捌之拾弐
旅寝駅夫と星路羅針の二人は、住宅街を抜ける西国街道をひたすら歩き、18時半を回った頃、漸く宿に到着した。予定より1時間半以上遅くはなったが、先程福生寺を出るときに、電話で遅くなる旨を宿の人に告げておいたので、心配されることはなかった。
「ただいま戻りました。すみません、だいぶ遅くなって。」
羅針が出迎えてくれた仲居さんに声を掛けると。
「いえいえ、ご無事で良かったです。熊山はいかがでしたか。」
出迎えてくれた仲居さんが、無事を喜んでくれた。
「はい。とても良かったです。天気にも恵まれましたし。眺めも最高でした。山頂でベテラン登山者のご夫婦と話し込んでしまいまして、だいぶ遅くなってしまいました。」
羅針がそう報告する。
「それに、お弁当も最高に美味しかったです。特にあのけんびき焼きっていうお団子は最高でした。ごちそうさまでした。」
駅夫が、目を輝かしてお礼を言う。
「あら、それは良かった。お粗末様でした。」
仲居さんが駅夫の勢いに圧倒されながらも、にっこりと笑っていた。
「この後すぐ、お食事になりますので、荷物を下ろしたら、食堂へいらしてください。」
仲居さんは、続けて案内してくれた。
「分かりました。腹ペコペコなんです。」
駅夫がそう言って、大袈裟に腹を押さえ、少し前屈みになると、仲居さんは堪えきれず、手で口を抑え声を出して笑った。
「済みません。まったく、こいつは食いしん坊なんだから。ほら部屋行くぞ。」
羅針が、駅夫を諫めて、部屋へと促す。
二人は仲居さんにお礼を言って、部屋に向かった。
荷物を下ろし、手と顔を洗面所で洗って、汗を拭い、食堂へと向かった。
席に着いた二人の目の前には、昨日同様田舎懐石料理が用意され、瀬戸内海の海の幸と、地元の食材で作られた色とりどりの料理が並んでいった。
仲居さんが、火を付けてくれた牛肉の銅板焼きは、備中牛だ。昨日は千屋牛という、岡山県のブランド牛だったので、どうやら日替わりで銘柄を変えてくれるようだ。
ジュウジュウ音を立てながら、じっくりと牛肉が焼き上がっていくのを見ながら、地ビールで乾杯し、早速料理に手を付けた。
いつもなら地酒で乾杯するところだが、昨日「備前焼はビールに良く合うんですよ」と仲居さんに言われ、今日は地ビールを注文した。
「なあ、このビールの泡、すごくないか。」
駅夫が、備前焼のビールタンブラーに注いだビールが立ち上げる泡を見て、羅針に言う。
「ああ、確かに。昨日の仲居さんが言っていたとおりだ。クリーミーで、きめ細かい泡が持続してるのは凄いよ。ガラスコップにはない感じだね。」
羅針も立ち上がる泡を見て、感嘆した。
これまでは、太刀洗のビール工場で貰ったビールグラスを使って、テイスティングコーナーのブルワリー ドラフト マスターに教わったとおりに、丁寧にビールを注いでは、流石プロの教えだと唸っていた二人だったが、この備前焼は、それを優に超えてきた。グラスと備前焼では泡の立ち方が全然違っていたのだ。
「口当たりも全然違うし、ビールってコップ一つでここまで変わるんだな。」
駅夫がタンブラーに注いだビールに口を付け、唸るように言う。
「だな。明日から、グラスではビールを飲めなくなるぞ。」
羅針も、味わうようにタンブラーのビールに口を付けて、そう言った。
「おいおい、グラスの立場は。」
駅夫が冗談めかして言う。
「ああ、あれは戦力外だな。別の使い途を考えよう。」
羅針はグラスに戦力外通告を出した。
「監督。お慈悲を~。」
駅夫が手を合わせて巫山戯る。
「仕方ないな。では、引き続き戦力とするか。」
羅針が応える。
「ははぁ~。」
駅夫が大袈裟に、執事がやるような、左手を胸の前に持ってきて、深々とお辞儀をした。その様子を見て、羅針が笑い出し、つられて駅夫も笑った。
テーブルの上に並ぶ色とりどりの料理から、まず、小鉢で出てきた叩き山菜の和え物と、蒸し穴子の酢味噌和えを、二人は手を付けた。酢が疲れた身体に良く利くようで、染み渡るような美味さを感じた。
これだけ料理が美味いと、ビールも進んでしまう。
次に手を付けたのはお造りである。並ぶのは、アジ、キジハタ、メバル、そしてマグロとタイの刺身である。新鮮さはもちろんのこと、どれも脂がのっている。
更に運ばれてきたのは、蛸と里芋に筍が入った煮物、鮎の塩焼き、野菜や海老の天麩羅で、ママカリの酢漬けが今日も並んだ。
もちろん、御飯に味噌汁、お漬物、そして最後には果物のマスカットが付いてきた。
「昨日も思ったけど、ほんと美味いな。」
駅夫がママカリの酢漬けを食べて、呟く。
「ああ、ママカリか。確かに飯を借りに行きたくなるというのは、間違いないな。」
羅針は蛸の煮物に箸を伸ばしながら、駅夫が食べているものを見て応える。
「そろそろ、牛肉も良い感じじゃないか。」
駅夫が、陶板で焼かれている備前牛の状態を見て、言う。
「丁度良い感じだな。」
羅針も焼け具合を確認し、早速一切れ口に運ぶ。
「これは美味いな。流石ブランド牛だな。」
羅針は唸るように言う。
「昨日のとは随分違う食感だな。同じ牛肉とは思えないよ。」
駅夫も一切れ口に運ぶ。
「ああ。昨日の千屋牛は霜降りと赤身のバランスが絶妙で、柔らかさの中に旨味がしっかり閉じ込められてるって感じだったけど、この備前牛は霜降りと赤身のバランスは言うまでもないが、肉質がしっかりしていて、肉そのものの味を舌で感じられる気がする。」
羅針が二切れ目を口に運んで、言う。
「確かに。お前の言うとおりだ。肉質がしっかりしているからといって、固くて噛みにくいとかそんなことは全然なくて、すっと歯が入って、力を然程入れなくてもサクッと切れる。肉ってこうだよなって言いたくなる。」
駅夫も二切れ目を口に運び、噛みしめるように言った。
その後も二人は一品一品堪能し、御飯のおかわりまでして、腹一杯満足した。
仲居さんにごちそうさまを言って、二人は部屋に一旦戻り、順番制のお風呂に入って、今日一日の汗を綺麗さっぱり洗い流すと、漸く部屋で寛ぐことができた。
二人は、今日使った荷物の整理を始めた。
行動食の空き袋やゴミを纏め、残ったペットボトルの水を水筒に移し替えた。結局水は4Lを8割方飲んでいた。行動食は後5つ程、非常食は丸々残っていた。
「これだけ残ってれば、今回の登山は成功ってことで良いんだよな。」
駅夫が登山前に羅針が話していたことを思いだして、今回の登山を評価する。
「そうだな。水もちゃんと残ったし、非常食に手を付けることなく、行動食も余ったからな。初めてにしては良くできたというところだろうな。」
羅針が応じる。
「今度また登山する機会があったら、今回のことを活かそうな。」
「ああ、そうだな。あの山頂で会ったご夫婦に教わったことも含めて、今回は色々教訓も多かったからな。」
「猪の件も含めてな。」
「だな。」
二人はそんな話をしながら荷物を整理し、残った食料や水は明日以降順次消化していくことにした。
「ところで、明日の予定はどうなってるんだ。」
駅夫が荷物の整理が終わって、明日の予定を確認した。
「ああ、明日か。一つ問題があって、今回の目的地は香登駅だったよな。」
羅針が深刻そうな声で、応える。
「ああ。そうだよ。」
駅夫がどうしたのかと不安げな表情で羅針を見る。
「で、ここは伊部駅が最寄りだよな。」
「ああ、そうだな。」
何か深刻な話かと、駅夫は身構える。
「そこでだ。お前に選択肢をやろう。松竹梅、どのコースが良いか自分で選ぶと良い。」
羅針は、芝居じみた声で、駅夫に選択肢を提示した。
「誰の真似だよそれ、で、何、コースを選ぶのか。……松竹梅って言いながら、お前のことだ、絶対良いコースを松にはしないよな。かといって、梅に一番良いコースを持ってくるというのは、天邪鬼のお前には有り得ないから。竹が妥当なところだけど。竹にするのも、お前にはありふれてる気がするし……ちょっと待てよ。……よし、決めた。竹だ。竹コースで。」
駅夫は、大きなトラブルかと嫌な予感がしたが、結局、羅針の悪ふざけだったと知り、拍子抜けしたが、羅針が提示した選択肢から、散々悩んだ挙げ句、竹コースを選ぶ。
「ホントにそれで良いんだな。ファイナルアンサー?」
羅針が念を押す。
「ああ。ファイナルアンサー。」
駅夫が大きく頷く。
「ドゥルドゥルドゥルドゥル……ジャン!香登駅まで徒歩コース。って、なんで予想通り竹を選ぶかなぁ。ホントにお前は。」
そう言って羅針は苦笑いをしている。
「マジで。それマジかよ。香登駅まで1時間以上はあるぞ。ちなみに他は、他のコースは何だったんだよ。」
駅夫は、自分の選択がとんでもないものを引いたと知り、慌てたように、他の選択肢を聞いた。
「松は、伊部駅から乗車して、香登駅ではホームに片足でも着いて、出発したことにでもしようかなと。梅は、一旦香登駅に列車で行って、香登駅から次の列車で出発する。ほら。」
羅針が駅夫にスマホの画面を見せる。そこには、ちゃんと羅針が言ったことがその通り書いてあった。
「お前、ホントそういうとこちゃんとしてるのな。不正なんて疑ってねぇよ。それにしても、梅と竹の地獄具合がひっくり返ってるだけなら、松を素直に選んでおけば良かったのか。深読みしすぎた。悔しいな。それにしてもマジで、香登駅まで歩くのか。」
駅夫が悔しそうに言う。
「ああ。もちろん。西国街道を歩くか、国道2号線を歩くかどっちかだな。お勧めは西国街道だな。安全だしな。ルール通り香登駅で乗るってことにすると、どうしても1時間位待つことになるからな。それなら歩いて行っても同じことだろ。街を散策できるし、一石二鳥だ。」
「何が一石二鳥だよ。そりゃ、ぼーっと待つよりは何倍もマシだけど、今日登山したばっかりだぜ、明日はゆっくりしようぜ。」
駅夫が拝むように言う。
「だ~め。お前が自分で選択したんだからな。俺の運動不足を解消してくれるんだろ。」
羅針が意地悪く言う。
「そんなこと、……言ったな。人を呪わば穴二つってか。でも、お前の運動不足を笑ったのは初日の竹生島でだろ、よくそんなこと覚えてたな。」
「ん?別に覚えてたわけじゃないよ。単なるこじつけ。」
そう言って羅針は笑った。
「こいつ、嵌めやがったな。申し訳なくなった俺の心を返せ!」
駅夫はそう言って拳を揚げるが、顔は笑っていた。
「ごめんって。」
羅針は謝りながらも、まだ笑っている。
「ったく。まんまとお前の策略にやられたよ。やっぱりお前、諸葛孔明の生まれ変わりだな。」
「諸葛亮みたいに狡猾じゃないぞ。多分。」
「いや。狡猾だね。俺はいつもお前の術中に嵌まってるからな。」
「それは、お前が引っかかりやすいとも言う。俺の予想通り行動してくれるからな。」
羅針は、相変わらずしてやったりの顔をして、笑っていた。
「まあ、半世紀以上も一緒にいりゃ、予想外はないか。」
駅夫はそう言って、溜め息をついた。悔しそうな、しょうがなさそうな、それでいて嬉しそうな、色んな感情が綯い交ぜになった表情をしていた。
「で、明日は何時出発だ。」
駅夫がおもむろに聞いた。
「ああ、朝食摂ってからだから、8時過ぎ、遅くても9時に出られたら充分じゃないかな。」
羅針が応える。
「9時で良いのか。じゃ、少しはゆっくり出来るな。」
駅夫は、朝の早い時間を想定していたのか、ゆっくり出来るようで、ホッとした顔になった。
この後も、二人は細かい行程を確認し、こうして夜は更けていった。
翌朝6時。
いつものように、目覚ましより先に起きた羅針は、スマホのアラームを止めるところから一日が始まった。共用洗面所にいって洗顔を済ませてから、カメラからデータをノーパソに移し、昨日の纏めをする。
山頂で撮ったご夫婦の写真を、ファイル転送サービスを利用して、駅夫に送る。それと、大ヶ池で撮った新幹線の写真を、現像修正し、画像処理を施して、自分の理想に近づけ、どこが悪かったのか、どう撮れば良かったのか、研究することも忘れない。
6時半。
「ん~お~は~よ~。」を聞くために、駅夫を起こし、洗面所へ送り出して身支度をさせる。
駅夫の身支度が終われば、朝食の時間である。
今朝のメニューは、定番の御飯に味噌汁、漬物、塩鮭、生卵、海苔、明太子。おかずは、あみ海老と大根の煮付け、蛸の酢味噌和え、菠薐草の紅おろしである。そして最後に食後のコーヒーが付いてきた。
おかずはどれも美味く、二人の口に合った。特に蛸の酢味噌和えは、疲労が溜まった身体に染み渡るようだった。
腹一杯朝食を食べ終えた二人は、身支度を調え、チェックアウトをする。
見送りに来た仲居さんや女将さんに、2泊3日お世話になった礼を述べた。女将さんは別れを惜しみ、旅の無事を祈ってくれた。
宿を後にした二人は、そろそろ梅雨の時期に入ることを予感させる、怪しい雲に覆われた空を見上げた。
「それにしても、マジで歩くのか。」
駅夫がブツクサ文句を言っている。
「もちろん。お前が自分で選んだんだからな。俺も付き合うんだ。諦めろ。」
羅針は容赦ない。
「足痛いよぉ。きっと昨日の疲れが出てるんだよぉ。」
駅夫が子供のようにウダウダ言い始めた。
「大丈夫。心頭滅却すれば足も痛くない。」
羅針がどこぞの武将のように宣うが、顔は笑っている。
「分かった。歩くよ。歩けば良いんだろ。」
羅針に三文芝居は通じないと諦めた駅夫は、意を決した。
「そう。選択したのはお前。歩けばきっと良いことがある。かもしれない。」
意を決して歩き出した駅夫に向かって、羅針が言って笑う。
「なんだよ、かもしれないって。そりゃ、選択したのは俺だけどさ。」
笑う羅針を詰りながらも、駅夫は渋々歩を進めた。
隣駅の香登駅へ向けて、西国街道を歩き始めた。