拾之拾
「なあ、ここのカレー気にならないか。」
契約の話し合いが大詰めを迎え、素案が固まったところで、旅寝駅夫が星路羅針に物欲しそうな目で訴える。
「確かに、さっきから良い匂いがするんだよな。」
羅針も、店内に充満するスパイシーなカレーの匂いがずっと気になっていた。
「ここのカレーは、美味しいんですよ。是非召し上がってみてください。」
平櫻もそう言って推奨した。
三人は、レジに行ってそれぞれカレーを注文した。
「ところで、平櫻さんはどうして、私たちに同行したいと思ったのですか。こう言ったらなんだけど、昨日あんなことがあったばかりだし、私たちを忌避してもしょうがないというか、むしろその方が自然な反応だと思ったのですが。」
羅針が、先程からずっと疑問に思っていたことを、率直に訊いた。
「確かに、あんなことをしてしまい、本当に申し訳なくて……、保険で対応出来たとはいっても、昨日一晩気持ちの整理がつかずにいました。今朝も実家から持ってきたあの大荷物を整理していたのですが、結局手につかなくなって……、気分転換に諫早公園まで出てきたんです。
そしたら、お二人がいらして、お顔を拝見したら、優しく対応してくださった感謝と、申し訳なさでいっぱいになったんです。
ルーレット旅のお話があったので、凄く興味が湧いて、こんな優しい方たちと旅をしたらどんなに楽しいかなって思ったんです。そしたら、居ても立ってもいられなくて、同行をお願いしたんです。
正直に言うと、取材は口実なんです。実は、自分でもよく分からないんですけど、お二人と一緒に旅をしたい、そんな気持ちがどうしても抑えられなくて。……普通なら、昨日のことで気まずくて避けてしまうのが自然なのに、まして男性二人の旅に同行するなんて、女のすることじゃないですよね。……でも、私の気持ちはむしろ逆で、お二人の旅に引き込まれたというか、自分の心が反応してしまった気がして……、駄目でしょうか?」
平櫻はポツリポツリと話し始めたが、最後は戸惑いながらも、自分の気持ちをしっかりと述べた。
羅針は一瞬目を伏せて考え込んだが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「正直、あなたの熱意には心を動かされました。私も、あの時は少し言い過ぎたかなとか、気まずく感じていたので、あなたも気まずくないのかなと、危惧はしていました。しかし、あなたの気持ちが、本気で同行したい、取材が口実だ、というのはむしろ嬉しかったです。あなたの言葉を信じて、私たちは許可したのですから、きちんと責任も果たします。あなたの期待に沿えるかは分かりませんが、是非、私たちとの旅を楽しんでください。」
羅針は諭すように、自分に言い聞かせるように、平櫻に言った。
「そうそう!」と駅夫が横から割り込むように言う。「平櫻さんなら大歓迎だよ。羅針の固いこんな契約文章のことなんて気にせず、旅を楽しんでくれたらそれでいいよ。君は、もう俺たちの仲間なんだし、どんどん楽しく行こう。で、いつから同行する?」
駅夫は相変わらず脳天気を地で行くように言う。
「ありがとうございます。お二人さえよろしかったら、私はすぐにでも参加したいのですが。」
平櫻が頭を下げると、期待を込めた表情で言う。
「そうですね。一応次の目的地は、秋田県の刈和野駅なんですが、明日の月曜日と明後日の火曜日は移動日で、観光は明明後日の水曜日に予定しています。
もし火曜日のお昼過ぎから水曜日の朝までに刈和野駅へ来てくだされば、同行は可能ですが、どうしますか。」
「刈和野駅って奥羽本線ですよね。分かりました。それでお願いします。……今、さっと調べた感じですと、火曜日の夕方前には刈和野に着けそうです。」
平櫻がスマホの乗り換え案内の画面を見ながら言う。
「私たちは、火曜日の昼過ぎに到着予定なので、到着したら連絡してください。その時に詳しい待ち合わせ場所とかを決めましょう。それでよろしいですか。」
羅針が提案する。
「はい。もちろんそれで構いません。色々とご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。」
平櫻は深々と頭を下げた。
「気にしなくて良いですよ。旅は道連れって言いますから。こちらこそよろしくお願いします。」
羅針も頭を下げた。
「ん?あぁ、平櫻さん、これからよろしくね。楽しくやろうね。」
駅夫は蚊帳の外にいたが、二人が頭を下げ合ったのを見て、頭を下げた。
そこへ、番号が呼ばれ、丁度注文していたカレーが運ばれてきた。
「取り敢えず頂こうぜ。」
駅夫が腹を空かせた子犬のように目を輝かせて、いただきますを言って一口食べた。
「美味いぞ。これ。臭みも全然ないし、食べやすい。ピリッとしたスパイス感も良い感じだよ。」
駅夫が注文したのは、諫早産の猪肉を使った、和風仕立てのジビエキーマカレーだ。猪肉はそぼろ状で食べやすく、臭みももちろんない。日本人の口にも合う和風仕立てというのもポイントが高い。
ちなみに、ジビエとはフランス語で、狩猟で捕った野生の獣肉のことを指し、キーマとはヒンドゥスターニー語で、挽肉を指す。
「確かに、スパイシーでこれは美味いな。豆がゴロゴロ入ってるのも嬉しいね。」
羅針が頼んだのは、10種類の豆が入ったダルカレーである。
ちなみにダルとはネパール語で、挽き割り豆のスープを指し、ネパールの一般的な家庭料理である。
「ここのカレーやっぱり美味しいですよね。私も時々来るんですよ。良かった。気に入って貰えて。」
平櫻は安心したようで、嬉しそうな表情でそう言って、自分もトマトチキンカレーを食べ始めた。
「それは、トマトチキンカレーだよね。」
駅夫が、平櫻の食べているものに興味を示した。
「はい。そうですけど。」
平櫻が戸惑って返事をする。
「どんな味か教えてくれるかな。」
駅夫が興味津々である。
「あっ、はい。……えっと、スパイシーさはお二人のカレーと変わらないと思いますが、そこにトマトの酸味とコクが入るので、少しまろやかな感じになってます。私は平気ですが、辛いのが多少苦手な方でも、頂けるんではないでしょうか。チキンもほろっと肉が解けるので、食べやすくて美味しいです。御飯は多分雑穀米だと思うんですけど、少し硬めに炊かれてるようで、カレーと良く合います。このお店の定番と言うだけあって、とても美味しいです。……あっ、すみません。いつもの癖で、なんか食レポみたくなっちゃいました。」
平櫻はそう言って照れていたが、その内容は、流石ライターをやるだけあり、微に入り細に入り、事細かで、駅夫と羅針はすごく感心していた。
「へぇ、酸味とコクがあってまろやかなのか。カレーにトマトって合うんだな。っあ、ありがとうね。流石ライターさんだね。」
駅夫が感心しながら、平櫻に礼を言う。
「流石、これがプロの食レポなんですね。素晴らしいですね。」
羅針が平櫻の感想を褒めて、大いに感心した。
「ありがとうございます。なんか改めてそう言われると照れくさいですね。」
平櫻が頭を下げて、恐縮したようにそう言った。
三人は、その後も今後の予定を話ながら、カレーを食べ進めた。
カレーを満喫した三人は、喫茶店を出た。
「羅針、この後どうするんだ。」
駅夫が、羅針に聞いてくる。
「街を散策しながらこのまま宿に戻っても良いし、どっか飲みに行っても良いし、どっちでも良いぞ。」
羅針が答える。
「平櫻さんはどうする、一緒に飲みに行く?もちろん強要はしないけど、飲めるなら、一緒に行かないか?」
駅夫が平櫻に尋ねる。
「私がご一緒しても良いんですか。」
平櫻が恐縮したように聞く。
「もちろん、大歓迎だよ。なぁ羅針。」
「ええ。もちろん、平櫻さんのご都合さえ良ければ、私たちは全然構いませんよ。」
羅針もそう言って誘う。
「では、是非ご一緒させてください。」
平櫻は同行することにした。
陽が傾いて暗くなり始めた商店街には、先程までと客層ががらりと変わり、飲食店へと向かう人々が多くなっていた。
三人は、平櫻の案内で、アエル商店街の中にある一軒の居酒屋に来た。
入り口の外観は木材が多用され、温かみのある照明が、店を柔らかく照らしていた。ドアの横に掛けられていたのは、赤提灯ではなく、緑色の提灯だった。提灯には地場産品応援の店と書いてあり、緑色の理由が分かった気がした。
三人が店内に入ると、いらっしゃいませという声と共に、居酒屋特有の喧噪と、アルコールの匂いに包まれ、更に、炭火料理の香ばしい匂いが、かすかな醤油の香りとともに鼻をくすぐってきた。
和モダンという言葉が合いそうな雰囲気の店内は、余計な装飾も、品のないポスターもなく、居酒屋にしては上品な佇まいである。カウンター席と半個室のテーブル席が程よく配置され、特に半個室のテーブル席からは、あまり話し声も漏れてこないため、落ち着いて飲食出来そうだ。
日曜日ということもあり、既に八割方席が埋まっていたが、どうにか空いている半個室のテーブル席へ案内して貰えた。
席の前で三人は、ふと足を止め、どう座るか迷うように、顔を見合わせた。
「お二人は奥へどうぞ。是非、寛いでください。」
平櫻が二人に壁側の席を勧めて一歩引く。
「いや、ここは平櫻さんが奥に座るべきですよ。あなたはある意味新メンバーなんですから。」
羅針が平櫻に奥の席を勧める。
「そうそう。それに、こういう所では女性に壁側の席を譲るのが礼儀だからね。」
駅夫もそう言いながら、片手で席を示し、もう片方の手を優雅に前方にすくい上げるように動かすと、小さく頷き、少し大袈裟に微笑んだ。
その大袈裟な動作は、西洋紳士のような優雅さを真似てはいるものの、どこか日本のおじさんらしさが滲み出ていて、なんとも滑稽な芝居役者に見える。
駅夫の大袈裟な、その芝居がかった仕草に、平櫻は少し困ったように微笑んで、「お気遣いありがとうございます。でも、やはりここは、お二人が奥の方へおかけになってください。私の方が若輩者ですし、地元の私が案内役で、お二人はゲストですから。」と、あくまでも奥に座ることを固辞した。
「そこまで、おっしゃるのなら、遠慮なく奥に座らせて貰おうか。」
羅針は駅夫と視線を合わせて、少し困惑気味な表情を浮かべた。
「そうだね。平櫻さんが言うなら、遠慮はなしだろ。なんか悪いね。」
駅夫は、軽く肩を竦めて羅針にそう言いつつ、平櫻にお礼を言い、手刀をしながら、彼女の前を通って、遠慮なく奥の席へと入っていった。
「分かりました。それでは、今日はお言葉に甘えさせていただきますね。」
羅針は困惑しながらも、温かみのある表情で平櫻に向かって微笑んだ。
「はい。遠慮なさらないでください。」
平櫻もそう言って、少し緊張した表情が、柔らかな微笑みへと変わった。
羅針が、駅夫に続いて、奥の席に座ると、漸く平櫻も通路側の席に腰を下ろした。
「取り敢えずビールと行きたいところだが、折角ならここは地酒でしょ。」
飲兵衛の羅針が駅夫にそう言って、長崎の日本酒を選んだ。結局駅夫も平櫻も同じものを選択した。
料理も、平櫻のお勧めする地のものを中心に頼んだ。
まずは、升で届いた地酒で乾杯をする。
「そう言えば、ここはお通しがないんだ。」
羅針が、酒と一緒に運ばれてくるものがないことに、違和感を覚えた。
「最近は、お通しを断る人も多くて、出さない店が多くなったみたいなんですよ。」
平櫻が申し訳なさそうに答える。
「そうなんですね。お通しって、その店の料理の味を知るバロメーターだったりするし、何が出てくるか分からないっていう楽しみもあるから、私は好きなんですけどね。」
羅針は、少し残念そうだ。
「お前は、そういう所あるよな。まあ、俺もお通しは楽しみにするタイプだけど、ないんじゃしょうがないよな。」
駅夫もそう言った。
「なんかすみません。」
平櫻が恐縮して謝る。
「平櫻さんのせいじゃないから、気にしないでください。時代に取り残された老人の嘆きですから。」
羅針が、慌ててフォローする。
「そうそう、頑固親父の戯れ言と思って、聞き流してね。それより、注文した料理を楽しみにしよ。ここの料理はどんなだろうな。」
駅夫もそう言ってフォローする。
「そうですね。ここの料理は本当に美味しいので、是非期待してください。」
平櫻の言葉に、二人はにこやかな表情で、期待感を膨らませた。
「この長崎のお酒、キレがあって後味もすっきりしてて、飲みやすいな。」
羅針が日本酒に口をつけ、唸るように言う。
「ああ、昨日飲んだのとは銘柄が違うよな。あれよりもこっちの方が少し飲みやすいか。」
駅夫が応える。
「確かに、昨日のも美味かったけど、飲みやすさはこっちに軍配だな。」
「昨日も飲まれたんですか。」
平櫻が尋ねる。
「そう、昨日も飲んだんだよ。こいつに、とっても美味しい珍味の店に連れて行かれてね。なぁ、羅針。」
駅夫が恨みがましそうに言う。
「美味しい珍味って、もしかしてムツゴロウですか。」
平櫻が予想する。
「そう、ムツゴロウとワラスボ。」
駅夫が答えた。
「お口に合わなかったのですか。」
平櫻がなにか申し訳なさそうに聞く。
「いや、味は凄く美味しかったよ。独特なクセはあったけど、嫌なクセではなかったし。食べられないかと思っていたけど、美味しく頂いたよ。」
駅夫がそう言うと、
「こいつ、見た目がグロテスクだって言って、一口食べるまでは泣きそうな顔してたんですよ。」
間髪を入れず、羅針がバラす。
「おい、バラすなよ。あの見た目は流石に無理だよ。あ、ごめんなさい。地元の人にとっては宝なんですよね。個人の感想です。あくまでも、私の感想だから、気にしないでね。」
駅夫は、この歳で怖がっていたことをバラされて恥ずかしいやら、地元の人の目の前で余計なことを言ってしまって申し訳ないやらで、顔色を白黒させていた。
「あの見た目ですから、他所の人には受け入れがたいものがあると思いますよ。私もこちらに来た時は、とても食べ物とは思えない見た目に、恐怖を覚えましたから。今では、大好きで、結構晩酌のアテにすることもあるんですよ。クセになるんですよね。」
平櫻は、駅夫の狼狽ぶりに驚きつつも、フォローして顔を綻ばせた。
そんなことを話していたら、最初の料理である、刺身の盛り合わせが届いた。アジ、イサキ、ハガツオ、イカ、カワハギ、マダイ、そしてヒラスが豪勢に並んでいた。どれも、長崎県の近海で獲れたものだという。
「ちょっと待て。平櫻さん、直箸で大丈夫ですか?」
駅夫が箸を伸ばそうとするのを制止、羅針が平櫻に確認した。
「あ、はい。お気になさらず。私の方こそ全然気にしていませんでした。実は、私の家は大家族で、いつも直箸だったので、気にしないんですよ。」
平櫻もそのまま箸を伸ばそうとしていたのか、照れたようにはにかむ。
「それなら良いんですけど。私たちも、ずっと子供の頃から一緒なので、互いに全然頓着しないので。もし、他になにか気にされることがあったら、遠慮なく言ってくださいね。」
羅針がホッとしたようにそう言うと、お預けを食らった犬のように待っていた駅夫に、良しと促す。
駅夫は、いただきますと言って、嬉々として再び箸を伸ばした。
「ん~、美味い。」
駅夫は、心底美味さを感じてるかのように、顔をくしゅっとさせて、噛みしめるようにヒラスを味わっている。
「平櫻さんもどうぞ。遠慮はしないでくださいね。」
羅針は平櫻にも勧める。
「ありがとうございます。では、遠慮なくいただきます。」
平櫻も箸を伸ばし、ハガツオを選んだ。
「美味しい。蕩けるようなこの食感がハガツオは良いんですよね。ここのお刺身はやはりいつ食べても美味しい。」
平櫻は一切れ食べて、頬に手を当てて顔を綻ばせた。
「では、私も」そう言って羅針も箸を伸ばす。「うん。確かに美味い。昼間の刺身とはまた違うな。脂の載りも良いし。」そう言って、羅針は味わうように噛みしめた。
三人は、日本酒を酌み交わしながら、新鮮な刺身に舌鼓を打ち、親交を深めていった。