平櫻は、久しぶりに長期間行動を共にする赤の他人であるため、その一挙手一投足、感情の機微は気になるのだろう。嫌われる分には構わないが、攻撃を加えてくるなら反撃も辞さない。そんな感情が羅針の言葉からは感じられた。
「多分な。それがどのレベルの好感なのかは気になるけどな。」
駅夫はそんな羅針の気持を感じ取ってか、煽ることなくさらっと流す。
「好感度下げないように、気をつけなきゃな。」
羅針はそう応えながら、いつもと感じが違う駅夫に違和感を感じていた。なにか言いたいことを隠しているような、そんな気もしたのだ。
羅針は、そもそも駅夫がなんでこんな質問をしたのか測りかねていた。しかし、そんなことよりも、このまま自分たちと平櫻が良い関係を続け、あわよくば駅夫と平櫻がくっついても良いかなと、駅夫の幸せに繋がるなら、そんな未来があっても良いかなと考えていた。
一方、羅針のコミュ障改善に気を揉んでいた駅夫は、平櫻と出会ってからずっと、羅針の感情の揺れ動きに対し注意深く目を光らせていたが。そこでこれを機に、羅針の本心を聞いておこうと思ったのだ。羅針の回答は相変わらず堅苦しい分析口調ではあったが、どうやら、駅夫が心配するような心理状態には陥っていない事を確認出来て、駅夫はひとまず胸を撫で下ろした。
とにかく、平櫻との関係を深化させるにつれ、羅針の心が開いて、彼女と損得なしで付き合える関係になれたらどんなにい良いかと、駅夫は考えていた。
二人は心の内では互いのことを考えつつも、そんなことはおくびにも出さず、当たり障りのない話をしながら、予約時間終了までゆっくりと温泉を楽しんだ。
*
翌朝6時。
羅針は、畳の上に敷かれた布団の上で目が覚めた。
窓の障子を開けると、裏庭の林には朝日が燦々と降り注いでいた。
「ん~お~は~よ~。」
駅夫が朝日に反応したのか、目を覚ましたようだ。
「おはよ。今日も温泉か。」
羅針が聞く。
「ん~。そう~。」
駅夫は眠そうに目を擦りながら、応える。
「温泉の朝風呂は格別だからな。よし、行こうぜ。」
羅針は、駅夫の分も洗面用具を用意してやり、浴衣をきちんと羽織らせて大浴場へと向かう。内風呂は予約なしで入れるのだ。
二人は、軽く汗を洗い流し、湯船に浸かった。源泉掛け流しの熱めの湯が、起き抜けの身体に染み渡る。
「今日も歩くのか。」
駅夫が羅針に聞く。
「ああ。結構歩くだろうな。街の中見て廻るだけだからな。」
羅針が大きく息を吐きながら答える。
「やっぱり歩くのか。」
駅夫が面倒くさそうに言う。
「もし、歩くのが嫌ならタクシー拾っても良いけど、町の中を車の中から見ることになるぞ。」
「まじか。それじゃつまらないな。」
羅針の言葉に、駅夫は歩くことを渋々了承した。
長湯になりそうになるのを堪えて、二人は風呂から上がり、部屋に戻って出掛ける準備をしてから、朝食を摂るために大広間に向かった。
二人が大広間に入ると、テーブルには既に平櫻が座って動画の撮影をしていた。
「おはようございます。」
二人に気付いた平櫻は、動画の撮影を止めて挨拶する。
「おはよう。」
「おはようございます。」
二人はそれぞれ挨拶を返す。
「平櫻さん、今日は相当歩くらしいけど、大丈夫?」
駅夫が開口一番ぼやく。
「はい、大丈夫ですよ。旅寝さんに言われた通り、動きやすい恰好にしましたので。」
平櫻はにこやかに応え、自分の恰好を示す。
「なんだ、準備万端なのか。」
駅夫は平櫻の反応が思った反応じゃなかったのか、少しがっかりしたように言う。
目の前に並んだ朝食は、秋田の朝を凝縮したような品々だった。
まずは、ふっくらと炊き上がったあきたこまちの御飯は白い湯気を立て、その隣にあるなめこと豆腐の味噌汁からは、味噌の香りが湯気と共に鼻腔に運ばれ、優しい出汁の香りが広がる。
大広間には集まった他の宿泊客の食卓からも、箸や器のふれあう音が響いており、時々笑い声が聞こえてきた。
「さあ、頂こうぜ。」
我慢出来なくなった駅夫の一言で、三人はいただきますをして、一口、二口と、お膳に並んだ料理を口に運んでいく。
焼き加減が絶妙な塩鮭は、表面がこんがりと香ばしく、中はしっとりと柔らかい。箸で解せば、淡い塩気と旨味が口の中に広がっていく。小鉢に入った里芋と椎茸の炊き合わせは、じっくりと煮込まれており、箸を入れるとほろりと崩れる里芋が、口の中でねっとりとした食感になり、それが椎茸の深い旨味と調和して、和食とは斯くあらんと思う程である。
「やっぱり、どこもそうだけど、地元のものってのは美味いな。」
駅夫が一つ一つ味わいながら呟く。
比内地鶏を使った出汁巻き玉子は、ふんわりとした食感の玉子と濃厚な地鶏の旨味が絶妙で、山独活と鹿尾菜の胡麻和えは、シャキシャキとした山独活の食感と胡麻の香ばしい風味が、鹿尾菜の旨味を引き立てていた。
香の物として添えられた、秋田名物のいぶりがっこも、脇役でありながらその役割をきっちりと熟し、御飯が進んでしまう。
「どれも美味しいです。一つ一つに丁寧な下ごしらえをしてあるのが良く分かります。」
平櫻もそう言って、味噌汁のお椀を持ち上げ口に運ぶ。
「どれも素朴な家庭料理のはずなのに、丁寧に調理されているから、素材の良さを存分に引き出していますね。」
羅針がそう応じて、いぶりがっことを口に運ぶ。
三人は、郷土料理をふんだんに使った食事を存分に堪能し、最後に濃厚で甘酸っぱいブルーベリーソースが掛かったヨーグルトで締めくくり、三人は朝食を終えた。
三人は一旦部屋に戻り、出掛ける準備を整えて、再び玄関口に集合した。
先に来ていた平櫻は、関西弁を喋る夫婦と談笑していた。二人が声を掛けると、空港で一緒になったと平櫻に紹介された。
駅夫と羅針の二人は夫婦と挨拶を交わすと、夫婦はこれから角館と田沢湖を周り、盛岡に抜けるという。三人は隣駅までだが、夫婦と同行することになった。
五人は送迎車に乗り込み、若旦那の運転で峰吉川駅まで送って貰った。
車内ではお喋り好きの奥様が関西弁で色々と話しかけてきた。旅行の行程はもちろんのこと、これまでの旅行歴や、仕事、果ては三人の関係まで、根掘り葉掘り聞いてきた。関西弁とは不思議な強制力があるようで、自白剤を飲まされたように喋ってしまうのだ。
「ところで、あんたら三人、どないして知りあったん?」
奥様が興味津々で聞いてきた。
「ええっとですね。それは……」
平櫻が少し言いにくそうにしていたのを、すかさず羅針が割り込む。
「偶然、長崎行きの新幹線で隣同士になりまして、それが縁で話すようになったんです。」
羅針は、奥様に気付かれないように平櫻に目配せをした。
「あら、まぁ。それにしてはずいぶん息が合うんとちゃう?長いお付き合いみたいやわ。」 奥様の目が鋭く光る。
「ええ、旅が好きという共通点があって、話が盛り上がったんです。」
駅夫が平然と嘘を補強する。
旦那さんは横で苦笑しながらも、「お前、あんまり根掘り葉掘り聞いたらんなや。若い人らが気ぃ遣うで。」と奥様を窘めたが、全く効果がなかった。
「まぁまぁ、ええやないの。若い人らの話、聞いてるだけで楽しいんやから。」
奥様はどこ吹く風で満足げに笑う。
平櫻が危うく自白させられそうになっていたが、どうにか羅針と駅夫の二人が、三人で口裏合わせのために作った、親しくなったきっかけの話を押し通し、信じさせることが出来た。
そのきっかけとはこうだ。
三人は長崎に向かう新幹線の中で、偶然隣に乗り合わせ、荷物の多かった平櫻を手伝ったことで言葉を交わした。その時、旅寝と星路が気ままな旅をしていること、平櫻も旅行をネタにした動画投稿や寄稿をしていることを互いに知り、意気投合したと言う設定である。
「へぇ、そうなんや。若い女性と男性二人なんてねぇ。意気投合しはったなんて、そんなに旅行好きなんやね。」
奥様は、三人の話を信じてはくれたが、その目は好奇心旺盛な噂話好きのマダムのように、なにか変な想像をして光り輝いていた。
旦那さんでは、奥様の貪欲な好奇心を止めることは出来ず、その後も三人は色んなことを根掘り葉掘り聞かれた。
峰吉川駅に着くと、五人は若旦那にお礼を言って見送り、生野と名乗った夫妻とは、列車が来るまで駅前で記念撮影をしたり、構内で写真を撮ったり、思い思いの時間を過ごした。
「奥様と、すごく仲がいいですんね。」
平櫻が夫妻の記念写真を撮りながら話しかけると、旦那さんが照れたように笑う。
「まぁ、ええ女房やけど、ちょっとしゃべりすぎやな。」
「なんやて?そんなこと言うたら晩御飯、抜きにしたるで!」
奥様が旦那さんを笑いながら叱る。
「お前、宿の飯一人で食う気か?そんなんしたら、ふ……」
旦那さんが、その先を言おうとして、奥様の形相に気付いて口をつぐんだ。平櫻は駅夫と羅針の茶番とは違う、本格的な夫婦の掛け合いに圧倒されていた。
列車到着の時間が迫り、五人がホームで待っていると、間もなく湯沢行きの701系が入線してきた。
「素敵なご主人ですね。」
平櫻が、列車に乗り込む時、線路がカーブになっているため、車体が斜めに停まっていて少し乗りにくいのを、生野のご主人が奥様の手を取って乗せてあげていたのを見て、羨望の眼差しで呟いた。
「お嬢さん、お手をどうぞ。」
それを聞いた駅夫がそう言って、平櫻に手を差し出す。
「あ、ありがとうございます。なんか催促したみたいになっちゃって。すみません。」
平櫻は戸惑いながらも、駅夫の手を取り乗り込んだ。
「駅夫、それセクハラだぞ。」
羅針が冗談半分で言う。
「だ、大丈夫ですよ。手を取って貰ったぐらいで、セクハラなんて言いませんから。」
駅夫より先に、平櫻が慌てて否定してきた。
「だそうだ。羅針。」
駅夫が、どこか勝ち誇ったように言う。
「平櫻さん、嫌ならはっきり言った方が良いですよ。」
羅針が悔しそうに続ける。
「平櫻さん、気にしなくて良いよ。あいつ嫉妬してるだけだから。」
駅夫が羅針をからかうように笑う。
平櫻は、これは二人が巫山戯ていて茶番なんだと思い至り、「もう、二人とも子供みたいですよ。大人しく乗ってください。」と、ピシリと言ってみた。言った後、恐る恐る二人の顔を見ると、やられたとばかり、駅夫はおでこに手を当てて、羅針は驚いたように目を見開いていた。
「すみません。」
そう言って羅針は慌てて列車に乗り込むと、三人は誰からともなく笑い出した。
列車は、五人が乗り込むとすぐに走り出し、田園地帯の中を走り抜けていった。
一駅だけの三人は立ったまま、生野夫婦はロングシートに座っていた。奥様のお喋りはまったく止まらなかった。次の刈和野駅に着く瞬間まで続いたお喋りを遮り、三人はお礼と再会を願って別れを告げ、夫妻が乗った列車を、視界から消えるまで見送った。