漆之漆
愛宕神社を出た旅寝駅夫と星路羅針は、次の開善寺に向かう。
開善寺は愛宕神社からすぐで、棟門の山門が出迎えてくれる。向かって右には立派な石碑が建ち〔臨済宗妙心寺派疊秀山開善寺〕とある。
「ここは、禅寺らしいから、座禅でも組んでくか?」
羅針が冗談半分で言う。
「まじか。座禅って棒でひっぱたかれるあれだろ。今の時代体罰は良くないと思うな。俺はやらないぞ。痛いのは真っ平御免だ。」
駅夫が羅針の言葉をまともに受けたのか、真剣な顔で拒否する。
「あのな、その言い方語弊があるぞ。あれは、注意を与えたり、眠気を払ったりするために叩くんであって、別にひっぱたいてる訳でもないし、本来〔罰〕ではないからな。」
「どういうことだよ。身体を叩くってことは紛れもない体罰だろ。お釈迦様は騙せても、俺は騙されないぞ。」
駅夫が真剣に支離滅裂なことを言っている。
「それを言うなら、〔人は騙せても、自分自身は騙せない〕な。まあ、言いたいことは分かるし、体罰に対するその考えに反論はないけど、本来あの行為は罰ではなく励ます意味合いがあるからな。あれは、臨済宗では〔けいさく〕、曹洞宗では〔きょうさく〕といって、警告の〔警〕に、策略の〔策〕、という字を書くけど、これは警覚策励の略称で、坐禅中の眠気を覚まし励ますっていう意味から来ているんだよ。だから、罰ではないんだ。
ただ、宗派によっても、お寺によっても、また座禅を指導する人によっても、そのやり方、考え方が異なるから、罰として警策を実施するケースがあることも事実のようだね。特に、映画やドラマ、バラエティなんかでも、罰としての警策がクローズアップされるから、余計にそういうイメージが付いてしまうのも無理はないな。俺が擁護する立場でもないし、体罰だと糾弾する立場でもないから、中立の立場で言うけど、あれはあくまでも注意喚起だからな。」
「ほらみろ、擁護しなきゃいけないぐらい、やっぱりあれは体罰じゃないか。俺は痛いの嫌だからな。」
「分かったよ、今日は座禅やらないよ。やるとしても事前に申し込む必要があるだろうし、ここでやってるかどうかも分からないしな。」
「ん?今日はって言ったな、今日はって。ということは、お前のことだから、機会があったらどっかで体験するつもりなんだろ。」
「まあ、機会があればな。お前を道連れにして。」
「やっぱり。それだけは勘弁してくれよ。」
駅夫が懇願するような表情で羅針を見ると、羅針は笑っていた。
「これは、絶対やる顔だ。」
駅夫は羅針の表情を見て、ブラック羅針が顕現したことを悟り、いつか座禅を組まされることを覚悟した。
山門を潜り境内に入ると、正面の本堂と、左手の鐘楼はどちらも入母屋造の屋根で、格式高い佇まいだ。右手には武州本庄七福神の一柱、富貴繁栄を司る福の神である、布袋尊も鎮座している。
二人は本堂、布袋尊とそれぞれ参拝し、スマホで観光協会のサイトを開いて3個目のスタンプをゲットした。
そして、この寺院にあるもうひとつの重要な場所、小笠原信嶺公廟所古墳に向かう。開善寺を開基した小笠原信嶺とその妻が眠っているとされるこの古墳は、高さ2m、径14mで、先程の愛宕神社古墳よりも小ぶりである。しかしながら、きちんと手入れされた植木と、宝篋印塔が、この墓所を大切にし、墓所の主である小笠原信嶺を慕っていることが良く分かる。
二人は古墳に向かって手を合わせ、往時に思いを馳せた。
二人は、開善寺を出て、次の慈恩寺に向かう。
途中寿司屋さんがあった。海無し県のお寿司屋さんは凄く興味を引いたが、昼にも少し早いし、準備中でもあったので、そこは諦めて、慈恩寺へと向かった。
正式には、真言宗智山派菅霊山自在院慈恩寺という。この寺院は、元々栗崎村にあったが、1556年の本庄城築城の際に、本庄城南東の天神林に移された。
本庄氏の氏神である天満宮の別当寺として、神宮寺と称されたが、1629年に慈恩寺と改められた。その後、1667年に現在の場所に移転したと伝わる。
本尊は大日大聖不動明王で、武州本庄七福神めぐりの一柱は銭洗い弁財天である。
酒屋とシャッターが閉まったままの商店の間を抜ける参道を通り、境内に入ると、正面には大きな本堂が、右手奥には墓地が、そして反対側、本堂横の植木の間に、銭洗い弁財天が鎮座していた。
二人は、本堂と、まるでギターように琵琶を構え、弾き語りをしているかのような銭洗い弁財天に参拝し、スマホで4箇所目のスタンプをゲットした。
慈恩寺の隣には、旧本庄警察署の建物があった。以前は歴史民俗資料館として内部が解放されていたのだが、現在は閉館し、完全に柵で囲われていて、内部に入ることはできなくなっていた。
説明によると、1883年に建築されたコリント式西洋建築で、埼玉県内の貴重な近代化遺産として埼玉県指定文化財となっている。
木造2階建ての瓦葺きの漆喰塗り大壁造りであるが、コリント式特有のアカンサスの葉を彫刻した柱が2階のベランダに並び、半円窓や天井の灯火掛けのレリーフなど、随所に明治期のモダンな洋風建築の特徴があるという。
二人は木柵の隙間から、カメラで撮影し、そのモダンな建物を写真に収めた。
洋風の建物が広い敷地の中央に堂々と建っているためか、敷地にある立派な松の木が違和感でしかなかった。
この旧本庄警察署の後ろ側には、田村本陣の門があり、本庄宿の北本陣にあった門だと伝わる。田村本陣は、南の内田本陣に対して、北本陣とも呼ばれ、田村作兵衛が勤め、敷地二反三畝十二歩(2320.67平米)、建坪200坪、門構え、玄関付きで 間口五間の専用道路を持ち、その奥に門があったと伝わる。現在のこの門は移築したものだという。
ただ、ここには門がぽつんとあるだけで、他に何もないので、頭の中で往時の景色を想像するしかないのが少々残念である。
そろそろお昼になるので、田村本陣の門から歩いて5分程の場所にある川魚を売りにしている飲食店に向かった。小上がりもある落ち着いた店内は、丁度昼時に差し掛かる時間で、かなり混み合っていたが、小上がりに通してくれて、靴を脱げたので、歩き疲れた足を多少でも休ませることができたのは、ありがたい。
ここの一推しは鰻のようだったが、鰻は先日国府宮でひつまぶしとして頂いたので、今日は柳川定食を頂いた。柳川は浅草の有名店に、以前二人で示し合わせて食べに行ったことがあり、初めてというわけではなかった。泥鰌独特の泥臭さは否めないものの、有名店に負けず劣らずで、二人とも大満足だった。
店を出ると目の前には国の登録有形文化財である〔寺坂橋〕が掛かっていた。
この橋は元小山川の旧流路に架かる橋で、寺坂通りと呼ばれる旧伊勢崎道が通る。1889年竣工の橋であり、橋長7.6m、幅員3.3mの単径間上路式充腹アーチ橋である。
関東地方に現存する数少ない明治時代架橋の石橋である。また、車両が通行することのできる現存する道路橋のなかでは埼玉県内最古であるらしく、〔埼玉県内最古の石造アーチ橋であり、竣工時の様相を残す橋〕として土木学会選奨土木遺産にも選ばれている橋でもある。
ただ、高欄は建設当時の石造りの物ではなく、後年に設置された鉄パイプ製の物に改修されてはいる。
次に、一つ隣に掛かる賀美橋に向かう。当時の基幹産業であった生糸、織物業関係者の通行に供するための、伊勢崎新道開削に伴って1926年に建設された、橋長6.3m、幅員9mの鉄筋コンクリート桁橋である。
当時のモダンな様相を残しており、親柱は四角柱で上部に家型の装飾が施され、当初はその上にガラス製の柱灯と受台があったと伝わる。また橋の高欄下部には扇型の装飾があり、張り付けられた白いタイルが、往時の面影をとどめていた。
二人が賀美橋で写真を撮っていると、通りかかった年配の女性が話しかけてきた。
「お兄さんたち、何でこんな古い橋を撮ってるの?なんかあるの?」
「この橋は国の登録有形文化財なんですよ。僕たち観光で来てまして、それで写真を撮らして貰ってるんです。」
羅針が応える。
「へぇ、そうなんだね。こんな橋が国の文化財だなんて初めて知ったよ。あたしの子供の時分からある橋だから、別に特別な橋とも思わなかったけどね。他所の人の方がよく知ってたりするんだね。」
「私たちも観光案内で調べてきたんで、初めて知った口なんですよ。」
「そうなんだね。まあ本庄なんて何もないけど、お兄さんたちみたいな人が来るとうれしいもんだね。」
「色々見所があって、楽しませて貰ってます。こんな良いところないですよ、なあ。」
「ええ、ホント楽しませて貰ってます。見るところが多くて、廻りきれないぐらいですよ。」
羅針の言葉に、駅夫も横から口添えする。
「そうかね、そう言って貰えると嬉しいね。邪魔して悪かったね、楽しんでいってね。ありがとう。」
「こちらこそ、ありがとうございます。お気を付けて。」
そう言って女性は立ち去っていき、二人は一礼して見送った。
写真を撮り終わった二人は、次の阿夫利天神社に向かう。
橋の袂にある若葉第一公園の入り口に、〔世紀の思想家 石川三四郎翁文学碑入口〕と案内碑が建っていた。
「この石川三四郎って誰?五右衛門の親戚か?」
例の如く駅夫が聞いてきた。
「三四がつくからって五と親戚って訳じゃないよ。彼は社会運動家でアナーキスト、作家でもあるみたいだな。1876年埼玉県児玉郡の生まれで、世界各国を歴訪し、様々な思想と出会い、日本のアナキズムの中心人物として名を馳せたみたいだな。1956年に亡くなってる。」
羅針がスマホで検索して、教える。
「アナキズムって、無政府主義とかいうやつだろ。」
「そう訳されることが多いけど、厳密にはちょっと違っていて、政府や政治的支配からの脱却だけではなく、宗教や特権階級も含めたその他一切の支配を否定し、個々人の合意の元に個人の自由が重視される社会を造ろうというのが、思想の根幹なんだよ。だから、無政府主義というよりは、無支配主義と言った方が近いかも知れないな。」
「なるほどね。で、その中心人物の文学碑がここにあると。」
「見ていくか?」
羅針が駅夫にどうするか聞く。
「いや良いよ。お前見に行きたい?行くなら付き合うけど。」
駅夫は一瞬の逡巡もなく応える。
「いや、俺も良いよ。アナキズムに心酔してるなら、見に行く価値もあるけど。ちなみに、こういうやつな。」
羅針はスマホで画像を検索して、駅夫に見せた。
「なるほどね。要は記念碑みたいなものだ。じゃ、余計良いよ。」
ということで、文学碑はスルーした。
公園の入り口の先に、〔阿夫利天神社〕の石碑が建つ石段があり、一段ずつ登っていく。階段を上がったところに、石造りの鳥居があり、その先は拓けた広場になっていた。
広場の右手に縁起が書かれた立て看板があった。
その看板によると、この阿夫利天神社は、1913年に阿夫利神社が天神社と合祀され、社名を阿夫利天神社に変更したという。
阿夫利神社は寿永年間(1182年~1184年)に家長の本庄庄太郎が相州大山石尊大権現を勧請したのが始まりである。
一方天神社は1574年に本庄城主本庄宮内少輔実忠の命により城の鎮守として奉斎されたことに始まる。
御祭神は、大山祇大神、天満天神(菅原道真公)、大雷大神、高靇大神の四柱である。
二人が更に進むと、一際高くなった石の柵で囲まれた場所があった。階段を上がるとまさにそこが阿夫利天神社の境内である。石灯籠や木々が両脇に並ぶ参道を進むと、入母屋造の本殿があり、黒地に金色の文字で〔阿夫利天神社〕と書かれた扁額が掲げられていた。
駅夫が代表して本坪鈴をカラン、カラン、カランと3回鳴らし、それぞれお賽銭を入れて、参拝する。二人はいつも通り住所氏名と日頃の感謝を述べ、そして旅の無事を願った。
阿夫利天神社の隣には阿夫利天神社古墳があった。径10m、高さ1m程の古墳で、言われなければ、ここが古墳だとは分からない。只の盛り土と言われても疑うことはないだろう。
「これが古墳か?」
駅夫が疑わしそうに言う。
「確かに古墳には見えないな。これだけの盛り土を人力でやったらそりゃ大変だろうし、当時の権力者としては自慢の墳墓だったのだろうけど、仁徳天皇陵とか知っちゃってる身としてはな。」
羅針も同意する。
「とは言え、これもお墓なんだろ。」
そう言うと、駅夫は特段祠も石塔も何もない小山に立つ木々に向かって手を合わせた。それを見て羅針も一緒に手を合わせた。
この古墳、先程見てきた仲町愛宕神社古墳と夫婦古墳と言われているが、距離が由緒書と異なるため、別の古墳を指すか、記述が間違っている可能性もあるというが、そんなことは二人には関係なかった。
更に、阿夫利天神社の裏手には出世稲荷神社もあるようで、そちらも併せて参拝し、 そして、すぐ近くの普寛霊場に向かう。