漆之玖
旅寝駅夫と星路羅針は、安養院の総門を出て、右手に進む。
住宅街を抜ける、車一台がやっと通れる程の道を、二人は歩き出した。時刻は14時を回り、気温もピークを迎えていた。二人は薄らと汗を掻きながら歩いた。途中中学校、小学校の校庭もあったが、暑いからなのか、授業中なのか、誰も校庭には出ておらず、まるでゴーストタウンのように、静まりかえっていた。
10分も経たずに着いた寺院は、高野山真言宗準別格本山龍蓋山佛母寺である。
元々は威徳院といい、山号を金鑚山、寺号を白蓮寺といった。足利義満が将軍の時代、高野山聖僧威徳房玄正が、天授年間(1375年~1381年)に開創した。御本尊は准胝観世音菩薩である。
火災や落雷などに見舞われたり、神仏分離令、廃仏毀釈などの憂き目に遭ったりして、時代の流れと共に廃寺となった。しかし、1887年檀信徒により再興され、その後寺号も現在の佛母寺に改められた。
切妻屋根の山門を潜るとすぐ左手に手水舎があり、その奥に武州本庄七福神めぐりの一柱銭洗い弁財天が祀られていた。
「アニメのキャラみたいに可愛いな。神様に可愛いは失礼かもしれないけど。」
駅夫が弁財天を見て呟く。確かに、丸くて愛らしい弁財天像は、アニメに出てきそうな見た目をしていた。
「確かに、幸福を願って一生懸命歌ってる妖精のようだな。」
自分の背丈程もある琵琶を抱えた、2等身に近い姿は、神様と言うよりも妖精のようで、愛らしい。
愛らしい姿の弁財天に手を合わせた二人は、公園のような広い境内を奥に進み、鐘楼を見上げる。
「この鐘楼堂の妙音殿と書かれた篆額は、吉田茂元首相が書いたらしいよ。」
羅針がスマホを見ながら説明する。
「ホントだ、確かに〔内閣総理大臣吉田茂書〕って書いてある。」
駅夫が篆額を覗き込むように見上げて、確認した。羅針も覗き込んで、その達筆を鑑賞した。
左手奥には3棟の堂宇が並んでいた。左端が本堂で、真ん中が庫裏、右端が高尾山本堂だそうだ。本堂が2つあるのもこの寺院の歴史を物語っているのかも知れない。
この佛母寺は高野山真言宗であるが、高尾山は真言宗智山派であり、本尊は飯綱大権現である。創立は1894年で、本庄元講として、東京都八王子市にある大本山高尾山薬王院有喜寺から分身を奉遷したことが始まりとされ、後に境内拡張により本堂を新築、飯綱大権現を改めて奉遷し、1926年遷座開眼大法要をおこなったと伝わる。
「なんで、本堂が2棟あるんだろうな。」
駅夫が不思議に思っている。
「派閥が違うだけで、同じ真言宗だからじゃないか。境内社とかって神社と寺院が同居してたりするんだから、こういうのもありだろ。居候がちょっと大きい気もするけど。」
羅針が想像でそう言って笑う。
「確かに大きいけど、居候とか言って怒られるぞ。」
駅夫が心配そうに言う。
「だな。」
羅針はそう言って、高尾山本堂に向かって参拝し、「居候と言って済みません。」と謝罪した。
二人は佛母寺の本堂にも廻る。
本堂の前には小さな梵鐘が付いた常香炉があった。線香がないので、鐘だけ突いて心を清め、本堂へ参拝する。
唐破風造りの向拝には龍の彫り物があり、まさに龍蓋山の名に相応しい装飾が施されていた。
二人は参拝後、例の如く観光協会のサイトを開き、7個目のスタンプをゲットした。
佛母寺の次は、金鑚神社である。
創立は541年、欽明天皇の御代と伝わる。〔金鑚〕とは、砂鉄を意味する〔金砂〕」が語源である。
本殿と拝殿とを幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。それぞれ、本殿は1724年、拝殿は1778年、幣殿は1850年の再建である。
御祭神は天照大御神、素戔嗚尊、日本武尊の三柱である。
「欽明天皇の時代って、何時代だ?」
駅夫が金鑚神社の縁起を聞いて、羅針に質問した。
「丁度古墳時代だな。飛鳥時代を593年からだから、まさにこれから時代が動こうとする時だな。」
羅針が答える。
「時代が動くっていったって、奈良の方だけだろ、大きな影響があったのは。」
「まあな。こんなど田舎の関東には、中央の政治なんてほとんど関係なかっただろうからな。」
「当時、ホントにこの辺は田舎だったのか。」
「ああ、田舎か都会かって言ったら、田舎だろうな。やはり、先端技術は関西に集中していただろうし、大陸や半島から入ってくる文化は西の方が当然早いからな。」
「それもそうか。」
金鑚神社の入り口に着くと、幟を掛ける長い柱が2本建っていた。そして、狛犬に木造の鳥居が出迎えてくれた。狛犬の後ろには〔本庄新八景〕の石碑が建ち、〔本庄まつりと金鑚神社〕とあった。今度は二人ともちゃんと気が付いた。
「本庄まつりってどんな祭りなんだろうな。」
駅夫が疑問を呈する。
「いわゆるこの金鑚神社の例大祭のことみたいだな。江戸時代には〔奥のお九日〕と呼ばれていて、毎年9月29日に五穀豊穣と宿内繁盛を祈るために開かれていたけど、明治になってから、今の11月2日、3日に変更されたらしいな。神賑行事として、山車の市内曳き廻しがあり、一方で、この神社では厳粛な祭儀の後に、御祭神の神霊を神輿に移して渡御式が斎行されて、神楽殿では神代神楽の奉納があるんだって。」
「ふ~ん。要は市中曳き廻しの上、乗り換えて踊るって事か。」
駅夫がざっくりと要約してしまった。おそらく理解が追いつかなかったのだろう。
「あのな。間違っちゃいないけど、その言い方だと、神様を刑罰に処すみたいになるぞ。」
「ん?どこが違うんだ。」
「曳き廻すのはあくまでも山車であって、神様じゃないからな。」
「ああ、なるほど。」
「理解できた?」
「要は、市内を練り歩いて、乗り換えて、踊るんだろ。」
「もうその理解で良いよ。乗り換えるんじゃないんだけどな。」
駅夫はいまだにチンプンカンプンのようで、首を傾げているのを見て、羅針はこれ以上説明するのを諦めた。
その代わり、検索した写真をいくつか駅夫に見せる。写真は、山車が市内を練り歩く様子や、装飾をアップにしたもの、山車の上でお囃子をする子供たち、声を張り上げている法被を着た女性たち、そして闇夜に浮かび上がるライトアップされた山車の隊列などを写したものだ。
「これはすげえな。」
駅夫は写真に見入って感心している。
「こうやって、市内を練り歩くようだな。」
「なるほどね。」
駅夫の言葉は、何を理解したのか、何を納得したのかは分からないが、おそらく何も変わらない理解だろうと、羅針は思ったが、それでも良いかとそれ以上の説明はしなかった。
老中松平定信が揮毫したと伝わる社額が掛かった大鳥居を潜り、境内に入ると、左手にある手水舎で身を清める。
翻ると大鳥居の右手には、県指定天然記念物である大きな楠がある。御神木であるこの楠は、幹回り5.1m、高さ約20m、樹齢約350年以上と推定されている巨木である。その奥には、本庄市指定天然記念物の榧もある。
榧の更に奥、正面には大門があり、本庄市指定の有形文化財である。
この大門は先程二人が参拝した佛母寺の前身であり、金鑚神社の別当寺であった、金鑚山威徳院白蓮寺の総門であり、1814年の建立と伝えられている。
大門の脇には、武州本庄七福神めぐりの一柱、ふくよかな恵比須尊が鎮座していたので、もちろん二人は手を合わせた。
「なあ、浄財と賽銭の違いって分かるか?」
駅夫が恵比須尊の脇に立っている賽銭箱の文字を見て質問してくる。
「ああ、一般的には、浄財は神社寺院の慈善事業などに寄付する金銭のことで、賽銭は神仏へのお参りや、祈願成就のお礼として、奉納する金銭のことを言うんだよ。」
「つまり浄財は神社寺院に奉納して、賽銭は神仏に奉納するってことか。」
「そういうことだな。実際にはどちらも神社寺院の収入であることに変わりはない、と言ってしまっては身も蓋もないけど、要は気持ちの持ちようだな。
浄財っていうのは文字通り財を浄化することで徳を積むことだし、賽銭の賽は、神に感謝して祀るという意味だから、そういう気持ちをもって奉納すれば良いと思うよ。」
「なるほどね。じゃ、神様に感謝したいんだっていう人は賽銭箱に奉納すれば良いし、神社寺院を応援してるんだっていう人は浄財箱に奉納すれば良いってことだな。」
「そうとも言えるな。感謝したいか、浄財したいかは、その人の気持ちの発露によるからな。」
大門から手水舎に戻り右に折れ、奥の階段を上がると左手には神楽殿がある。舞台の正面奥に立派な松が描かれたこの神楽殿では、例大祭に神代神楽が奉納される。また、この神楽殿で奉納される神楽は、本庄市の指定無形民俗文化財で、5組が指定を受けているという。
更に進むと、正面奥には拝殿があり、本殿と幣殿でつないだ権現造りの社殿となっていて、周囲に透塀が囲っていた。
二人は拝殿で参拝を済ませると、さらに本殿の裏手にある、琴平神社、南本町氏神社、豊聡耳神社、八坂神社、秋葉神社、十一社の境内社にも、それぞれ参拝した。
二人は、最後に神輿殿を覗いた。扉は固く閉ざされていたが、ガラス窓から中を覗き込むことができ、保管されている煌びやかな神輿を見ることができた。
「この神輿に神様が乗るんだからな。乗り換えるんじゃなくて。」
羅針が駅夫に、一応駄目押しで説明をする。
「なるほどね。」
駅夫は合点がいった表情になっていたので、羅針は今度こそ駅夫なりにちゃんと理解し、納得したのだろうと思った。
すべての参拝を終えて、最後に例の如く観光協会のサイトを開いて、8個目のスタンプをゲットする。
スタンプラリーはあと2箇所で、泉林寺と城立寺を残すのみである。
二人は金鑚神社を後にすると、県道392号を駅方面に東へ向かう。今まで西へ西へと向かってきたので、ここで漸く折り返しである。
住宅街を突っ切っていくこの県道は、旧中山道である。往時の面影はまったくないが、時々現れる商店が、この通りを中心に発展してきた名残のようで、宿場町として発展してきたこの街の歴史の残滓を感じた。
10分程も歩くと、煉瓦造りの建物が現れた。旧本庄商業銀行煉瓦倉庫である。
1896年に建てられたという煉瓦造りの建物は、現在まちの駅、休憩所として解放されていた。当時この倉庫は担保となった大量の繭を保管していた。瓦葺きの屋根を支えるのはキングポストトラス構造で、繭の保管に特化した通気性に配慮し、窓には鉄扉の他に漆喰板戸と網戸が併置され、床下にも通気口が設えられたそうだ。また、壁面の煉瓦は深谷産で、当時の一流技師による設計、一流の資材を投入して建築された、近代的な建造物であるという。
外観の煉瓦は、年季が入り所々黒ずんでいたり、白茶けていたりして、1世紀という時の流れを感じさせる。
だが中に入ると、外観とは打って変わってクーラーが効いていて、近代的な自販機が建ち並んでいた。もちろんそれだけではなく、この煉瓦倉庫の資料や解説、本庄市の歴史資料や写真も展示されており、特に本庄まつりの山車の模型は目を引いた。また大きなモニターには解説動画が流されており、本庄まつりを紹介した部分は、その厳かな雰囲気と山車の迫力があり、自販機で購入したスポドリ片手に、二人は暫し見入っていた。
この本庄市が、旧石器時代から人々が住み着き、縄文、弥生、古墳の時代から開拓がおこなわれてきた。平安時代になると武蔵七党の一つにして最大勢力を有した児玉党が台頭し、その党首であった庄氏がこの地に館を築き、鎌倉時代にはその庶家が本庄氏と名乗り土着し、その後本庄城を築城するまでに至った。
しかし、1590年、豊臣秀吉の関東攻略により落城すると、小笠原氏が封じられるまで捨て置かれた。江戸時代に入り、本庄藩が置かれると藩主となった小笠原氏により再興され、再び本庄城は息を吹き返した。ところが、1612年小笠原氏が古河へ転封され、本庄が天領になると、1556年の築城からわずか56年で廃城の憂き目を見た。
その後、中山道が整備され、本庄宿として交通拠点としての地位を確立していき、中山道最大の宿場町へと発展した。
明治時代になると、中山道の交通に加え、鉄道駅である本庄駅が営業を開始したことで、製糸工場や糸繭商が拠点を構え、繁栄の一途を辿った。
この本庄市の歴史がすべて、無料であるにもかかわらず、かなり見応えのある資料とともに展示されていた。