拾壱之捌
ここで時間を2日前に戻そう。
平櫻佳音は、諫早のアエル商店街の居酒屋で、旅寝駅夫と星路羅針の二人と飲んだ後、微酔い気分で自宅へ戻ってきた。
紳士的な対応をしてくれた二人に対し、佳音は感謝の気持ちを抱いていた。初めて出会ったばかりの男性二人と一緒に飲みに行くことに一抹の不安を感じてはいたが、二人の存在が次第に彼女の心の中で大きくなっていたので、後悔はないし、むしろ感謝の気持ちが勝っていたのだ。
二人との出会いが、佳音にとって大切なものであると、なんとなく本能的に悟っていたからなのかも知れない。
しかし、出会いは最悪だった。
鹿児島の実家から帰ってくる時、そんなにいらないと言ったのに、母親が持ちきれない程の荷物を持たせ、送り出したのだ。新幹線の中でもかなり周囲に迷惑を掛けながらも、なんとか新鳥栖駅でリレーかもめに乗換え、漸く乗り込んだ列車で、星路のタブレットを壊してしまったのだ。
列車が大きく揺れたのが原因だったのだが、そんなこと言い訳にもならないことは佳音自身が良く分かっていた。
星路のタブレットの状態を良く見てはいなかったが、おそらくもう使い物にならなくなってしまっていると思われる。運悪く瓶類の入った一番重たいトランクがタブレットの画面に突き刺さるように倒れていたのだから、壊れ方は尋常ではなかった。
本当に申し訳なく、平謝りに謝ったが、謝って済むものではない。
幸い、星路はとても穏やかに対応してくれ、保険会社との交渉もすべてやってくれた。話し方は非情に冷たく、冷酷な感じがしたが、その中に見え隠れする優しさに、思わず厳しくも優しい薩摩隼人である父親の姿を重ね合わせてしまい、涙を浮かべてしまった。
佳音は自分のやってしまったことと、星路の優しさにつけいるように手続きをすべて任せてしまったことに、申し訳なさと、後ろめたさと、後悔と、その上言いようのないモヤモヤした感情に苛まれていた。
自宅に戻った佳音は、化粧も落とさず、ベッドに突っ伏して、溢れ出る涙を止めることも出来ず、泣き明かした。這々の体で持ち帰ってきた大量の荷物に手を付けることも出来ず、翌日を迎えてしまったのだ。
既にお昼近くなっていたが、変な恰好で寝ていたせいか、身体の節々が痛みで悲鳴を上げていた。佳音はベッドから起き上がり、昨日帰宅した時のままだった服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
まだ頭がぼぉーっとしていたが、髪を乾かしながら、大量の荷物を開けて、冷蔵の必要なものを冷蔵庫に入れ、その中から材料をいくつか選んで簡単に昼食を作って食べた。
まるで二日酔いでもしているかのようにぼぉーっとする頭で、気怠さを感じながらも、食器を片し、気分転換にでもと、すっぴんで散歩がてらに、いつもよく行く諫早公園へと向かった。
ここは、気分が落ち込んだ時も、良いことがあった時も、佳音のすべてを受け入れてくれる場所であった。いつものように有明海や雲仙岳を眺めようと展望台へと足を運んだのだ。
まさか、そこで星路と旅寝の二人に再会するとは思いもせず。
二人の姿を認めた佳音は、フリーズしてしまった。
一晩泣きはらし、気持ちが漸く落ち着いたはずだったのに、今は早鐘のように心臓が打ち鳴らされ、再び申し訳なさと、後ろめたさと、後悔と、言いようのないモヤモヤした感情が入り交じって、頭に血が上っていた。
気が付いた時には、二人の旅に同行したいと言い出していた。佳音自身なぜそんなことを言い出したのか、はっきりと理由を言うことは出来なかったが、おそらく申し訳なさから、何かしたいという気持ちが沸き起こったのだろう。
星路は完全に渋っていたし、旅寝もそれに同調していた。当然である、30代半ばとはいえ独身の女が、男性二人の旅に同行するなんて、例え疚しいことがなくても、世間の目は非情であるし、万が一問題が起こった時に、今回以上の迷惑を掛けることは想像に難くない。男性であれば若い女性からの申し入れに警戒するのは当然のことである。
佳音は、同行することを諦めようと思ったが、それでも何かをしたいという気持ちは消せず、どんな条件でものむからと食い下がってしまい、星路から契約書を交わすという条件を引き出してしまった。
佳音は、契約書という言葉を聞いて、大事にしてしまったことに気付き、申し訳なく思いつつも、後には引けずに同意をした。
その後は、二人をアテンドして、諫早公園を廻り、商店街の文房具店を案内し、契約書の草案作りのため喫茶店に寄り、その後食事をして、居酒屋にも行った。
佳音は、もし二人に騙されて、どこかに連れ込まれ、何かをされても、それは自業自得だと思っていたし、それで二人を訴えようとも思っていなかった。むしろ、そうなった方が気が楽だったかも知れないとまで考えてしまった。
しかし、そんな懸念は取り越し苦労であった。二人は紳士的で、ビジネスライクで、女性の扱い、いや小娘のあしらい方を心得た老紳士だった。
だが、無理難題をふっかけて佳音に諦めさせようとしたのかも知れないような、そんな手練手管の企みに佳音は乗らずに食い下がったのだ。普通の小娘なら契約書だとかなんだとか言われたら、躊躇して引いてしまうのだろうが、佳音はむしろその誠実さに、安心感を覚えた気がして、二人を信頼し、契約することにしたのだ。
これが、星路と旅寝の二人旅に佳音が同行することになった顛末である。
居酒屋から帰ってきた佳音は、自宅に戻り荷物を散らかしたままにしてあった部屋の惨状を見て、夢の中から現実に戻ってきたような気がした。
自分が一体彼ら二人と何を契約し、何をしようとしていたのか、そして何をしようとしているのか、今になって、とんでもないことを二人に要求し、更に迷惑を掛けようとしていることに思い至り、恥ずかしさと、申し訳なさと、色んな感情が入り交じり、再びベッドに突っ伏して、火照る顔を枕に埋めた。
翌朝、早めに起きた佳音は、散らかしたままにしていた実家からの荷物を片付け、明日から同行することになった、ルーレット旅の準備をした。飛行機の手配、宿の手配、移動のタイムスケジュールを確認し、日程表を作り上げる。
いつも、動画の撮影、雑誌や旅行本の取材などで慣れているので、然程苦もなく手配出来た。ましてや、今回運が良かったのが、なかなか予約が取れない秘湯の宿に連泊出来ることが決まり、それも何か運命のようなものを感じた。
長期旅行に行く前には、冷蔵庫の中身などを整理してしまうのだが、今回は実家から大量の食糧を持ち帰ってきたばかりで、とてもじゃないが食べきれる量ではなく、仕方ないので、すべて冷凍処理をした。こんなことも時々あるため、いつも使っている冷蔵庫の他に、冷凍専門の冷凍庫も別に持っているのだが、そこへフリーザーバッグに詰め替えた食料品を片っ端から仕舞っていった。
そんなことをしていると、保険会社の担当者から電話があった。
担当者からは、先方との協議が済み、保険金の支払い手続きを残すだけになったことが告げられた。佳音は、担当者にお礼を言って、電話を切った。
おそらく、今日道中で修理の手続きをした星路が、担当者と連絡を取ったのだろう。星路の希望どおりになってくれていることを佳音は願った。
その星路から例の契約書と明日のスケジュールについてメールが送られてきていた。昨日の今日でもう出来上がっていることに、仕事が早いなと佳音は驚きつつ、契約書の内容を確認し、指示されたとおり契約手続きを進めた。
丸一日、佳音は部屋の片付け、旅行の準備、仕事の下準備などをして、一日を過ごし、星路とメールの遣り取りを何度かして、契約しスケジュールを詰めた。
そして、いよいよルーレット旅参加の当日、佳音は朝からワクワクしていた。
旅行前にこんなにもワクワクしたのは、本当に久しぶりだった。いつも、大好きな旅行を仕事として、自分で計画し、手配し、記事を書いて、動画や文章にして投稿する。それはもちろん、楽しんで旅行をし、仕事としての旅行を楽しんでいたのだが、しかし、久しくこのワクワク感というものを忘れていたことに、今朝改めて気が付いたのだ。
今朝はバッチリとメイクを施し、戦闘モード、仕事モードになりつつも、今回の旅がそれ以上に佳音の心を浮つかせ、昂ぶらせ、欣快の極みへと連れて行こうとしていたので、冷静ではいられなかった。それが証拠に、部屋の戸締まり確認も、気になって何度もする始末だったのだ。
その反面不安もあった。男性の二人旅に同行することが、佳音にとって抵抗感が完全にないという訳ではないし、二人に迷惑を掛けている可能性を完全に否定しているという訳でもないし、もっと言えば、二人に無理矢理受け入れて貰ったのかもしれないという申し訳なさもあったのだ。
佳音は、旅寝の忠告どおり動きやすい恰好にした。
運動靴にテーパードパンツを合わせ、上はカジュアルシャツにジャケットを羽織った。荷物は長期間になることも予想し、いつもより少し大きめの30Lのバックパックを背負い、愛用しているサコッシュを肩から提げ、キャップを被り、ポニーテールにした髪を後ろから垂らした。
いつもの旅行とは勝手が違うため、忠告どおり、恰好も普段の女性らしさや見栄えよりも動きやすさを重視した。只、動画も撮影するつもりでいるため、視聴者はいつもと違う佳音にどういう反応を示すか、興味半分、怖さ半分といった気持ちが湧いていた。
旅立ちの朝としては、生憎の曇り空で今にも雨が降り出しそうな雨模様だ。飛行機が無事に飛ぶかどうか少し心配したが、今のところ欠航や遅延といった情報は入っていない。
佳音は、本諫早駅より島原鉄道で諫早駅まで出る。
丁度朝のラッシュ時間であるため、大きな荷物を持った佳音は邪魔にならないよう気をつけながら乗り込んだ。
3分も掛からない一駅だけの乗車時間だが、この島原鉄道があるかないかで、便利さは格段に異なるのだ。現在島原鉄道は諫早駅から島原港駅間の43.2㎞を運行しているが、過去には加津佐駅迄の35.3kmが島原港駅から延びていたという。佳音は、島原鉄道全線がその時廃止にならずに済んで良かったと、いつも思い、一駅だけでも出来る限り乗るようにしてはいるのだ。
諫早駅からは、長崎県営バスで長崎空港まで直接行くことになる。佳音は、駅を出て東口のバスターミナルへ向かい、3番バス乗り場に並ぶ。
バス停に並び、駅前の光景を見ていた佳音は、ふと、あの二人が諫早を充分堪能できたのか疑問に思った。自分のせいで、諫早に嫌な思い出を作ってしまったのではないか、そんな考えが頭に浮かんできたからだ。
もし、もっと時間があれば、もっと色んな所に二人を案内出来たのにとも思ったが、あの時のあの精神状態では、楽しんで案内することなど、おそらく出来なかっただろう。比較的よく知っている諫早公園ですら、上手く案内出来たかどうか怪しかったのに。余りよく知らない場所なら、尚更案内出来る自信はないし、もちろん出来ないだろう。
長崎県営バスの赤い車両に乗り込むと、時間どおりに出発したバスは、東口ロータリを出て、長崎本線の線路を潜り、国道34号線をひたすら長崎空港へ向けて走っていく。
バスに揺られながら、佳音の脳裏には色んなことが浮かんでいた。
この旅に自分のような小娘が参加しても良かったのか、本当に保険を使って弁償するだけで良かったのか、本当に星路は佳音の謝罪を受け入れてくれたのかなどなど、考えれば考える程次から次へとネガティブな考えが浮かんでくるため、佳音の心に今朝沸き起こっていた、この旅に対するワクワク感がドンドン薄れ、不安だけが残っていた。
ややもすれば気持ちが沈みそうになり、キャンセルして帰りたくなる程、気持ちが不安で苛まれてしまったが、それでも、佳音の心の中では、星路に対する謝罪と感謝と報謝の気持ちが、その不安を押し退け、佳音を奮い立たせたようとしていた。
佳音は、次から次へと湧き上がる不安を払拭するために、バッグからタブレットを取り出し、今回の取材ポイントを纏めたファイルを開き、星路と昨日詰めた予定表と照らし合わせながら、動画の撮影ポイントやその時の台詞、紹介内容など、原稿の最終チェックをしていき、仕事モードに無理矢理自分を切り替えた。
なんとか落ち着きを取り戻した佳音を乗せたバスは、大村駅を出て、大村湾に浮かぶ長崎空港へと渡る連絡橋、箕島大橋を走っていた。
佳音はタブレットをバッグにしまい、降りる準備をした。少し荒れている大村湾を見て、再び不安に駆られそうになるが、それでも今はその不安を克服し、再びワクワクした気持ちを取り戻すことが出来ていた。
長崎空港についた佳音は、早速最初の動画撮影をおこなった。
「ゆくさおさいじゃったもした。ようこそ鉄カノンチャンネルへ。おはようございますカノンです。
今、私は長崎空港にいます。これからサムネイルにもあるとおり、秋田県の秘境へと向かいます。今回の旅はいつもと趣向が異なり、最近知り合うことが出来た、私が尊敬する方たちに同行する旅となります。どんな旅になるのか私も今から大変楽しみにしています。皆さんも一緒に楽しんで下さいね。
今日は珍しく飛行機での移動になります。急遽決まった旅行なのでちょっと急ぎ足の旅です。鉄道旅を楽しみにしていた人はごめんなさいね。でも、宿や食事の紹介はいつもどおりするつもりなので、最後まで是非ご覧下さい。温泉でチラリがあったりするかも?なんてね。では今回も、よろしゅう頼みあげもぉす。」
佳音は予め考えていた台本どおり、長崎空港の入り口脇で撮影をし、手を振ってからカメラを手で塞ぐといういつもの演出をして、撮影を終えた。動画では、この後タイトル画面が入り、オープニング音楽をかけることになる。
動画を再生して、きちんと撮れていることを確認した佳音は、空港建物内に入っていく。
オープニングの撮影をしていた佳音を、通行人が何人も振り返って見ていくため、いまだに恥ずかしさは拭えないが、もう数え切れない程何度もしてきた撮影なので、度胸だけで乗り切った。誰が言ったか女は度胸である。佳音は曲がりなりにも薩摩おごじょであり、薩摩隼人と同じ薩摩の血が流れているのだからと、いつも自分を奮い立たせていた。
オープニングを撮る時に、居酒屋で星路と旅寝の二人に、佳音の鹿児島訛りを指摘され、一生懸命標準語を話しているつもりでも、訛りを隠しきれていないことにちょっとがっかりしたことを思い出していた。二人は何の問題もないし、むしろ可愛いとまで言ってくれたが、やはり、標準語として喋っていた言葉が訛りだと知ると、少しショックである。
そのせいか、今も鹿児島訛りが少し気になってしまったが、いつも〔ゆくさおさいじゃったもした〕で始め〔よろしゅう頼みあげもぉす〕で締めるこのスタイルを採っているのだから、気にしてもしょうがないと、気持ちを切り替えた。このスタイルで10年以上やってきたのだ。訛りは今更である。ネイティブに敵うはずもない。
佳音は、搭乗手続きをして手荷物を預け、保安検査を通り、搭乗口へと向かう。バスが渋滞のため少し遅れたが、搭乗時間には間に合ったので、それほど焦ることなく、搭乗口に到着出来た。
時間になり、搭乗すると、間もなくエンジンがかかり、飛行機がタキシングしていく。
佳音はこの飛行機がエプロンから離れてタキシングする瞬間が好きだった。いよいよ旅が始まる、どんな旅が待っているのかドキドキする瞬間だ。
滑走路を疾走し、空中へフワリと上がると、機窓には大村湾が広がり、その向こうに多良岳山系の多良岳や経ヶ岳が眼下に見えていた。
飛行機はすぐに上空の雲に入り、ガタガタと大きく揺れていたが、雲の上に出ると、漸くシートベルト着用サインが消え、ドリンクサービスが始まった。
佳音はオリジナルの桃と葡萄のミックスジュースを頼んだ。甘すぎず、すっきりした味わいのジュースである。
以前、動画でこのジュースを紹介した時に、「飲む度に桃と葡萄のどちらが勝っているか、口内緊急会議をしてしまう。」なんていうコメントがついた時は一頻り笑ってしまったが、まさに今、口内緊急会議をおこなっている自分にも笑ってしまった。
機内でも動画を撮影し、機窓はもちろんのこと、ジュースの紹介も忘れない。
「このジュース本当に美味しいんですよ。でも、以前、桃と葡萄のどちらが勝っているか口内緊急会議が開かれるなんていうコメントがあったので、そのせいか今私の口の中でも緊急会議が開かれちゃってます。」
佳音はそう言って笑う動画を撮った。
上空には穏やかな初夏の陽射しが燦々と降り注いでいたが、大坂に近づき雲に突入すると、再び機体は大きく揺れ、ガタガタとあちこちで音を立てながら、どんよりとした地上へと降りていった。
機体は大阪伊丹空港へと無事着陸し、佳音はトランジットのため、荷物を受け取りにバゲッジクレイムへと急いだ。
バッグを受け取ると、今度は秋田行きの搭乗手続きをおこなう。
空港内でも、移動のシーン、昼食を摂るシーンなど、差し込み用の映像をいくつか撮影した。昼食にはラーメンを啜った。実際は少し余裕があるので、楽しみながら食べたのだが、動画には時間がなくて慌てているように撮影した。こういうのもちょっとした演出である。
こういう演出をしておくと、後々凸をしてきた視聴者が遠慮会釈なくしつこいタイプだった場合、時間がないのでと切り上げることが出来るからだ。
動画の撮影をしながら空港内を散策していると、案の定女性視聴者に声を掛けられた。今回は感じの良い視聴者だったので、軽く会話を交わした。
最近ありがたいことに旅先で声を掛けられることが多くなった。女の一人旅であるため、声がけは時に怖い思いをすることもあるのだが、佳音はそれでもできるだけ応えるようにしている。
嫌なタイプはすぐに切り上げるのだが。中には、古くからコメントをくれている人との出会いもあり、その時は懐かしい友人と久々にあったように、古い動画の話で盛り上がったりすることもあるのだ。
視聴者と一緒に写真を撮った後、大阪と言えばの豚まんも購入し、それを持って保安検査を通り、搭乗口へと向かう。
機内に乗り込むと、再び空の旅が始まった。
大阪の大都会を眼下に見ながら上昇していく機体は、すぐに雲の中へと突入し、青空の広がる上空へと上がっていった。
上空で始まったドリンクサービスでは、この航空会社オリジナルのビーフコンソメスープを頼む。火傷をしないようにと配慮された温度ではあるが、どこか懐かしさを感じる優しい味わいのスープで、もちろん先程購入した豚まんと一緒に頂いた。
このスープを動画で紹介すると、大抵男性視聴者からは、他社のスープの方が濃くて美味いというコメントがつき、女性視聴者からは、このスープの方が味わい深くて美味しいと、真っ向から対立するコメントがつくのだ。そして、どっちも美味しいと言う中立派からは両方の良さが熱く語られ、三者を巻き込んだ論争が起こるのだ。ある意味コメント芸と化しているところもあるのだが、佳音はそのコメントを高みの見物気分で読むのが楽しくて、好きなのだ。今回もどんな論拠が示されるのかを楽しみにしながら、紹介動画を撮影した。
すっかり雲に覆われていた日本列島を縦断した佳音は、上空から日本列島を見下ろすという、空の旅を楽しむことは出来なかったが、その代わり雲海の上を飛ぶという、空の旅ならではの光景を見ることができた。
再び機体は大きく揺れながら雲を突き抜け、秋田空港へと着陸した。
時刻は14時20分。定刻通りの到着である。
「秋田空港に到着しました。秋田県上陸です。今バゲッジクレイムで、バッグが出てくるのを待っています。このあと、宿の人が迎えに来てくれているので、到着動画はここで撮ってます。宿に着いたらまた動画回しますね。また後程。」
佳音は動画を撮影した後、バゲッジクレイムで荷物を受け取り、到着口から外に出ると、宿から迎えに来た人が宿名を書いたプラカードを持って立っていた。
佳音の他に、ご夫婦だろうか年配の宿泊客が一組いた。
ご夫婦が記念撮影をしたいと言いだしたので、撮影時間を宿の人が作ってくれた。佳音もロビーにあったなまはげの人形と一緒に撮影をして貰ったり、インサート用に動画の撮影を続けたりした。
ご夫婦が撮影に満足すると、宿の人が駐車場から車を回してきて、全員が乗り込み、宿へ向けて走り出す。
佳音は道中も車窓を動画に撮りつつ、宿の人と老夫婦との会話を楽しんだ。老夫婦は奈良の人でバリバリの関西弁、宿の人はもちろん秋田弁、佳音は当然鹿児島弁訛りで、車内の会話は日本語とはいえ、通じているのが不思議なぐらい、どこか国際色豊かな雰囲気になっていた。
賑やかな車内とは裏腹に、車は樹木が覆い茂る閑静な山道を抜けていく。
県道326号を疾走する送迎車は、まるで大自然に溶け込むように、山道を安全運転で大仙市へ向けて駆け抜けていく。
やがて田畑が広がる風景が視界に広がり、車は県道319号へと滑り込む。山々の間を縫うように延びる道を走り続け、ついに丁字路に差し掛かると、右手にハンドルを切った車は、由利本荘方面へと続く国道341号に入る。
この辺りから、ポツリポツリと民家が現れ、青々とした稲穂が風に揺れる田圃の景色が広がっていた。徐々に増えていく民家を横目に、今度は刈和野方面へと向かう県道113号線へと進む。再び静かな山道を走り抜け、雄物川を越えると、目的地の宿はもうすぐそこである。
「やっぱり素敵なお宿ですね。」
宿に到着して、寺社仏閣のような佇まいの建物を見た佳音が思わず感嘆する。
「ホンマ凄いねぇ。写真で見るより素敵やわ。」
老夫婦の奥様が、同調して感嘆している。
老夫婦を玄関前で記念撮影をしてあげると、替わりに佳音も写真を撮って貰った。
二人にお礼を言うと、運転手役だった若旦那が、玄関を開けて中へと案内してくれる。
仲居さんに投宿手続きを引き継ぐと、若旦那は次の出迎えであろうか、再び送迎車に乗って出掛けていった。
佳音はこうして、秋田の秘境にある豪農の自宅を利用した宿に投宿した。
星路と旅寝はまだ到着していなかったようなので、部屋に荷物を一旦置いて、再びロビーに戻ってきた。
玄関から外に出て、表で到着動画を撮影する。
「宿に到着しました。これが今日から2日間お世話になるお宿です。なんと、こちらの建物は登録有形文化財なんですよ。普段は予約が取りにくいんですが、今回はなんと連泊出来ることになりました。パチパチパチ。宿の詳細は画面に出しておきますね。
とても静かな雰囲気で、悠久の歴史を感じられる、とても素敵な場所です。日帰り入浴もあるそうなので、泊まりが難しい方は、是非立ち寄り入浴も検討してみてください。……。」
その後も、敷地内の動画を撮ってから、ロビーに入り、お土産物を見ていると、星路と旅寝が到着したのだ。