拾壱之肆
酒盛りを始めてしまった旅寝駅夫と星路羅針の二人を乗せた、新幹線のぞみ50号は東京へ向けてゆっくりと滑り出すように博多駅を出発した。
雲一つしかない曇天の下、ビルの谷間を縫うように走り出した列車は、徐々にスピードを上げていく。
こうして、5時間程の新幹線の旅が始まった。
駅夫と羅針は、これからの予定を話ながら、十字架の名を冠したお菓子をつまみにビールを飲む。
「この菓子、結構美味いな。よくあるクッキーなんだけど、ちょっと違う。」
駅夫が、一枚つまんで呟く。
「ああ、パリッとした薄皮の食感も良いし、ホワイトチョコの甘さも程よくて、生姜の風味がほんのり香るのが良いアクセントになっているよな。」
羅針も一枚食べて、感想を呟いた。
「そうか生姜か。ビールに合うかと言ったら微妙だけど、この生姜の風味があるから、そこら辺にある甘いだけのお菓子よりはマシな感じになる。」
駅夫はビールを一口飲んでは、お菓子を一口囓り、味わうように言う。
「確かに、生姜の風味がなかったら、一寸ビールには合わないかも知れないな。この微妙な匙加減が良いよな。」
羅針も、駅夫の言葉に同意する。
お菓子をつまみにビールを飲んでいる二人を乗せた列車は、実質九州の玄関口である小倉駅を過ぎ、全長18,713mの関門トンネルを抜けて山口県に入り、本州へ戻ってくると、新山口駅、広島駅と順に停車していく。
駅夫はずっと車窓を眺めながら、ビールをチビリチビリとやっていたが、羅針は博多で購入したタブレットの箱を開け、充電をしたり、色々設定をしていた。羅針のビールはとっくに空である。
「どう、新しいタブレットは。」
駅夫は気になったのか、好奇心満々で羅針に聞いてくる。
「ああ、やっぱり前のヤツとは段違いだよ。あれも使いやすかったけど、反応速度がダンチだね。」
羅針が満足そうに、顔を綻ばせて言う。
「だろうな。あの古いのに比べたら充分だろ。だけど、それでもそれ中堅モデルなんだろ。」
「中堅モデルよりも下がるかな。欲しかったスペックに少し上乗せしただけから。」
「ふ~ん。やりたいことが出来るなら、取り敢えずは充分なのか?」
「まあね。本を読んだり、動画見たりするぐらいで充分なんだけど、こいつはWi-Fi経由でネットも出来るし、パソコンみたいに色々出来るから、スマホを大きくして、電話機能をなくした感じだからね。俺にはちょっとオーバースペックかな。」
「なるほどね。スマホと同じか。画面が大きいのが老眼には嬉しいって感じかな。」
「それは言えてる。文字を大きくしても、スマホみたいにすぐ画面からはみ出さないから、それは確かにありがたい。」
「俺もタブレット買おうかな。スマホだと文字が小さくて見にくいんだよな。」
駅夫が羨ましそうに、自分もタブレットを欲しがる。
「買うのは良いけど、お前何に使うんだよ。スマホだって殆ど使ってないのに。」
「結構使ってるよ。チャットとかSNSとかは一応やってるし、お前程使いこなしてはいないかも知れないけど。」
「それなら、別に止めはしないし、便利だから使いこなせたら最高だと思うよ。そんなに言うなら、明日にでも買いに行くか?」
羅針が思い立ったが吉日とばかりに、早速買いに行こうと言う。
「明日?気が早いな。」
「明日東京駅を10時半に集合だけど、秋葉原で開店と同時に購入してから、上野で乗れば、新幹線には間に合うぞ。」
「でも、秋田新幹線ってたしか全席指定とか言ってなかったか。予約済みなんだろ。もし乗り遅れたらどうすんだよ。」
「もし乗り遅れても、席の変更なんて簡単にできるから、別に良いぞ。」
「ふーん。でも、そこまでしなくても良いよ。どこかついでの時にでも見に行けば。ゆっくり選びたいし。それに明日はゆっくりしようぜ。」
「そうか。それなら良いけど。本当に見に行きたかったら、言ってくれよ。前もって言ってくれれば、いつでも予定に組み込むから。」
「分かったよ。ありがと。」
駅夫は、羅針のこういう柔軟なところがありがたくもあるのだが、時々あまりに柔らか過ぎてビビることがあるのが玉に瑕なんだよなと思いながら、礼を言った。
再び羅針はタブレットに夢中になり、駅夫は窓の外に視線をやった。
間もなく岡山駅に近づいてきた頃、駅夫が羅針に再び声を掛けてきた。
「なあ、羅針、この辺りにさ城が見えるんだけど、あのお城なんだか知ってる?……ほら、あれ、あれだよ。」
丁度駅を通過しようとした時、駅の傍に建つ瓦屋根の立派な天守が見えてきた。
「ああ、あれね。あれは福山城だね。今通過した駅が、当時城の中に造ったって話題になった、福山駅だよ。」
「城の中に駅を造ったのか。」
「そっ。山陽線を敷設する時に、最短ルートで敷くには城の内堀を通すのが妥当だとかなんだとか言って、この場所に駅を建てたらしい。」
「何もここにしなくても、線路を地下に通すとか、やりようはなかったのか。」
「明治時代の話だからな。そんな技術は当然無いし、SLが地下を走ってみろよ、大惨事にしかならねえよ。」
「そうかも知れないけど、SLの煙が直接城に当たるのもどうかと思うけど。」
「確かにな。とはいえ、今は城ってのは保存すべき歴史遺産だけど、当時の人にとっては城なんて邪魔者でしかなかったんだから、そんな扱いだろ。」
「そうか。でもさ、新幹線ができた時は、流石に地下に通す技術は当然あっただろうし、文化財としての価値も認められたんだろ。なんで配慮しなかったんだ。」
「なんでだろうな。予算の問題もあったかも知れないし、既に駅があったから配慮するなんて気持ちが起きなかったのかも知れないし、もしかしたら、新幹線から城が見えれば観光客が来るとでも目論んだんじゃないか。」
「なるほどね。もし、後者だとすれば、目論見は当たってるよ。俺も行ってみたいもん。」
「ルーレットで出せば、いつでも行けるぞ。」
「それはそうなんだけどよ。ルーレット縛り、意外に七面倒臭ぇな。」
「お前が始めたんだからな。」
「だよなぁ。」
駅夫は自分がルーレット旅を始めた手前、文句も言えず、項垂れるしかなかった。
「楽しみにしてれば、そのうち出るって。諫早みたいに。」
そんな駅夫を見て笑う。
「諫早みたいって?……あっ、俺は珍味を楽しみにしてた訳じゃないからな。」
「諫早、楽しみじゃなかったのか。諫早の人に失礼だぞ。後で平櫻さんにも言い付けよ。」
「おいおい、彼女に言うなよ。諫早自体は楽しみにしてたんだからな。」
駅夫はそう言って一生懸命弁護している。
「はい、はい。言い訳も含めて報告しておくよ。」
羅針そう言って笑い、再びタブレットに目を戻した。
「勘弁してくれよ。」
駅夫は縋ってくるが、羅針は笑いながら、設定が終わったタブレットで小説の続きを読み始めた。
中国四国地方の玄関口である岡山駅を出ると、姫路駅で姫路城をチラリと見て、新神戸、新大阪、京都と関西3駅を順番に停車した。
京都を出ると、既に19時を回っていて車窓が暗くなったためか、駅夫がそろそろ駅弁を食おうと提案した。
高級感のある紙袋から、これまた上品な箱に入った明太子の御重を取り出した。
ずっしりと重量感がある弁当で、買った時はほんのりと温かかったが、今は流石に冷めてしまって、賞味期限はあと1時間を切っていた。
包み紙を取り、蓋を開けると、そこには真ん中に一本昆布締めされた明太子が、刻み海苔が大量に散らばる御飯の上に鎮座していた。蓋を開けた途端、海苔の香りがふわっと香り、食欲をそそられた。
タレも付属していたが、二人ともまずはタレなしでそのままの味を楽しんだ。
「めっちゃ、美味い。」
駅夫が思わず声を上げる。周囲からクスクス笑う声が聞こえてきて、駅夫は恥ずかしそうに首を竦めた。
「声を上げたくなる気持ちは分かるよ。めちゃくちゃ美味い。明太子の程よい辛味と、海苔と御飯の相性が抜群だよね。」
羅針は流石に声を抑えながらも、唸るように呟いた。
三分の一程食べ進めた頃、二人は付属のタレを掛けた。さらっとした、出汁醤油のような感じのタレで、昆布の旨味を凝縮させた、少し甘く感じるタレで、これを一掛けすると、まさに明太子の味が際立ち、美味さを引き立たせているようだ。
「タレを掛けると一段と美味くなるな。」
駅夫がタレを掛けてから食べた一口目で、唸るように呟く。今度はしっかり声を抑えた。
「確かに。タレの味が付くんじゃなくて、タレが明太子の味を引き立てて来るっていうのは意外だし、凄い考えられてるんだろうな。」
羅針も一口食べて、感心するように呟く。
「だよな。こんな美味い明太子の御重はそうないよ。」
「ああ、見付けて良かったよ。さっき調べたら、相当人気な店舗の弁当専門店みたいで、本店では相当長い行列が毎日出来てるらしいよ。」
「マジで。それは美味い訳だ。それを並ばずに新幹線で弁当として食えるなんて、最高だな。」
「ホントそれ。」
二人は感心し、目を白黒させながら、美味いを連発して食べ進めていった。
食べ進めるのがもったいなくなるぐらいの味だったが、結局ペロリと平らげてしまった。
「美味かったな。」
駅夫がペットボトルのお茶を飲みながら、満足そうに呟く。
「この明太子の御重を作ってる店はつけ麺もやってて、専門店を池袋にも出してるらしいよ。」
羅針もペットボトルのお茶を飲みながら、このお店についてタブレットで見ていた。
「へぇ。それは是非食べに行きたいね。ってもしかして、それもルーレット次第なのか?」
「そう言うことだな。」
そう言って羅針は笑う。
お腹も満足した二人は、余韻に浸りながら、ウトウトし始めた。腹が膨れれば眠くもなる。いつの間にか二人とも夢の中へと旅立っていた。
気が付いた時には、列車は品川駅に到着しようとしていた。
「おい、品川だぞ。」
羅針が先に気が付いて、隣で寝ている駅夫を揺り起こす。
「ん~。もう品川かぁ。」
駅夫が寝惚け眼で応える。
「ほら、降りる準備しないと。」
羅針が急かす。
「おっ、おう。分かった。」
駅夫が眠そうな声で、目を擦りながら応え、荷物の整理を始めた。荷物といってもゴミを纏めるぐらいであるが。
やがて、列車は品川駅を出ると、既に陽が落ちたビル群には明かりが灯り、その煌びやかな夜景の中をゆっくりと東京駅へと向かう。車内では身支度をする人々が忙しなく降りる準備を整えていた。
東京駅に着くと、二人は降車客に続いて降りていく。降車口の脇でゴミ袋を持って待っている、あの清掃エージェントの女性にゴミを託して、二人はコンコースの方へと向かった。
「駅夫、ちょっとこの後寄りたいところがあるんだけど、付き合わないか。」
羅針が、後ろから付いてくる駅夫に声を掛ける。
「良いけど。どこへ行くんだ。」
駅夫が聞いてくる。
「新幹線の18番、19番ホーム。隣のホームだね。」
羅針が応える。
「そこに何があるんだ。」
駅夫が首を傾げながらも、羅針に付いてくる。
「まあ、行ってのお楽しみ。」
羅針が勿体付ける。
二人は、エスカレーターでコンコースに降りて、再び18、19番ホームに上がってきて、そのまま南側のホーム端まで歩いてきた。
「これだよ。」
羅針が目の前にある祈念碑を手で指す。そこには眼鏡を掛けた男性のレリーフと〔一花開天下春〕の文字が刻まれていた。
「これ?これって何のきね……あっ、博多で見たあのドイツ人技師に揮毫した人だ。」
レリーフの下に十河信二の文字が刻まれているのを見て、駅夫は思い出したようだ。
「そう、元国鉄総裁の十河信二さんのレリーフだよ。」
羅針がしてやったりとばかりに、顔を綻ばせて得意げに言った。
「へぇ、西の端では九州の鉄道の恩人が、東の端では新幹線の父が、こうして鉄道を見守っているんだな。」
駅夫が何かに合点がいったように、頷きながら呟く。
「お、良いこと言うね。」
羅針は駅夫の言葉に感心する。
「ところで、この右下の言葉はどういう意味だ。流石にこれは人名じゃないだろ。」
駅夫は博多で見たヘルマン・ルムシュッテルのレリーフに刻まれた漢字が、この十河信二さんの名前だったことを気にして、羅針に確認した。
「これは、Yi hua kai tianxia chun。日本語だと、いっかひらいててんかはるなりって読むかな。確か十河信二さんの座右の銘で、中国南宋で活躍した虚堂智愚禅師の語録〔虚堂録〕にある言葉だね。意味は、〔長い苦労に耐えて精進したその先に一輪の花が開けば、天下に春の訪れを感じる〕ってことを言っていて、要は苦労して花開けば報われるって事を言っている言葉だね。」
「へぇ。やはり、新幹線の父と言われるだけあって、ちゃんとこうしてレリーフが残されているんだな。この言葉も含蓄あるし、座右の銘にするだけはあるな。……ところで、以前渋沢栄一さんの座右の銘には文句言ってたけど、この座右の銘には何もないのか?」
駅夫が言っているのは、以前本庄駅に行った時、渋沢栄一の生家の隣にあった蕎麦屋で見た、直筆の掛け軸に書かれた〔天意重夕陽人間貴晩晴〕という言葉を見た時の羅針の反応のことで、羅針はその時「人に評価されるために、日々大切に活きることより、自分で自分を評価してやれよ、人の評価なんていらないだろ、自分の人生なんだから。」みたいなことを歯に衣着せずに言い放ち、切り捨てたのだ。
「ああ、渋沢栄一さんの座右の銘のことを言ってるのか。あれは、他人の評価を気にしているような言葉だったからさ。言葉自体は良い言葉だと思うけど、俺は座右の銘にしたくはないってだけの話。」
羅針は、相変わらずズバッと本音を言う。
「ああ、それはこの前も聞いた。で、今回のこれは。」
駅夫もその辺は心得ているのか、そのこと自体に驚きはしないが、二つの座右の銘に対する態度の違いについては気になるのだ。
「これは花開けば天下は春って、そのまんまじゃん。自分の努力が報われたら、そりゃ世の中もよく見えるでしょ。裏を返せば、よく見るために努力して花開かせようぜって話だから、別に突っ込むところもないし、俺が座右の銘にするかどうかは別にして、これを座右の銘にするのは普通のことだと思うけど。」
羅針は別段特別でもなんでもないとでも言いたげな口調で、説明する。
「なるほどね。なんて言うか、別に依怙贔屓している訳じゃないのか。」
「依怙贔屓?なんで?別に渋沢栄一さんをどうこうとかないし、ましてや十河信二さんをどうこうとかも別にないから。単にそれぞれ選んだ言葉が、彼らがそれぞれ生きた時代に合っていたと言うだけで、今を生きる俺に合うか合わないかは別の話ってだけだろ。」
「そう言えば、前もそんな事言ってたな。時代が違うとかなんとか。」
「そうだよ。俺たちが今生きているこの時代に合うか合わないかってだけで、俺たちが子供の時に刺さった言葉も違っただろうし、座右の銘って、時代、流行、世間の空気、生きてきた環境や、その人の目標とかによって、それぞれで刺さる言葉が全部違うからね。
実際、彼らは座右の銘を心の支えにして、渋沢栄一さんは日本資本主義の父、十河信二さんは新幹線の父とまで崇められるようになったんだ。座右の銘がどれだけ彼らの精神を助けてきたのか、推して知るべしだろ。だから、別に座右の銘のどれが良いとか悪いとかはないよ。ただ、俺が気に入るか気に入らないかってだけ。それは俺の価値観だから……。」
「それだけの話ってことか。」
駅夫は、羅針のいつもの言葉を奪い取る。
「そう、そういうこと。」
羅針が、駅夫に最後の一言を言われてしまい、怪訝な顔で駅夫を見るが。言わんとしていることはそのとおりなので、大きく頷いた。
「そう言うことだから、その座右の銘はある意味どうでも良いんだけど、俺が言いたいのは、この十河信二さんの扱われ方なんだよ。実は、このレリーフの建立自体も結構すったもんだがあって、簡単に右から左に建てられたものじゃないらしいんだ。」
羅針が、少し眉間に皺を寄せて、レリーフを見つめるように語り出した。
「どういうこと。」
「この十河信二さんは、新幹線開業前に国鉄総裁だった人で、新幹線建設の計画から資金繰りから何から何まで奔走した人だったんだけど、1962年に荒川区の三河島駅で死者160人の大事故が発生したんだ。結局十河信二さんはこの事故と、新幹線の建設予算大幅超過の責任を追求されて、総裁の椅子から降ろされたんだ。
でも、当時の大蔵大臣だった田中角栄が鉄道建設の公団を作り上げて、国鉄に新幹線建設予算増額を迫ったらしいんだが、その結果は、見ての通りこれだけ立派な新幹線が出来上がったって訳なんだけど、総裁から降ろされた十河信二さんは心中穏やかじゃないよね。
東海道新幹線の開通は1964年10月1日だけど、その日このホームでおこなわれた出発式には十河信二さんは呼ばれなかったらしくて、本人は自宅からテレビでその様子を見てたんだとか。
そんな経緯があったせいかは分からないけど、このレリーフを建てる時も、十河信二さんは、そんなものを建てる必要ないとか、俺の顔に鳩の糞がかかるだけだとか、怒り心頭だったとかいう話で、このレリーフの除幕式にも本人は訪れなかったって話だね。
まあ、色々憶測だとか流言飛語があって、諸説紛々してるから、確かなことは分からないけど、色々と確執はあったような事は言われてるね。」
「へぇ。色々と苦労したのに、報われない人生だったのか。そんなこと聞いたら、この一花開天下春の文字が俄然重く感じてくるな。」
「確かにな。花が開きさえすれば、彼の天下だったのにっていう意味にも取れるよな。」
「そうそう。でも、今やこうして新幹線の父と慕われ、鉄道業界では知らない人はいないんだろ。凄い功績を残したってことだよな。ある意味天下を取ったんじゃねぇか。」
「だね。鉄道業界ではこの人を知らない人はいないだろうからね。ある意味天下を取ったと言えるかもね。日本だけでなく世界の鉄道業界に多大な影響を与えた人ではあるからね。」
駅夫は、羅針の並々ならぬ思いを感じ、この十河信二という人物が如何に凄い人物であったのかを聞くに付け、自分の無知を知り、改めて目の前にレリーフとして刻まれたこの十河信二という人物の生涯に思いを馳せた。
羅針の言葉に胸がジンと熱くなり、暫くは無言でレリーフを見つめ、そして、目の前を行き交うこの高速列車である新幹線を産み出した人物に、改めて尊敬の念と、感謝の気持ちを持った。
「博多でヘルマン・ルムシュッテルのレリーフを見てから、お前にどうしてもこのレリーフを見せたかったんだよ。」
羅針が、駅夫に向かって、複雑な気持ちで、感慨深そうに言った。
「どうして俺に見せたかったんだ。」
駅夫が少し不思議に思って聞いた。
「もちろん、ヘルマン・ルムシュッテルのところで揮毫を見たからと言うのがきっかけだけど、新幹線の父であるこの十河信二さんのことを、鉄道旅を続けるお前にも記憶して置いて欲しくてさ。この人がいたからこそ、俺たちは日本全国どこでも1日、2日で移動出来るんだからさ。」
「なるほどね。この人に感謝しろって事か。お前の言うとおりだよ。俺たち日本人、延いては世界中の高速鉄道を利用するすべての人類が、この十河信二さんに感謝しなきゃ駄目だってことだろ。」
駅夫が分かったような事を言う。
「いや、別にそこまで大きな事は言わねぇけど、まあ感謝すべきだってのは確かだな。俺も含めてな。少なくとも俺は感謝している。それよりも、俺はお前にもこういう人が歴史にいたって事を知って欲しかったんだよ。」
羅針は、駅夫の言葉を聞いて、その通りだなと納得しつつ、駅夫に自分の気持ちをぶつけた。
「さて、十河信二さんへの感謝も捧げたし、家に帰るか。」
羅針がそう言って、レリーフに背を向ける。
「ああ、明日も早いしな。」
駅夫もそう言って、羅針の後に続く。
二人は十河信二さんのレリーフを後にし、乗換え改札口へと降りてきた。
「それじゃ、明日10時半に銀の鈴に集合な。」
羅針が、駅夫に再確認する。
「ああ、分かってるって。遅刻するなよ。」
駅夫が、羅針に釘を刺す。
「そっくりそのままお前に返すよ、その台詞。」
羅針がそう言って笑う。
「分かったよ。じゃぁな。」
駅夫は笑って手を挙げる。
「ああ、じゃぁな。」
そう言って二人は、それぞれの自宅へと帰っていった。