捌之漆
星路羅針が出した問題に夢中になっていた二人は、漸く道端に腰を下ろし、水分補給と行動食を食べることにした。
「やっぱりチョコからか。」
旅寝駅夫は買ってきた行動食の中から、既に暑さで若干軟らかくなってしまったチョコを選択する。
「そうだな。ここで食べてしまわないと、大惨事になるからな。」
羅針もチョコを選択し、包み紙を開けて囓る。
「チョコ一枚の一気食いは結構キツいな。これで280kcalの補充か。」
駅夫がチョコのパッケージを見ながら呟く。
「そんなもんなんだな。今消費したカロリーの半分位しか補充できてないけどな。」
「そうなのか?……ああ、そうか。7時間で4000とすると1時間で570強、なるほど半分か。」
「だろ。あくまでも計算上はな。それに、ここで全回復する必要はないからな。こまめな補給が大事らしいから。」
「なるほど。ちょっとずつってことだな。」
「そういうことだ。」
吹き出た汗を拭い、息を整えたところで、再び出発である。
次に目指すのは宮山で標高311mだ。ここからは尾根沿いに移動する。
少しアップダウンはあるものの、ほぼ平坦だ。
尾根と言えば見通しの良い場所だというイメージがあるが、ここは300m程の低山である。視界を遮る木々が道の両側を塞ぎ、景色を楽しむことはほぼできない。
「こういう木の名前とか、草花の名前が分かれば、それなりに楽しめるのに、さっぱり分からないからな。ほら、そこに変なキノコも生えてるけど、名前も分からないし。」
駅夫が足元に生える草花や、金色に近い色をしたキノコを見て呟く。
「ああ、花はなんとかネットで調べが付くけど、いちいち調べてたら陽が暮れちゃうからな。草なんて分かるのはヨモギぐらいなものだし。キノコなんて何にも分からないからな。」
「確かに。ヨモギぐらいなら俺も分かる。子供の時よくお袋たちにヨモギ採りに行かされて、よもぎ餅作って貰ったもんな。でも、それ以外は全部雑草にしか見えないし、キノコなんて下手したら毒に中るからな。」
「だよな。でも、ガイドさん付けて、いちいち草花の名前を教えて貰っても、覚えきれないし、そこまでの興味はないしな。」
「分かる。知りたい気持ちはあるけど、いちいち教えられると鬱陶しい。知りたいことだけ、教えてくれって言うね。」
「そうそう。ってそれ、俺をディスってるだろ。」
羅針が、駅夫を睨む。
「あれ、バレた。」
駅夫にそんな気はなかったが、悪乗りする。
「ったく。」
二人は、今度は余裕があるのか、声を上げて笑った。
そんな風に冗談を言い、巫山戯合いながら、尾根沿いに進んでいると、少し離れたところでガサガサという物音がした。
羅針が人差し指を口の前に立て、声を立てないよう駅夫に合図する。
二人は物音のした方を見ると、そこには何かを漁り地面を一所懸命掘り起こしている猪がいた。距離にして50m以上はあるが、体長1m前後はある巨漢の迫力が、今まで感じたことのない恐怖を二人に味わわせた。
二人は驚きつつも、なんとか冷静を保って、猪にカメラを向けて撮影を始めた。しかし、すぐに思い直して、羅針が逃げる合図をする。
幸いにも、掘り起こすのに夢中になっているためか、猪はまだこちらに気付いていないようだ。二人は、猪に気付かれないように、できるだけ足音を立てずに、静かにその場から立ち去った。
猪の姿が見えなくなり、更に暫く行って、だいぶ離れたところで、二人はあたりを見回し、他にもいないかどうか確認してから、小声で話し始めた。
「猪って、本物初めて見た。」
駅夫が興奮気味に言う。
「ああ、俺も初めて見た。」
羅針も、興奮冷めやらぬ感じで応える。
「これ、ほら、すげぇよ。」
駅夫がスマホで撮っていた動画を再生した。そこには、夢中で地面を掘り起こす猪が映っていた。猪の息づかいまで、きっちり撮れている。
「すげぇの撮れたな。俺も何枚か撮れた。ほら。」
羅針も一眼のモニターを駅夫に見せる。望遠で撮った猪が大きく写っていた。画面一杯に猪が写り、迫力ある映像になっていた。
「それにしても、お前の言ったとおり、本当に出たな、猪。焦ったぜ。何もなかったから良かったけど、こんなことなら、熊鈴とか持ってくれば良かったな。」
駅夫が、興奮しながらも、悔やむように言う。
「いや、持ってこなくて正解だよ。熊鈴は猪には逆効果だって聞くしな。猪の対応策は、〔何もしないで、そっと逃げる〕だそうだから。刺激するような、音を立てる鈴なんてもってのほからしいよ。」
羅針が、冷静になって聞きかじりの情報を言う。
「そうなんだ。最近野生動物に餌付けするのがいるから、動物にとっては人間=餌なんだろうな。人間を怖がらないって聞くし。」
駅夫は、そう言って首を竦める。
「だな。だから、自然界にない音は餌だって学習した動物が、人間を襲うようになってる。猪だけじゃない。熊はもちろんのこと、猿や鹿なんかも人間を襲うって言うからな。ビニール袋なんか持って歩いたら、一発でアウトらしいぞ。」
「そうなのか。恐ろしいな。でも、どうやって対処すれば良いんだよ。ここ熊も出るんだろ。」
「ああ、出るらしいな。猪だろうが、熊だろうが、とにかくどんな動物でも刺激をしないことが、肝要らしい。後は食べ物を見せびらかさないとかかな。特にビニール袋を見せないことが大事らしいよ。ビニール袋=餌って認識してるらしくて、犬の散歩でよく糞入れのために持ち歩くビニール袋あるだろ、あれを餌と間違えて襲われたってこともあったらしい。」
羅針が受け売りの話をする。
「マジか。人間にとってはゴミでも、動物にとっては高級食材に見えるって訳だな。怖えな。」
「そう言うことだ。確かに怖えよな。でも、どんなに対策しても、襲われるときは襲われる。とにかく気をつけるしかないってことだ。」
羅針がそう言うと、
「つまり、出会ってしまったら、覚悟を決めろってことか。」
駅夫が身も蓋もないことを言う。
「そう言うことだ。だから言ったろ、低山でも何が起こるか分からないから、万が一に備える必要があるって。」
「ああ。身に染みて分かった。お前が散々言ってたことが。低山でも舐めたらいけないって。俺も、今の今まで、どこか舐めてたかもしれない。万が一なんてねぇよって。でも、今改めて分かった。万が一は絶対ある。」
「だろ。そう言うことなんだよ。何が万が一か分からないから、万が一なんだよ。想定外だから万が一なんだよ。」
なぜか羅針は、自分に言い聞かせるように言っているようにも見えた。
「でも、今回は想定内だったんだろ、お前の中では。」
駅夫が何か様子のおかしい羅針に聞く。
「たしかに、熊や猪に出会す想定はしてた。対処法も予習はしておいた。でも、実際に目の前にいると、対処方法なんて、頭からすっかり抜け落ちて、舞い上がった。
だから、逃げようともせずに、カメラのシャッターを切ってた。本当なら、そんなことせずに、すぐ逃げるべきだった。無事だったから良かったけど、もしなんかあったら、悔やんでも悔やみきれない。今になって、色々頭を過ぎるんだ。」
どうやら羅針は、対処をミスり、猪に出会したことに興奮し、夢中になってしまった自分に怒っているようだ。
「それも仕方ないんじゃねぇか。初めての遭遇だし、猪なんて生まれて初めて見たんだしさ。俺たちはド素人だぜ、最初から上手く対処なんて出来ねぇよ。最善じゃなかったけど、最悪は免れたんだ。それで良しとしなきゃ。良い教訓になったし、命があったんだ。次、気をつければ良いさ。」
駅夫は、そう言って羅針を慰める。
「ああ、そうだな。次はもう少し上手く対処しよう。」
「この先も、気をつけて進もうぜ。まだ他にもいる可能性があるんだから。」
「そうだな。気を抜かないようにな。」
羅針もそう言って、気持ちを切り替えた。
こうして、突然の猪との遭遇に、興奮し、焦り、意気消沈した二人だったが、ひとまず何もなく、事なきを得たことで、気持ちも新たに山道を先へと進んだ。
鉄塔の脇を通り、30分弱で宮山に到着した。
宮山の山頂にも医王山同様、〔宮山〕と書かれた板が木にぶら下がっているだけだった。
「ここには三角点がないんだな。」
駅夫があたりを見回して呟く。
「ああ、山頂と言えば三角点って言う訳じゃないからな。あくまでも基準点だから、ここは基準から外れたってことだな。」
羅針が答える。
「そういうことか。てっきり山頂には全部三角点が設置されてるものだと思ったよ。」
二人は、記念撮影をしてから、道端に座って水を飲み、羅針が開けた塩飴を一つずつ舐めた。
「汗を掻いた身体に塩飴が染み渡るよ。」
駅夫が美味そうに舐めている。
「だな、冷や汗も掻いたし。」
羅針がそう言うと、二人は笑った。漸く、二人の緊張が少し解れたようだ。
景色を眺め、5分程休憩した二人は、次の標高470mの尺八山に向かう。
暫く行くと少し高くなったところに、また〔宮山〕と書かれた板が現れた。
「さっきの山が宮山だよな。デジャヴか?世界の理を誰か弄った?」
駅夫が板を見て、人類がバッテリーにされた映画の設定を引用して、聞いてくる。
「デジャヴじゃないし、誰も世界の理を弄ってないよ。ここはヴァーチャル世界じゃないんだから。」
羅針が駅夫の元ネタに気付いて応える。
「じゃ、なんでここにも宮山の看板があるのさ。」
駅夫が聞く。
「マップで確認しても、さっきのピークが宮山とあるし、GPSが指してるここは標高324mで、標高図を見てももう一つのピークになってるね。地図上には名称がないけど、こうして看板があると言うことは、宮山は双子山ということなのかも知れないな。」
羅針がスマホで確認して、勝手に結論づけた。
「なるほど、双子山か。でも、地図上では低い方に名前が付いてるんだな。」
「だな。なんでだろうな。歴史的に何かあるのか、命名方法になにか法則があるのか、その辺はざっと調べても出てこないな。」
「そうか。まあ、双子山ということにしておこう。」
駅夫は面倒くさくなったのか、そう言って結論づける。
「だな。」
羅針も、これ以上調べても結論が出てこないので、調べるのを諦めて歩き出す。
第二の宮山を越えてからは、標高204mの登山口まで一気に降る。
登るよりも降る時の方が脚に響く。一歩踏み出す毎に自分の全体重が片足にのしかかるのだ。羅針はトレッキングポールを持っていないので、蜘蛛の巣除けに拾った木の棒を使って、脚に負担が掛からないように、気を遣いながら一歩一歩踏み出していくが、駅夫はトレッキングポールを上手く使って、羅針を煽るように降りてくる。
40分程掛けて降りてきた場所は、舗装道路の登山口である。
「山道を降りてきて、舗装道路を見るとなぜかホッとするな。」
駅夫が羅針の後ろで呟く。
「確かにな。舗装道路を辿れば麓に降りられるっていう安心感から来るのかもな。」
羅針も次の登山口に向かいながら応える。
舗装道を5分も歩かないうちに、尺八山に上がる登山口に到着する。
「ここで補給するか。」
羅針が、補給休憩を取ることを提案する。
「了解。」
駅夫がそう言って、道端に座った羅針の隣で腰を下ろす。
水筒から水を飲み干した二人は、ペットボトルから補充した。行動食は二人ともポテチを選択する。これ一袋で390kcalの補充である。
「ポテチってこんなに美味かったっけ。」
駅夫が塩味の利いたスタンダードなポテチを摘まみながら呟く。
「汗掻いてるから、身体が塩分を欲してるんだろう。でも、いつもより美味く感じるのは確かだな。」
そう言う羅針は魚介出汁の利いたポテチを摘まんでいた。
「身体の調子はどうだ。」
羅針が駅夫の調子を確認する。
「問題ないな。怪我もないし、疲労も然程感じない。良いペースなんじゃないか。」
駅夫は自分の身体をあちこちはたきながら、痛みや疲労がなく、問題ないことを確認する。無理なく進めていることの証左である。
「そうか。一応予定通りの時間で来てるから、このまま行けば、尺八山で丁度お昼だな。」
「了解。予定通りだな。やっぱり、お前の言うとおり、ちゃんと行程を把握しておいて良かったよ。体力のペース配分が分かるし、無理しなくてすむからな。」
「だろ。まあ、全部初心者向けサイトの受け売りなんだけどな。」
「それでもさ。プロのアドバイスっていうのは理由があるんだからよ。お前のことだから、一つのサイトだけじゃないんだろ、チェックしたの。」
「もちろん。複数箇所の情報を当たって、共通項を確認はしてるよ。大体、あるサイトでは必須とか言ってるのに、別のサイトでは不要とか言ってたりするからな。全部鵜呑みにしてたら、今頃エベレストにでも登るのかって位の装備をしてたと思うぞ。」
そう言って羅針は笑った。
「なんだよ、それ。まあ、でも、そんなもんか。ネットに出てくるのは一般論であって、俺たち二人に向けた内容ではないからな。全部聞いてたら、そうなることもありうるか。」
駅夫は納得したように頷く。
「とにかく、必要最低限を吟味して計画を練ったから、多分問題ないと思うけど、さっきみたいなこともあるし、何分素人だからな。この先も気を抜かないようにな。」
羅針が改めて注意喚起する。
「了解。大丈夫。俺はお前を信じてるし、何かあったらすぐ下山。無理はしない。だろ。」
「そう、そういうこと。低山でも舐めたら痛い目を見るからな。」
「その教訓も……」
「もちろん受け売り。」
「でも、実際に自分たちでも教訓を得た。」
「だな。」
そう言って、二人は笑った。