拾壱之壱
6時。星路羅針の起床時間だ。
羅針のスマホがアラームを鳴らした。
いつもなら、アラームよりも前に起きる羅針だが、この日はアラームの音で目が覚めた。昨日は少し夜更かしをしたためだ。
例の契約書の推敲もそうだが、新たに同行することになった平櫻佳音についてどうするかを、旅寝駅夫と遅くまで話し合っていたのだ。もちろん、結論は出てない。結局は彼女次第であるため、結論の出しようがないのだが、自分たちの旅の邪魔にならなければ、彼女がどのようにしようとも頓着しないことにだけは、取り敢えず決めた。
ただ、羅針が起きられなかったのはそれだけではなく、旅の疲れも溜まっているのかも知れないし、平櫻佳音という人物との出会い自体が、思ったよりも羅針の心労に影響を与えたのかも知れいと、羅針は考えた。
なにせ見知らぬ他人と、ビジネスを抜きにしてこれだけの長い時間を一緒に過ごしたのだ。それもトラブルを起こした相手である。詐欺に巻き込まれる可能性を警戒しながら相手をするのは、羅針にとってはハードすぎた。思ったより平櫻に対して気を張っていたのだろう。
そんなことを考えながら、それでも、どうにか目を覚ました羅針は、慌ててスマホのアラームを止めた。
「ん~お~は~よ~。」
アラームの音で目が覚めたのか、隣で旅寝駅夫が伸びをしながら起きだした。
「悪いな、起こしちゃったか。」
「ん~、いいよぉ。時間は?」
「6時。」
「いつもより30分早いだけじゃん。」
駅夫の声は眠そうである。
「ああ、先に洗面所使うか?」
「いや、後で良いよ。」
「そうか。じゃ、お先。」
羅針はそう言って、洗面道具を持って洗面所に行く。頭はまだぼぉーっとしていた。
洗面所からは、羅針が洗面する音が聞こえてきた。
駅夫は、もう一度大きく伸びをして、テレビを点けた。
地元のローカルチャンネルでは、丁度天気予報の最中だった。
「今日は夕方位から雨みたいだな。」
洗面所にいる羅針に向かって、駅夫は声を上げる。
「じゃ、とう……むか……もちそ……な。」
歯磨きをしてるのか、羅針の声はモゴモゴしていて、あまりはっきりと聞こえなかった。
「なんだって。」
駅夫が聞き返す。
「東京に向かうまでは、保ちそうだなって。」
羅針が、歯ブラシを口から出して言い直す。
「ああ、東京はどうなんだろうな。」
テレビでは全国の天気は既に終わっていたのか、長崎の天気予報しか見ることができなかった駅夫が、羅針に聞いてみる。
「昨日の天気予報では、東京は今日いっぱい曇、明日は朝から雨だな。天気予報サイトで確認してみ。」
流石羅針である。それ位は既に把握済みであった。
その羅針がさっぱりした顔で、洗面所から出てきた。「お先。」と言って洗面道具を荷物に仕舞い、パソコンを開いて、作業を始めた。
「そうか、秋田はどうなんだ。」
駅夫は、調べるより聞いた方が早いと、続けて羅針に聞いた。
「明日の秋田は、曇予想だよ。明後日は晴れ予想だから、観光には支障ないだろ。」
「そうか、それじゃ問題ないな。」
駅夫は、羅針の答えに満足して、洗面道具を持って洗面所へと向かった。
テレビでは全国ネットの番組に切り替わり、ペットの紹介コーナーをやっていた。
駅夫が洗面所に消えると、羅針はいつものルーティンに取りかかった。
さっぱりして、洗面所から戻ってきた駅夫が早速尋ねる。
「今日の予定は。」
「今日は、これから下のレストランで飯食って、9時位までまったり出来るかな。昨日も言ったけど9時59分の新幹線で博多に向かうから。
電器屋に寄って修理依頼したら、東京へ新幹線で移動だね。東京行きの新幹線は19時が最終だから、それまでは博多にいられるけど、どうする。」
「それって、東京到着は夜中だよな。それは流石に勘弁だな。今日は家に帰るんだろ。終電間に合うのか?」
「一応間に合うぞ。」
「それなら良いか、ってならないからな。明日だって早いんだろ。」
「まあね。終電は冗談にしても、手続き終わったら、博多ラーメンでも食って、ちょっと観光してから帰れば良いかなとは思ってる。夕方前ぐらいに博多を出る感じかな。」
「まあ、それなら良いか。でも、観光なんてどこ行くんだ。」
「時間もそんなに掛けられないから、適当にそこら辺を街ぶらかな。一応一箇所行きたいところはあるけど。」
「そうか。じゃ、そこ行って。昼過ぎに東京へ移動だな。」
「そうだね。」
「で、明日は。」
「明日は、一応10時半に東京駅集合ってことで。」
「場所は、この前の銀の鈴で良いのか。」
「そうだね。あそこで良いよ。あそこなら分かりやすいしね。」
「了解。」
羅針のルーティンが一段落したところで、二人は階下のレストランで朝食を摂った。
メニューは昨日と変わりない、焼き魚に卵と納豆、それに小鉢とヨーグルトがついている。メニューはありふれた和定食だが、食材は拘っているようで、直契約している地元産のお米に、無添加飼料で育てた鶏の卵、そして農林水産大臣賞を受賞した地元産の最高級味噌を使用していると謳っていた。
昨日も思ったが、流石にどれも美味い。
朝食を終えた二人は、少し散歩をしようと、ホテルの目の前を流れる本明川の川原へと降りた。陽が高くなるにつれ、徐々に気温が高くなり始めていたが、川から吹く風がとても心地よい。
渡り石を伝って川を渡り、広い川原に出て、昔懐かしい石投げをする。
「良し、5回だ。」
駅夫がガッツポーズをしている。
「1、2、3、4、5、6。良し、俺の方が1回多い。」
羅針が負けじと、渾身の一投をかます。
「まじかよ。」
そう言って駅夫が投げた石は、1回で川の中に消えていった。
「あちゃ。全然駄目じゃん。」
そう言って駅夫が嘆き、次の石を探している。
「諦めろって。」
そう言って、羅針は声を上げて笑った。
「悔しいけど、これで今回は勘弁してやる。」
駅夫は、最後の一投とばかりに、そう言って破れかぶれで投げた。
すると、その一投が7回跳ねたのだ。
「よっしゃぁ!7回だぜ。俺の勝ちだな。」
駅夫は嬉しそうに、ガッツポーズをした。
「はい、はい。お前の勝ちで良いよ。まったく負けず嫌いなんだから。」
羅針は呆れたようにそう言って笑う。
二人はその後、上流の方へ川沿いに歩いて行くと、途中、町の鎮守様だろうか、歳神社があった。二人は神社を見ると、自然にお参りしたくなる。これは駅夫の母親が幼い頃から二人に教えてきた成果でもあるかも知れない。
表に立てられた神社の説明書きによれば、五穀豊穣を司る大歳神が祀られており、ここ栄田町の氏神様であり、町に住む人々の生活を守護してくれているという。
創建は江戸時代中期の1715年で、どんな行事かは詳細が記載されていないが〔虫追い行事〕なるものも伝わっているそうだ。これは、源実盛が百姓に討たれたのを恨んで、稲の虫になったという伝説に由来するそうだ。
「なんだ、この虫追い行事って。なんか怖気がする行事だな。」
駅夫が、読んだだけで身震いしている。
「ちょっと聞こえの良くない行事だけど、虫送りとか虫流しとも言ったりして、全国的におこなわれている行事みたいだぞ。要は害虫被害を源実盛の祟りとして鎮魂する行事だな。虫供養とか実盛祭としておこなうところもあるみたいだから、害虫に悩む農民たちの心の拠り所みたいな行事なんだろうな。ちなみに俳句では夏の季語にもなってるらしい。」
羅針がスマホで調べたことを熟々と説明する。
「へぇ、でも具体的にどんなことをやるんだ。」
「一般的には、ワラで作った人形とか、虫を追い立てるようなものを作って、それを担いで、五穀豊穣を祈願しながら村や町を練り歩くみたいだけど、ここではどんなことがおこなわれているのかは……っあ、出てきた。多分これだ。この記事を書いた人によると、赤い旗の虫役を、徹頭徹尾白い旗の駆除役が追いかけ回すらしい。その時の囃子詞が『実盛は死んだぞ』だって。」
スマホで検索をしまくっていた羅針が、歳神社の記事を見付け、それを読み上げる。
「なんだか物騒な祭だな。」
それを聞いた駅夫は、更に怖気がしたのか身震いした。
「確かにな。追い立てられる虫役の人が大変そうだというのは伝わってきたけど、実際見てみたいな。動画とか上がってないみたいだから、一寸残念だな。」
「ブログで募集したら、誰か送ってくれるかな。」
駅夫がそんなことを言い出す。
「ダメ元でやってみ。来たらラッキーじゃん。」
羅針も嗾けた。
説明書きを読み終えた二人は、石造で年季の入った鳥居を脱帽一礼で潜り、よく手入れされている境内を本殿まで行って、参拝した。五穀豊穣の神様なら、願うことは一つ。美味い飯を鱈腹食べられることだ。この願いがブレることはない。
朝からしっかりお願いして、気持ちもすっきりした二人は、神社を後にして川沿いをホテルまで歩いて戻ってきた。
部屋に入って荷物を取り、チェックアウトをした。
フロントの人に、歳神社の虫追い行事について聞いてみたが、先程見た記事以上の情報を得られることはなかった。
二人は、お礼を言って、ホテルを後にし、諫早駅へと向かう。
諫早に来て、もう何度歩いたか、川沿いの道を通って駅まで歩く。知らない土地で、知ってる道が出来るのは、どこか嬉しいものである。
諫早駅に着いたら、自由通路に店を構えている、土産物も扱うコンビニで、諫早土産を物色した。
長崎県らしく、定番のカステラや、クッキー、ケーキ、煎餅などが並んでいたが、長崎で買った、ポルトガルのお菓子でもあるカスドースは見当たらなかった。結構美味かったのに、少し残念だと二人とも思った。
色々土産物が並ぶ中で、特に目を引いたのは、こちらもポルトガル語で十字架を意味する名前のついたクッキーである。
商品ポップには、〔薄く焼いた生地の間にチョコレートがサンドされ、上品な甘さと爽やかな風味が特徴です〕と書かれていた。
長崎駅で見かけた気もするが、それほど印象には残っていなかったそのクッキーは、定番のホワイトチョコレートを挟んだものと、イチゴチョコレートを挟んだもの、そして長崎の観光名所や歴史、文化をモチーフにしたパッケージのものが、それぞれ売られていた。
二人は、その中から定番のものとイチゴのものをそれぞれ購入した。
新幹線の到着までまだ時間があるので、二人は緑色のロゴで有名な喫茶店へ入り、時間を潰すことにした。
羅針はスラスラと注文を通したが、駅夫はもたついていた。
「この店って、長い呪文を唱えないといけないから、ホント注文の時に緊張する。」
駅夫が辟易したような表情で呟く。
「そうか。法則さえ覚えちまえば簡単だけどな。」
羅針が当たり前のように言う。
「そりゃ、お前にとっては簡単かも知らねぇけど、俺にとっては魔法学校の新入生にでもなった気分だよ。なんちゃらかんちゃらレビオーサってな感じでよ。大体どんな法則があるっていうんだよ。」
駅夫がお手上げのポーズをする。
「法則か。法則っていう程でもないけど。まずはメインメニューの、コーヒー、ティー、エスプレッソ、フラペチーノから、ベースを選んで、後は好みでカスタマイズを選択して、ホットかアイスを指定して、サイズを言えば完璧。なっ、簡単だろ。」
羅針がこともなげに、熟々と説明する。
「どこが、なっ簡単だろ、だよ。やっぱり無理。さっきだってどうにかこうにか注文出来たのは、お前のお陰だからな。サイズも、大中小で言わせてくれれば良いのに、LMSですらないって。日本人舐めてんだろ。」
駅夫は、頭から煙を吹き出しそうな表情をして、怒っている。
「そんなに、難しく考えることないよ。間違えたって、ちゃんと店員さんが教えてくれるから。落ち着いて注文すれば良いんだから。」
「そうかも知れないけどさ。まぁ次があれば努力してみるよ。次があればな。」
もう二度と行きたくないとばかりに駅夫は苦虫を噛み潰したような表情になった。
そんなことを言っているうちに、二人の注文したものが出来上がってきた。
羅針はモカのフラペチーノで、チョコチップを追加したもの、そして、散々文句を言っていた駅夫はドリップコーヒーで、カスタマイズはもちろんなしだ。
空いている席に座り、二人は時間まで飲み物を堪能した。とはいっても、駅夫は雰囲気に飲まれて楽しめるような状態ではなかったが。
飲み終わった二人は喫茶店を出て、新幹線改札口に向かうと、一昨日平櫻とのトラブルに対応してくれた駅員さんと遭遇した。
「先日は、お世話になりました。」
二人は挨拶をした。
「ああ、あの時の。あの後大丈夫でしたか。」
駅員が二人のことをすぐに思い出し、心配してくれた。
「ええ。お陰様で何の問題もなく解決しました。本当にありがとうございました。」
羅針がお礼を言って、頭を下げる。
「いいえ。たいしたことしてませんから。でも、お役に立てて良かったです。ところで、諫早はいかがでした。」
「ええ、とっても良いところでした。有明海も綺麗でしたし、食べ物も美味しかったです。また来たいと思ってます。」
「それは良かったです。是非、またいらしてください。これからお帰りですか。」
「ええ、東京まで帰ります。途中博多に寄ってラーメンでも食べて帰ろうと思ってます。」
「博多ラーメンですか。良いですね。是非楽しんでいってください。」
「はい。ありがとうございます。」
駅員に別れを告げて、自動改札を抜けると、新幹線ホームに降りてきた二人は、5号車の乗車目標位置で列車が来るのを待った。
思えばこの諫早では大きな出会いがあった。
平櫻佳音との出会いは、事故の加害者と被害者の関係に留まらない、大きな関係になっていた。今後二人の旅に彼女は大きく関わってくることになるだろうが、その関係が早速明後日から始まるのだ。
彼女との旅に、鬼が出るか蛇が出るか、それは分からないが、二人は既に同行すると心に決めたのだ。例え彼女が詐欺師など犯罪者の類いであったとしても、それは二人にとって神様から与えられた試練であると思うしかない。二人はそう結論づけたのだ。
時間になり、赤いスカートを穿いたN700Sが到着した。二人は列車に乗り込むと、7割方埋まっていたが、どうにか空いている席に座ることができた。
そして、いよいよこの諫早を二人は離れることになったのだ。
諫早駅を出るとすぐにトンネルへと入り、武雄温泉駅まではほぼトンネルの中だ。
15分もかからない乗車時間で、景色を楽しむまでもなく、楽しむ景色もないまま武雄温泉駅に到着する。
二日前、まるで平櫻を護送するように、この路線を使って諫早に向かったその事実が、羅針の心に重くのしかかっていた。羅針にとってはあれが最善策であり、そう判断し、そう行動した。
しかし、彼女と同行する仲になった今となっては、もう少しやりようがあったのではないか、彼女の心にいらぬ傷を付けてしまったのではないか、そのせいで彼女にいらぬ敵愾心を植え付けてしまったのではないか、そんな風に後悔する気持ちが頭を擡げていた。
駅夫と二人してなるようにしかならない、鬼が出ようと蛇が出ようと、彼女と同行することに決めたのだ。今更、〔幽霊の正体見たり枯れ尾花〕でもあるまい。彼女の正体をとやかく考えても仕方がないのだから。そう羅針は自分に言い聞かせていた。
武雄温泉駅に着くまでの15分間、羅針は去来する気持ちをどういなすかに、心を砕いていた。
「おい、顔色が悪いぞ。」
武雄温泉駅に着いて、乗り換えるために立ち上がった時、駅夫が、羅針の顔を見て指摘した。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと疲れが出たのかも知れない。」
羅針は、努めてにこやかな表情を作り、枯れ尾花と格闘していたことは伏せた。
「昨日、ちょっと夜更かししたからな。博多で用事済んだら、少し休もうか。」
駅夫が本気で心配している。
「ありがとう。そうだな。博多まで少し寝れば多分大丈夫だから。悪いな心配掛けて。」
「良いんだよ。気にすんな。」
ホームに降りると目の前には885系のリレーかもめが停車している。もう何度目かの武雄温泉駅における対面乗り換えだ。だいぶ手慣れてきた。手慣れるという程のことではない。目の前に止まってる列車に乗り換えるだけなのだから。
駅夫はいつもなら自分が座る窓際の席に、この時ばかりは羅針を座らせ、そのまま寝るように言う。通路を行き交う人に、羅針の睡眠を邪魔されないようにしたかったのだ。羅針は、駅夫の気遣いにありがたく乗って、座席に座るとすぐに寝息を立て始めた。やはり、よほど疲れていたのだろう。
乗り換えが完了すると、列車は博多へ向けて滑り出すように出発した。
駅夫も今日は車窓を眺めずに、ノーパソを取り出して、ブログの更新を始めた。
〔鉄輪巡礼〕と題した駅夫のブログは、いつの間にか毎回読者がつくようになった。その数、もうすぐ4桁に届きそうである。
感想なんかも届いていて、「是非、地元にも来て欲しい。」という言葉も書き込まれていたし、あそこも寄って欲しかった、ここも寄って欲しかったと、地元の人だろうか、お勧めを書いてくれる人もいた。ルーレット旅だし、時間も限られているので、もちろんその要望に応えられる訳はないのだが、それでもそんな言葉が書き込まれるのは嬉しい限りである。駅夫はコメント一つ一つにも返信を書いていった。
諫早での出来事を写真と共にブログに纏め終え、ふと横を見ると、羅針はまだ寝息を立てていた。車掌が検札に来ても起きなかった位だから、よほどのことだろう。
やはり、平櫻のことが相当心身共に負担になっていたのかもと、駅夫は推察してみるが、羅針はそんなことおくびにも出さないだろうから、駅夫も気付かないフリをするしかない。
羅針がコミュ障になったのは、中学校へ上がった後ぐらいだったと駅夫は記憶している。もしかしたら、その前兆はそれ以前からあったのかも知れないが、子供の頃の駅夫にそんなことまで気付けというのは、土台無理な話である。
子供の頃から鉄道が好きで、特に旅行が好きだった羅針は、大きな時刻表を鞄に入れて持ち歩いていた。暇を見付けては時刻表を開き、行きもしない旅行計画を立て、ノートにびっしりと計画表を作って遊ぶような、そんな子供だった。
駅夫は、対称的に外で遊ぶのが大好きで、クラスメートと野球やサッカー、ドッジボール、ケイドロなど、休み時間になっては校庭で走り回って遊ぶような子供だった。
そんな二人だったが、駅夫は友人も多くクラスの人気者の一人であり、羅針も小学校時代はクラスに馴染めないということはなく、少ないながらも駅夫以外にも友人がいた。
しかし、そんな羅針がおかしくなったのは、中学に入ってからだ。
羅針は相変わらず、時刻表と睨めっこする子供だったが、それでも友人の一人や二人は新たに出来ていた。
ところが、ある日を境にその友人との関係がおかしくなっていったのだ。
駅夫が気付いた時にはもう手遅れで、羅針は完全にクラスで孤立し、誰とも喋らず、先生に当てられても「分かりません。」とぼそりと応えるだけになってしまった。
最初は駅夫も羅針が心配で、何があったのか原因を突き止めようとした。しかし、当の羅針は、駅夫とは今まで通り普通に接してくれるので、追求することが出来なかったのだ。
今思えば、駅夫も子供だったのだろう。ああしてやれば、こうしてやればという気持ちが何度も何度も去来するが、そんなことを考えたところで、中学生のあの頃を変えられる訳ではない。
中学卒業後は、羅針と進路が別れたため、家族ぐるみの旅行や、一緒に出かけたりする時以外は、放課後や休みの日に偶然顔を合わせるぐらいで、込み入った話などすることもなくなってしまった。
羅針が中国語学科に進むという話を聞いた時は、心底驚いたが、彼は元々中国文学に興味があり、大陸を旅したいと考えていた様だったので、駅夫は彼のコミュ障を心配しながらも応援した。
社会人になってからは、駅夫は国内のメーカーに、羅針は旅行会社にそれぞれ就職し、やがて中国へ移住した。羅針が現地でツアー企画やツアーガイドをやっていると聞き、彼のコミュ障も良くなってきたのかと少し安心していた駅夫だったが、彼が30歳を過ぎた頃、突然会社を辞めて帰国してきた時に、彼の人付き合いの仕方がおかしいことに気が付いたのだ。
小学校の仲間と飲む機会があり、羅針と二人で参加したが、その時の羅針の言葉遣いがまるでビジネスをしているかのようなしゃべり方だったのだ。久しぶりに会って緊張しているのではない、羅針はコミュ障の自分が話すための手段として編み出した手法を実践していたのだ。
そんな羅針は、古い仲間からも見放され、駅夫の知る限り友人と呼べるのは、駅夫一人だけになっていた。
駅夫は、そんな羅針を今回ルーレット旅へ連れ出すことにしたのは、旅好きの羅針と共に楽しもうというのはもちろんだが、これまで色々と蓋をしてきた過去を知り、精算出来たらいいなと淡い期待をもってのことだった。中学時代のあの時、一体何があったのか、真相を究明して、羅針の心を開く一助にでもなればと考えているのだ。
もちろん、羅針が話してくれるのが大前提なので、無理に聞き出す気は駅夫には毛頭ない。旅を楽しむだけで終わってもそれはそれで良いと考えていた。只、四六時中一緒にいれば、話題の一つとして、ポロリと零すかも知れないと、駅夫は期待しているだ。
だが、今回諫早で知り合った平櫻との間で、羅針の心が壊れたりしないかだけは心配なのだ。今のところ、ひとまず羅針自身が同行を承諾し、一緒に旅に行くことを楽しみにしているようなので、それはホッとした。平櫻が羅針の心を開いてくれるかどうかは分からないが、そうなることを駅夫はすこしばかり期待していたが、それよりも、羅針の心を壊す可能性もあるので、それだけは阻止しなければと駅夫は心に誓っていた。
羅針の寝顔越しに窓の外を見ると、遠くには、厚い雲が垂れ込めた筑紫山地が今にも泣き出しそうな様子だった。まるで、駅夫の心配を代弁してくれているかのような雲行きである。
列車は車掌の博多駅到着のアナウンスと共に減速を始め、ビルが建ち並ぶ博多の街へと滑り込んでいった。