拾之参
暫くして、漸くリレーかもめが入線した。車両は白い車体の885系で、かもめと言うよりイルカのような見た目の車両だ。長崎の行きと帰りに乗った車両と同系である。
列車に乗り込んだ旅寝駅夫と星路羅針の二人は、どうにか並んで座れる席を見付けた。
二人が席に着くと間もなく滑り出すように列車は発車した。
列車は博多のビル群を抜けると、すぐに住宅街へと入っていく。相変わらず駅夫は車窓を眺め、羅針はタブレットで小説の続きを読んでいた。
「なあ、この前も思ったけど、この列車良く揺れるよな。」
余りの揺れに我慢が出来ないのか、駅夫が羅針に聞いた。
「ああ、この列車は振り子式電車と言って、強制的に車体を傾けることでカーブを高速で曲がれるようにしてるんだ。だから良く揺れるんだよ。自然の揺れと違うから、乗り慣れない人は、立ってるとバランス崩すし、酷い人は気持ち悪くなることもあるらしいよ。
その代わり、山形新幹線や、秋田新幹線、あと関西の新快速なんかと同じ、時速130㎞は出せるから。在来線としてはトップクラスのスピードが出せるって訳。
まあ、新幹線を除く最速は、時速160㎞を出せるスカイライナーだから、それに比べればだいぶ遅いけどね。」
羅針が熟々《つらつら》と知識を披露する。
「お、おう、なるほどね。」
駅夫が相変わらずの鉄オタぶりの羅針にビビる。
列車は併走していた新幹線と別れ、鹿児島本線をひたすら南下していき、振り子式の特性を存分に活かして、筑紫山地の切れ目を通り抜け、福岡平野から筑紫平野を爆走する。
そして鳥栖駅を出ると、ここからは長崎本線へと入っていく。
慌てて乗ってきたのだろう、新幹線乗換駅の新鳥栖駅を列車が出発してから暫くして、大きな荷物をいくつか抱えて30代位の女性が乗り込んできた。丁度二人が座っている隣の座席が空いていたので、その女性はそこに座ろうと、ふらつきながら通路を歩いてきた。そして、座ろうとして背中に背負っていた荷物を降ろそうとしたその時、列車が丁度カーブに差し掛かり、大きく揺れた。
その弾みで、女性は完全にバランスを失い、丁度羅針の方に倒れてきたのだ。羅針は危なっかしく感じて、女性の動きに注視していたので、とっさに彼女の背中を支えることが出来た。彼女は運良く無事だったが、下の方で嫌な音がした。
「大丈夫ですか。気をつけてくださいね。」
羅針はバランスを取り戻した女性に向かって、優しく声を掛けた。
「ありがとうございます。」と、女性が礼を言った。
羅針は、足元に転がってきていた彼女の荷物を持ち上げた。すると、その下には無残にも画面が割れた羅針のタブレットが横たわっていたのだ。
思わず、羅針は声を上げてしまった。
「ん、どうした。」
羅針の声に驚き、駅夫が車窓から目を離して、事の成り行きを確認しようと聞いた。
「タブレットが壊れた。」
羅針が力なく応えた。
「えっ。」駅夫と女性が同時に声を上げた。
「すみません。すみません。本当にすみません。弁償しますので。すみません。」
女性は青ざめた顔で、羅針に平謝りに謝っていたので、羅針も事を荒げることなく、冷静でいられた。
「あなたにも私にも怪我がなくて良かったから、倒れてきたことについてはあなたの謝罪を受け入れて、それで不問にしましょう。ただ、タブレットに関しては、申し訳ないがあなたの言うとおり弁償して頂くしかないですね。修理、もしくは新品での買い換えという形になりますが、何か保険に入られたりしてますか。」
女性を席に座らせた上で、こういう時は熱くなったらダメだと、経験則で知っている羅針は、努めて理路整然と冷静に話していく。
女性は、泣きそうな顔をしながらも、そんな冷静な羅針の言葉を頷きながら、すまなそうに聞いていた。
羅針は人と話すのが苦手なためか、どうしてもビジネスライクな冷たいしゃべりをしてしまう。逆に言えばこういう風にしないと人としゃべれない性格でもある。その上、今はトラブルの対処だ、より一層冷静、冷徹になっているし、ならないといけないと考えて、自分に言い聞かせているのだ。
女性は、余りに羅針の言葉が冷たく、事務的だったので、余計動揺し、恐怖を感じたのか、言葉を詰まらせながら、「い、一応……、自動車保険に、……個人賠償責任保険が、……付帯しているので、それでご、ご……ご対応できると思います。」と、泣き出しそうになりながらもなんとか答えた。
「おいおい、お前、仮にも自分の子供ぐらいの女性なんだから、もう少し優しく話してやれよ。彼女泣きそうだぞ。」
駅夫が余りに冷たく接している羅針に苦言を呈するが、頭に血が上っていて、冷静になろうと努めている羅針には、その言葉が届いていないようだ。
「分かりました。それと、今のあなたとわたしの会話は録音しています。発言には十分ご注意ください。すみませんが、互いに言った言わないの齟齬が生じることのないようにするための措置とご承知おきください。」
羅針はスマホの画面を見せて、録音中の状態を示す。
「分かりました。それで、私はどうすればよろしいのでしょうか。」
女性は、余りに冷徹に対応してくる羅針を見て、こんなトラブルに始めて遭遇した自分のような人間が、どうこうしようとしても自分の能力を超えると感じ、恐怖と、諦めの気持ちで、対応を羅針に任せようとした。
「弁償等の金銭的な遣り取りは、あなたが加入している保険会社と私との遣り取りになると思いますので、後ほど保険会社の方に連絡して、指示を仰いでください。保険に入っておられるなら、金銭的なご負担はないと思いますので、そこはご安心ください。
ただ、この状況は証拠として写真に収めさせてもらいます。後、連絡先ですが、メールアドレス、電話番号、住所、それからお名前を教えてください。顔写真の入った身分証明書の提示もお願いします。もちろん私の方もお教えしますし、運転免許も提示します。」
羅針はあくまでも冷静に、淡々と話を進めていく。
「本当にすみません。」
女性は申し訳なさそうに、目に涙を浮かべていた。
「おねぇさん、大丈夫だよ。こいつはこういう話し方するけど、根は優しいヤツだから。ただ、ちゃんとしてるだけだから、安心して。お前もこんな可愛いお嬢さんを泣かせるんじゃないよ。」
見るに見かねて、駅夫が横からフォローを入れてくる。そして、羅針に再度苦言を呈する。
「別に泣かせてねぇよ。」漸く落ち着いたのか、駅夫の言葉に羅針は反論しつつ、女性に向かってできる限り優しい声で、「良いんですよ。これは不幸な事故です。あなたに非はない。ただ責があるだけです。その責を果たしてくれれば、私はあなたを責めるつもりはまったくありませんから。気に病まないで下さい。後は保険会社の方と手続きするだけで、あなたにご負担はないですから。」
羅針はそう言いながら、壊れて床にそのままにしておいたタブレットを一眼で撮影し、女性の免許証を提示して貰い、これも撮影する。もちろん、羅針は自分の免許証も提示し、彼女に写真を撮らせる。電話番号とメールアドレスもその場で交換し、間違いがないか通話とメール送信も確認する。
その間、駅夫が女性に声を掛け、フォローを続けていた。
彼女の名前は平櫻佳音、免許証の住所は諫早市内であることが分かった。周囲の耳目があるので、個人情報は一切口に出さず、羅針は淡々と情報の処理をおこなった。
互いの情報交換が終わり、状況証拠の写真も撮り終わったところで、羅針は、「後は、保険会社さんに連絡して、対応して貰うことにしましょう。ところで、どちらまでいかれるのですか。私たちは諫早駅まで行くのですが。」と精一杯の優しい声で聞いた。
羅針は質問しながら、床で壊れているタブレットを拾い上げ、バッグからビニール袋を取り出し、散らばった破片も一緒にその中へ入れて、バッグにしまう。平櫻佳音も手伝おうとするが、ガラスもあって危ないし、簡単に終わったので、羅針は手で遮って断った。
「諫早駅が最寄りになりますので、私もそこに向かう予定です。」
平櫻は、涙目になりながらも、漸く落ち着いたのか、しっかりした口調で答えた。
「そうなんですね。では、そこまでご一緒しませんか。そこで詳しいお話をしましょう。保険会社と簡単な遣り取りをするだけですから、そんなにお時間は取らないと思いますから、心配しないで下さい。」
「分かりました。そのようにして頂いて構いません。本当にすみません。」
平櫻は何度も何度も頭を下げていた。
「あまり気に病まないでください。誰しも起こることなんですから。」
「そうですよ、お嬢さんは別に悪くないんだから。あんまり気にすることないよ。」
漸く優しい声を掛けた羅針に続いて、駅夫も女性に声を掛けて慰めた。
平櫻との話が一段落したところで、後を駅夫に任せ、羅針は席を立ち、最後尾へ車掌を捜しに行った。
羅針は、車掌に席でタブレットが壊れ破片が散らばったこと、見える破片は拾ったこと、怪我人はいないこと、女性客とのトラブルだが、示談が成立しそうなことなどを報告し、席の位置を伝えた。
羅針が席に戻るのと一緒に車掌が来ると、車掌は状況を確認し、平櫻にも聞き取りをして、問題ないと判断したのか、羅針に礼を言ってその場を立ち去った。立ち去る際車掌は他の乗客にも簡単に状況を説明し、騒がしくなったことを謝罪し、協力に感謝した。羅針と平櫻も車掌に続いてそれぞれ、皆に謝罪をした。
列車は間もなく武雄温泉駅に到着しようとしていた。
一時間弱のリレーかもめの旅は、大きな問題が発生しながらも、どうにか終了し、武雄温泉駅からは西九州新幹線のかもめ45号の旅に変わろうとしていた。
駅夫と羅針の二人が博多まで乗ってきたのぞみと同系のN700Sに、平櫻とともに対面乗り換えをする。車内はのぞみのN700Sとは異なり、長崎に行った時も感じたが、まったくの別物である。そんな車内の様子を楽しむ雰囲気はなく、二人が座った席のすぐ隣に、平櫻も席を取って座った。羅針が、あまりにも重そうにふらついている平櫻を見かねて、荷物を一つ持ってあげたのだが、平櫻は逃げられないとでも思ったのか、それとも物質を取られたと思ったのか、それは分からないが、すっかり萎縮した様に彼女は肩を落として、隣の席に座っていた。
駅夫が場を和まそうと、平櫻に話しかけるが、意気消沈した彼女からは、大した返事は返ってこない。
幸い15分弱の乗車である。重苦しい雰囲気ではあったが、あっという間に諫早駅に到着した。
三人は連れだって、列車を降り、駅のコンコースまで上がってきた。
有人改札口の所へ羅針は行き、駅員に事情を話し、これからこの女性と示談交渉をするので、第三者として見守りをお願いしたい旨を伝えた。
その上で、まず平櫻に保険会社に連絡するように促し、保険会社に事のあらましを伝えてもらった。その後担当者が羅針と話をするというので、電話を替わった。
羅針は保険会社の担当者に、タブレットの破損状況、修理をしている間の使用出来ない期間の保障、更に修理出来ない場合の、保障などについて詰めていった。最後に連絡先を確認し、再び電話を平櫻と替わった。
保険会社との遣り取りをすませた平櫻は、羅針に対し再び深く頭を下げ、お詫びをした。
「本当に気に病まないで下さいね。今回のことは只の事故です。あなたが故意に壊したのではないことは充分分かっています。あなたを責めるつもりは毛頭ないですから。今後は保険会社と私の間の話になりますので、これで、あなたとの示談交渉は終了します。私と会うことはもう二度とないと思いますので、あなたは、この後いつも通りの生活を送って、こんな変な老人がいたことを一刻も早く忘れてください。よろしいですね。」
羅針は、彼らしい精一杯の優しさを込めて、平櫻を宥め、話を切り上げた。
「こちらこそ、私のようなこんな小娘のために色々気を回して頂き、本当にありがとうございました。改めて本当にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。」
平櫻はそう言って再び深々と頭を下げた。
「お嬢さん良いんだよ、幸い保険にも入っていたんだし、こいつのボロタブレットも綺麗になるんだから、逆にこいつにとっては儲けもんだよ。なっ。」
そう言って駅夫が茶化したように、平櫻を慰め、羅針を腐す。
「まあ、そう言うことです。」
羅針は駅夫の言葉に苦笑いをしながらも頷いた。
「そう言って頂けると、心が少し楽になります。本当にいろいろとすみませんでした。それでは、これで失礼します。本当に申し訳ありませんでした。」
そして、見守り役を務めてくれた駅員さんにも平櫻はきちんとお礼をし、改札を出ていった。
「気をつけてくださいね。」
「お嬢さん、ホントに気をつけて帰るんだよ。」
老人二人は、平櫻佳音が何度もこちらを振り返り、重い荷物を苦労して担ぎながら、お辞儀をして去って行く姿を、最後まで見送った。
羅針と駅夫も、見守り役を務めてくれた駅員さんに礼を言った。
「おい、まだ駅名標と一緒に写真撮ってないぞ。」
駅夫が指摘する。
「すみません、ホームで写真を撮って来ても良いですか。そんなに時間は掛からないと思いますので。」
羅針がすかさず駅員に確認する。
「はい、もちろん良いですよ。」
「すみません。ありがとうございます。」
羅針が駅員にお礼を言い、再びホームへと向かう。
ホーム上でいつものように駅名標と記念撮影をした二人は、再び改札口に戻ってきて、先程の駅員にお礼を言って、自動改札を出て、駅舎の外に向かって歩き出した。
「それにしても、お前って、ホントこういうトラブルの時って冷静沈着に対処していくよな。ホント感心するよ。」
駅夫は再び蒸し返すように、呆れ半分で言う。
「そうか?別に冷静沈着ってわけじゃないぞ。結構頭に血が上ってて、怒りにまかせて怒鳴り散らしたいのをぐっと堪えるのが大変なんだからな。只、あの娘は誠心誠意謝罪してくれたし、理不尽な態度を見せなかったから、俺も冷静でいられたんだ。だけど、ちょっとでもカチンとくるような言動をしたら、多分俺自身が手を着けられない状態になってたと思うぞ。」
羅針が、自分の内心を暴露する。
「そんなにか。道理でいつもの軽口叩くお前とは違いすぎるなと思ったよ。いくら人見知り、コミュ障だからって、あれはないだろうと思ったけど、お前も内心葛藤してたんだな。」
駅夫が何かを納得したように言う。
「まあ、人と話すのが苦手なのは認めるよ。頭の中にあるマニュアル通りに喋らないと、上手く言葉が出てこないからな。だから、ああいう時、頭の中はフル回転なんだよ。」
「余裕がないのか。」
「そう言うこと。」
「まったくしゃぁねえな。」
「そう言うな。半世紀以上もこれでやってきたんだ。今更どうにも出来ねぇよ。それにしても、あの娘大丈夫かな。かなり憔悴してたけど。」
羅針は、話の矛先を切り替えようとした。
「お前がいじめるからだよ。」
「そんなことないぞ。俺は冷静に、できるだけ威圧的にならないようにしたんだぞ。」
羅針が駅夫の言葉に反論する。
「それが、威圧的だったんだよ。あの娘ずっと怯えてたぞ。どこかに売り飛ばされるんじゃないかって感じで。」
駅夫がからかい半分羅針を詰る。
「そうか?そんなことないと思うぞ。」
結局自分に矛先が戻ってきたので、羅針は恍けたように言う。
「自覚がないなら、お前相当重傷だな。」
羅針が恍けているのは分かっている駅夫が、わざと呆れたように言う。
「すげぇだろ。」
羅針が巫山戯てドヤ顔をする。
「ドヤ顔するところじゃねぇよ。ったく。」
そう言って二人は笑った。
「でも、ちょっとかわいそうなコトしたな。」
一頻り笑った後、羅針はやっぱり気になるのか、ぼそりと呟く。
「まあ、しかたないさ。後は彼女が自分で立ち直るしかないんだから。」
駅夫はそう言って、羅針を慰めた。
二人は、そんな話をしながら、取り敢えず駅舎の外、東口へと出てきた。
駅舎の外は暑さがだいぶ残ってはいるものの、陽は完全に傾き、夜の帳が降りようとしていた。